なぜ崇徳上皇は怨霊になったのか?

公開日: : 最終更新日:2014/07/23 カテゴリー:歴史・宗教 タグ:, , ,

保元元年(一一五六)、後白河天皇との対立によって発生した政変「保元の乱」に敗れた崇徳上皇は讃岐国へ配流となる。わずかな女官らとともに極楽浄土への往生だけを願いとして静かな余生を送り、長寛二年(一一六四)、その不遇の生涯を閉じた。

「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(風雅和歌集)

心細い思いを歌に詠み、失意のうちに亡くなった孤独で無力な元天皇が怨霊となったのは、安元二年(一一七六)年から翌安元三年(一一七七)にかけてのことだという。この頃京都には不穏な空気が蔓延していた。

安元二年六月十三日  二条天皇の中宮高松院妹子死去
安元二年七月八日   後白河院の女御で平清盛の義妹建春門院滋子死去
安元二年七月十七日  後白河院の孫、第七十九代天皇であった六条院が十三歳の若さで死去
安元二年八月十九日  近衛天皇の中宮九条院呈子死去
安元三年四月十三日  延暦寺の僧侶による強訴で死者多数
安元三年四月二十八日 安元の大火(太郎焼亡)で京の三分の一が焼失
安元三年六月一日   平氏政権打倒を企図した鹿ケ谷の陰謀発覚

名だたる王族・貴族が次々とこの世を去り、社会を揺るがす大事件が頻発する中で、これは崇徳院の怨霊の仕業だとする噂が囁かれ、瞬く間に広がった。

怨霊とは何か、山田雄司著「跋扈する怨霊―祟りと鎮魂の日本史 (歴史文化ライブラリー)」では院政期の僧侶慈円が著した「愚管抄」からその定義を引いている。

『怨霊とは、現世において深く恨みを持って、仇を選んで転倒させようとし、讒言虚言を作り出し、それが天下にも及んで世を乱れさせ人に危害を加えたりするものであり、現世でできなったことを冥界で晴らす存在だと解釈している。』(山田P3)

人を怨霊と化すものは何か、『怨霊とは人々の共通認識として怨霊となるであろうと思われた人物が怨霊となる』(山田P4)のであり、『人々の心の根底にある「あるべき姿」を求めようとする意識が怨霊を作り出す』(山田P4)ことになる。人々がその存在を必要とするとき、怨霊が誕生するわけだ。

崇徳帝の怨霊を生んだ人物は実ははっきりしているらしい。藤原教長である。大河ドラマ「平清盛」でも矢島健一さんが好演している。教長は崇徳帝の側近として長らく仕え、保元の乱でも崇徳側について、乱後には出家の後、一時常陸国浮島に配流されていたが赦されて京都に戻っていた。記録では『藤原教長が崇徳と頼長の悪霊を神霊として祀るべきであると人々に仰せ合わせている』(山田P94)という話が残されており、また崇徳帝の怨霊に関るエピソードにも少なからぬ影響があったと見られている。

崇徳帝の恨みをあらわしたエピソードに、自身の舌を噛み切った血で天下を滅亡させる旨記した崇徳帝自筆の「五部大乗経」の存在がある。これは史書「保元物語 (岩波文庫)」などにも紹介されている話だが、その初出は寿永二年(一一八三)七月十六日条の「吉記」であるという。山田は『実際にこの経を見たという人物はなく、この記録以外に経について記したものも存在しない』(山田P91)点、崇徳死後十九年経ってから初めてその経の存在が明らかにされている点などから、これは実在しない創作であったということを指摘する。そして、この経を保管していたとされるのが崇徳帝の子の一人、元性法印という僧侶で、教長は元性法印に『古今和歌集』の進講をするなど深く交流があった。

『保元の乱で崇徳側に与した人々の間で、崇徳の復権、さらにはみずからの復権を行うために、怨霊の存在を語ったのではないだろうか。ちょうどそのとき社会は不安定で、その原因を何かに求めたいという状況であった。そのため、最初は取り合わなかった後白河院も、ひとたび怨霊の存在を信じるとそれにおびえ、院主導で種々の対応が講じられていったのである。』(山田P93-94)

御霊(怨霊)信仰のはじまりは八世紀から九世紀ごろである。義江彰夫著「神仏習合 (岩波新書)」によると『奈良時代半ばまでに、王権中枢部では、権力抗争の末に敗死した特定の者の霊が恨みをもって現れるという観念が生まれつつあった』(義江P92)という。平安初期になると、民衆たちによって早良親王など六人の政争敗死者たちを御霊として祀ろうとする動きが顕著になる。御霊会と呼ばれるそれは京・畿内を中心に全国に拡大し、反王権運動の様相を呈していた。

怨霊を祀り上げるということは、その怨霊となる政争敗死者を生んだ時の権力者たちの責任を問うということであり、怨霊は中世を通じてその時々の社会不安や不満を反王権運動へと結びつけるシンボルとして機能し、時にそれは謀反の論理にも転化した。平将門は新皇即位の儀式に際して怨霊として怖れられた菅原道真の霊を呼び出している。怨霊の存在は霊的な脅威としてだけでなく、文字通り権力構造を揺るがす危機の象徴であった。御霊信仰の誕生過程については以前記事にまとめたので詳細はこちらのエントリを→『現代人のための神仏習合入門その2「跋扈する怨霊、翻る反旗」篇

ゆえに怨霊の鎮護は政治的にも最優先課題であった。崇徳側の復権を企図として流された崇徳怨霊説は社会不安を背景にして広がり、その結果、王権への不満を糾合する象徴として後白河院政・平氏政権に揺さぶりをかける。安元三年八月三日、後白河院はそれまでの「讃岐院」という呼称を「崇徳院」にあらため、崇徳とともに怨霊の噂が囁かれていた藤原頼長には増官贈位を行い、続けて法要を開催。寿永二年(一一八三)十二月二十九日、保元の乱の際の崇徳側御所があった春日河原に神祠建立を決定、建久二年(一一九一)には後白河院の病に際して、讃岐の崇徳院陵に御影堂が建立されるとともに整備が行われた。

また平氏にかわって政権についた源頼朝も父義朝が保元の乱時に後白河側に就いていたことから、崇徳院の怨霊を怖れてその鎮魂に注意を払っているという。文治元年(一一八五)、守護・地頭を全国に設置するに際し、諸国に宛てて崇徳院が生前建立した寺院成勝寺の修造を命じ、同年には妻北条政子に仕える女房の夢に鶴岡八幡宮に崇徳帝を鎮める祈祷をするよう祖先の源義家の部下の霊が出たという話を受けてその祈祷を命じている。

怨霊鎮護は支配の正当性を確立するために時の権力者たちが最も苦心した課題であった。怨霊とその怨霊を反乱や不満のシンボルとしようとする反対勢力・民衆に付け入る隙を与えず、無力化、懐柔に成功した暁には怨霊は守護神に転じる。平将門しかり、菅原道真しかり。崇徳院の怨霊も後白河院の死後、鎌倉幕府による支配の安定化によって社会・政治不安が解消されていく中で皇統を守護する善神へと転じて行った。

このように崇徳院に代表される怨霊の存在は、怨霊という概念が権力に対する怒りや不安、憎悪を糾合する象徴であるという点で、歴史上の出来事ではなく、今でも形を変えて出現しうるものだ。それが悲しく不遇な生涯を送った崇徳院のように望んで怨霊になったわけではないとしても。

「怨霊」の存在を望む人々がいる限り、哀しき「怨霊」は跋扈し続ける。

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