2011年02月04日

古文漢文不要論

前から思ってた古文漢文不要論を殴り書く

不要論というか入試科目から外すべきという論ね。教養云々の話しではない。

だって大学に入学するに相応しいかどうか見る試験だからね!定期試験とはわけが違うんだぞ!

それとこれ見てる受験生の人たちは

残念ながら古文漢文は東大入試でも大きなウエイトを占めてるので頑張って暗記して下さい^q^


古文漢文は入試科目に不要だと主張すると、
「役に立つことだけを勉強するのが高校教育ではない」
「文化・教養に触れることに意味がある」
という2つが大きな反論の軸になると思われる。

議論の途中はすっとばすが、俺が言いたいことは

「古文漢文は芸術科目扱いにして芸術の時間に組み込む」

これね。

役に立たなくても大事&文化教養に触れることに意味がある

この2つで古文漢文の必要性を訴えて良いのであれば、何故音楽や美術は入試科目にならないのか?
大学生の読解力や、プレゼン力、論理的思考力を鍛えるべしという主張は多く、
国語のテストが英語と同じだけの200点という配点があったとき、
そのうちの100点を古文漢文のような芸術科目に当てることは頭悪いとしか思えない。
和歌とか漢詩を自分で作って楽しむのが古文漢文で学ぶ教養であって、古文の助動詞の活用を必死で覚えることが本当に文化や教養の理解に役に立つのだろうか?
文学部(特に日本文学など)で古文漢文を入試科目に課すのはわかるが、それ以外の例えば理系の学部でも古文漢文を課すのはやりすぎである。
俺は古文の授業が非常に嫌いだったが、授業中勝手に和歌を作ってひまつぶしなんぞをしていてそちらは非常に楽しかった。
興味ない科目の勉強で忍耐力を測る云々の話しも、それをわざわざ古文漢文でやらなくても他の科目(特に英語)で十分忍耐力は測られてるだろjkっていうのが俺の意見。

古文漢文はそもそもそんなに大した科目ではない、そして教養、文化だというのであれば芸術に行くべきである。
現代文100点 古文漢文100点 というのはあまりにも配点がいびつである。英語200点に見合っていないと感じられる。

そもそも俺は小説の読解問題っていうのもヘンだと感じているわけ。
作者の意図や登場人物の心理を汲み取るっていう能力が仮に小説問題で測れるとして、そんなもんを大学入試で測って点数を付けることになんの意味があるのだろうか?
そんなもんは高校入試レベルで終わりにしたほうがいいんじゃないか?
人の気持ちを読む、っていうか空気を読む能力っていうのは学校生活で嫌でも鍛えられてるような気がするが、わざわざテストでそんなもん測っても仕方ないだろ。
小説なんてのは興味があれば勝手に読むし、誰かに押しつけられて読解するようなもんではない。
文学部で文学やるなら必要かもしれないが、小説問題を解くような限定的で歪んだ能力を全部の学部に課しているのは全く奇妙である。
大学で実際に読むのは論文であって、小説を読むわけではないからだ。
出題者の意図に合わせて文章を読み込んで、解答の根拠となる場所はここです!って探しに行くのが小説問題の現状であって、
ただ宝探しゲームをやるのであれば、それは別にマンガでもいいし、J-POPの歌詞だっていいし、推理小説で犯人を推理する問題だっていいんじゃないか。


センター試験も国語ではなく、 評論文・文章読解 という枠で200点の配点を与えるべきだ。
恐らくそうできないのは、古文漢文の教師の数が多すぎて今更減らせないということと、まともに読解を教えることの出来る教師がほとんど存在していない
という所に元凶がある気がする。
文学部出身の教師が多すぎる。国語っていうのは文章の読解が真っ先に来ると思うんだが、ロジカルに文章を読む技術という点では法学部とかの方が本来適しているように思える。
理系とかもね。そういう人材が国語教師になっていなくて、文学の鑑賞なんぞをやっている文学部の連中が就職先を求めて国語教師になっている
そこがこの問題の元凶ではないかなと思う。

豊かな文学の鑑賞 っていうのは小学校とかの情緒教育でやることであって、大学で必要とされる論理的文章読解とはズレてしまっているなぁと思うわけだ。
大事かもしれないが、それより明らかに優先順位の高いもの(現代文読解)が同じ科目の中にあるのならばそちらを入試では問うべきだと思われる。


あ、文学部の方は頑張って古文漢文小説読解やっててくだしあ^q^

posted by ろーにんめいでん at 05:33| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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