テンシュテットを聞く 第20回
2000/11/19

マーラー
交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」

CMS 7 64476 2
London Philharmonic
Orchestra & Choir
Tiffin School Boy's Choir

Elizabeth Connell,Edith Wiens
Felicity Lott,Trudeliese Schmidt
Nadine Denize,Richard Versalle
Jorma Hynninen,Hans Sotin

(rec.1986/4,10 S)
EMI/CMS CMS 7 64476 2(England)4CDs



 マーラーの作品が好きな多くのファンは、第8番を忌諱する傾向があるのではないか、と思う。実は小生もその例に漏れず、第8番を長い間苦手としてきた。確かにマーラーの作品なのだが、第8番は自分が好きなマーラーの世界と一線を画すのだ。今回、さまざまな演奏者の同曲を聞いて見方が異なってきたが、大げさなこけおどし的側面があることは否めないと思う。
 これは、マーラーが希求してきた天上への憧れと、悪魔にさいなまれてきた魂の救済を描いたドラマを、壮大なスケールで描き出した作品だが、その仕掛けに目がくらんで本質を見失ってはならないと思う。
しかし、マーラーは極めて効果的な音楽を作曲したと言える。

 マーラー;交響曲第8番は、その演奏に必要な演奏者、独唱者、コーラスの人数の多さから「千人の交響曲」と通称される。マーラーは、第1番から始まった宗教的告白の集大成を第8番で行ったかのようだ。音楽は通常の楽章に分かれた形式ではなく、第1部、第2部に分かれ、第1部はラテン語による聖霊降臨祭の賛歌で、第2部はゲーテの「ファウスト」の最終場面である。第1部の「現れたまえ、創造の主、聖霊よ」から壮大なイメージが喚起され、マーラーのこの大作にかける意気込みが理解できる。マーラーにしては珍しく、早書きで作曲されたのだそうだ。
 この作品もまた、アルマへの思慕が強く現れ、「アルマ的聖霊の救済」がテーマになっている。1906年に完成された。
 しかし、初演されたのは1910年で、その間にマーラーは長女を亡くし、自身も心臓病の診断を受け、アルマとの結婚生活は表面とは裏腹にかなりの暗澹としたものになりつつあった。第8番はマーラーの他の作品とは異なり、初演から大評判を取り、マーラーの代表作と捉えられた。その壮大なビジョンと、大規模な編成はさぞ聴衆の肝を潰したことと思う。長木誠司氏「マーラー;全作品解説事典」(立風書房)によると、初演はミュンヘンの万博会場内の新音楽祭ホールで、858名の声楽陣、171名のオーケストラで、文字通り「千人の交響曲」の規模であったという。他の資料によると、第8番が初演された音楽祭のマネージャーが興業の成功を狙って、「千人の交響曲」という名前を付けたのだそうだ。
 第8番はその規模から、コンサート自体特殊な祝典的なものにならざるをえない。録音もそうで、収録前後に大規模なコンサートでもなければ、難しいだろう。
 第8番の録音は、長い間ショルティのものが筆頭だった。今でも代表盤と言ってもいいかも知れない。シカゴ交響楽団のウィーン楽旅の時期をねらってソフィエンザールで収録され、その録音の良さと相まって、第8番の代表盤とされてきた。ショルティの第8番発売当時は、バーンスタイン(旧盤)、クーベリック、ハイティンクも収録を終えていたと思うが、ショルティ盤の圧倒的な演奏の陰に隠れていたような気がする。
 その後、小澤征爾の記念碑的な録音があり、小生はどちらかというと力で押し切ったショルティ盤よりも、柔軟な小澤盤の方が好きだった。しばらくして録音されたノイマン盤もその音楽作りは納得できるもので、このログを作るために聞き直したが、多少おっとり気味ながらかなりのクオリティ、量感を持った演奏録音だった。
 また、古い録音の復刻や放送録音のCD化も盛んで、その全てを小生聞いてきたわけではないが、ミトロプーロスの1960年ザルツブルクでのライブはまさに正面から第8番を捉えきった演奏で感動的だし、ホーレンシュタインのBBC1959年ライヴ録音も素晴らしかった。個人的には、ミトロプーロス盤は正規で出たORFEO D'ORのものより、MUSIC & ARTSの海賊盤まがいの音が好きだというへそ曲がりだが、第8番の性格をそのものズバリに表現した、恐らく第8番では第一に挙げなければならない名演だと思う。
 その他にも、セーゲルスタム盤やシノーポリ盤、ストコフスキー盤、ベルティーニ盤、ギーレン盤なども聞いてきているが、評判の高いアバド盤はまだ聞いたことがない。バーンスタインの新マーラー交響曲全集は、第8番の録音セッション(コンサート)の前にバーンスタインが他界してしまったため、1975年の映像用録音を流用したが、これも演奏として素晴らしかったと思う。

 テンシュテットの第8番は、現在EMIのスタジオ録音が1種類聞けるだけだ。これは、テンシュテットのスタジオ録音によるマーラー交響曲全集の最後の録音だ。テンシュテットは1985年アメリカ楽旅中に喉頭ガンが発見され、闘病生活を経て奇跡的な復活の後、この第8番は録音された。テンシュテットにとって、第8番初体験ではなかったか?おまQさんの年譜によると、1985年後半の相次ぐキャンセルの後、1986年3月18日にマーラー;交響曲第6番のコンサート、ベートーヴェン;交響曲第6番、第8番の録音、マーラー;「子供の不思議な角笛」の録音を経て、4月20.21.22.23.24日にまず最初の録音セッション、半年近く経った10月8,10日に2回目の録音セッションが行われ、第8番の録音は完了した。第1部、第2部のどちらか分からないが、録音場所はタウンホール、ウェストミンスター教会大聖堂両方を使って行われたようだ。
 実は、この録音をLP時代から聞いていて、今回も何度も聞き直したが、第2部は素晴らしい演奏なのに、第1部は最初聞いている頃はあまりいい録音、演奏には思えなかった。出張中にディスクマン、ヘッドフォンによって聞いていたからだと思う(^^)。
 しかし、出張から帰って7種ほど第8番を聞き直し、再度大音量再生でテンシュテットの第8番を聞いてみて、ようやくその真価が理解できたような気がする。第1部最初の強奏にボリュームを合わせてはいけないのだ(^^;;;;。録音中の写真を見ると、全ての演奏者、独唱者、合唱が揃っている中で録音されたようで、そうするとバランス的にピアニシモがしっかり聞こえるレベルまでボリュームを上げないと、音楽全体が聞こえない。ボリュームを上げると、オーケストラ、合唱のフォルティシモやオルガンがもの凄くて肝を潰すことになるが(^^;。実は、オーケストラと独唱者の録音バランスに?の部分があったのだが、そういうもんだとあきらめて音楽を聞き始めると、改めてその録音、演奏の凄さに唸る結果になってしまった(^^)。他の録音では編集されすぎて、聞き易く音が作られすぎているのかも知れない、とまで感じるようになってしまった。元々第8番で、全ての声部を明瞭に聞き取れる録音の方が、変だと言えば変なのだ(^^)。テンシュテット盤は、改めて聞き方を変えると、極めて自然なバランスで捉えられた録音であることが分かる。これは、ある程度のクオリティを持ったオーディオでないとその真価は捉えられない録音だと思う。なぜ、そこまでして聞くかって?それは、小生テンシュテットが大好きなんだもん(^^)。


第1部
 オルガンの重く、強烈で物々しい持続音の後、「現れたまえ、創造の主、聖霊よ」の大合唱で始まる。そこでまず規模の大きさに度肝を抜かれる訳だが、テンシュテット盤は遅いのかと思いきや、ホーレンシュタイン盤の方がさらに出だしは遅かった。テンシュテット盤はその後、管楽器や独唱者が遠くで鳴っているような音で、バランスは少し悪いような気もする。ショルティ盤を最初に聞いてしまうと、少し不利だ。
 しかし、その後の展開をテンシュテットは極めてじっくりとしたテンポで進ませ、ゆったりと音楽そのものの美しさを引き出してゆく。ショルティ盤の力感に溢れた畳み込むような音楽の進行とは異なり、テンシュテットは真摯なドラマとして第1部を描いているようだ。独唱はショルティ盤が圧倒的に優れているが、スコアの細かな部分を吹き飛ばしてゆくような凄まじい演奏で、これはこれで熱くなるような凄い演奏だと感じるものの、逆にテンシュテット盤を聞いてしまうと、その各フレーズの意味の開陳と陰影に不足していると感じてしまった。
 小生、最初はショルティ盤の方が圧倒的に良かったのだから、聞けば聞くほど聞き方が変化してしまったわけだ。
 この第1部は、もっと古典的な(例えばバッハ)宗教作品を想起できると言う意見もあるが、小生はそれに反対で、もっと生々しいウィーン幻想派の絵画に見られるような、視覚世界に通じるものがあるような気がする。バッハの音楽世界では、聖霊の降臨してくる光景は象徴的だが、マーラーの場合は極めて具体的だ。そして、「聖霊」は本当に降臨してくるのか?という不安も見え隠れし、さらにその姿や色彩までも音楽化しようとしているかのようだ。テンシュテットの演奏は、その辺りを微に入り音にしているので、聖霊降臨のドラマがより具体的に描かれてゆく。印象としては、聖霊が降臨して世界が浮き立って鳴りまくっているのがショルティ盤なら、テンシュテット盤はその光景を涙しながら見ているといった趣か。そのためか、テンシュテット盤のテンポはゆっくりぎみに、より聖霊降臨のドラマを客観視して描いているような所がある。
 録音は、練習番号7(46小節)でいきなり独唱者がオフ気味になり、特にバリトン、バスのボディがはっきりしないのが難点だが、ここを充分聞き取れるまでボリュームを上げると(家族やご近所の迷惑を省みず^^)、前述の通りこの録音の真価が分かる。特にオルガンの風圧はもの凄く、女性合唱のボリュームはイマイチながら少年合唱の歌声は清々しい。音楽は繰り返し聖霊への賛歌が繰りかえされ、その救済を求める歌が微に入り細に入り歌われてゆく。これは、祝典そのままの音楽で、巨大な音塊となって聞き手に押し寄せる。
 テンシュテットの演奏は、ノイマンほど緩くはなく、ショルティほどデティールを飛ばしてしまった演奏でもない。第1部はテンシュテット盤が随一という自信はないが、これはこれで感動的な演奏である。

第2部
 テンシュテットの第8番の録音では、第1部も素晴らしいものの、音楽が音楽なだけにこの第2部の方が聞き物だろう。物量が巨大なため、各楽器間のバランスやボディがはっきりしない、という録音面での不満はあるが、その第2部の音楽は柔らかく感動的で、これは正しくテンシュテットでしかなしえない音楽だなと思う。
 最初は、荒涼とした光景から始まる。幾分映画音楽のように描写的だが、管弦楽がその荒涼とした風景を描いてゆく。ただ、テンシュテットは風景がとしてよりも、よりその荒涼とした光景を内に持つ人間の心理描写として描いているようで、その絶望的な光景の中にも救済を希求するメロディが現れ、交響曲第9番で登場するメロディが、あちこちで登場する。第8番は、第9番を聞き解く多くの鍵が隠されている。最初の合唱「聖なる隠者たちの合唱と木霊」は密やかに歌われるが、その上をさまよう木管の響きは「大地の歌」の寂寥感を思わせるように響く。最後のピアニシモの美しさよ!
 やがて、「法悦の神父」「瞑想の神父」の心情告白と、信仰への告白が歌われる。「法悦の神父」の歌は、まるでマーラーそのままの心情告白のように、永遠に対しての憧れと、そこに至るための自分の破壊への願望が歌われる。「瞑想の神父」の信仰告白は、現世への束縛とそこから逃れ出たい希求が歌われるが、この辺りの伴奏は「大地の歌」の先駆をなす部分だろう。
 続いて「天使たち」と「昇天した少年たち」の救済された魂(ファウストの不死の霊魂)と、神への賛歌の合唱が同時に歌われうる。ソロヴァイオリンが、交響曲第4番や第7番での悪魔の跳梁を思わせる不気味な動きを精算するように演奏され、「天使になりきっていないものたち」が、神の勝利を静かに歌う。そして、アルトソロと合唱「天使になりきったものたち」が、人間の営為の残りカスのむなしさについて歌う。そして「天使になりきっていないものたち」「昇天した少年たち」「マリア崇拝の博士」が天上のうっとりとする世界と、その愛に満ちた世界を歌う。この辺りの管弦楽は、一歩間違うと低俗になりがちだが、マーラーは踏みとどまって、崇高な世界を描き出す。
 そこからの管弦楽が美しい。これはテンシュテットの希求した安らぎと安定に充ちた世界でもある。比較的長い管弦楽の後、「触れることのかなわぬあなたも」からの厳しい戒めの歌詞とはうらはらに合唱の暖かみはビロードのように広がってゆく。
 そして「贖罪の女たちの合唱」「いと罪深き女」「サマリアの女」「エジプトのマリア」で聖書に描かれたイエスの牧歌的な世界と救済への希求が歌われる。この辺りは、ユーモアを交えながら、罪を犯した女たちの心の中の純真さを表現しているようだ。
 そして、「贖罪の女の一人=グレートヒェンといった女」によって、ファウスト=イエスの復活が宣言され、「昇天した少年たち」の少しの微笑ましい皮肉を含んだ歌の後、再び「贖罪の女の一人=グレートヒェンといった女」の復活したファウスト=イエスへの賛歌が歌われる。
 「栄光の聖母」による神聖な「さぁ、もっと高い天にお昇りなさい!」が歌われ、「マリア崇拝の博士」と合唱によって祝福の賛歌が密やかに、そして感動的に歌われる。第7番で使用されていたマンドリンがここでも登場し、響きに変化を付けるとともに、無垢なものへの表現となっている。この、緩やかに盛り上がる箇所は、正に聞く者に視覚的な救済と天国の風景を植え付けるものだろう。やがて、音楽はグロケッンシュピールやチェレスタによって平穏で瞑想的な天上世界が描かれ、大団円の「神秘の合唱」のしびれるような感動的な世界へと流れ込んでゆく。
   「神秘の合唱」は最初静かに緩やかに始まり、この交響曲をを聞く者全てを天上世界に誘うかのようにどこまでも上昇してゆく。そして、その歓びが徐々に膨らみ、臨界点に達するように徐々に盛り上がり、救済を求める者全てがマーラーの描く壮大で素晴らしい頂点を極め、クライマックスを迎える。音楽は輝かしい光芒の中で終結する。

 いわば、第8番の第2部は、第3番第6楽章の壮麗なアダージョに歌詞を付け、よりその意味をはっきりと開陳したものだということもできる。マーラーほど、神への憧れと、天上世界への希求が強かった作曲家も希かも知れない。第2部の最初で現れる荒涼として、救いを求める隠者たちはマーラーそのひとの心象風景でもあるし、マリア=アルマによる救済はマーラーの魂の叫びであったと想像できる。
 ここでのテンシュテットは、1970年代後半や、ロンドンフィルで安定を始めた81年以降に繰り広げた明るさと残酷な響きが同居したような大爆演群とは趣が少し異なり、死を意識せざるを得なくなったためか、非常に柔らかな紗をかけたような、そして慈しむような音楽を展開している。例えば、ミトロプーロス盤の第2部冒頭の荒涼とした心象風景と、救済を求める魂の残酷とも言える響きはテンシュテット盤からは聞こえない。そして、これは録音のせいもあるが、「聖なる隠者たちの合唱と木霊」のバスパートがテンシュテット盤では明確に聞こえないため、より、その殺伐とした光景は後退していると言える。そのため、「法悦の神父」や「悦楽の神父」の真摯な祈りがどこか柔らかく、ミトロプーロス盤のような切実さに乏しい。同一部分のショルティ盤も圧倒的で迫力はあるが、表現が幾分外面的に過ぎるようだ。
 それでも、この「交響曲」というより「カンタータ」と呼ぶにふさわしい大曲を、1986年当時の死の淵から這い上がったテンシュテットの心情を思い描きながら聞くと、何とも言えない大きな感動に襲われる。マーラーの第8番の世界が確実に描かれた演奏としては、小生は録音の良いどの演奏よりも、音の悪いミトロプーロス盤をまず第一に推薦するが、このテンシュテットの柔らかでオルガンの風圧が豊かな演奏も、傾聴に値する名演のひとつだと思う。これは、テンシュテットの、この時期でしかなしえなかった演奏なのだ。

参   考
C 519 992 B
CD-1021
Dimitri Mitropoulos
Wiener Philharmoniker

Mimi Coertse,Hilde zadek(Sopran)
Lucretia West,Ira Malaniuk(Alt)
Giuseppe Zampieri(Tenor)
Hermann Prey(Bariton)
Otto Edelmann(Bass)
Konzertvereiningung Weiner Staatsopernchor
Singverein der Desellschaft der Musikfreunde
Weiner Sängerknaben

Salzburg Festivals
(rec.1960/8/28 L)

ORFEO D'OR/C 519 992 B(German)2CDs
MUSIC & ARTS/CD-1021(USA)6CDs



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