私と少年野球 第80回全県大会に寄せる思い
数々の快挙、記憶鮮明
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大会史上初の完全試合達成、39イニング無失点、40イニング自責点0。1988(昭和63)年の第54回全県少年野球大会で、山内中学校の左腕のエースとして活躍した中川申也さん(41)=和歌山市=は歴史に残る快挙を成し遂げ、世間の注目の的となった。高校でも抜群の制球力を生かして活躍、全国区の人気を博すスターへと駆け上がった。
昭和最後の大会で、人口約5200人の山内村(現横手市)から乗り込んだ初陣の山内中は、強豪校を次々に撃破する快進撃を見せた。その立役者となったのが中川さんだった。伸びのある直球と切れ味鋭いシュートを武器に、1回戦の峰浜中(現八峰町)戦では完全試合を達成。「最終回にライト前に打球を運ばれたが、仲間が一塁に素早く送球してアウトにしてくれた」。中川さんは今も鮮明に記憶している。
「小さな村の中学校ということで、相手になめられていたと思う。でもかなり厳しい練習を重ねていたので、打たれる気がしなかった」。その言葉通り、中川さんは完封を続け、決勝に駒を進めた。
全県一を懸けて戦った相手は秋田市の城南中。右腕のエース斎藤幸治さん(41)=横浜市、会社員=と壮絶な投げ合いを演じ、互いにスコアボードにゼロを並べた。中川さんは5連投で疲労はピークに達していたが、「救援してもらって勝つのは嫌い。最後まで自分がマウンドに立つつもりだった」と振り返る。
試合は最終回に味方の失策で1点を奪われ、サヨナラ負け。大会中40イニング目にして初めて失点した。閉会式で中川さんは脱水症状を起こして倒れ、帰りの車中では全身の筋肉がつった。肉体は限界を超えていた。
中川さんは秋田経法大付高(現明桜高)に進み、斎藤さんとチームメートとなった。1年生ながら実質エースとして奮闘。夏の甲子園出場を果たし、全国4強の原動力となり、一躍、時の人となった。
高校3年の秋にドラフトで阪神に5位指名され、プロ入りした。だが、故障に泣かされ、1軍のマウンドに上がることなく95年に引退。結婚して和歌山市に移り住み、現在は妻の実家が経営する建設会社の役員を務める。2男1女の父でもある。
「もっと胸を張って。腕を大きく振って」。和歌山市の自宅前で、中川さんは中学3年の長男大輔君(15)に投球フォームを指導する。野球部に所属する大輔君は右腕のエース。和歌山市選抜で4番に座る強打者でもあり、地元の名門・智弁和歌山高への進学を希望している。中川さんは「自分が投げるより、子どもの試合を見る方が緊張する」と語る。
小中学生を対象にした野球教室ではコーチを担い、プロで学んだ知識を伝えている。「野球と真剣に向き合い、野球小僧になったのは少年野球があったから。子どもたちにも存分に楽しんでほしい」。野球に対する思いの強さは昔も今も変わらない。
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