― 朝鮮人慰安婦 ―
⇒ 万死に値する朝日報道(その2)
1993(平成5)年8月4日、日本政府は河野洋平・内閣官房長官の談話によって強制連行を認めてしまいました。このためでしょう、アメリカの議会内部や大学などで慰安婦展示会が開かれるやら、国連人権委員会で非難されるやらの惨状を呈しました。
あげくに、2007年6月、アメリカ下院本会議において「20世紀最大の人身売買の一つ 」 とまで決めつけた「対日非難決議案」が圧倒的多数で可決されるに至りました。カナダ下院、オランダ下院も影響を受け、「元慰安婦への謝罪と補償」を求める決議案が全会一致で採択されるなど影響は広がっています。
こうした国際動向を追い風に、2011年12月17日、来日した李 明博・韓国大統領は野田佳彦首相に対し、慰安婦問題の「早期全面解決」を迫りました。これより先、李大統領の来日直前、ソウルの日本大使館前に慰安婦を象徴する「少女のブロンズ像」が韓国の反日団体によって建てられ、訪日する大統領の後押しをしています。日本の謝罪に向けた官民一体の攻勢です。
アメリカに目を向ければ、「日本帝国政府の軍によって拉致された20万人以上の女性と少女」 などと刻まれた慰安婦の碑がニュージャ−ジ州にあるパラセイズ・パーク市の図書館前に建立されました。この市の住民の3分の1が韓国系とのことですが、一方では中国系アメリカ人の反日組織が活発に動き、韓国系・中国系アメリカ人の共同活動もつたえられています。
こうした中、日系アメリカ人も反論したらいいという声もあるようですが、それは無理な要求でしょう。なにせ彼ら日系アメリカ人だって多くのアメリカ人同様、「慰安婦強制連行」を事実と認識しているはずだからです(2013年以降、日本国内の影響もあってか、変化はでてきていますが ) 。
この碑の文言に関連して質問を受けた野田首相は、「数値や経緯を含め根拠がないのではないか」と表明、また日本大使館前のブロンズ像の碑に記された「日本軍性奴隷」については、「正確なことが記されているかというと大きく乖離している」 とも答えています。
一方の玄葉 光一郎・外務大臣は「強制連行」について、「証拠は出ていないが、否定はできない」 とする奇妙な理由から河野官房長官談話を踏襲する考えを示しました(2012年3月26日、参議院予算委員会での答弁)。したがって、野田首相の認識とは裏腹に日本政府は依然、「強制連行」を認めているのです。
そもそも河野洋平・元衆議院議長は、「談話」を出した後に自民党の国会議員に選ばれて首相の椅子に最も近い自民党総裁になったこと、この無根の「談話」を歴代総理(麻生、福田、安倍、小泉ほか)が誰一人として正そうとしなかったことなどから、自民党も民主党もその気がなかったし、今もないのでしょう。
では、彼らが問題の重要性を理解していないため正そうとしないのでしょうか。必ずしもそうではないと私には思えます。彼らはマスメディアの批判、マスメディアに踊らされる国民の批判が怖いのです。だから、洞ヶ峠を決め込んでいるのだと思います。歴史問題と外交問題は「票にならない」 は永田町のいわば常識だそうで、彼らは票が第一の人間集団ですから。
もっとも、それらの批判を超えても、国家として守らなければならない問題だと認識するほどの見識を彼らの多くが持ち合わせていないという意見に対してなら、私も「その通り」と同調します。
現職の首相(野田)をして「数値や経緯を含め根拠がないのではないか」と言わしめる結果を生んだ最大の原因は日本のメディア、わけても朝日新聞の報道にあったことは間違いなく、慰安婦問題のほとんどは朝日が大元といってよいのです。もちろん、朝日に歩調を合わせるごとく、慰安婦が強制連行だと報道しつづけたNHK の責任も追及されるべきと思います。
朝鮮人慰安婦「強制連行」の存否を論ずるには、何より 吉田 清治 という一人の日本人の証言を避けて通ることはできません。吉田証言が「偽証」であったことはすでに証明されています。ですが、この証明をもって落着したわけではまったくないのです。
というのも、偽証の影響は国内、韓国にとどまらず、国連機関、アメリカなど海外にまでおよび、国家による大規模な「強制連行」は疑いのない事実とされ、この事実認識の上にたって「慰安婦」(comfort woman)にかかわる問題(たとえば補償、謝罪)が論じられ、是正に向かう気配は一向に見えないからです。
吉田証言の影響を考えるにあたって必要なことは、吉田の責任を追及するのは当然にしても、またしても証言の検証を怠ったままに吉田を英雄のごとく持ち上げた新聞、テレビ等のメディア、学者らの責任を明らかにすることの方が、はるかに重要なことだと思います。
たった1人の民間人の偽証によって、これほどまでに国家の歴史と名誉がドロまみれになる、日本以外の国で起こりえたことなのでしょうか。私は日本にしか起こりえない出来事だと思っています。おそらく、日本人のものの考え方、反応の仕方に決定的な原因が潜んでいるのだろうと思います。この見方に大きな間違いがなければ、類似のことはこれから先、何度も繰り返すことでしょうし、現に起こっていると思っています。
吉田証言が虚偽であっことは多くの方がご存知と思いますが、おさらいの意味もあって振り返っておきます。
(1) キーパーソンになった吉田 清治
吉田清治は10年間以上、慰安婦強制連行の日本側のキーパーソン でした。なにせ、この間、強制連行にみずから関わったと証言した「最初でただ1人の日本人」 だったからです。このため、メディアの脚光を浴び、良心的かつ勇気ある人間としてチヤホヤされる存在になりました。
吉田は2冊の本を世に送り出しました。
1作目は1977(昭和52)年3月に発行された『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社、写真左側)、第2作は約6年後の1983(昭和58)年7月、『 私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房)です。
なかでも第2作に書かれた約45ページの記述はナマナマしい「慰安婦狩り」の場面だっただけに、大規模な強制連行の決定的な証拠としての役割を果たしました。
また第2作以降は、朝日新聞、東京新聞、赤旗など多数のメディアが取り上げたために、強制連行が疑いのない事実として足場を固めていったのです。そのうえ、吉田以外の証言者が出ないのは、当時の関係者が事実を隠しているからだとさえ疑われました。
また、第2作は1989年に韓国語訳され、このため韓国内でセンセイションを巻き起こしました。吉田の女子挺身隊=慰安婦と断定した記述も、韓国内にあった女子挺身隊が慰安婦として連行されたとする見方が日本側の証言によって証拠づけられたため、少女までもが強制的に日本兵の慰みものになったとしてさらなる反発に油を注いだのです。
(2) 決定的な「慰安婦狩り」証言
第2作の〈 第3話 済州島の「慰安婦狩り」 〉 にこんなことが書かれています。
山口県労務報国会・下関支部動員部長だったという吉田清治は、1943(昭和18)年5月、西部軍司令部(福岡)から交付された「 皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊200名、年齢18歳以上30歳未満・・・」 などとする動員命令にもとづき、朝鮮の済州島 で「慰安婦狩り」を実行に移したのだと。
@ 「慰安婦2000名」の動員命令が下る
動員命令書が交付されるまでの過程を吉田は次のように説明します。
1943年5月15日、山口県警察部労政課に西部軍司令部付きの中尉が来て、同県労務報国会会長(県知事兼任)に宛てた「労務動員命令書」 を交付します。そこに同席した吉田は次のように説明を加えます。
〈 労政課長は労務報告会の事務局長を兼務していて、労務報国会下関支部動員部長の私を陪席させた 。軍命令の受領に陪席させられることは、その動員の命令の実行を命ぜられることであった。
中尉の説明によれば、このたびの動員命令は西部軍管区の各県の労務報国会へ、朝鮮半島南部の各道を割り当て、動員総数は2000名 であった。〉
こうした次第で、動員総数2000名のうち、200名が下関支部で動員部長の職にあった吉田が命令を実行することになったというのです。吉田が書く「動員命令書」の内容は以下の通りです。
さらに吉田は、〈 女子の勤労報国隊が女子挺身隊と改称されて、女学校生徒や地域の処女会(女子青年団)の軍需工場勤労奉仕は女子挺身隊と呼ばれていたが、皇軍慰問の女子挺身隊とは「従軍慰安婦」のことであった。 〉 と書き、女子挺身隊=従軍慰安婦であったと明記、断言します。
A 済州島における慰安婦狩り
では、「慰安婦狩り」はどのように行われたのでしょう。そのときの模様を吉田は詳しく書いています。
5月17日、部下9人を連れた吉田は定期船で下関を出発して済州島に上陸。軍から10人の武装兵の応援をえて、翌日から軍用トラック2台に分乗、島内で「慰安婦狩り」を実行します。
まず帽子を作る民家に突入、2、30人いる女性のうちから8人を連行、次に貝ボタンの製造工場に行き働く30人の女工から暴力をもって選別、16人を確保します。さらに乾し魚製造工場から50人などを連行するなどして、「1週間で205人の朝鮮人女性を銃剣をもって無理矢理に連行した」、というのが証言の核心です。
帽子をつくる民家での連行の模様は後に紹介しますが、ここでは貝ボタン工場の場面を本から引用してみます。
30人ほど働いている工場の出入り口を、吉田の指揮する徴用隊らはすばやく固めます。そして、
〈 隊員の中から平山が中央へとび出して行って、「作業やめえ!」「作業やめえ!」とくりかえし叫んだ。
女工たちの悲鳴があがって、機械の音が止まった。女工たちは台のうしろに身をかがめ、
機械のかげにかくれて、かんだかい声でたがいに叫び合った。
平山が「起立」と号令をかけ、隊員たちが近づいて行って、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。
「 体格の大きい娘でないと、勤まらんぞ 」 と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、
端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びはじめた。
若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、
山田は木剣で台を激しくたたいて威嚇して、台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずり出した。
山田が肩を押えて床に座らせると、娘はからだをふるわせ声を詰まらせ、笛のような声をあげて泣きじゃくった。
やせて幼い顔の娘が、大野に年を聞かれてはげしく泣きだした。大野は娘のうしろへまわって行って、
家畜の牝の成熟を確かめるような目つきで、娘の腰を見て、「前へ出ろ」と言った。
台にしがみついた娘を、大野が手をねじあげて前へつき出すと、
近くの台からしわの深い老婆の女工が、獣のようにわめきながらとびだして、大野に取りすがった。
そばにいた隊員が老婆の頭にかぶった白い布の端をつかんで引きとめ、
のけぞってふりかえった老婆の顔を平手打ちした。
女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。
隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。
隊員にけられて転がった娘が、床に散らばった貝がらの破片でひたいを切ったのか、
血がたれた顔を上げ、口をあけて放心していた。
隊員が引きずり出してきた娘の前へ、平山が近づいて行って、「そいつは妊婦だろう」と言った。
隊員は娘の腹を見つめると、いきなり朝鮮服の前をまくり上げ、下ばきの腹をのぞきこんだ。
娘が悲鳴をあげ、隊員はなっとくしたのか、「お前はだめだ」とどなった。
年取った女工が、私の方へ走り寄って来て、日本語でわめいた。
「 あんたたち、朝鮮人の女をどうするのか。朝鮮人もニッポン人やないか 」
「 戦争のためだ。じゃまするな 」
私がどなりつけると、浅ぐろい顔に歯をむきだしてあえぎながら、
朝鮮語でわめきはじめ、男のようにたくましい両手をのばして、私にすがりつこうとした。
私が突きとばすと、谷軍曹がこぶしで強く顔をなぐりつけた。 〉
なにせ、当の本人が書いたものですから、一般の読者はなんの疑いも持たないでしょう。日本軍の悪行、悪辣な行為となれば、日本のメディアが喜び勇んで報じるのは目に見えています。「人権屋」のそそのかしがあったにせよ、吉田はメディアの脚光を浴びることを望み、メディアが飛びつくよう工夫をこらしてエサをまいたに違いありません。思惑どおりメディアが飛びついた結果、偽証が決定的ともいえる影響を持つに至りました。
ですが、この「証言」を事実とするには問題があるのです。なにより、たった一人の証言だけというのはきわめて危険 です。証言を裏づける他の証言者なり、客観的な資料が欠かせません。ですが、そんなことをわきまえるようなわがメディアではありません。裏づけが必要などという常識は、糾弾したい、いい記事を書いたと評価されたいという願望の前に、頭に浮んだとしてもすぐに消え去ったことでしょう。
(1) 「ひ と」 欄登場で脚光
「慰安婦狩り」証言を日本のメディアが見逃すはずがありません。1983(昭和58)年11月10日付けの「ひと」欄に早速、取り上げられました。『 私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(第2作)が1983年7月の出版ですから、「ひと」欄は早速、インタビューを申し入れたことになります。もちろん、証言の裏づけが必要などとは考えもしなかったのでしょう。
もっとも吉田に関する朝日報道はこれが最初ではなく、大阪での市民集会での講演の模様を写真入りで報じたとのことですし(1982年9月2日付け)、吉田は各地で講演活動をしていましたので、地方紙、雑誌などで記事になっていたのではと思います。
「ひと」欄での吉田は、闇に葬られていく「国家による人狩り」に心を痛め、戦争責任を明確にするために立ちあがった良心的な人物として描かれます。
「 朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる吉田 清治さん 」 とまず吉田を紹介。
〈 福岡県生まれ。法政大学卒。昭和17(1942)年から敗戦まで山口県労務報国会動員部長。5年前団体職員を退いた。著書に『 私の戦争犯罪』(三一書房刊)など。70歳 〉
と略歴が書かれています。
〈 全国から励ましの手紙や電話が相次いでいる。
同じ戦争加害の意識に悩んでいた人、
「強制連行、初めて知りました」 という中学3年生 ・・・。
「でもね、美談なんかではないんです。2人の息子が成人し、
自分も社会の一線を退いた。もうそんなに、ダメージはないだろう、
みたいなものを見定めて公表にふみきったんです」 〉
〈 国家による人狩り、としかいいようのない徴用が、
わずか30数年で、歴史の闇に葬られようとしている。
戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのでしょうか 〉
それにしても、ぬけぬけと作り話をするものだと感心します。吉田証言が虚偽であったことに一点の疑いもありません。吉田を持ち上げる、つまり日本軍を断罪するために朝日は後述のように吉田証言を何度も取りあげました。
ですが、偽証と判明した後、朝日は吉田証言について真正面から取り上げることはなかったのです。無視しておけば、お茶を濁していれば、そのうち立ち消えになるとでも思っているのでしょう、いつもの姿勢を取りつづけました。吉田証言を持ち上げた記者だって同じ、知らん振りを決め込んだのです。
それに慰安婦報道に熱をあげたNHK や産経新聞以外の他のメディアがこの偽証問題を取り上げすることもありませんでした。さんざん持ち上げておきながら偽証とわかった後も、無視を装うことが、ジャーナリストとして、「寝覚めが悪い」 ことだとは思わないのでしょうか。
この「ひと」欄には「従軍慰安婦」については一言もなく、労働者の強制連行として書かれています。この吉田清治が慰安婦問題のキーパーソンとして関わってくるのです。
なお、「謝罪碑」は実際にソウル南方70キロにある天安市に建てられました。碑文は日韓両国語で書かれ、日本文は以下のように書かれています。
あなたは日本の侵略戦争のために徴用され、強制連行されて、
強制労働の屈辱と苦難のなかで家族を想い、望郷の念もむなしく尊い命を奪われました。
私は徴用と強制連行を実行指揮した日本人の一人として、
人道に反したその行為と精神を強く反省して、謹んで、あなたに謝罪いたします。
老齢の私は死後も、私はあなたの霊の前に拝跪して、あなたの許しを請い続けます。 合 掌
一九八三年十二月十五日
元労務報国会徴用隊長 吉田清治
(2) 広がる影響
天下の朝日新聞の「ひと」欄に取り上げられたとなれば、吉田清治が「時の人」として脚光を浴びるのも時間の問題だったに違いありません。同時に、慰安婦の強制連行が日本軍、日本の官憲による組織的な悪逆行為であったと主張する吉田証言が権威づけられたことにもつながったのです。
となれば、大メディアの報道に後追いしがちな中小メディア、また朝日、毎日などに追随する習性がある多くの学者、研究者、運動家にとっても、吉田証言を核にしておけば、「慰安婦強制連行」について何を書きつらねようと、どのような証言をとりあげようと批判にさらされる心配がなくなることを意味したのだろうと思います。
@ 悔やまれる8年間
ただ、慰安婦が組織的に行われた強制連行だったとして、マスメディアの日本(軍)叩きが表面化するまで、かなりの時間が経ってからなのは間違いないだろうと思います。ごく大雑把に言えば、「 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」 とした1991(平成3)年8月11日付け朝日報道までの間、つまり第2作『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』の出版から数えて約8年の間 は、日本叩きはさほど目立たなかったと思います。
この間の早い時期に吉田証言を検証していれば、今日の事態は根本的に変わっていた可能性が高かったと思います。こう書けば、「なぜ早々に検証しなかったのか」と多くの人は不満に思うでしょうし、もっともなことだと私も思います。ただ、多少にしても実情を知ってみれば、「その通りなんだよ。でもね・・」と留保したくなるのです。
その理由を簡単に言えば、「やる人がきわめて少ない」からであり、このことは知っておいて欲しいと思います。もちろんこうなるには相応の理由があり、少し立ち入ってまとめておく必要があると思っています。舌足らずですが、大分前にブログに書いたことがありますので、ご覧になってください ( ⇒ こちら) 。もちろん、私とは違った見方もあるでしょうが。
南京問題など、日本軍の悪逆行為を長期にわたって追いつづけている産経新聞の石川 水穂・社会部記者(現、論説委員)は、当時の認識の甘さなどを自戒を込めながら以下のように振り返っています。少し長めですが、当時の事情を知る手がかりになると思われますので、シンポジューム「河野談話を考える」(東京市ヶ谷、1997=平成9年8月2日)における発言を記しておきます。
〈 従軍慰安婦問題がマスコミを騒がせたのは、ちょうど平成3(1991)年から4年にかけてです。この頃、私どもは、正直言って大きく立ち遅れた。
ちょうどその頃、産経新聞の教育取材班は、大学改革のキャンペーンをやっておりまして、
例の「慰安所 軍関与示す資料」(後述)という朝日新聞のスクープを見て、
私も何とかしなければならないとは思ったんですけれども、出来たことと言えば、
平成4年の4月に 、秦郁彦教授が済州島に行かれたと聞いて、それを取材したことくらいでした。
その当時は、まだ吉田清治証言が全面的にウソであるとは私どもは確信できませんでした。
吉田清治という人はなかなか直接会おうとはしない。
けれども、電話をすると非常によくしゃべる人で、なかなか電話を切ってくれないのです。
しかし、秦先生が済州島の現地調査に行ったときに、
現地のジャーナリストでさえ事実ではないと言っているという。
それを記事にさせてもらいました(左写真参考、1992年4月30日付け)。
残念なことですが、その後も、この吉田証言というのは、
いろんな出版社やマスコミ等で一人歩きを続けました。
その後もわれわれはちょっと反応が鈍かった。平成4年7月に第1次調査の結果が出て、
加藤官房長官が「関与はしているけれども、強制連行の事実はなかった」と発表したわけですが、
その時も産経新聞社会部としては、少し触れた程度でした。
河野談話の時も、「河野さんは強制連行をついに認めた」と政治部からニュースを聞いて、
「何とかしなければダメだな」とは思ったけれども、正直言ってどうにも対応できませんでした。
さらに平成6年の夏、高校教科書に従軍慰安婦が一斉に登場しました。
この時も、私自身はまだ感度が鈍くて、まだ大したことはないだろうと、
どちらかというと南京大虐殺などに重点をおいて検証していた記憶があります。
こういうふうに、非常に立ち遅れたということをまず皆さんにお詫びしたいと思います。・・・ 〉
お読みの通り、吉田が1983年に刊行した第2作から、秦教授の調査で吉田証言の虚偽が暴かれる1992年4月頃までの間、こういう書き方をすると気分を害する人もおいででしょうが、ほとんど吉田証言は手つかずのまま、野放しに等しい状態になっていたのではと思っています。
秦教授の調査が公表されたのとほぼ同時期、西岡 力(月刊「現代コリア」編集長。現、東京基督教大学教授)は、論考 〈 「慰安婦問題」とは何だったのか 〉を文藝春秋(1992年4月号、左写真 )に発表、慰安婦にかかわる韓国内の状況と朝日報道を通して、問題点を指摘しました。
ちょうどこの頃、吉田証言を引用した「慰安婦もの」が多く出版されたため、この反動もあったのでしょうか、吉田の虚偽証言を含めた検証、反論が目につくようになっていったのです。
A 浸透していった吉田証言
このように検証が遅れたこともあり、約8年間、第1作から数えれば約15年もの間、吉田は「強制連行」の実行者として、また勇気あるただ一人の日本人証言者として、文字通り一人舞台をつとめることになったのでした。調べてないので詳しいことは分かりませんが、吉田の講演会が日本各地で開かれたのは事実で、講演での発言や模様などは地元紙などで紹介されたのではと思います。それらの結果、証言の影響は着実に広がり、学問の世界にまで及ぶことになったのです。
例えば、第2作『 私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』を参考文献にかかげ、「朝鮮人強制連行」を解説した『日本大百科全書』(小学館、1987年)などがその例としてあげられます。また、こうした事典類を根拠に国会における日本政府の答弁「(辞書・事典にも書かれているのだから)強制連行がなかったとはいえない」につながっていったのです。
日時ははっきりしないのですが、韓国で吉田証言を軸にしたテレビ番組「謝罪の旅」が放送されとのこと、吉田が訪韓し、集会の前で謝罪する場面を私も夕方のニュース(TBS?)で見た記憶があります。ビデオに撮れればよかったのですが。また第2作が韓国語訳(1989年)されたことも、日本糾弾の活発化の大きな原因になったことでしょう。
そして1990年代に入ってからでしょうか、吉田証言を核とした「従軍慰安婦もの」が国内で数多く出版されるようになりました。それらは海外にも波及し、1992年8月8日付けニューヨーク・タイムズは吉田のインタビュー記事(写真入り)を載せ、2000人の女性を狩り立てたとする証言とともに、秦教授の吉田が詐話師と指摘していることを含め報じます。
さらに、1995年にはオーストラリア人学者、ジョージ・ヒックスの『The Comfort Women(慰安婦)』が出るなど、吉田証言は英語圏に影響をおよぼすことになったのです。その一端は、英文Wikipediaの「Comfort Women」をご覧になれば、得心がいくと思いますので、( ⇒ こちら )をどうぞ。
そして、米国内の韓国系、中国系など反日団体の組織的運動も大きくあづかって、国連人権委員会など国連機関で問題化、ついに
〈 慰安婦制度は日本政府による軍用の強制的な売春で、
20世紀最大の人身売買の一つ 〉
とする米下院本会議における対日非難決議案採択への道へと通じていきました。
なお、ヒックスの『慰安婦』について、秦郁彦は「初歩的な間違いと歪曲だらけで、救いようがないと感じた」 とし、初歩的な間違いを具体的に指摘しています。ですが、討論番組「朝まで生テレビ」で慰安婦を教科書に載せることの是非が論じられとき(1997年)、秦、吉見義明、西尾幹二らとともに出席したデープ・スペクター は、ヒックスのこの本を机の上に置き、「これで終わりですね」と発言したとのこと。
また、この本にある吉田証言を中心とする事実関係がクマラスワミ報告の核となって、国連の人権委員会で採択されていく道を歩んでいったのでした。ヒックスの『慰安婦』およびクマラスワミ報告は ( ⇒ こちら)。
B 「岩波ブックレット」 での吉田証言
1991年12月に発行された岩波ブックレット・『朝鮮人従軍慰安婦』(鈴木裕子)、また1993年発行の岩波ジュニア新書『「従軍慰安婦」にされた少女たち』(石川逸子)にも吉田証言が引用されています。
岩波のブックレット、同ジュニア新書は安価ということもあってよく売れたため、大きな影響をあたえたものと思います。とくに後者は対象が低学年の子供のため、読んだ子は生涯を通じて忘れることのできないショックを受けたことでしょう。
前者に引用された吉田証言(済州島での慰安婦狩り)を紹介しておきます。
小見出しは「 すさまじい“慰安婦狩り” 」 とあり、既述した「動員命令」の内容を掲げたうえで、「朝鮮帽子をつくっていた女性たちを襲った際のシーン」として、以下を引用しています。日本兵たちが「役 得」 として、われ先にトラックに乗り込み強姦する場面も含まれています。
〈 私は石垣の上から双眼鏡で見ておりました。もちろん、すさまじい悲鳴や絶叫が聞こえて参りました。(中 略)
徴用隊員たちは、若い女性を手をねじあげ引きずるようにしてトラックの前に連行しました。
泣き叫び、部落中に非常な叫び声と悲鳴があがって、男性たちも大声でわめいていました。
兵隊が銃剣で周りをとり囲み、8人の女性を引きずってトラックの近くまで連れてきました。
ところが、トラックを見て女性たちは生命がけで暴れ叫びました。(中 略)
しかし、これも2〜3分で結局手をねじりあげられて、トラックの中に入れられてしまいました。
私の横に座っていた軍曹が私に次のことを言いました。
「徴用の警備は兵隊たちが役得を当てにしています。この先で30分小休止して、兵隊たちを遊ばせてやります」。
そして軍用トラックは幹線道路から横に入り、道のない草原を通って
ちょうど岩山の裏側の幹線道路から見えない地点にトラックを停めました。
トラックから隊員たちが跳び下りてくると、軍曹の命令で兵隊たちは銃を組んで立て、
それが終わると、同時に9人の兵隊たちは8人の女性が乗った幌の中へ突進しました。
その間、幌の中から人間の声とは思えないような悲鳴が聞こえて参りました。
しかしそれも1分か2分で終わりました。
約30分経つと、兵隊たちは意気揚々としてトラックの幌の中から出てきました。 〉
そして、女子挺身隊は「もちろん従軍慰安婦を指します」とし、「右のようなすさまじいまでの“慰安婦狩り”をみますと、まさしく朝鮮人慰安婦政策こそ、“究 極” の民族抹殺政策 ではなかったか、の感を強くします」 と、想像というか妄想がとめどもなく膨らんでいきます。
吉田に2冊の著作があったことは上に記した通りで、第1作が1977年、第2作の刊行は1983年でした。2冊の著作が前ぶれもなく世にでてきたわけではなく、前段階があったのです。簡単に触れておきます。
(1) 「週刊朝日」に手記を応募
1963(昭和38)年といいますから、第1作にさかのぼること14年も前のことになります。「週刊朝日」は「私の8月15日」というテーマで手記を募集しました。8月15日は日本が降伏した日で、日本人なら誰でも忘れられない1日でした。
手記は特選が1編、入選5、選外佳作5編が選ばれ、吉田の手記は佳作に入りました。佳作でしたから誌面に全文の掲載がないため、内容はよく分かりません。ただ、次の批評文から一端をうかがうことができます。
〈 「私はそのころ山口県労務報国会動員部長をしていて、日雇労務者をかり集めては防空壕掘りや戦災地の復旧作業に送っていた。労務者といっても、そのころはすでに朝鮮人しか残っていなかった。
私は警察の特高係とともに、指定の部落を軒並みに尋ねては、働けそうな男を物色していった」
「奴隷狩りのように」と吉田氏自身もいう。その最中にはいったのが終戦のニュースだった。朝鮮人の報復への恐れは、直ちに頭に浮かんだ。帰宅した吉田氏の家の前には、案の定、20人ばかりの朝鮮人が集っていた。動員された朝鮮人の行く先を教えろという。・・・ 〉
ご覧のように、「慰安婦」に関しての言及はありません。ですから、「手記」に書いてなかったのではと思います。かりに「済州島における慰安婦狩り」が書かれていれば、批評文で触れられていたはずですし、インパクトの大きさゆえに入選、あるいは特選となってもおかしくないでしょう。ですから手記の核は、〈 労働力確保のために朝鮮人を「奴隷狩りのように」して連行した 〉と推定して大きな間違いはないのではと思います。なお、投稿は吉田清治ではなく吉田東司(49歳)の名で行われました。
(2) 第1作『朝鮮人慰安婦と日本人』
この本の発行は1977年ですから佳作に入ってから約14年が経過しています。
この間、吉田がどのような活動をしていたのか、調べたことがありませんので分かりません。ただ次のことは参考になるかもしれません。吉田は1947(昭和22)年4月に投票が行われた下関市市会議員選挙に共産党から立候補したことです。結果は当選に遠く及ばす落選でしたが、このときの名前は「吉田雄兎」で、これが本名であったと調査にあたった上杉 千年 (故人)が明らかにしています(上杉千年と編集部「警察OB 大いに怒る」、「諸君!」1992年8月号、左写真)。
ただ、この著作には「労務者奴隷狩り」の実例に加え、「週刊朝日」での佳作では言及されていなかったと思われる「従軍慰安婦の募集、徴用」 が加わりました。概略は次のとおりです。
南支の部隊向けに慰安婦100名を募集する「動員命令書」を吉田は県労政課主事より受領します。昭和19(1944)年4月10日までにという期限付きの命令でした。そこで、下関市大坪の朝鮮人部落において対馬の陸軍病院の雑役婦として募集をはじめます。
朝鮮人労務者の徴用には慣れていたものの、慰安婦の動員命令は腹だたしかったとし、結婚後2ヶ月も経っていなかったために売春婦に嫌悪感があり、「やはりそんな女を徴用する仕事は汚らしく、男の誇りを傷つけられるような気がした」とそのときの気持ちを吉田は書いています。
(3) サハリン裁判における証言と第2作
1982(昭和57)年、東京地裁で第1次サハリン裁判が行われました。「樺太残留者帰還請求訴訟」と呼ばれるこの裁判は、終戦時(昭和20=1945年8月)、樺太(からふと=サハリン)に居住する朝鮮人が帰国できなかったのは日本政府の責任だとし、帰還促進などを求めたもので、1975(昭和50)年、帰還を希望する4人が原告となって提訴されたものです。
第1次とあるのは第2次裁判があったためです。第1次裁判は提訴から14年後の1989(平成元)年、原告側の「取り下げ」 によって裁判が終了しました。ところが翌1990年8月、「帰還請求」が「補償要求」となって再び裁判が起こされました。第2次サハリン裁判です。
@ 吉田が法廷へ
第1次裁判の「訴状」は次のように記して日本国を断罪しました。
〈 原告らは、第2次大戦中日本国によって樺太に強制連行され、
過酷な労働を強いられ、戦後は日本国によって引揚げの機会を奪われてきた。
このような身の上は現代史上稀に見る残酷極まりない境遇というべきであって、
人道上許しがたいものである。 〉
ご覧のように、サハリン裁判の核心は強制連行の有無にあります。となれば、「強制連行」がいかに残酷な状況のもとに行われたかを立証し、あわせて日本を糾弾するために吉田清治の証言が切り札になったことは容易に想像できることです。
原告側証人として出廷した吉田は、「済州島における従軍慰安狩り」を含め、自らかかわった強制連行について9月30日、11月30日の2回にわたって詳細に証言しました。このときの証言内容は第2作『 私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』とほぼ同じ内容でした。今だから言えることなのでしょうが、サハリン裁判は次のターゲットが「慰安婦」強制連行になることを暗示し、この時点でそれを察知すべきだったのでしょう(もっとも、察知したとしても結果は変わらなかったのかも知れませんが)。
終戦時、サハリン(樺太)には「4万3000人」 の朝鮮人がいたとされ、日本の敗戦とともに日本の国籍を失うことになりました。この数字は終戦後の1947年春 、樺太全島を対象にした朝鮮族調査の記録に基づいています。ご承知のように南樺太は日本の領土、北樺太はソ連領でしたので、日本時代に移住した朝鮮人(ほとんどは南朝鮮から)は全員が南樺太(=南サハリン)に居住していました、
1946(昭和21)年、戦勝国のアメリカとソ連の間で「米ソ引揚げ協定」 が締結され、これによって日本人は内地に引き揚げることができるようになったのですが、朝鮮人は帰国できずに現地にとどまることになりました。このため「4万3千人の朝鮮人を置き去りにした」として日本政府が非難の対象になったのです。しかも、彼ら朝鮮人は強制連行されて樺太にきたというのですから事は重大です。
日本のマスコミは例によって日本側の非をならし、例えば朝日新聞は「終戦時のサハリン引き揚げでは、日本人と結婚している朝鮮人は船に乗ることを許され、それ以外は船からけり落とされた」とする姜 尚中 東京大学助教授(当時)の談を載せるなど、日本の非道に焦点をあてて報道するといった按配でした。
A 強制連行の事実なし
ですが、サハリン在留朝鮮人が強制連行されたという事実はなかったのです。まず、「4万3千人」という数字は終戦時の朝鮮人の数ではありません。というのは、「2万人の朝鮮人」 が1946(昭和21)年、1947年の2年間に、朝鮮北部から労働者として家族ともどもサハリンに移住させられたという事実が判明したからです。これはサハリンでの労働力不足を補うため、ソ連は軍政下にあった朝鮮北部から労働者を送るように北朝鮮人民委員会に要求、同委員会委員長であった金 日成 の決断により実行されたものでした。
「4万3千人に根拠なし」は、サハリン残留朝鮮人の帰還問題、補償問題がいかに日本で歪められていったかを追いつづけた新井 佐和子 がかねてより指摘していたことであり、それが1995年(平成7)年になって、ソ連側の文書で明らかになり新井の主張の正しさが証明されたのでした。
新井はこうも指摘します。「置き去り」というのは誤りで、引き揚げは「米・ソ協定」によって厳然と行われたもので、日本側が入り込む余地はなかったし、GHQ(占領軍総司令部)の覚え書きで船を差し向けても、日本人係員はサハリン上陸さえできず、ソ連官憲が差し出す日本人を乗せて帰ってきただけなのだと。また、朝鮮戦争(1950=昭和25年6月〜)の影響もあって韓国は共産圏にいる同胞を拒絶、手紙のやりとりもできなかった、だからサハリン残留は「米ソ冷戦の悲劇」なのだというのです。
では残りの居住者はどうかというと、終戦前年の1944(昭和19)年秋、九州の炭鉱その他へ2万人が移動したため、終戦直前の人口は7,800人 という日本軍の資料が存在するといいます。しかもサハリン在住者のうち、徴用された人はほとんどなく、賃金が高く暮らしやすかった樺太に募集に応じて渡ったのだといい、裁判が始まるころまで「強制連行」という言葉があることも彼らは知らなかったのだと新井は絵解きしています。
朴 魯学 と樺太生まれ樺太育ちの日本人女性・堀江 和子 は終戦直後にサハリンで結婚、1958(昭和33)年に夫妻は日本に帰国。以来、苦心の末に帰還希望者の名簿を作って日本、韓国両政府に陳情するなど帰還運動に献身的な取り組みをはじめました。新井もこの運動に加わりました。
ところが、後から関わってきた日本人弁護士ら によって、この問題は「補償要求」という政治性を帯び、歪められていったのでした。新井の渾身の著作『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか ― 帰還運動にかけたある夫婦の四十年』(草思社、1997年12月)に詳細に描かれています。
新井はいいます。この本を書きはじめた頃は、
〈 反日的な人の手によってよもや歴史が書き換えられるまでには至っていないだろうと思い、今ならまだ間に合うと甘く考えていたが、しかし時はすでに遅かった。だが、せめて「サハリン韓国人」と「朝鮮人慰安婦」の2つを「強制連行」という共通項でくくった仕掛け人は誰なのか、それは実は「戦後補償」という得体のしれない歪曲劇の舞台裏で、今なお黒子を演じつづけている高木 健一弁護士 、そして大沼 保昭東大教授をはじめ反日的辞書の執筆者のような人たちだということを、是非この本で知ってもらいたいと思っている。〉
と書き、新井の無念さが私たちにつたわってきます。
また、この裁判の性格を以下のように総括します(「正論」1995=平成7年11月号)。この総括はサハリン裁判にかぎらず、戦後補償を求める多くの裁判の共通点であると私は思っています。
〈 両裁判を通じていえることは、裁判を起こす弁護士自身、
この裁判が成り立たないことを誰よりも承知しながら提訴に持ち込んでいることだ。
つまり、勝訴が目的ではなく、運動の“ 道 具” とするために提訴するのである 。
そしてマスコミを動員して世論を喚起し、その勢いで政治に圧力をかけ、
目的を達したところで取り下げるという手法をいつも使っている。
裁判というと誰しも訴える側(弱者)に立った見方をして本質を見極めようとしない。
そうしているうちに世論は確実に歪められた方向にミスリードされていく。〉
そして弁護士の目論見どおり、「強制連行したうえに置き去りにして申し訳なかった」として、政府は10億、20億という国費を毎年のように予算化していったのです。
このように吉田はサハリン裁判でも重要な役目を果たしました。おそらく吉田は証人席で、あるいは演台にのぼり、またメディアのインタビューを受けるなど、多くの人の視線を浴びることに屈折した感情とはいえ無上の喜びを見出していたのでしょうし、彼を持ち上げ利用しようとする「人権屋」とともに、日本断罪への道を2人3脚で歩みつづけたのだろうと思っています。
(1) 危ういところ
幸いなことに、秦 郁彦教授の手で吉田清治の虚言が明らかになりました。危ないところでした。もしこの調査がなければ、「慰安婦強制連行」は国内で動かせない事実として認知され、となれば尻馬に乗った新たな証言者がでてきたでしょうから、そのたびにメディアが追いかけて話しに尾ひれがつき、反論を加えるにも反論が成り立ちえない惨状を呈していたことでしょう。
もっとも、アメリカ議会(下院)や国連機関ではすでに事実と認知されたことですし、韓国(それに北朝鮮)もここぞとばかり攻勢をかけ、日韓首脳が顔を合わせるたびに「謝罪」を要求され、「全米22ヵ所に慰安婦碑」 を建てようとする運動が、韓国系米人の多い米国の都市で計画されているとの報道(2012年5月16日付け産経)もあり、状況が好転したわけではありません。ですが、将来の是正に望みを残したという点でも重要な調査だと思います。
吉田証言が今なお、事実だと思っている人がいるようなので、念のため書いておきますが、「私の著書は小説だったと声明したら」とすすめる秦教授に、「人権屋に利用された私が馬鹿だった。しかし私にはプライドはあるし、85歳にもなって・・・このままにしておきましょう」 と吉田は電話で話しています。
吉田を「職業的詐話師」と呼んだ教授に対して、「なぜか氏はながながとお相手をしてくれる・・・」と秦は記しています( 「諸君!」1998年11月号、〈 「空想虚言症」 の記憶にさいなまされる朝日新聞 〉 ) 。
(2) すでに現地新聞が「デタラメ」と報道
秦(当時は千葉大教授)が吉田清治に慰安婦狩りに同行した人を紹介してほしいと依頼したところ拒否されました。そこで1992年3月末、「事件の現場」である済州島に渡って調査したというわけです。
ところが地元の「 済州新聞 」 (1989年8月14日付け)はすでに韓国語訳された第2作『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』についての論評がなされていたというのです。
同紙の許 栄善記者(女性)は吉田の本から連行の模様などを記しながら、次のように書いてありました。
〈 解放44周年を迎え、日帝時代に済州島女性を慰安婦として205名徴用して行ったという記録が出され大きな衝撃を投げかけているが、それを裏づけるの証言がなく波紋を広げている。
1942年から敗戦までの約3年間、山口県の労務報国会の動員部長として朝鮮人を徴用する仕事に従事していた吉田清治氏の戦争犯罪記録『私は朝鮮人をこのようにして捕まえて行った』がそれで、清渓研究所現代史研究室によって83年版が翻訳出版された。
ここには「光州での男子の強制連行」と「済州島での慰安婦狩り」について、自分が直接加担し、狩り出してきて連行していった当時の様子を記録している。(慰安婦狩りの模様は略)
ところが、朝鮮人を徴用したことに関する公式記録や関係文書は敗戦直後、内務次官の通牒により全国の道府県知事の緊急命令書が各警察署に発送され、完全に廃棄処分された、
しかし、この本に記録されている城山浦の貝ボタン工場で15から16名を強制徴発したということや、法環里などのあちこちの村落で行われたこの慰安婦事件の話は、これに関する証言者がほとんどいない。彼らはあり得ないことと一蹴しており、この記録の信憑性に対する強い疑いを投げかけている。
城山里の住民のチョン・オクタンさん(85)は、「そんなことはない。250余の家しかない村落で、15人も徴用されたとすればどのくらい大事件であるか・・・、当時そんなことはなかった」と断言した。
郷土史学者の金奉玉氏は「日本人たちの残虐性と非良心的一面をそのまま反映したものだ。恥ずかしくて口に出すのもはばかれるようなことをそのまま書いたもので、本だと呼ぶことさえできないと思う。83年に原本が出たとき、何年かの間追跡した結果、事実無根の部分もあった。むしろ日本人の悪徳ぶりを示す道徳性の欠如した本で、軽薄な金儲け主義的な面も加味されていると思う」と憤慨した。 〉 (西岡 力『よくわかる慰安婦問題』、草思社、2007年。初出は「現代コリア」1993年6月号)
さらに、秦教授は「済民新聞」に移って文化部長を務める許 栄善に会い、許氏から、「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」 と逆に聞かれ、答えに窮したといいます。
吉田清治の偽証は日本にとって大きな負担となり、現代史を歪め、国益を将来にわたって害することになりました。こうなったのも、、軽薄な日本のマスメディアの責任が大きかったことがいうまでもありません。既述したように、吉田の2冊目刊行が1983年、秦教授の調査が1992年ですから実に満8年以上が経過 しました。この間、吉田証言はただ一人の勇気ある告白者としてもてはやされました。次の一文がこのことを物語っています。
〈 労務報国会は各県にあり知事が会長を務める官製の団体でありながら、
吉田さん以外すすんで実態を証言しようとする人はなく、
吉田証言がなかったら日本人からの強制連行に関する証言はなされず、
闇から闇に葬られていっただろうと思うとき、
日本人として、日本人の責任感と良心が瀬戸際で守られたことに、吉田さんに感謝しなければならないと思います。〉
―『強制連行と従軍慰安婦』(平林久枝編、日本図書センター、1992年)の解説 ―
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― 2005年 4月 1日開始 ―
― 2012年 5月21日更新 ―