ネットが殺すコミュニケーション。利便性の裏に潜むもの。
僕はネイティブデジタリアン世代からは外れていますが、少なからずWEB業界に携わっている分、一般の方よりもネットを活用している方だと思っています。何をもって一般とするのか、何をもって活用していると言えるのかはともかく、僕自身はそういった自負があります。
友人との会話にて
そんな僕ですが、先日同じWEB業界の友人と飲み交わす機会があり、こんな会話シーンがありました。(ほぼそのまま書き起こしてます)
僕「いや、でもほんま便利な世の中になったよな。これからもどんどん新しい技術がでてくるやろし、SF映画みたいにロボットが人になりかわるんも夢物語やなくなってきたな」
友人「ほんまやな」
僕「今の時代、ネット活用せなやってられへんもんな。全くやらへん仙人みたいな人とかたまにおるやん?あれ俺信じられへんもん」
友人「(僕)からすればそやろな。けど…それってほんまにええことばっかりなんかな?」
僕「うん?どうゆうこと?」
友人「確かに便利になったかもしれん。何か買おうと思ったらAmazonで1クリックやし、スマホが普及して誰でもGoogleで膨大な情報にアクセスできるようになった。けど、それで無くしたもんもいっぱいあるんちゃうかな」
僕はこの会話をきっかけに「WEB業界に長けた自分は最先端で、ついていけていないのは時代遅れ」だと思っている自分がいることに気付かされました。今思い返せば驕りもいいところです。
そして、ネットの利便性が生んだ弊害についても考えさせられました。
ネットが殺すコミュニケーション
友人の言うように、現代では何か欲しいと思えばショッピングサイトにアクセスして1クリックで完了します。しかしながら、それは同時に”誰かと買い物に行く機会”を奪っているという側面があります。
誰かと一緒に出かけて買い物を楽しむという1つのコミュニケーションが、ネットの発達によって軽視され、「欲しいものがより効率的に手に入る」ということばかりが重視されてきているように思えてならないのです。
スマホとGoogleについても、以前は分からないことがあれば誰かに聞いて解決してきたはずです。そして、そこには確かにコミュニケーションが生まれていました。
けれど、現代はどうでしょうか。
誰もが膨大な情報にアクセスできるようになり、人に物を尋ねる機会というのは奪われてるのではないでしょうか。それもそうです、より正確に、よりスピーディーに情報が得られるのですから誰もそんな非効率な事はやりたくありません。
「ググレカス」というネットスラングがありますが、これが笑い話にならない時代がすぐそこまできているように感じるのです。いえ、もしかしたらもう既にその渦中にいるのかもしれません。
ソーシャルメディアの流行から見えるもの
ネットの発達を見ていく中で、ソーシャルメディアの流行は欠かせません。そして、その理由についても様々な分析がでています。
個人のメディア化、シェアと共感、そのどれもこれもが頷けるものばかりです。
ですが、僕は”失ったコミュニケーションを新たな形で生み出そうとした”ことこそ、これだけ多くの人に受け入れられた最大の要因なのだと思っています。
だからこそ、現代に求められるサービスというのは、これまで重視されてきた「価値の提供」だけではなく、「人と人とを繋ぐコミュニケーションの新しいカタチ」という視点が必要になってくるんじゃないだろうかと、そう感じています。
僕たちに求められるもの
これまでネットの発達を否定するテイストで書いてきましたが、ではネットを捨てて過去にしがみつき、時代に逆行するような生き方が今僕達に求められているものなのでしょうか。
かつてipadがリリースされた際、日本が誇る巨匠宮崎駿氏はこう述べました。
「ipadで画面をさすっている姿には嫌悪感すら覚える」
「ipadで手に入る情報は、たいしたものじゃない」
「仕事で使うのは、紙と鉛筆があれば十分」
この発言に関して賛否両論があるのはもちろんですし、それぞれ置かれた環境が違うのですから、一概に論じることなどできません。
ですが、このある種アナログ的な生き方とのバランスをとっていくことこそが、今僕達に求められているものではないかと思うのです。
利便性というのは恐ろしいもので、こうした視点と思考力を平気で奪いにかかります。「便利だしいいじゃん」と、一種の洗脳状態に陥る危険性をはらんでいます。僕自身が「WEB業界に長けた自分は最先端で、ついていけていないのは時代遅れ」だと思っていたように。
だからこそ「ネットは目的ではなく手段であり、単なるインフラ」だということを忘れてはいけない。
友人との会話で改めてそう教わった気がします。
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