ゲーム研究と「形式」

2014.07.23

ゲーム研究

遅まきですが、七邊信重さんによる日本デジタルゲーム学会2013年度年次大会での発表資料を読みつつ思ったことなど。

ゲーム研究において「形式」(form)、「形式的」(formal)、「形式主義」(formalism)といった言葉がつかわれる場合の留意事項をまとめたあとで、七邊さんの発表資料についてちょっとだけコメントします。

「形式」のいろいろな意味

「形式」という言葉それ自体がそもそも膨大な用法(専門的であれ日常的であれ)を持つが、ゲーム研究でもそれは同じである。あいまいな用法は除外してそれなりに明確な意味をもってつかわれている場合にかぎっても、かなりのバリエーションがある。そこでは、「形式的研究」や「形式的定義」や「形式主義者」といったかんじで、ゲームに対するアプローチのしかたを限定するものであることが多い。対立概念とセットで出てくる場合もしばしばある。

いくつか用例つきで示そう。

① 本質としての形式

② 表象 vs 形式

Janet Murray(2005)は、ゲームにおける表象やフィクションの成分を排除する論者を批判的に指すために「形式主義者」をつかっている。これはMurray(1997)が『テトリス』について「90年代アメリカの過重労働の完全な上演」とかぽろっと言ったところ、ルドロジストによる総叩きにあったというのを踏まえての記述。

〔形式主義者の見かたによれば、〕本来のゲーム研究は、この〔ゲーム〕固有の形式性の分析と、個々のゲームについてその形式的な質を比較する研究である(Juul 2003)(Aarseth, Smedstad et al. 2003)。そのような研究の焦点になるべきは、ゲームのルールであって、たんに付随的なものでしかない表象的ないし模倣的な要素ではないとされる。

The proper study of games is therefore an analysis of this unique formalism and a comparative study of particular games for their formal qualities (Juul 2003) (Aarseth, Smedstad et al. 2003). The focus of such study should be on the rules of the game, not on the representational or mimetic elements which are only incidental. [Murray 2005]

形式主義的な見解にしたがえば、『テトリス』は、駒・ルール・プレイヤーの行為からなる抽象的なパターンとしてのみ理解することができる。そのパターンはそれ以上のなにものも意味しない。そして、あらゆるゲームは、まるでそれが〔『テトリス』と〕同じく抽象的であるかのように、理解することができるというわけだ。

According to the formalist view Tetris can only be understood as a abstract pattern of counters, rules, and player action, and the pattern means nothing beyond itself, and every game can be understood as if it were equally abstract. [Murray 2005]

表象内容を考察から排除するという意味での「形式主義」は、美術批評の文脈でふつうにつかわれてきた用法なので(e.g. グリーンバーグ)、ここでのMurrayの用法もそれにしたがったものかもしれない。ただ、Juulがブログで書いているように(Juul 2005a)、この②の意味での「形式主義」と本質主義はしばしば不当に結びつけられる。

Murrayが挙げる名前からわかるように、この意味での形式主義者は(かなり矮小化されたかたちでの)ルドロジストのことである。

③ 経験 vs 形式

Michael Nitsche(2007)は、ビデオゲームの時間論について「形式主義」と「経験主義」という区別をしている。

この小論で参照する二つの主要なアプローチは、おおまかに「形式的」アプローチと「経験的」アプローチに区別できる。形式的アプローチは、ゲーム状態とプレイ時間の関係のなかで展開する時間を取り上げる。経験的アプローチは、認知的・情動的側面や、ゲーム世界についてのプレイヤーの理解により注目する。

The two main approaches that this essay will reference can be roughly divided into ‘formalist’ and ‘experiential’ approaches. The formalist approach sees time evolving in a reference between the game state and the play time. The existential [sic] approach is more driven by cognitive and emotional aspects and players’ understanding of the game world. [Nitsche 2007: 145]

このように、Nitscheは、認知や情動や理解といった主観的経験と、プロセスの構造を区別し、後者に焦点をあわせるアプローチを「形式主義」と呼んでいる。おおむね「プレイヤーの経験について/プレイ対象について」の区別かもしれない。形式主義的な時間論として取り上げられるのはJuul(2005b)の議論である。

④ 質料 vs 形式

ゲームのルールを指すのに、「形式的システム」や「形式的ルール」という言葉がつかわれるのをよく目にする。これらの表現が実際意味しているところはケースによってまちまちだろうが、少なくとも、それが「質料ぬきの純粋に抽象的なものとしてのルール」という意味でつかわれることがある。以下はAki Järvinenによるもの。

これらの要素〔テーマ〕は、少なくとも形式的な意味ではそのゲームを変化させないまま、別のものに置き換えることができる。たとえば『スターウォーズチェス』は、スターウォーズのキャラクタが伝統的な駒に置き換わっているが、それでも依然としてチェスである。一般的にいえば、あるゲームが持つ〈ルールとの関係において機能し、かつ、ルールとの関係において意味を持つような要素〉が変化すれば、この変化はそのゲームプレイにも変化をもたらす。

These elements could be replace with others and the game would not change, at least in formal sense: Star Wars Chess is still Chess, albeit with Star Wars characters replacing the traditional pieces. Generally, if such elements in a game, that both function in relation to rules and have meaning in relation to them, are changed, this change results in changes in the gameplay as well. [Järvinen 2003: 69-70]

この手の話は「媒体横断的」(transmedial)といった言葉で論じられることもある(Juul 2005: 12, 48-52)。

①②③④のそれぞれの関係がどうなってるのかは、ややこしいのであんまり考えてない。実際にはけっこうオーバーラップする場合があるとは思うし、ここで引用した論者たちのいく人かも、複数の用法にまたがって「形式」という語をつかっている。とはいえ、概念的にはそれぞれは区別できるし、すべきだろう。

というわけで、ゲーム研究の文脈で「形式」という言葉が出てきた場合や、その言葉を自分でつかう場合には、以上のような多様な解釈の可能性があることに留意する必要がある(自前できちんと定義するかぎりではどういう意味でつかってもいいと思うが)。

七邊さんの発表資料について

七邊さんによれば、研究の長期的な目的は、

  • ゲームの内部構造(形式)に関する研究と、外部環境(文脈)の研究の関係を整理し、共有できる理論を作る。
  • 海外のゲーム(プレイヤー)研究がどういうことを言っているか、を整理する。
  • 日本のゲームプレイヤー研究に有用な枠組を獲得し、共有する。
  • 社会調査を通して、日本のゲームプレイヤーに関する知識・情報を得る。

というものであり、そのためにこの発表では、

イェスパー・ユール(Jesper Juul)の枠組を整理した上で、ゲームの形式と文脈へのアプローチとしての有効性を評価する。

  • 何を言っている?
  • 形式主義者?
  • 文脈の分析にも有益なことを言っていないか?
  • プレイヤー研究に、どういういいことがあるか?
  • その限界は?

ということである。Juulの理論の参照先としては、Half-Real(2005b)に加えて、Casual Revolution(2009)The Art of Failure(2013)も含まれている。

この方向の研究の必要性については完全に同意する。そのうえで、「形式/文脈」という対概念とそれにもとづくJuulの位置づけにかんして多少コメントする。

上の引用にあるように、七邊さんは「形式」を「ゲームの内部構造」としてとり、「外部環境」としての「文脈」と対置させているが、これらがなにを指しているのかが資料を見るかぎりはいまいちはっきりしない。

はっきりしないのは、「内部/外部」というのが、〈なんらかの本質を持ったゲームという実体の内部/外部〉という意味なのか、たんに〈ゲームを成り立たせている物理的対象の(時空間的な)内部/外部〉という意味なのか、少なくともふたつの意味にとれるからだ。前者は上記①の用法に近いが、後者は新たな用法⑤かもしれない。あるいは、プレイヤーを「外部環境」としてとらえれば用法③に近いかもしれない。

Juulの研究を適切な意味で「形式主義的」と呼びうるとすれば、用法①を採用する場合だろう。⑤の意味だと明らかにJuulは形式主義者ではない。また、Juulの「古典的ゲームモデル」だけを取り出せば②や④の意味で形式主義的だが、その箇所以外ではJuulはふつうに表象や媒体の話をするので全体としてみれば形式主義的ではない。

③についてはNitscheの区別自体が微妙なのでなんともいえないが、それが「経験について/対象について」みたいな区別なのだとすれば、Juulの研究の焦点は必ずしも用法③の形式のみに限定されているわけではない。たとえば、Half-Realの3章の後半部は明らかにゲームプレイの経験に焦点をあわせている(Juul 2005b: 110ff.)。

で、Juulの研究が①の意味で「形式的」だとすれば、それが「文脈」にかんして「有益」なことを言っているかどうかは、それこそ文脈の問題というほかない。七邊さんの言う「文脈」がプレイヤーの属性や文化的状況といった文化史的な事柄を指すものだとして、それらがゲームやゲームプレイの本質にかかわるものであれば、形式主義者はそれらについてなにかしら有益なことを述べるだろう。

たとえば、最近Juulはインディーゲームについての論文を出しているが(Juul 2014)、これはインディーゲームという特定の文化史的現象やその担い手(作り手や受容者)を議論の焦点にしつつも、おそらく①の意味で正当に形式的研究である。というのも、それは「インディーゲーム」と呼ばれる個々の作品の具体的内容ではなく、そのムーブメントの本質を明らかにしようとしているからだ。これは、たとえばヴェルフリンのような様式史的な美術史研究が「形式的」と呼ばれるのとまったく同じである。

一般化すると、①の意味での形式的研究は、文脈次第でふつうに文化史的観点を前提するし、それにかんする事柄を扱う。また、文化史的研究がその対象のなんらか本質的な事柄にかかわる議論をするかぎりは、形式的研究から多くの知見を得られるはずである。

これはゲーム研究だけでなく、一般的に文化にかかわる研究すべてに言えることだ。ゲームやマンガや絵画についての形式的研究は、ゲーム史やマンガ史や美術史にとっての基礎理論として機能するだろう。そのような美的なものごとについての形式的研究を仕事のひとつにするのが美学だと言えるかもしれない(日本の美学業界の人々がそういう仕事をしてるかどうかはまた別の話だが)。

References