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London Philharmonic Orchestra & Choir Tiffin School Boy's Choir
Elizabeth Connell,Edith Wiens
(rec.1986/4,10 S) |
マーラーの作品が好きな多くのファンは、第8番を忌諱する傾向があるのではないか、と思う。実は小生もその例に漏れず、第8番を長い間苦手としてきた。確かにマーラーの作品なのだが、第8番は自分が好きなマーラーの世界と一線を画すのだ。今回、さまざまな演奏者の同曲を聞いて見方が異なってきたが、大げさなこけおどし的側面があることは否めないと思う。 これは、マーラーが希求してきた天上への憧れと、悪魔にさいなまれてきた魂の救済を描いたドラマを、壮大なスケールで描き出した作品だが、その仕掛けに目がくらんで本質を見失ってはならないと思う。 しかし、マーラーは極めて効果的な音楽を作曲したと言える。 マーラー;交響曲第8番は、その演奏に必要な演奏者、独唱者、コーラスの人数の多さから「千人の交響曲」と通称される。マーラーは、第1番から始まった宗教的告白の集大成を第8番で行ったかのようだ。音楽は通常の楽章に分かれた形式ではなく、第1部、第2部に分かれ、第1部はラテン語による聖霊降臨祭の賛歌で、第2部はゲーテの「ファウスト」の最終場面である。第1部の「現れたまえ、創造の主、聖霊よ」から壮大なイメージが喚起され、マーラーのこの大作にかける意気込みが理解できる。マーラーにしては珍しく、早書きで作曲されたのだそうだ。 この作品もまた、アルマへの思慕が強く現れ、「アルマ的聖霊の救済」がテーマになっている。1906年に完成された。 しかし、初演されたのは1910年で、その間にマーラーは長女を亡くし、自身も心臓病の診断を受け、アルマとの結婚生活は表面とは裏腹にかなりの暗澹としたものになりつつあった。第8番はマーラーの他の作品とは異なり、初演から大評判を取り、マーラーの代表作と捉えられた。その壮大なビジョンと、大規模な編成はさぞ聴衆の肝を潰したことと思う。長木誠司氏「マーラー;全作品解説事典」(立風書房)によると、初演はミュンヘンの万博会場内の新音楽祭ホールで、858名の声楽陣、171名のオーケストラで、文字通り「千人の交響曲」の規模であったという。他の資料によると、第8番が初演された音楽祭のマネージャーが興業の成功を狙って、「千人の交響曲」という名前を付けたのだそうだ。 第8番はその規模から、コンサート自体特殊な祝典的なものにならざるをえない。録音もそうで、収録前後に大規模なコンサートでもなければ、難しいだろう。 第8番の録音は、長い間ショルティのものが筆頭だった。今でも代表盤と言ってもいいかも知れない。シカゴ交響楽団のウィーン楽旅の時期をねらってソフィエンザールで収録され、その録音の良さと相まって、第8番の代表盤とされてきた。ショルティの第8番発売当時は、バーンスタイン(旧盤)、クーベリック、ハイティンクも収録を終えていたと思うが、ショルティ盤の圧倒的な演奏の陰に隠れていたような気がする。 その後、小澤征爾の記念碑的な録音があり、小生はどちらかというと力で押し切ったショルティ盤よりも、柔軟な小澤盤の方が好きだった。しばらくして録音されたノイマン盤もその音楽作りは納得できるもので、このログを作るために聞き直したが、多少おっとり気味ながらかなりのクオリティ、量感を持った演奏録音だった。 また、古い録音の復刻や放送録音のCD化も盛んで、その全てを小生聞いてきたわけではないが、ミトロプーロスの1960年ザルツブルクでのライブはまさに正面から第8番を捉えきった演奏で感動的だし、ホーレンシュタインのBBC1959年ライヴ録音も素晴らしかった。個人的には、ミトロプーロス盤は正規で出たORFEO D'ORのものより、MUSIC & ARTSの海賊盤まがいの音が好きだというへそ曲がりだが、第8番の性格をそのものズバリに表現した、恐らく第8番では第一に挙げなければならない名演だと思う。 その他にも、セーゲルスタム盤やシノーポリ盤、ストコフスキー盤、ベルティーニ盤、ギーレン盤なども聞いてきているが、評判の高いアバド盤はまだ聞いたことがない。バーンスタインの新マーラー交響曲全集は、第8番の録音セッション(コンサート)の前にバーンスタインが他界してしまったため、1975年の映像用録音を流用したが、これも演奏として素晴らしかったと思う。
テンシュテットの第8番は、現在EMIのスタジオ録音が1種類聞けるだけだ。これは、テンシュテットのスタジオ録音によるマーラー交響曲全集の最後の録音だ。テンシュテットは1985年アメリカ楽旅中に喉頭ガンが発見され、闘病生活を経て奇跡的な復活の後、この第8番は録音された。テンシュテットにとって、第8番初体験ではなかったか?おまQさんの年譜によると、1985年後半の相次ぐキャンセルの後、1986年3月18日にマーラー;交響曲第6番のコンサート、ベートーヴェン;交響曲第6番、第8番の録音、マーラー;「子供の不思議な角笛」の録音を経て、4月20.21.22.23.24日にまず最初の録音セッション、半年近く経った10月8,10日に2回目の録音セッションが行われ、第8番の録音は完了した。第1部、第2部のどちらか分からないが、録音場所はタウンホール、ウェストミンスター教会大聖堂両方を使って行われたようだ。 第1部 オルガンの重く、強烈で物々しい持続音の後、「現れたまえ、創造の主、聖霊よ」の大合唱で始まる。そこでまず規模の大きさに度肝を抜かれる訳だが、テンシュテット盤は遅いのかと思いきや、ホーレンシュタイン盤の方がさらに出だしは遅かった。テンシュテット盤はその後、管楽器や独唱者が遠くで鳴っているような音で、バランスは少し悪いような気もする。ショルティ盤を最初に聞いてしまうと、少し不利だ。 しかし、その後の展開をテンシュテットは極めてじっくりとしたテンポで進ませ、ゆったりと音楽そのものの美しさを引き出してゆく。ショルティ盤の力感に溢れた畳み込むような音楽の進行とは異なり、テンシュテットは真摯なドラマとして第1部を描いているようだ。独唱はショルティ盤が圧倒的に優れているが、スコアの細かな部分を吹き飛ばしてゆくような凄まじい演奏で、これはこれで熱くなるような凄い演奏だと感じるものの、逆にテンシュテット盤を聞いてしまうと、その各フレーズの意味の開陳と陰影に不足していると感じてしまった。 小生、最初はショルティ盤の方が圧倒的に良かったのだから、聞けば聞くほど聞き方が変化してしまったわけだ。 この第1部は、もっと古典的な(例えばバッハ)宗教作品を想起できると言う意見もあるが、小生はそれに反対で、もっと生々しいウィーン幻想派の絵画に見られるような、視覚世界に通じるものがあるような気がする。バッハの音楽世界では、聖霊の降臨してくる光景は象徴的だが、マーラーの場合は極めて具体的だ。そして、「聖霊」は本当に降臨してくるのか?という不安も見え隠れし、さらにその姿や色彩までも音楽化しようとしているかのようだ。テンシュテットの演奏は、その辺りを微に入り音にしているので、聖霊降臨のドラマがより具体的に描かれてゆく。印象としては、聖霊が降臨して世界が浮き立って鳴りまくっているのがショルティ盤なら、テンシュテット盤はその光景を涙しながら見ているといった趣か。そのためか、テンシュテット盤のテンポはゆっくりぎみに、より聖霊降臨のドラマを客観視して描いているような所がある。 録音は、練習番号7(46小節)でいきなり独唱者がオフ気味になり、特にバリトン、バスのボディがはっきりしないのが難点だが、ここを充分聞き取れるまでボリュームを上げると(家族やご近所の迷惑を省みず^^)、前述の通りこの録音の真価が分かる。特にオルガンの風圧はもの凄く、女性合唱のボリュームはイマイチながら少年合唱の歌声は清々しい。音楽は繰り返し聖霊への賛歌が繰りかえされ、その救済を求める歌が微に入り細に入り歌われてゆく。これは、祝典そのままの音楽で、巨大な音塊となって聞き手に押し寄せる。 テンシュテットの演奏は、ノイマンほど緩くはなく、ショルティほどデティールを飛ばしてしまった演奏でもない。第1部はテンシュテット盤が随一という自信はないが、これはこれで感動的な演奏である。
第2部
いわば、第8番の第2部は、第3番第6楽章の壮麗なアダージョに歌詞を付け、よりその意味をはっきりと開陳したものだということもできる。マーラーほど、神への憧れと、天上世界への希求が強かった作曲家も希かも知れない。第2部の最初で現れる荒涼として、救いを求める隠者たちはマーラーそのひとの心象風景でもあるし、マリア=アルマによる救済はマーラーの魂の叫びであったと想像できる。
Wiener Philharmoniker
Mimi Coertse,Hilde zadek(Sopran)
Salzburg Festivals
ORFEO D'OR/C 519 992 B(German)2CDs |