外伝 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
彼はNO.1
■帝国暦481年 帝都オーディン 兵站統括部第三局第一課 アデーレ・ビエラー
今日も一日また書類が待っている。私は机の上におかれた書類をみて溜息をついた。兵站統括部第三局第一課はイゼルローン方面の補給を管轄する部署。言葉では格好良いが、やってる仕事は書類を見て数字があっているか、何時までに送るのか、どの輸送船に積み込むのかの調整でしかない。
出来るだけ無駄なく輸送しなければならない。幾つかの物資要求と合わせて送るのだけどその調整が難しい。希望納品日と船舶の輸送計画がなかなか一致しない。輸送を担当する兵站統括部第二局は予定を変更されるのを極端に嫌がる。
必要なときに船がなくなるというのだ。“計画は守ってください”それが彼らの口癖だ。計画よりも納期を守ってよ、あんた達。
私の名はアデーレ・ビエラー伍長。年は二十歳、帝国女性下士官養成学校を二年前に卒業した。卒業以来、この二年間失望の日々を送ってきたといっていい……。理由は簡単、私の周りには良い男が全くといっていい程いない。なんて悲しい事だろう。
帝国は今、反乱軍との間に慢性的な戦争状態にある。男性は皆軍に取られ、街中には若い男性は極端に少ない。若い男性が多く居るのは軍隊なのだ。私が帝国女性下士官養成学校に入ったのも男性との出会いを求めてよ。
不純と言われても構わない。一会戦あたり最低でも二十万、多いときは百万単位で若い男が死んでいく。結婚できない女性が増え続けている。私のように平民出身で特に家が裕福でもない人間は軍に入って積極的に男性との出会いを求めていかなくてはならない。
それなのに、私が配属されたのは、よりによって兵站統括部だった。此処は決してエリートが集まる部署ではない。将来性など皆無の男たちか、貴族の次男、三男坊で戦場になど出たくないというロクデナシどもばかり……。なんてかわいそうなんだろう。
「どうしたの、アデーレ。溜息なんて吐いちゃって」
「コルネリア先輩……、毎日が虚しくて」
声をかけてきたのはコルネリア・アダー伍長、帝国女性下士官養成学校の一年先輩だ。
ブルネットの髪と蒼い瞳が綺麗な先輩には恋人が居る。何と軍務省の人事部にいるのだ。軍官僚として将来を保障されていると言っていい。うらやましい限りだ。たまたま軍務省に資料を届けに行った時、知り合ったらしい。私にもそんな出会いが欲しい……。
「何言ってるの。今年の新人たちの希望配属先が出たでしょう。もう見た?」
「いえ、見ていません」
「どうして?」
「見ても仕方有りませんから」
希望配属先、卒業一ヶ月前のこの時期になると卒業予定の士官候補生が希望配属先を出す。軍のホームページに掲載され、私たちはそれを見ることが出来るのだ。しかし、見ても仕方ない。どうせ碌でもないのばかりで、軍務省配属希望者や統帥本部配属希望者と見比べるだけで嫌になる。
「そんな事言っていいの? 今年のNO.1はダントツでウチよ」
「はあ?」
何を言っているんだろう。
NO.1…… その年配属される新人の中から将来性、ルックス、成績、性格等で各配属先(軍務省、統帥本部、宇宙艦隊、憲兵隊等)が競い合う。自分のところに配属された少尉がNO.1だ、と自慢しあうのだ。新人配属から3ヵ月後、密かに各配属先から女たちが集まりNO.1を決める。言ってみれば彼氏自慢、息子自慢のようなものかもしれない……。
「冗談は止めて下さい。ウチがNO.1なんてありえません」
そう、絶対ありえない、出るだけ無駄。去年私も集会に出たけど泣きたくなるくらい辛かった。あまりにレベルが違いすぎる。今年は絶対に行かない。
「あらあら、騙されたと思って見てみるのね、エーリッヒ・ヴァレンシュタイン候補生。ポケットに入れたくなるような男の子よ」
「?」
コルネリア先輩は艶やかに微笑むと立ち去っていった。
ポケットに入れたくなる? 男の子? 私は軍のホームページを開き希望配属先リストのデータベースを開いた。兵站統括部を選択し、配属希望者を確認する。エーリッヒ・ヴァレンシュタイン、これね。確かに兵站統括を希望しているわ。騙されたと思って詳細を確認してみよう。
彼の詳細データが出た。黒髪、黒目、優しげな顔立ちの写真が出た。カワイイ、本当に男の子? 女の子じゃないの? それにちょっと幼い感じがするけど……、嘘、この子十六歳なの? 本当ならこれから士官学校入学じゃない。
成績は……評価はSA! 嘘、この子SAなの、信じられない。
成績欄を見ればおおまかな成績はわかる。これまでの中間、期末試験の順位の平均を基に評価してあるのだ。
SAは平均で十番以内だ。Aは百番以内、Bは千番以内、Cは二千番以内、それ以外はDランク。ヴァレンシュタイン候補生は十番以内に入っている。凄い、なにこれ、なんでウチに来るの。どう見ても軍務省か、統帥本部か、宇宙艦隊よ。間違ってもウチに来る子じゃない。
「嘘!」
思わず叫んでしまい、周囲から睨まれる。拙い、つい興奮しちゃった。でも信じられない。この子の資格取得欄が凄い。“帝国文官試験”、通称“帝文”に合格してる。
そういえばそんな話を聞いた気がする。確か士官学校始まって以来だとか。どうせウチには来ないと興味なかったけど……。それに物流技術管理士、船舶運行管理者、星間物流管理士……兵站のプロじゃない。何者なの。
昼休み、私はコルネリア先輩と食事を取った。兵站統括部の食堂でAランチを取りながら話す。
「先輩、なんなんです、あの子」
「ヴァレンシュタイン候補生?」
おっとりとコルネリア先輩は話す。この辺が私とは違うんだな。ちょっと羨ましい。いけない今はヴァレンシュタインよ。
「ええ、あんなのおかしいです。ウチに来る子じゃありませんよ」
「でも、うちに来るのよね」
困ったように先輩が答える。そう、ウチに来る……。
「なんかの間違いじゃないんですか」
「うーん、でもハインツに聞いたんだけど、四年間兵站を専攻したらしいわ」
「はあ」
ハインツというのは人事部に居る恋人の名前だ、ハインツ・ブリューマー。私もそんな風に名前で呼べる彼が欲しい……。ハインツの言う事が本当なら、彼は筋金入りの兵站希望者という事になるけど……。
結局食事が終わるまで私たちはヴァレンシュタイン候補生の事を話し続けた。
ランチの味はよくわからなかった。私の頭を占めていたのはあの坊やの事だった。
食事を終えて部屋に戻ると、兵站統括部第三局はヴァレンシュタイン候補生のことで持ち切りだった。
“凄い” 同感。
“カワイイ” それも判る、あの子はカワイイ。
“食べちゃいたい” それも判るけど、食べちゃ駄目!
兵站統括部の女性下士官たちは彼に夢中だった。
二週間経った。彼の人気は全然衰えなかった。むしろヒートアップする一方だった。
理由は一つ。彼を誘惑する雌狐どもが現れたのだ。軍務省の官房局、法務局の女性下士官たちが彼に希望配属先を変えさせようとしたのだ。薄汚い奴め!
「帝文」に合格しながら兵站統括部と言うのは何かの間違いではないかと何度も上司を通して彼を説得したらしい。でも、正邪を見分ける清い心を持ったエーリッヒ・ヴァレンシュタインは微塵も揺るがなかった。
“兵站統括部が駄目なら任官しない”とまで言って雌狐どもを拒絶してくれた。その話が兵站統括部に届いたとき、私たちは思わず泣いて喜んだ。なんてカワイイんだろう。見掛けだけじゃない、心までカワイイ。
そして、待ちに待った新任少尉配属の日、ヴァレンシュタイン少尉が配属されたのは兵站統括部第三局第一課、私達のところだった。ディーケン少将に連れられて来たヴァレンシュタイン少尉は柔らかく温かみを帯びた声で少し恥ずかしそうに挨拶をした。
「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン少尉です。本日付で兵站統括部第三局第一課への配属を命じられました。よろしくお願いします」
そう、待っていたのよ。少尉。私たちはみんな貴方を待っていた。彼を拍手で迎えながら私はそう思った。
三ヵ月後、帝都内の小さなカフェで恒例のNO.1を決める集会が有った。私も参加した。当然だけどNO.1はヴァレンシュタイン少尉だった。仕事も出来るし、性格もいい、弁護士資格も持っているし、官僚にもなれる。それに何と言っても笑顔が素敵。
はにかんだ顔も優しく微笑む顔も私たちを癒してくれる。甘党でココアが大好きなのも全部素敵。
軍務省と統帥本部の女性下士官たちが悔しそうにしている。どう見ても本来なら軍務省か統帥本部に行く人材なのにと思っているのに違いない。可哀想な彼女たちにヴァレンシュタイン少尉の写真を進呈した。私たちと一緒に美味しそうにケーキを食べている写真だ。見ているだけで幸せになれる、そんな一枚。そして彼女たちに一言告げる。
「そのケーキは少尉の手作りなの。宇宙で一つしかないケーキなのよ。とっても美味しいの。食べられなくて残念ね。写真で我慢してね」
とうとう彼女たちが泣き出した。ちょっと可哀想かと思ったけど、彼女たちの周りには良い男が一杯居るんだから。このくらいはいいじゃない。
巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令 (その1)
前書き
この作品は本編で書かれていない帝国暦484年1月から十月までの巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令時代を書いています。
帝国暦484年 1月20日 オーディン 軍務省尚書室 グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー
「例の戦闘詳報だが、司令長官は見たかな」
「うむ」
「あの小僧、どうやら戦争も出来るらしい。イゼルローンで並行追撃作戦を指摘したのはまぐれではなかったようだ」
小僧という言葉と忌々しげな口調から軍務尚書の内心が見える。もっとも私も全く同じ思いだ。あの小僧には忌々しさしか出てこない。
例の戦闘詳報、アルレスハイム星域の会戦の戦闘詳報だが、作成者メルカッツ中将はある士官を絶賛していた。エーリッヒ・ヴァレンシュタイン少佐。私達が小僧と呼ぶまだ十八歳の若者だ。
この若者の立てた作戦により帝国軍は昨年十二月にアルレスハイム星域において自軍より五割増の反乱軍に快勝したのだ。反乱軍に与えた損害は損傷率、約五割を超える。戦闘の規模は決して大きくは無いが希に見る大勝であったことは間違いない。
昨年、帝国暦483年は帝国は彼一人に振り回されたといって良いだろう。例のサイオキシン麻薬密売事件だ。私も軍務尚書もその被害者だといって良い。
もっとも結果から見れば帝国は良い方向に向かっていると言える。軍内部に留まらず、帝国全体でサイオキシン麻薬密売の摘発が続いている。サイオキシン麻薬の汚染は確実に一掃されつつある。
ヴァレンシュタイン少佐がサイオキシン麻薬密売に気付かなかったら帝国軍は反乱軍にではなくサイオキシン麻薬で内部崩壊しただろう。
さらに私も軍務尚書もこの件で利益を得ていると言って良い。一応公式にはサイオキシン麻薬の摘発は私と軍務尚書の指示で行なわれた事になっているのだ。但し、一年間の俸給返上と引換えだが……。
「軍務尚書、彼を昇進させるのかな?」
「もちろんだ。彼を昇進させずに誰を昇進させるのだ」
私の問いに軍務尚書は面白くなさそうに答えた。
「ヴァレンシュタイン中佐か、早いな、一年前はヴァレンシュタイン中尉だったのだが」
「……」
軍務尚書は顔を顰めたままだ。口も利きたくないらしい。
「それで、次の任務はどうされるのかな?」
「本人は兵站統括部に戻りたいらしい、兵站統括部もそれを望んでいる。それから憲兵隊も彼の配属を希望しているな」
「憲兵隊か……」
思わず口調が苦くなった。サイオキシン麻薬密売事件では憲兵隊と中佐に好きなようにしてやられた。
「やらんぞ、憲兵隊にも兵站統括にも小僧はやらん」
「では何処に」
軍務尚書の口調に思わず笑いが出た。軍務尚書は軽く私を睨む。
「巡察部隊だ」
「あれか」
「そうだ、彼には相応しいだろう」
そう言うと軍務尚書は如何にも可笑しそうに笑い出した。確かに彼には相応しいだろう。思わず私も軍務尚書と声を合わせて笑っていた。
帝国暦484年 1月25日 オーディン 軍務省人事局受付 エディット・ダールベルク
今日はとっても楽しみ。ヴァレンシュタイン中佐が来る。あの時の中尉さんが僅か一年で中佐。中尉なのにハウプト人事局長に呼ばれるなんて凄いと思ったけど、まさかミュッケンベルガー元帥の密命を受けていたなんて。
今日もハウプト人事局長が自ら会うなんて凄い。噂では今回の人事も軍務尚書の意向が入っているらしいけど、だとしたらエリート中のエリートよ。やっぱり№1だわ。その他大勢とは全然違う。
外見も可愛いけど将来性もバッチリ。年下っていうのもいいかもしれない。今日はメイクもびしっと決めてきたし、ちょっと話しちゃおうかな。先ずはスマイル、スマイル。
帝国暦484年 1月25日 オーディン 軍務省人事局受付 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
人事局の受付で出頭を告げると、やたらと愛想の良い受付嬢が応対してくれた。この人、前も見たな。でも今日はちょっと化粧濃くないか。結構歳行ってるのかな。そんな風には見えないけれど。
「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン中佐です。人事局より出頭命令を受けました」
「ヴァレンシュタイン中佐ですね。人事局長ハウプト中将閣下がお会いになります。局長室は三階の奥に有ります」
また人事局長か……。警戒されているようだがまあ無理も無いな。俺は礼を言って人事局長室に向かった。新しい任務は何になるのか?
メルカッツ提督は上層部に俺が兵站統括部に戻りたがっていると伝えてくれたらしい。良い人だよな、本当に。まあ艦隊勤務中に何度か体調不良で休んでいるからな。それもあるのかもしれない。
頭にくるのはシュターデンだ。虚弱だとか柔弱だとかわざと聞こえるように言いやがる。特に会戦の後が酷かった。そんな事で軍人が務まるか、とか皆の前でわざわざ言う。あの理屈倒れが! お前は脳味噌が虚弱だろう、いや、貧弱か。
ビューローもベルゲングリューンも最後までよそよそしかった。二人だと良く話すのに俺が居ると全然話さない。最後は俺も二人と話すのは諦めて仏頂面して座っていた。寂しいよな。
俺と話すのはクレメンツ大佐、いや准将くらいのものだった。メルカッツ提督は必要な事以外は喋らない人だからな。あのまま第359遊撃部隊にいたら無口で無表情なヴァレンシュタインになっていたな。
多分、今度は兵站統括部に戻れるだろう。あそこはエリート部署じゃないからな。大体あそこに行きたがる人間なんてまず居ない。俺は目立たない所でこつこつ仕事をするのが好きなんだ。おまけにあそこは雰囲気も良い。
軍務尚書も宇宙艦隊司令長官も俺を出世なんかさせたくないだろう。俺も出世なんか興味ない。目出度く皆の意見が一致したって事だ。兵站統括部万歳! 出来れば第三課が良い。
局長室に行くと部屋の中へ案内された。局長は例の奥の個室で面会中だ。部屋の中には中将と少将が一人居てソファーに並んで座っている。敬礼をすると俺の方を見て慌てて答礼してきた。中佐に敬礼されたからってそんなに慌てるなよ。変な奴らだ。
俺は少しはなれて壁際に立つことにした。ソファーは空いているが将官と一緒に座るなんて気詰まりだ。それほど待つことも無いだろう。
奥の個室から将官が出てきた。中年の少将閣下だ。また敬礼だ。こいつも俺の方を見て慌てて答礼してきた。最近は挨拶にうるさくなっているのか? オーディンに居ないとどうもその辺の情報に疎くなるな。
ソファーに座っていた中将が立ち上がる。ようやく俺の番だといった表情がある。前は確かここで俺の名前が呼ばれたな。今回は無いだろう……。良かった、今回は無かった。結局俺がハウプト中将に呼ばれるまで三十分程かかった。
「中佐、元気そうだね」
「有難うございます。閣下も御健勝そうでなによりです」
嘘だ、頬がこけてるし、疲れきった表情をしている。
「そう見えるかね。毎日死にそうな思いをしているのだが」
「……」
「例のサイオキシン麻薬密売事件の所為でね。人事が滅茶苦茶だ。人事案を作っても直ぐ意味のないものになる。何故か判るかね?」
「小官には良く分かりません」
いや、判らないことは無い。しかし此処は分からないと答えたほうが無難だろう。なんとなくそんな感じだ。
「ほう、分からないかね、それは残念だな。一人を動かすのに後任者を含めれば何十人という人間が動く事になる」
その通りだ。一人の人間を動かせばその後任者、更にその後任者の後任者を選ばなくてはならない。どうやら俺は拙い所に来たらしい。此処は我慢して嫌味の一つも聞かねばなるまい。
「しかし、その途中の異動候補者が退職願を出してきたり、逮捕されたりするのだよ」
「……」
「卿の責任ではないことは分かっている。卿は正しい事をした。しかしね、その結果がこの有様だ」
「……」
頼むからそんな恨めしそうな顔で見ないでくれるか。確かに死にそうな思いをしているのかもしれない。しかし俺は実際に殺されかかったんだ。それに比べればましだろう。
とはいっても俺は一年で中尉から中佐。ハウプト中将は中将のままだ。不公平感はあるかもしれない……。頼むから恨まないで欲しいな。
「ところで卿の新しい任務だが……」
「はい」
ハウプト中将は溜息を一つ吐くとようやく俺の新しい任務の話を始めた。兵站統括部第三課、さあ来い。
「巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令、ということになる」
「はあ」
思わず間抜けな声が出た。艦長? 巡察部隊司令? 何だそれは? 聞いた事が無い、兵站統括部第三課はどうした?
「閣下、その何かの間違いでは有りませんか? 小官は司令部勤務は有りますが艦船乗組の経験も知識もありませんが」
「そんな事は分かっている」
「?」
困惑する俺に、何処か面白そうな表情でハウプト中将は俺に下された任務の内容を話し始めた。
巡察部隊、俺が聞いたことが無いのも無理は無い。今回新しく作られた部隊だ。任務は帝国内での警備業務(艦船、船舶を使った犯罪に対する捜査)らしい。まあ船舶ならば警察にも捜査権があるから主として艦船なのだろう。
これもサイオキシン麻薬密売事件の影響だった。軍の首脳部は皇帝フリードリヒ四世から二度とこんな不祥事を起こすなと言われたようだ。そこで密輸を取り締まる部隊を作ります、という事で出来たのが巡察部隊だ。
俺が何で巡察部隊の司令になったかだが、サイオキシン麻薬密売事件の摘発者を巡察部隊の司令にすることで軍首脳部は本気だという事をアピールしたいらしい。
つまり、俺に適性があるかどうかはこの際問題ではない。あくまでポーズなのだろう。軍首脳部の本気というのも大変怪しいとしか言いようが無い。
「巡察部隊は第一から第二十まで作られている。卿はその栄えある第一巡察部隊の司令に任じられたわけだな」
「……」
「第一巡察部隊は巡航艦ツェルプストの他、駆逐艦二隻、護衛空母一隻で編制される。卿は巡航艦ツェルプスト艦長兼第一巡察部隊司令というわけだ」
「……」
「安心したまえ。副長に卿を補佐する経験豊富な人物を当てる」
「……」
「アウグスト・ザムエル・ワーレン少佐だ」
「!」
アウグスト・ザムエル・ワーレン! 何で俺の部下なんだ。いや、そんな奴俺の部下にして良いのか? 俺ってそんなに出世してるのか?
パニクってたらいつの間にかハウプト中将の話は終わっていた。俺の手には紙袋がある。第一巡察部隊の資料が入っているのだろう。いつの間に受け取った? いや、その前にいつの間に人事局長室を出た?
巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令 (その2)
帝国暦484年 5月23日 巡航艦 ツェルプスト エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
「先行する駆逐艦ラウエンより入電。異常無しとの事です」
「うむ、了解と伝えろ」
ワーレン少佐とオペレータの遣り取りを聞きながら、暇だなと俺は考えた。
「ヴァレンシュタイン司令、異常無しとのことです」
「分かりました」
そして暇なのは良い事なのだと考えた。第一巡察部隊が任務について以来、特に問題も無く暇な日常が続いている。
暇なのも無理は無い。第一巡察部隊が巡察するのは、ヴァルハラ、カストロプ、マリーンドルフ、マールバッハ、ブラウンシュバイク、フレイアの帝国の中心部だ。辺境に比べればはるかに治安はいい。
第一巡察部隊は四隻の艦で編成されている。巡航艦ツェルプスト、駆逐艦ラウエン、同じく駆逐艦オレンボー、軽空母ファーレン。いずれも新鋭艦ではないし新造艦でもない。艦齢二十五年以上の老嬢達だ。
帝国は慢性的に自由惑星同盟と戦争状態にある。年に二回は戦争をしているのだ。その中で艦齢二十五年はたいしたものだ。戦艦のように頑丈な艦ならともかく駆逐艦や軽空母など良く生き残ったと言って良い。
艦齢二十五年以上の老嬢達で編制された第一巡察部隊。軍上層部の期待度が分かるというものだ。前線で使えなくなった艦を集めて厄介な士官をまとめて乗せた、そんなところだろう。
おまけに俺の巡察担当範囲を思えば、上層部の考えはもっとはっきりする。昇進に値する武勲など与えない。ずっと巡察をしていろ、そんなところだろう。俺としても何の不満も無い。艦長兼司令、つまり一番上でのんびりできるのだ。有難くて涙が出る。
平和の無為に耐えうる者だけが、最終的な勝者たりうる。ヤンの言葉だったな、俺は十分に勝者になれそうだ。これだけ暇でも全然苦にならない。暇をもてあますという事もない。有難いことに事務処理だけは艦長になっても適度にある。
十年このままでも全然大丈夫だ。もしかすると俺はこの仕事のために生まれてきたのかもしれない、そんなことを最近良く考える。つくづく俺は地道にこつこつ仕事をするのが性に合っているらしい。戦場なんかでドンパチするのはごめんだ。
ラインハルトが元帥になるまであと三年、リップシュタット戦役までは四年だ。奴さんが元帥府を開いたら雇ってもらってバーミリオンの前に退役する。バーミリオンから先の戦いはろくでもない戦いばかりだからな。退役するときは大体少将くらいか。
その後は、官僚に転進だろう。だが気をつけなければいけないのはロイエンタールの反乱が終わるまでは新領土に行かないことだな。軍人に復帰しろなどと言われて妙な巻き込まれ方をすると反乱に与したなんてことになりかねない。
そう考えると先ずは弁護士で二、三年ほどやり過ごすというのも一つの手だ。うん、弁護士をしてラインハルトが死んだ後に官僚になる。そっちのほうが安全か。その頃なら新領土に行っても問題ないだろう。とにかくロイエンタールに近づくのは危険だ。
先日、妙な夢を見た。どういうわけか俺がロイエンタールの参謀長になっていた。本当ならベルゲングリューンが参謀長のはずなのだが、俺がガイエスブルクで起きたキルヒアイス暗殺事件を防いだらしい。
その所為でベルゲングリューンはキルヒアイスの幕僚のままで代わりに俺が陰謀を防いだ功績で昇進してロイエンタールの参謀長になっているという夢だった。
ひどい夢だった。二月おきに女との別れ話の後始末を俺に付けさせるのだ。原作だとロイエンタールは漁色家の割には恨まれなかったと書いてあったから、女とは綺麗に別れたのかと思った。
だが、とんでもなかった。漁色家の割には恨まれなかっただけで、一般人から見れば修羅場のオンパレードだった。手首を切るだの、ロイエンタールをつけ回すだの、妊娠したと嘘を吐くなどその度に俺が呼ばれ後始末をつける羽目になった。
おまけにロイエンタールは素直に礼を言うようなヤツじゃないから黙りこくっているし、俺もいい加減頭にきてムッとしている。ロイエンタール艦隊の司令部の人間は沈黙する司令官と不機嫌な参謀長の前で震え上がっていた。バルトハウザーは緊張の余り俺の前で右手と右足を一緒に出して歩いていたほどだ。
新領土での反乱も酷かった。あれはどう見ても自分で自分を反乱に追い込んでいる、自業自得の行為なのだがあの野郎、俺に向かって一緒に死んでくれとか言いやがる。
俺は退役して官僚になるんだ、お前の反乱なんかに付き合えるかボケ、と言ったら、奴は逆上して俺を捨てるのかとか訳の分からんことを言ってブラスターで俺を撃ちやがった。
撃たれたところで眼が覚めた。体中汗でぐっしょりだった。その日は具合が悪いといってワーレンに全てを任せて艦長室で一日寝ていた。ろくでもない一日だった。
ロイエンタールには悪いが、反乱を食い止めようとか、反乱を成功させようとか、そんな事を考えるほど俺は酔狂じゃない。自分のことだけで精一杯なのだ。まあ自分の事は自分で片付けてくれ。間違っても他人に女の後始末とか、子供とか押し付けるなよ。ホトトギスじゃないんだから。
第一巡察部隊が任務に就いたのは二月十日だった。最初の二ヶ月はワーレンについて艦長任務を学んだ。ワーレンは艦船乗組みの経験が豊富な男だ。色々と艦長として注意しなければならないことを教えてくれた。
俺は出来るだけ真面目に取り組んだ。乗り込む前は全部ワーレンに任せて昼寝でもするかと考えていたが、良く考えればワーレンは「獅子の泉(ルーヴェンブルン)の七元帥」になるのだ。俺の副長として何時までもいるわけはないし、閣下と呼ばれて俺よりはるかに出世するに違いない。
後々睨まれないように、何かの間違いで出世してしまったが、真面目な士官だったと言われるようにしないといかん。部隊運用については余り苦労はしなかった。部隊と言ってもたった四隻なのだ。ワーレンと相談しながら無難にこなしていた。
ワーレンは何時まで此処にいるのだろう。ヘーシュリッヒ・エンチェンの同盟領単艦潜入の件でラインハルトは誕生日に昇進したはずだ。ワーレンもそれに伴い中佐に昇進するだろう。同じ艦に中佐が二人と言うのも妙だ。昇進に伴い異動だろうな。
寂しくなるな。ワーレンはなんと言っても頼りがいがあるし、性格も温厚で一緒にいるのが苦にならない。副長とか副司令官とかが確かに向いているだろう。もっとも重厚な所は司令官に相応しい雰囲気を持っている。何の事は無い、何でも出来るということか。やっぱり偉くなるヤツは何処か違うんだな。
帝国暦484年 5月23日 巡航艦 ツェルプスト アウグスト・ザムエル・ワーレン
部隊はマールバッハからマリーンドルフに向かっている。特に問題は無い。無さ過ぎるほどだ。時々何時までこの巡察部隊にいるのか、このまま巡察部隊で一生を終えるんじゃないかと思うと不安になる。
波乱の一生などというのを望むつもりは無い。しかしこのまま平穏無事というのもつまらない。それなりに武勲を挙げ昇進したいものだ。それだけの実力はあるつもりだ。
俺は艦長席に座る少年を見た。青年というよりは未だ少年と言って良い若者だ。エーリッヒ・ヴァレンシュタイン中佐、エリート中のエリートだ。俺よりもずっと若いのにもう中佐だ。
このまま行けば後二年もすれば閣下と呼ばれる身分になるだろう。こんな暇な任務について不満だとは思うのだが、微塵もそんなそぶりを見せない。
日々真面目に任務をこなしている。
妙な男だ。俺はこの男を全く知らないわけではない。士官学校で俺が四年生のとき編入生として士官学校に入学してきた。確か十二歳という異様に若い士官候補生だったはずだ。
毎日のように図書室で本を読んでいた。容貌が容貌で余りに大人しいので女なのではないかという噂も立ったことも有る。成績も良かったはずだ。なんと言っても編入生なのだ。出来が悪いはずが無い。
ミューゼル中佐、いやもう大佐か、彼のように覇気が有りすぎるのも疲れるが、ヴァレンシュタイン中佐のように無さ過ぎるのも張り合いが無い。足して二で割ればちょうどいいのだが。
俺もそろそろ昇進だろう。次は何処へ行くのだろう、それともこのままだろうか。今帝国軍は例のサイオキシン麻薬の影響で再編、訓練の真っ最中だ。出来る事なら俺もそこに加わり、次の出兵に参加したいと思っている。
しかしな、異動先でまた何処かの若造の子守じゃないだろうな。だったらこのままで良い。少なくともヴァレンシュタインは手のかかる小僧じゃない。一緒にいても苦にならない上官だ。
「駆逐艦ラウエンより入電、レーダーに感有り」
さっき異常無しと報告があったばかりだが……。
「位相は」
「八一七宙域を九一三宙域に向かって移動中との事です」
俺がヴァレンシュタイン司令を見ると微かに頷き命令を出した。
「全艦に命令、直ちに宙域八一七に向かう。軽空母ファーレンに命令。ワルキューレを出し偵察行動をさせるように」
「はっ」
最近ではヴァレンシュタイン司令もスムーズに命令を出せるようになってきた。最初はどうして良いか分からず、俺が殆ど命令を出していたが。根が真面目なのだろう。一生懸命俺に教わっていたからな。健気なもんだ。
レーダーに反応したのは交易船だった。巡察部隊が臨検するのは軍艦だけではない。民間の交易船、輸送船も含まれる。とはいっても本来ならこちらは警察の管轄にあるものだ。軍が臨検するのは警察も民間も嫌がる。
例のサイオキシン麻薬事件以来、軍と内務省の警察権力を巡る争いは過熱する一方だ。今のところ軍が優位に立っているようだが、内務省も諦めてはいない、あきらめるはずも無い。今回の臨検でもさぞかし苦情が来るだろう。
「どういうことだ、何故積荷の確認が出来ない?」
「はっ、それが、船長が反対しているのです」
「こちらは公務だぞ、何を考えている」
駆逐艦ラウエンが民間の交易船パラウド号に積荷の臨検を通知したのは一時間ほど前の事だった。兵を派遣したのだが、船長が臨検に反対しているらしい。
公務なのだから押し切ればよいのだが、どういうわけか手間取っている。巡察部隊など精鋭の来る場所じゃない。その所為で手際が悪いのだろう。
そう思っていたが、どうやら事件らしい。何故公務の邪魔をするのか? 簡単だ、こちらに知られると拙い荷を積んでいるからだろう。サイオキシン麻薬だろうか。軍の輸送船では拙いと考え民間船を使用したか?
「ワーレン少佐、厄介ごとのようですね」
「そのようです。ヴァレンシュタイン司令」
穏やかな口調だった。表情にも笑みがある。
この若者は怒った口調や慌てた口調を周囲に見せた事が無い。表情も同じだ。いつも穏やかな笑みを浮かべている。よっぽど育ちがいいのか、胆力に溢れているのか俺には未だに判断できずにいる。
「此処にいても埒が明きませんね。現場に行ってみましょう」
「ご自身で行くのですか?」
「ええ、兵を二十名ほど用意してください」
そう言うとヴァレンシュタイン中佐は艦長席を立って歩き始めた。
本当なら艦長が外に出る以上副長の俺は艦に残るのが当然なのだが、彼は未だ若い。何処で失敗するか分からない、心配だからついていくことにした。彼もそれが分かったのだろう。俺に対し“心配をかけますね”と済まなそうに言ってきた。この辺がミューゼル大佐とは違う所だ。彼なら余計なお世話だと不満を持つだろう。
ヴァレンシュタイン中佐と俺が交易船パラウドの倉庫に着いたとき、倉庫の中では交易船パラウドの船長らしい人物が仁王立ちになって駆逐艦ラウエンから来た兵を威嚇している所だった。
「どういうことだ。何故臨検をしない」
「はっ、それが」
近くにいた兵士に聞くと、困ったように船長らしき人物のほうを見た。
「何度も言うがこの船の積荷に臨検など必要ない。この船の積荷はさるお方からの依頼によるものだ。臨検などして後で叱られるのはお前らだぞ。辺境警備に回されるなどと思うなよ、戦死することになると思え」
なるほど、そう言う事か。この船の荷物は貴族の依頼によるものらしい。あるいはそう装っているだけか。しかし貴族を怒らせることの怖さは皆が身に染みて知っている。その事が臨検をすることを躊躇わせている。厄介な事だ。あるいはこの手で他の巡察部隊の臨検をやり過ごしたか。
「ワーレン少佐、楽しい事になりそうですね」
軽く笑いを含んだ声が耳に聞こえた。ぎょっとして隣を見ると嬉しそうな表情をしたヴァレンシュタイン中佐がいる。
「失礼ですが、貴方が船長ですか」
「そうだ、船長のアンゼルム・バルツァーだ」
「小官は第一巡察部隊司令のエーリッヒ・ヴァレンシュタイン中佐です」
ヴァレンシュタイン中佐が名乗るとバルツァー船長はいかにも馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らした。無理も無い、中佐はいささか若すぎる、未だ二十歳に満たない年齢なのだ。
「ヴァレンシュタイン中佐。もう一度言うがこの船の積荷に臨検など必要ない。この船の積荷はさるお方からの依頼によるものだ」
「そうですか、臨検に協力して貰えないということですね」
「そうだ」
嘲笑交じりの倣岸な態度だ。こちらが何も出来ないと侮っているのだろう。ヴァレンシュタイン中佐は穏やかに微笑みながら答えた。
「残念ですね、協力していただけないのは……。仕方がありません、バルツァー船長を逮捕してください。罪状は公務執行妨害です」
ツェルプストから同行した兵が一瞬俺を見た。俺は必死に表情を押し隠し彼らに頷く。彼らはバルツァーの身柄を拘束するべく動いた。
「おい、ちょっと待て」
「それと乗組員を全員ここに集めてください。抵抗する人間はこれも公務執行妨害で逮捕してください。それから、ここでは一切私語を許しません。一言でも喋ったらこれも逮捕です」
唖然としている俺に向かって中佐は嬉しそうに微笑みかけた。
「ワーレン少佐、私達は積荷の確認をしましょうか。何が出てくるか、楽しみですね。サイオキシン麻薬か、それとも他の何かか」
そう言うと“ちょっと待て”と喚きまくるバルツァー船長を後にヴァレンシュタイン中佐は積荷の方向へ歩き出した。俺は慌てて五人ほど兵を連れ中佐の後を追った。いやな予感がする。中佐の嬉しそうな表情を思い出しながら、そう思った。
巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令 (その3)
帝国暦484年 5月23日 巡航艦 ツェルプスト アウグスト・ザムエル・ワーレン
積荷は四つのコンテナに格納されていた。ヴァレンシュタイン中佐は積荷のリスト(輸出申告書と言うらしい)をパラウド号の倉庫にあるコンピュータから出力すると積荷との突合せをするように指示を出した。本人は積荷の確認には立ち会わず、コンピュータを使って何かを確認している。
四つのコンテナの内、三つまでは問題は無かった。ヴァレンシュタイン中佐が出力したリストとの間に食い違いは無かったのだ。だが残りの一つのコンテナに問題が有った。リストに無い積荷が有った。
大型のジェラルミンのトランク、縦一メートル、横二メートル、高さが一メートル程だろうか、リストには無い積荷だ。バルツァー船長が隠そうとしたのはこれだろうか。とにかく、先ずはヴァレンシュタイン中佐に知らせなければならんだろう。
「これですか?」
「はい、司令がいらっしゃる前に爆発物、生体反応は確認しました。どちらも問題ありません」
ヴァレンシュタイン中佐は頷きながら、トランクを見ている。
「トランクを開けられますか?」
「いえ、ロックされています。虹彩認証システムを使用しているようです」
「なるほど、登録者はおそらくバルツァー船長でしょう。開けるには壊すしかありませんか……」
俺は無言で頷いた。虹彩とは、目で色のついた部分のことだ。人間の場合、虹彩の模様が個体によって違うことが知られており、このことを利用して個人認証に使用するシステムを虹彩認証システムという。
虹彩認証システムの利点は虹彩パターンが長期間にわたって安定している事だ。虹彩パターンは生後約1年程度で固定され、その後は外傷性障害や特別な疾病変化、あるいは眼科手術などを除けば変化は無い。一旦登録すれば再登録の必要はほとんど無いと言って良い。
バルツァー船長が登録者の場合素直に協力するとは思えない。彼が眼を閉じていればそれだけでトランクは開かない。ヴァレンシュタイン中佐が言ったように壊すしかないだろう。
しかし、本当に壊していいのか? 壊して何も出なかったらどうなる? あるいはとんでもないものが出てきたら? 今なら多少外聞は悪いが問題無しとして後戻りは出来る。だが壊せば戻る事は出来なくなる。どうするのか? ヴァレンシュタイン中佐は小首を傾げながら考えている……。
「仕方ありません。ワーレン少佐、壊してください」
「よろしいのですか?」
「構いません。壊してください」
ヴァレンシュタイン中佐は気負った様子も無く決断を下した。見かけによらず、肝は太いらしい。俺が兵達にトランクを壊すように指示を出すと速やかに兵たちが動き始める、どうやらバーナーで鍵を焼き切るようだ。
三十分ほどかかったがトランクを開けることが出来た。トランクの中には包装紙に包まれた黒い動物の毛皮が入っていた。かなり大きい動物の毛皮だ。思わず皆、顔を見合わせることになった。
「中佐、これは……」
「……」
「何か動物の毛皮のようですが……」
俺は困惑とともにヴァレンシュタイン中佐を見た。兵達も皆困惑している。しかし中佐は珍しく厳しい表情で毛皮を睨んでいた。どういうことだ、この毛皮に心当たりが有るのだろうか?
「ワーレン少佐、少し暗くしてもらえますか」
暗く? 不審に思いながらもトランクのふたを閉めるようにして光を遮る。
「こ、これは!」
「光っている!」
口々に皆が騒ぐ。毛皮は微かに青い燐光を放っていた。
「やはり、トラウンシュタイン産のバッファローでしたか」
溜息交じりのヴァレンシュタイン中佐の声が流れた。
「ヴァレンシュタイン司令、トラウンシュタイン産のバッファローと言えば」
思わず声が掠れ気味になった。
「ええ、御禁制品です。とんでもないものが出てきましたね、ワーレン少佐」
にこやかに微笑む中佐を見ながら、それどころじゃないだろう、と俺は内心で毒づいた。
帝国暦484年 5月23日 交易船 パラウド エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
トラウンシュタイン産のバッファローか、こりゃまたとんでもないものが出てきたな、御禁制品だ。周囲を見渡すと皆怯えたような顔をしている。ワーレンも何処か引き攣ったような表情だ。俺も似たようなものかもしれない。
フェザーンの傍にアイゼンヘルツという星系がある。銀河連邦時代にはこの星系は見つかっていない。銀河帝国になってから発見され開発された。惑星トラウンシュタインはアイゼンヘルツ星系にある惑星だ。
酸素は有るのだが酷く寒冷で人が住むには適さない。そのため発見当初から入植して開発するという選択肢は放棄された惑星だ。しかし人が住めなくてもトラウンシュタインには鉱物資源がある可能性が有った。
トラウンシュタイン独特の風土病を調べるため、それを理由に寒さに強い動物がトラウンシュタインに放たれた。人間ではなく牛や馬でそんな事が分かるのかと俺は思うのだが、牛や馬が住めないような惑星では人が住めるわけが無いというのが当時の帝国上層部の考えだった。大胆というか大雑把というか判断に悩む所だが、これがトラウンシュタイン産のバッファローという珍種を生み出す事になる。
放たれた動物は牛、馬、狐、兎、熊、狼などだが、その中にバッファローもいた。惑星トラウンシュタインの調査期間は五年、途中三年目で調査員達は奇妙な事に気がついた。
バッファローの一部に青く光る固体が見つかったことだった。何らかの病気かと調査員達は考えたのだが詳しく調べていくうちに分かったのは青く光るのは夜間、そして雄の成獣だけが発光するということが分かった。
原因はバッファローが食べていた草にあるらしい。名前は忘れたがトラウンシュタイン独特の草で夜になると微かに青く光る。つまり発光成分を含んでいるのだ。なぜ雄の成獣だけが発光するのかはホルモンの関係らしい。生殖可能な状態になると発光する、確かそんな事が昔読んだ動物図鑑に出ていたような気がする。
何故、バッファローだけが青く光るのかだが、それはこの草の匂いがきつく他の動物達は食べないからだ。おまけにこの草、他の星では育たない、ごく稀に育つ事があっても発光成分を持たず、トラウンシュタインの草とは別物になってしまう。
つまり青く光るバッファローは惑星トラウンシュタインにしかいない。惑星トラウンシュタインは皇帝の直轄領となり、たとえ皇太子といえども皇帝の許しなく立ち入る事は禁じられることになった……。
さて、どう片を付けるかだな。真っ正直にバルツァー船長に当たっても無駄だろう。おそらくこの船からは雇い主に対して定時連絡が行っているはずだ。あるいは臨検を通告した時点で連絡が行ったかもしれない。
バルツァー船長は雇い主の救いを頼みに沈黙するだけだろう。雇い主も彼を救うためになりふりかまわないはずだ。事が公になれば身の破滅なのだ、何が何でも助けようとするに違いない。
面倒だな、いっそ無かった事にするか? 少々手荒いが、このままだとこっちの命が危ない。雇い主が誰かは知らないが、トラウンシュタイン産のバッファローの毛皮を見られたとなれば身の破滅だという事は百も承知だろう。身を護るために手段は選ばないはずだ。しかし後味が悪いな、他に手が無いものか……。
帝国暦484年 5月23日 交易船 パラウド アウグスト・ザムエル・ワーレン
コンテナを離れ、バルツァー船長達の元に戻った。バルツァー船長はまだ兵たちの前で“いずれ、思い知らせてやる”、“こんな事をしてただで済むと思うな”等と傲慢と言って良い態度で振舞っている。その一方で集められた乗組員達、十五人程は不安そうな表情で佇んでいる。
「バルツァー船長、コンテナから妙な物を見つけましたよ。御禁制のトラウンシュタイン産のバッファローの毛皮十枚。あれは一体どなたからの依頼ですか、教えていただけると助かるのですが」
ヴァレンシュタイン中佐の声にバルツァー船長は押し黙った、乗組員たちもだ。どうやら乗組員は積荷が何か知っていたらしい。兵士達は顔を見合わせているが不安そうな表情だ。変わらないのはヴァレンシュタイン中佐だけだ。穏やかな何処か楽しそうな表情をしている。
「知らんな、そんなものを積んだ覚えは無い。輸出申告書にも無い筈だ」
「ええ、有りませんでした。おかしな話ですね、無い物が有る」
仏頂面のバルツァー船長とは対照的に可笑しそうにヴァレンシュタイン中佐は話す。バルツァー船長は不愉快そうに顔を歪めた。
「言いがかりは止めてもらおう、無い物が有るはずが無い。見間違いだろう。それより我々を解放しろ、今なら未だ間に合う」
バルツァー船長は胸を反らして言い放った。バッファローの毛皮十枚が見つかっても少しも慌てる様子が無い。むしろ嘲笑の色合いが強くなっている。“今なら未だ間に合う”か、こちらには手に負えないだろうというのだろう。
「残念ですがそうは行きません。バルツァー船長、協力していただけないのなら貴方達には全員ここで死んでもらいます」
「!」
穏やかな声とは裏腹な物騒な内容に、船長も兵士も乗組員も皆がギョッとした表情になった。バルツァー船長が顔を真っ赤にしてヴァレンシュタイン中佐を怒鳴りつける。
「何を馬鹿なことを言っている。我々を全員殺すとはどういうことだ?」
ヴァレンシュタイン中佐は穏やかに微笑みながらバルツァー船長を見ている。ヴァレンシュタイン中佐、一体何を考えている?
「交易船パラウド号は海賊に襲われ、乗組員は全員死亡、積荷も奪われ、船は海賊の攻撃により跡形も無く爆発、そういうことです」
海賊? 海賊に罪を着せこの船を乗組員ごと抹殺しようというのか。
「馬鹿な、何を言っている。お前達が臨検しているという事はオーディンに知らせたのだぞ」
バルツァー船長も乗組員も皆顔を見合わせている。ヴァレンシュタイン中佐がどこまで本気か図りかねているのかもしれない。
「なるほど雇い主はオーディンですか、まあもうどうでも良い事ですが……。海賊は第一巡察部隊の名を騙ったのですよ、バルツァー船長。臨検と称してパラウド号に乗り込み貴方達を皆殺しにして積荷を奪った。本物の第一巡察部隊が来たときには海賊は既に立ち去りパラウド号の残骸しか残っていなかった。大変残念です」
「……ざ、残念だと」
「貴方の依頼主が誰かは知りません。しかし私達にあれを見られて黙っているほど御人好しだとも思えません。ですから貴方達には海賊に襲われた事にして死んでもらいます。貴方達の雇い主も海賊相手では仕方がないと諦めてくれるでしょう」
「待て、待ってくれ」
バルツァー船長が顔を青褪めさせ、幾分声を震えさせながら抗議した。そんな船長をヴァレンシュタイン中佐は微笑を浮かべて見ている。上手いものだ、脅しならもう十分だろう。
「ヴァレンシュタイン司令、いくらなんでもそれはやりすぎです。もう彼らも分かったでしょう。こちらの取調べに協力するはずです」
上手く押さえ役を出来ただろう、これで彼らも取り調べに協力するはずだ、そう思ったがヴァレンシュタイン中佐は冷笑を浮かべている。
「甘いですね、ワーレン少佐」
甘い、俺が甘いというのか? 確かにさっきの脅しはお見事だが、お前さん程甘くないはずだよ、中佐殿。
「あれは御禁制品なんです。皇帝陛下から下賜される以外貴族達があれを手に入れる手段はありません」
「それは分かりますが?」
「毛皮は十枚有りました。どんな有力貴族でもあの毛皮はせいぜい二、三枚しか所持していません。自分一人で十枚も持てば密猟がばれ、取り潰されますよ」
「……」
いつの間にかヴァレンシュタイン中佐の顔から冷笑は消えていた。
「あれは賄賂のためです。贈り物として用意したか、あるいは要求されたか……」
「要求された……」
「雇い主はあれを賄賂として使う必要が有る有力貴族です。閣僚か、それとも軍人、あるいは官僚としてのポストを欲しがっているのでしょう。賄賂の送り先はポストを用意できるだけの実力者のはずです……」
中佐が眼で俺に問いかけて来る。分かっているのか、危険なのがと。
「……」
「それにこの件は宮内省も絡んでいますよ、ワーレン少佐」
「宮内省ですか?」
近づきつつ小声で話しかけてくる中佐に俺も思わず声が小さくなった。
「惑星トラウンシュタインは皇帝陛下の直轄領です。つまり管理しているのは宮内省。宮内省の許可無しには密猟どころかトラウンシュタインに近づくことさえ出来ません。宮内省でもかなり上の人物が絡んでいます」
「……」
ヴァレンシュタイン中佐がチラリとバルツァー船長を見た。俺も釣られて船長を見る。船長は顔を引き攣らせ、俺と視線を合わせそうになると慌てて逸らした。中佐との話の内容が聞こえたのだろうか?
「この事件、何処まで根が広がっているか見当も付きません。彼らは何が何でもこの事件を握り潰そうとするでしょう、事が公になれば破滅するのは彼らなんです。この船の乗組員はそれを知っている、だから喋りません」
「……」
「もしかするとあの毛皮の送り先の有力者には帝国軍三長官も含まれているかもしれませんよ、ワーレン少佐。となると事件を揉み消すのはさして難しくない、それどころか事件を摘発した我々は政府、軍、貴族、その全てを敵に回すことになります」
「まさか、そんな事が」
否定しようとした俺に対しヴァレンシュタイン中佐は首を振りながら反論した。
「軍人がサイオキシン麻薬の製造から密売までやる時代です。何が有ったって不思議じゃありません。私達は出世どころか命も危ない、海賊の所為にして全部まとめて始末したほうが安全です」
「しかし……」
しかし、いくらなんでも乗組員全員を殺す事など許されることだろうか? 確かに彼らは犯罪者だ。しかもかなりの有力者が後ろについているとなれば、このまま逮捕しても誰も何も喋らないだろう。事件は有耶無耶のままに終わるに違いない。
そして我々は危険な立場に追いやられるかもしれない。自分だけなら迷う事は無い、しかし、部下たちがいる。彼らを危険に晒してよいのだろうか? 中佐の言う事が正しいのだろうか? 海賊の仕業にして全員を殺してしまうべきなのだろうか?
「未だ納得していただけないようですね、ならば一人だけならどうです?」
「一人だけ?」
悩んでいる俺にヴァレンシュタイン中佐が溜息交じりに提案してきた。
「ええ、ある人物に全てを押し付けるんです。取調べを行なったが何も喋らずに自殺した人間がいる。他の乗組員は何も知らない、どうやら自殺した人間が全てを知っていたようだと……」
「それは……」
「当然その人物はそれなりの地位にいる人物になりますね」
ヴァレンシュタイン中佐はバルツァー船長を見た。俺も釣られるように彼を見る。そこには不安そうに我々を見るバルツァー船長が居た。
巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令 (その4)
帝国暦484年 5月23日 交易船 パラウド アウグスト・ザムエル・ワーレン
「当然その人物はそれなりの地位にいる人物になりますね」
ヴァレンシュタイン中佐はバルツァー船長を見た。俺も釣られるように彼を見る。そこには不安そうに我々を見るバルツァー船長が居た。
「何だ、一体、何故俺を見る? 俺をどうするつもりだ」
「いえ、ワーレン少佐が乗組員全員を殺すのは嫌だと言うのですよ。ですから誰か一人に全ての罪を背負って死んで貰おうと言っているんです」
微笑みながら話すヴァレンシュタイン中佐にバルツァー船長はぎょっとした表情になった。
「おい、それはまさか……」
「ええ、地位から言ってバルツァー船長、貴方になりますね。他の人では誰も納得しません」
「ちょっ、ちょっと待て」
「乗組員の人も口裏を合わせてくれますよね。バルツァー船長は臨検の最中に御禁制品が見つかったことで突然自殺した。その積荷はバルツァー船長がトラウンシュタインから持ってきたもので自分達は何も知らない。バルツァー船長は積荷に自分達が近づくことさえ許さなかったと」
バルツァー船長は慌てて乗組員の方を見たが、乗組員達は皆バルツァー船長と視線を合わせようとしない。
「おい、お前達、俺を裏切るのか」
「誰だって死にたくありませんからね、仕方ないでしょう。それより自殺の方法はどうしましょうか? 此処を血で汚したくありませんし、いきなりの事で防げなかったという事にしなければならない。バルツァー船長、どんな形で死にたいですか?」
「冗談は止めろ、そんな事が許されるのか」
引き攣ったような声でバルツァー船長が抗議したがヴァレンシュタイン中佐は少しも気にしなかった。
「貴方が自殺してくれれば、皆納得してくれるのですよ。貴方の雇い主もこちらが事件を真剣に調べるつもりが無いと判断するはずです。腹は立つかもしれないが、自分の身が安全だとは理解するでしょう。そうなればこちらに対しても必要以上に報復をしてくることも無い、そうでしょうワーレン少佐」
同意を求めないでくれ、大体俺は一人を犠牲にするという考えにも納得したわけじゃない。だがここで反対するのは得策じゃない、沈黙するしかないが、バルツァー船長からは同意しているように見えるだろう。中佐殿、確かに俺は甘いよ、認める、だがお前さんは悪辣だよ……。
「……」
「ふ、ふざけるな、そ、そんな事が、ゆ、許されると思っているのか」
完全に声が裏返っていた。そんなバルツァー船長をヴァレンシュタイン中佐は冷笑を浮かべながら見ている。
「許されますよ、バルツァー船長」
「!」
「軍隊という所は上意下達、上の命令は絶対なんです。第一巡察部隊の司令は私です。つまり私の命令が最優先で実行される」
バルツァー船長は口を魚のようにパクパクさせている。何か言いたいのだろうが、何を言って良いか分からないらしい。ヴァレンシュタイン中佐はそんなバルツァー船長の様子を見ながら、そばに居た兵士に声をかけた。まだ若い、年齢は十代後半ぐらいだろうか。
「貴官の名前は?」
「ヨ、ヨハン・マテウス二等兵です、ヴァレンシュタイン司令」
緊張するマテウス二等兵にヴァレンシュタイン中佐は柔らかく微笑みかけた。
「マテウス二等兵、私はバルツァー船長が嫌いなのですが、貴官はどう思います?」
「は、はい、小官も嫌いであります」
バルツァー船長の顔が歪むのが見えた。
「気が合いますね、マテウス二等兵。名前と顔はしっかりと覚えましたよ」
「はっ、有難う御座います」
「ところで、私はバルツァー船長は死ぬべきだと思っているのですが貴官はどう思います?」
バルツァー船長がギョッとした表情になった。飛び出さんばかりに眼を見開いてマテウス二等兵を見ている。マテウス二等兵は顔面蒼白で助けを求めるかのように俺を見た。
「ワーレン少佐が気になりますか、マテウス二等兵。大丈夫ですよ、ワーレン少佐はもう直ぐ昇進して異動です。遠慮せず、本当の事を言ってください」
ちょっと待て、どういう意味だ。まるで俺に遠慮して本音が言えないように聞こえるじゃないか。
「ヴァレンシュタイン司令」
少し冗談が過ぎます、そう言おうとした時、中佐が手を上げて俺を制止した。そして困ったような表情で話しかけてきた。
「何をそんなに怒るんです、ワーレン少佐。この宇宙から犯罪者が一人消え、我々の安全が確保される。少佐も安心してこの先過ごせる、そうじゃありませんか?」
「……」
確かにそうだ、この先安心して過ごせるだろう。だが安らかに過ごせるだろうか、罪悪感から無縁で居られるだろうか……。俺の葛藤を他所にヴァレンシュタイン中佐はバルツァー船長に話しかけた。
「貴方が死ななければならない理由はもう一つあるんです」
「もう一つ? 何だ、それは? 言ってみろ」
「もうひとつの理由は、先程も言いましたが貴方が嫌いな事です」
「はあ?」
間の抜けた声がバルツァー船長の口から漏れた。信じられないといった感じだ。
「私は貴族が嫌いなんです。特に自分のことしか考えない身勝手な貴族がね。それと貴方のように貴族の手先になって犯罪を犯すクズどもが虫唾が走るほどに嫌いなのですよ」
「馬鹿な、何を言っている、嫌いだから俺を殺すというのか?」
ヴァレンシュタイン中佐がブラスターを取り出した。無表情にバルツァー船長を見ている。普段の中佐からは考えられない冷たい表情だ。
「殺しません、麻痺させて船の外に放り出してあげます。臨検中にいきなりエアハッチを開けて外に飛び出した、覚悟の自殺です」
「ちょ、ちょっと待て、話す、全部話す、だから……」
「必要有りません」
「……」
“必要有りません”、その言葉にバルツァー船長は驚いたように中佐を見ている。その様子が可笑しかったのか、中佐は先程までの無表情を捨てクスクスと笑い始めた。
「迷惑なんですよ、今更話されても。私の楽しみを奪うんじゃない」
笑いながら話す中佐に周囲が凍りついた。
「止めろ、俺には家族が居るんだ、妻と娘が」
「直ぐ会えますよ、ヴァルハラで」
「!」
呆然として中佐を見詰めているバルツァー船長にヴァレンシュタイン中佐は笑いながら哀れむような視線を向けた。
「貴方の雇い主がヴァルハラで一人では寂しいだろうと直ぐ家族を送ってくれますよ、 心配要りません」
「そんな、馬鹿な」
「生き残った乗組員に対する警告にもなりますからね。失敗すればどうなるか……。納得しましたか? バルツァー船長」
嘲笑混じりに話す中佐にバルツァー船長は頭を抱えた。そして呻き声を上げながらその場に蹲る。
「頼む、助けてくれ。全部話す、だから殺さないでくれ、家族を助けてくれ、頼む」
顔を上げたバルツァー船長は泣いていた。縋るような表情でこちらを見てくる。
うんざりした。さっきまで傲岸に振舞っていた男が今は泣いて縋り付いてくる。ヴァレンシュタイン中佐も同感だったのだろう、呆れたような表情をしている。
「興が冷めました。ワーレン少佐、後はお任せします」
「よろしいのですか?」
「少佐はバルツァー船長を殺すのに反対なのでしょう。幸い全部話すと言っています。調書を取ってください」
その言葉にバルツァー船長が喜色を浮かべてこちらを見た。
「少佐、その男が供述を渋るような事があれば言ってください。いつでも自殺させて上げます。よろしいですね」
「はっ」
ヴァレンシュタイン中佐はバルツァー船長を一瞥すると、足早に倉庫を後にした。
帝国暦484年 5月23日 巡航艦 ツェルプスト エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
交易船パラウド号からツェルプストの艦橋に戻ると直ぐにオーディンに居るケスラーに連絡を取った。この件は大事件になる、捜査は憲兵隊が引き継ぐ事になるだろうがしっかりした人物に引き継いでおかないと有耶無耶になりかねない。
俺はバルツァー船長の言葉を全面的に信じているわけではない。海千山千の犯罪者なのだ。彼らの強かさを甘く見るのは危険だ。殺されると思って芝居をした可能性が有る。今頃はワーレン相手に嘘をペラペラ喋っているかもしれない。
「やあ、ヴァレンシュタイン中佐、久しぶりだな」
「お久しぶりです、ケスラー大佐。お元気そうで何よりです」
「有難う、ところで何の用だ。挨拶が目的じゃないだろう」
穏やかな表情でケスラーが問いかけてきた。こういう実務優先の姿勢が俺は嫌いじゃない。ウルリッヒ・ケスラー、いい男だよな、頼りになるし。上司に持つならこんな男が良いだろう。
ロリコンだって欠点じゃない、俺は十分許容できる。間違ってもロイエンタールなんかは上司に持っちゃ駄目なタイプだ。部下を道連れにして破滅だぜ、酷い上司だよ。おまけに女の趣味も良くない。エルフリーデとか最悪だ。
「今、第一巡察部隊の司令をしています」
「知っている、とんだ貧乏くじだな。サイオキシンの呪いか」
全くだ。サイオキシンは祟る、俺の場合はイゼルローンの件も有るからな、祟りまくっている。
俺は地方のドサ回りなのにケスラーはオーディンの憲兵隊から動いていない。よっぽど政治力があるのだろう、うらやましい限りだ。まあ救いはドサ回りが嫌いじゃないことか……。
「良い御守りが有ったら教えてもらえますか? また妙な事件に巻き込まれました」
「妙な事件? 脅かすな、一体何が有った?」
「交易船パラウド号を臨検したのですが、トラウンシュタイン産のバッファローの毛皮、十枚を発見しました」
「!」
一瞬だが沈黙があった。スクリーンからでもケスラーが息を呑んでいるのが分かる。やばい、地雷を踏んだかと思っていると、クスクスとケスラーが笑い始めた。
「また、とんでもないものを持ち込んできたな、中佐」
「御守り、教えてもらえますか?」
「諦めるんだな、卿の役に立つ御守りなど有るものか」
そう言うとケスラーは爆笑した。俺も釣られて笑い出す。笑い事じゃないんだが。
一頻り笑った後、ケスラーが問いかけてきた。
「裏に居るのは誰かな、十枚となると賄賂用だろう」
「今それを確認しています。問題は協力者です。何処まで広がっているか……」
「宮内省に協力者が居る事は間違いないだろう。他に何か情報は無いのか?」
話が早い、さすがは未来の憲兵総監だ。ワーレンじゃこうは行かない、彼は実戦指揮官だからな。
「パラウド号の航行記録を調べました。あの船はオーディンとフェザーンを往復しているのですが惑星トラウンシュタインには行きも帰りも寄っていません」
「……データを改竄した可能性は?」
「分かりません、こちらではそれ以上は確認できませんでした」
「……フェザーンが絡んでいると言いたいのか」
「元々フェザーンとトラウンシュタインの間で密輸をしていたのかもしれません。パラウド号の雇い主はそれを知り宮内省、フェザーンに話をつけ、パラウド号をフェザーンに出した」
「……」
「フェザーンは交易で成り立っています。当然ですが税関は厳しい。フェザーンで出港前に作成した輸出申請書には毛皮は載っていませんでした。もちろん御禁制品です。申請書に載せた時点で問題になったでしょう。しかしフェザーンで毛皮を入手したのだとすれば、税関のチェックをすり抜けた事になります。偶然か、それとも必然か」
「トラウンシュタインからフェザーン、フェザーンからオーディン。御禁制品を二度見逃したか。卿の言うとおり確かに怪しいな」
ケスラーが考え込みながら言葉を出す。
「ケスラー大佐、あの毛皮、反乱軍に売った場合、どのくらいの値がつくと思います?」
「想像もつかんよ。だが確かに帝国内で売るより反乱軍に売った方が安全だな」
「?」
「分からないか。帝国でこそ御禁制品だが、向こうではそうじゃないだろう。誰が持っていても問題は無い。それに帝国にはそれを確認する方法も処罰する方法も無い」
なるほど、確かにそうだ。あの毛皮を金儲けに利用しようとした人間は帝国内で売るのは危険だと考えた。そして安全な自由惑星同盟で売る事を思い付いたのだ。となればフェザーンが絡むのは必然という事だろう。
「ケスラー大佐、この件、御預かり願えますか?」
「嫌だと言ったら?」
「海賊に襲われたという事にして、船も乗組員も皆木っ端微塵にします」
ケスラーは一瞬俺の顔を見た後、大爆笑した。
「分かった、引き受けよう。卿なら本当にやりかねないからな」
「……」
冗談なんだけどね。まあ引き受けてくれたから良いか。
帝国暦484年 7月 5日 オーディン 軍務省尚書室 グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー
「軍務尚書、戻っておられたか」
「つい今しがたな」
「それで?」
「お褒めの言葉を頂いた」
お褒めの言葉を頂いた、その割には軍務尚書は余り嬉しそうではない。まあ、理由が理由だけに無理も無いのだが。
一月半ほど前、第一巡察部隊がある交易船を臨検した。その際、御禁制品であるトラウンシュタイン産のバッファローの毛皮、十枚を発見、押収した。第一巡察部隊は憲兵隊に証拠品及び乗組員を引き渡し、それ以後の捜査は憲兵隊が行なう事になった。
皇帝の私財を盗もうとした人間が居る。憲兵隊は慎重に捜査を進め、その結果ビーレフェルト伯爵が捜査の線上に上がった。だが伯爵は取調べを受ける前に自殺した。
事件そのものもビーレフェルト伯爵が死んだ事で尻すぼみに終わろうとしている。彼が毛皮を誰に贈ろうとしたのか、毛皮を手に入れるために誰と交渉したのかが分からなくなったからだ。
惑星トラウンシュタインでは三人の宮内省職員が姿を消した。おそらく反乱軍に亡命したのだろうといわれているが、一方で殺されたのだという噂もある。真実は分からない。
オーディンではビーレフェルト伯爵は自殺に追い込まれた、あるいは何者かに謀殺されたとの噂が流れている。その謀殺した人間こそが毛皮を贈ろうとした人間、あるいは交渉した人間だとして様々な名前が囁かれているのだ。その中には我々の名前も挙がっている、不愉快な事だが。
だがもっと恐ろしい噂もある。ビーレフェルト伯爵を三人の宮内省職員を謀殺したのは皇帝の闇の左手だという噂だ。捜査が尻すぼみに終わろうとしているのも皇帝の密かな内意が憲兵隊に伝えられたからだとも……。
~皇帝はこの事件を大きくすることを望んではいない。ビーレフェルト伯爵を、三人の宮内省職員を誅殺したことで事件に関与したものに対して十分に警告を与えた。それで十分だと考えている~
本当かどうかは分からない。軍務尚書は憲兵隊に確認はしなかった。たとえ本当だとしても憲兵隊が事実だなどというはずが無い。確認するだけ無駄だ。
だが自分の知らないところで何かが動いている、そんな疑惑が軍務尚書を不機嫌にさせている。
「謁見室には私のほかに宮内尚書、内務尚書が呼ばれた」
「宮内尚書は分かるが内務尚書は何故?」
「警察もあの船を臨検していたのだがな、船長に脅され碌に調査もせずに引き下がったそうだ。取調べで船長が言ったらしい、警察は大した事が無かった、だからつい軍も甘く見てしまったと」
「なるほど、宮内尚書も内務尚書も御叱りを受けたという事か」
私の言葉に軍務尚書は頷いた。
「陛下は軍は良くやっている、それに比べてと仰られた」
「それは……」
思わず失笑した。それでは宮内尚書も内務尚書も立場が無い。
「笑い事ではないぞ、ミュッケンベルガー元帥。内務尚書は噛み付きそうな顔で私を睨んでいたのだ。サイオキシンに続いて二度目だからな、軍にしてやられるのは」
「軍の勢威が上がるのは良い事だと思うが?」
「必要以上に恨みを買う事は無い。巡察部隊など形だけのはずだったのだ。内務尚書もそれを知っていたからこそ不愉快には思っても反対はしなかった。そういう約束だったからな、それなのに、あの小僧めが」
愚痴をこぼすような軍務尚書の口調に私はまた失笑した。軍務尚書が私を睨むがこればかりは止められそうも無い。
「それで、彼をどうするのかな」
「昇進させる。当然だろう、陛下の財産を盗賊から守ったのだから」
「……」
「ミュッケンベルガー元帥、帝国軍三長官にはトラウンシュタイン産のバッファローの毛皮が下賜される」
「バッファローの毛皮? それは」
「第一巡察部隊が押収した毛皮だ。今回の一件に対する陛下からの軍に対する褒賞だ。我々だけが褒賞を受ける事は出来ん」
面白くもなさそうな口調だった。本当ならバッファローの毛皮を頂くことは名誉な事なのだが素直に喜べないのだろう。もっともそれは私も同じ思いだ。全く厄介な小僧だ。
「ヴァレンシュタイン大佐か、それにしても昇進が早いな」
軍務尚書が少し眉を寄せながら答えた。
「うむ、少し早すぎる、本人のためにもなるまい。昇進は十月の人事異動に合わせて行なうつもりだ」
嫌がらせでは有るまい。ヴァレンシュタインは今年の初めに中佐になった。未だ半年も経っていない、いや去年の今頃は未だ大尉になったばかりだったはずだ。確かに本人のためにはならないだろう。
「それまでは?」
「このまま、第一巡察部隊に置いておく」
「よろしいのかな、そのままにして。また面倒を引き起こさんとも限らんが」
いっそ、兵站統括部にでも戻したほうが良くは無いか、そんな思いで軍務尚書に視線を向けたが、軍務尚書は冷笑を湛えたまま言い放った。
「今回の一件であの小僧が猛犬である事は皆が知った。オーディン周辺の番犬にはちょうど良かろう。それでも犯罪を犯すような阿呆はあの小僧に噛殺されれば良いのだ」
「なるほど、番犬か。軍務尚書も上手い事を言われる。となると飼い主は軍務尚書という事かな」
「あんな言う事を聞かぬ犬など私は知らん。冗談でも許さんぞ、ミュッケンベルガー元帥」
唇を捻じ曲げて抗議する軍務尚書に私は今日、三度目の失笑を漏らした。全く持って厄介な小僧だ。
御落胤 (その1)
帝国暦 487年9月 30日 オーディン 新無憂宮 ライナー・フォン・ゲルラッハ
最近、皇帝フリードリヒ四世陛下は謁見を精力的にこなしている。以前は二日酔いで午後から謁見を行なう事もあったが、最近では遅くとも朝九時には執務室に入り執務を行い、謁見をこなす。
謁見には真実大切な用件が有って来る者もいるが、ただ単に皇帝に顔を覚えてもらうために謁見室に来る者も居る。以前はその手の謁見者は余り居なかった。陛下が政治に無関心なため覚えてもらっても意味がないと考えたらしい。
しかし、最近ではその手の謁見者が増えてきた。陛下が精力的に執務をこなすため、顔を覚えてもらえばそれなりの旨味があると考える貴族増えたらしい。
謁見者が多いか少ないかは皇帝が名君か凡君かを測るバロメータになる。名君であれば謁見者は増えるし、凡君であれば誰も期待しないため謁見者は減る。陛下は徐々にではあるが凡君として侮ってよい存在ではないと貴族たちに思われているようだ。
謁見室には必ず尚書が二名、上級大将以上の武官が二名同席することが定められている。今日は文官は私とリヒテンラーデ侯、武官はクラーゼン元帥、ラムスドルフ上級大将が謁見に立ち会う。
その他に女官が五名、執務室で待機する。彼女たちは私達の飲み物、食事の用意、その他細々とした雑務を手伝う事が義務付けられている。
この謁見に立ち会うのは結構大変だ。陛下は椅子に座っているが、我々は立っていなくてはならない。若いならば良いが、年を取ってからは辛い。時折休憩を入れながら謁見をこなす事になる。
ようやく一人謁見が終了した。こいつは自領の川が増水で溢れたと言ってきた。政府に河川工事と見舞金をお願いしたいと……。
ふざけるな! 税金を取っていないのだから自分でやれ! お前みたいなクズが帝国を駄目にしたのだ。リヒテンラーデ侯も同感だったのだろう。彼の願いはにべも無く却下された。ざまーみろだ……。いかん、最近過激になってきた。
いや、それでもヴァレンシュタインに比べれば大人しいほうだ。違う! 彼と比べてどうする。あの男と比べればみな大人しく見えるだろう。
「次の謁見希望者は誰じゃな」
「はっ、ヒルデスハイム伯でございます」
「ふむ、珍しいの」
陛下とリヒテンラーデ侯が言葉を交わした。ヒルデスハイム伯か、確かに珍しい。だが珍しいからといって歓迎できる相手でもない。こいつもどうしようもないアホ貴族の一人だ。一体何の用だ?
「陛下におかれましてはご機嫌麗しく、ヒルデスハイム、心より……」
ヒルデスハイム伯はひざまづくや大袈裟にジェスチャーを入れて挨拶を始めた。陛下は苦笑しているし、リヒテンラーデ侯は苦虫を潰したような顔をしている。
クラーゼン、ラムスドルフは不機嫌そのものだ。ヒルデスハイム伯、空気を読んでさっさと本題に入れ。だがこいつの挨拶は無駄に長かった。アホ貴族ほどナルシストで空気を読むことが出来ない。困ったものだ。
「ヴァレンシュタイン元帥のことでございます」
「元帥がどうかしたかな」
「お叱りを覚悟でお尋ねいたしますが、元帥は陛下の御血を引いてはおりませんでしょうか?」
アホ貴族は挨拶をようやく終えたと思ったらとんでもない事を言ってきた。執務室に沈黙が落ちる。何を言った? 元帥が陛下の血を引いている? つまりなにか、陛下の隠し子? そういうことか。
陛下は苦笑し、リヒテンラーデ侯は溜息を吐いた。クラーゼン、ラムスドルフは冷たい眼でヒルデスハイム伯を見ている。要するにあれか、平民である元帥に対して陛下の御信頼が厚いから、本当は隠し子ではないかという事か……。際限の無いアホだな、だんだん疲れてきた。
「面白いの、元帥が予の息子という事か。予が外で作った子という事じゃな。自慢の息子じゃ、良くぞ作ったと言うところかの」
「陛下、御戯れはなりませんぞ。ヒルデスハイム伯、たわけた事を申すな、控えよ」
上機嫌な陛下とヒルデスハイム伯に対して、リヒテンラーデ侯が不機嫌さを押し殺した声で注意した。最近の陛下は闊達と言うか、臣下の突拍子も無い話を面白がる所がある。しかし、御血筋の問題となれば、皇位継承にも関わる。ふざけてよい話ではない。
「良いではないか。ヒルデスハイム伯、何ゆえそのような事を考えたのじゃ」
「はっ、元帥の母方の祖父がはっきりしませぬ。それゆえ或いはと愚考いたしました」
まさしく愚考だ。お前などヨルムンガンドに食われてしまえ。そのくらいしか役に立つまい。
「なるほど、予の息子ではなく孫か……。予も品行方正とは言えぬ、若い頃は無茶もした。孫の一人くらいおってもおかしくないの。で、元帥の祖母の名はなんと言うのじゃ、予の知っておる娘かの」
陛下は楽しそうにヒルデスハイム伯に問いかけた。リヒテンラーデ侯は仕方ないと言ったような表情でこちらを見てくる。確かに仕方が無い、こうなったら陛下のお遊びに付き合うしかない。
「されば、フレイア・ラウテンバッハと言う名に御憶えは御座いましょうか」
「……」
「?」
ヒルデスハイム伯の質問に対し陛下は沈黙している。先程までの上機嫌な表情は消え、何処と無く困惑したような表情がある。どういうことだ、まさか、本当に憶えがあるのか? 思わず、リヒテンラーデ侯を見た。侯は陛下の顔をじっと見ている。
「陛下、御戯れはなりませんぞ」
リヒテンラーデ侯が低い声で陛下に注意した。なるほど、陛下の御戯れか、それなら分かる。だが陛下はその声に注意を払うことなく躊躇いがちに声をかけた。
「ヒルデスハイム伯、フレイア・ラウテンバッハとは、テオドール・ラウテンバッハの娘か?」
「!」
執務室に緊張が走った。リヒテンラーデ侯、クラーゼン元帥、ラムスドルフ上級大将と顔を見合わせる。皆信じられないと言った表情だ。まさか本当に憶えがあるのか? 元帥は本当に陛下の血を引いているのだろうか?
フレイア・ラウテンバッハの名を聞いてから、陛下は何処と無く困惑した表情を隠そうとしない。どういうことだろう、憶えはあるが、納得はしていない、疑問が有る、そういうことだろうか。
「答えぬか、ヒルデスハイム伯」
「し、臣には、分かりかねます」
「そちは調べたのではないのか?」
陛下は先程までの困惑した表情を捨て、強い口調でヒルデスハイム伯を問い詰めた。
「も、申し訳御座いませぬ、其処まで詳しくは……」
「誰なら分かるのじゃ?」
「ブ、ブラウンシュバイク公なら、あるいは」
「呼べ! ブラウンシュバイク公を呼ぶのじゃ、ヴァレンシュタインも呼べ」
その声とともに転げ出るようにヒルデスハイム伯が執務室から逃げ出した。考え込んでいる陛下にリヒテンラーデ侯が戸惑いながらも声をかけた。
「陛下、その女性に心当たりが御有りなのですな?」
「似ておる、確かにフレイアに似ておる、じゃが流産したと聞いた、違うのか……」
リヒテンラーデ侯の問いにも答えず、陛下は呟いた。しかし、流産?
「あれは、予の孫なのか、エーリッヒ、エーリッヒか……、そうか、そういうことか、危ういと見たか……」
陛下は低く呟きながら、考え込んでいる。私は、いや、私以外の人間も全て、口を開く事が出来ず、ただ何度も顔を見合わせ、陛下を見つめ続けた。
足早に近づく音と、太い声が聞こえた。
「ブラウンシュバイク公だ、陛下のお召しと伺った」
「入るが良い、ブラウンシュバイク公」
陛下の声が発し終わると共に、ブラウンシュバイク公が執務室に入ってきた。少し息が切れている。急いできたのだろう。
「挨拶は無用じゃ、公に椅子を与えよ、水もじゃ」
陛下の声とともに、女官が椅子と水を用意した。ブラウンシュバイク公は水を飲み干すとグラスを女官に渡し、挨拶をしようとしたが、陛下に無用と苛立たしげに止められ椅子に座らせられた。
公が椅子に座るのも待ちきれぬように陛下が問いかけた。
「ブラウンシュバイク公、フレイア・ラウテンバッハを知っておるか?」
「はっ。存じておりまする、ヴァレンシュタイン元帥の母方の祖母に当たりまする」
陛下はブラウンシュバイク公の答えに大きく頷くと身を乗り出して公に問いかけた。
「フレイアの父の名はテオドールか」
「! 陛下には御存知であられますか」
「そうか、では間違いなくあのフレイアなのじゃな……。公よ、フレイアの娘は何時生まれた、四百四十一年ではないか?」
部屋の中に痛いほどの緊張が走った。もしそうなら、元帥は陛下の孫と言うことになる。しかし、本当にそうなのか?
「四百四十一年でございます」
「……。そうか、間違いない、予の娘じゃ」
その瞬間、部屋の中にざわめきが起きた。顔を見合わせるもの、小声で呟くものがいる。リヒテンラーデ侯は首をしきりに振っていた。
「恐れながら陛下、陛下は当時、御歳十七歳かと存じますが?」
「そうじゃ、予がフレイアと出会ったのは十六の時じゃった、それがどうかしたか、ブラウンシュバイク公よ」
その言葉を聞くとブラウンシュバイク公は言いづらそうに言葉を続けた。
「陛下、フレイア・ラウテンバッハの傍には40代の男が居たそうです。その娘は陛下の御息女ではなく、その男の……」
「グリンメルスハウゼンじゃ」
「!」
「その男はグリンメルスハウゼンじゃ。あの男は予とフレイアの事を知っておった。予に頼まれてフレイアの様子を見ていたのじゃ」
「……」
ブラウンシュバイク公は陛下を見たまま絶句している。グリンメルスハウゼン、陛下の侍従武官として常に陛下の傍近くに居た男。その男が若い二人を見守っていた……。
「ブラウンシュバイク公、娘の名はヘレーネじゃな」
「はい」
「娘ならヘレーネ、男ならエーリッヒ、予が決めた名じゃ。そうか、孫につけたか……」
そう言うと陛下はじっと目を瞑った。かつての若い日々の事を思い出しているのだろうか。四十年以上前のことを。リヒテンラーデ侯が躊躇いがちに陛下に問いかけた。
「陛下、先程流産と聞きましたが、それは?」
「グリンメルスハウゼンが、フレイアが流産したと言ったのじゃ」
呟くように陛下が答えた。
「何故、そのようなことを」
ラムスドルフ上級大将の問いに陛下は哀れむような視線を向けた。
「そちも分からぬか……、当時の予もフレイアに夢中で分からなかった。今なら分かる、ようも予を騙しおった……」
「……」
「皇族が名も無い平民の娘を愛する。そのような事を父オトフリート五世が許すと思うか? 兄リヒャルト皇太子、弟のクレメンツが認めると思うか?」
「……」
「アンネローゼでさえ爵位も持たぬ下級貴族と蔑まれるのじゃ。平民のフレイアがどのように扱われるか、その方らも想像がつくであろう」
「……」
「到底許されまい。母娘ともに殺されよう。あのまま予がフレイアを愛し続ければ、必ず何処かで皆に知られたじゃろう。今なら分かる、グリンメルスハウゼンはそれを恐れたのじゃ」
そう言うと陛下は遣る瀬無げに首を振った。確かに陛下の言うとおり、フレイア親子の命は無かっただろう。グリンメルスハウゼンが隠したから親子は生き延びた。
だがヘレーネは夫、コンラートと共にカストロプ公に殺されている。陛下はそのことをどうお考えなのだろう。それとも未だそこまで考えが行き着かないのか。
そしてヴァレンシュタインは自分が陛下の孫だと知っているのだろうか……。その上で改革を唱えているのだろうか……。もし、ヴァレンシュタインが陛下の孫だと正式に認められれば帝国の皇位継承はどうなるのだろう……。
御落胤 (その2)
帝国暦 487年9月 30日 オーディン 新無憂宮 ライナー・フォン・ゲルラッハ
「フレイア・ラウテンバッハは暮らしをどのようにして立てていたのでしょう? グリンメルスハウゼン子爵が援助していたのでしょうか」
私の問いに陛下が答えた。
「フレイアの父は交易船を使って相当な財産を持っておった。予とフレイアが出会った時は、既に死んでおったがフレイアが生活に困るような事は全く無かった」
「……」
ブラウンシュバイク公が陛下の言葉に頷く。陛下の言葉に嘘は無いようだ。
「国務尚書、ヘレーネは死んだのじゃな」
「……」
陛下の声にリヒテンラーデ侯は答えることが出来なかった。周りの人間も皆顔を伏せている。
リヒテンラーデ侯に答える事は出来ないだろう。ヴァレンシュタイン夫妻を殺したのはカストロプ公だった。だがそれを処罰せずにリヒテンラーデ侯は放置した、贄として育てるために。
本当ならもっと前にカストロプ公を処罰する事も出来ただろう。そうであればヴァレンシュタイン夫妻は死なずに済んだかもしれない。
リヒテンラーデ侯があの二人を殺したとは言わない、しかし責任の一端はリヒテンラーデ侯にもあり、カストロプ公のような人間を安定のために利用しなければならない帝国にもある。
「そちの所為ではない、気にするな」
「恐れ入りまする」
「ヘレーネはどのような娘であった? 誰か知る者はおらぬか?」
沈黙が落ちた。当たり前の話だが彼女を知る人間など此処にはいない。平民の司法書士などに関心を持つ人間は居ないだろう。
「誰も知らぬのか……。予はあれの髪の色、瞳の色、背丈、何一つ知ることも出来ぬのか……。皇帝など無力なものよな……」
陛下の声には自嘲の響きがある。久しく聞かなかった声だ。
「陛下、マリーンドルフ伯が知っておるやもしれませぬ」
「財務尚書、マリーンドルフ伯は謁見のために並んでおる。直ぐ呼んではどうかな」
私の言葉に、ブラウンシュバイク公が反応した。陛下を見ると、静かに頷き、その姿に女官が動き出す。
「あれは、知っておるのかの。予の孫だという事を」
「……」
「貴族にしようなどとあれにとっては笑止なことであろうな。予が皇族であるがゆえにヘレーネは認知されなかった。身分などに囚われる事がどれほど愚かしい事か……。それゆえ平民だと言い張ったか……」
陛下の呟くような言葉に誰も答えることが出来ない。いや、大体答えなど求めているとも思えない。しかし、本当にヴァレンシュタイン元帥が陛下の孫ならどうなるのだろう。
陛下の御子は全て皇女しか生存していない。しかも臣下に降嫁している。生まれた子は皆女子だ。男子で生きているのは皇孫エルウィン・ヨーゼフ殿下とヴァレンシュタイン元帥。
エルウィン・ヨーゼフ殿下には有力な後見はいない。おまけに未だ幼く政治など自分ではできない。後見に付くとすればリヒテンラーデ侯だが、それは外戚に政治を自由にさせることを恐れたためだった。
もしヴァレンシュタイン元帥が皇族と認められた場合、それでもエルウィン・ヨーゼフ殿下の後見につくだろうか? そうではあるまい、むしろ元帥とともに前へ進むのではないだろうか?
ブラウンシュバイク公も自分だけが椅子に座っている事に気が引けたのだろう。立ち上がり、椅子を女官に片付けるように指示を出した。
「マリーンドルフ伯、参りました」
「おお、伯か、そちに聞きたいことが有る」
足早に謁見室に入り、ひざまづいたマリーンドルフ伯に対し陛下が尋ねた。
「ヘレーネ・ヴァレンシュタインを知っておるな、どのような娘であった?」
「娘? 彼女はヴァレンシュタイン元帥の母親ですが……」
「似ておるのか?」
マリーンドルフ伯は陛下の問いに困惑しながら答えている。
「髪の色、眼の色は違いますが、それを除けばよく似ています」
「そうか、髪の色は金、眼は青じゃな」
「はい」
「ヘレーネはフレイアに似たのじゃな。一度でよい、この腕に抱き締めてやりたかった……」
陛下の言葉に女官たちの間ですすり泣く声が聞こえた。
「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン、火急のお召しと聞きました」
「エーレンベルク軍務尚書だ、御免」
「シュタインホフ統帥本部総長、入るぞ」
「ラインハルト・フォン・ローエングラム、入ります」
帝国軍三長官が来た、それにローエングラム伯も。呼んだのはヴァレンシュタイン元帥だけのはずだ、例の改革の件でトラブルが起きたと勘違いしたか。陛下は入ってきた四人を見ると驚いたようだったが、直ぐヴァレンシュタイン元帥を手招きして呼び寄せた。
「おお、ヴァレンシュタイン、いや、エーリッヒ、ここへ」
「はっ」
陛下は不審そうな表情で近寄るヴァレンシュタイン元帥の傍によると両肩をつかみ元帥の顔をじっと見た。
「似ておる。やはりそちはフレイアに似ておる」
「?」
「苦労をかけたな、予がそちの祖父じゃ。そちの母、ヘレーナは予の娘じゃ」
「!」
軍務尚書、統帥本部総長、ローエングラム伯は驚いて顔を見合わせた。ヴァレンシュタイン元帥は状況が良く分からないのだろう、不思議そうな顔をして陛下を見ている。
「陛下、それは一体何の冗談です」
「冗談ではない。予はそちの祖父なのじゃ」
ヴァレンシュタイン元帥は少し困ったような表情をしてこちらを見た。
「大体何が有ったか想像がつきますが、リヒテンラーデ侯、まさか侯まで信じたのではないでしょうね」
「いや、まあ嘘じゃと思ったがの・・・・・・」
リヒテンラーデ侯も少し困ったような表情で答えた。ヴァレンシュタイン元帥は一つ溜息をつくとリヒテンラーデ侯に話しかけた。
「リヒテンラーデ侯、一体何が有ったか詳しく説明してもらえますか、帝国軍三長官、それにローエングラム伯まで此処に来ているんです」
リヒテンラーデ侯は渋々といった表情で事の顛末を話した。ヴァレンシュタイン元帥は呆れたような表情をし、エーレンベルク、シュタインホフの両元帥、ローエングラム伯は半信半疑な顔をしている。
「嘘なのですか、元帥」
「嘘ですよ、財務尚書。そんなことはありえません」
「しかし……」
「グリンメルスハウゼン子爵は今生きていれば七十八のはずです。母は四百四十一年に生まれました、今から四十六年前です。つまり子爵は当時は三十代前半、祖母の傍に居た四十代の男性とは明らかに別人です」
なるほど確かにそうだ、やはり嘘なのか、思わず陛下を見る。
「違うの、それはグリンメルスハウゼンじゃ、あれは歳より老けて見えたからの、三十代前半の頃は既に四十近くに見えた」
平然と陛下が言い放った。確かにグリンメルスハウゼン子爵は歳より老けて見えた。ではやはり本当なのだろうか。
「陛下、そろそろ止めませぬか。皆に御謝りください、冗談がすぎますぞ」
「リヒテンラーデ侯、ではやはり嘘なのか」
ブラウンシュバイク公が腑に落ちない表情で問いかけた。
「陛下の御戯れじゃ。グリンメルスハウゼン子爵は確かに歳より老けて見えたかもしれん。じゃが子爵は侍従武官の職にあった。そうそう簡単に陛下の元を離れ、元帥の祖母の元に行く事が出来たとは思えん。周囲の目に付いたという事はかなりの頻度で行ったということじゃ、ありえぬことよ」
なるほど、確かにそうだ。侍従武官が度々陛下の元を離れていては職務怠慢で咎めを受けよう。となるとやはり元帥は陛下とは血のつながりは無いのか。
「その通りです。私は陛下とは何の関わりも有りません」
「陛下、元帥の言うことに間違いありませぬな」
リヒテンラーデ侯が念を押す形で確認を取った。
「ヴァレンシュタインの言う通りで良い」
「? 陛下それは一体……」
「ヴァレンシュタインが孫だと言うなら孫よ、違うと言うなら違う、そういうことじゃ」
「陛下、それでは……」
「良いではないか、予は孫に甘い爺なのじゃ」
そう言うと陛下は大笑いした。
そんな陛下の姿を苦い表情で見ていたヴァレンシュタイン元帥が国務尚書に言葉をかけた。
「リヒテンラーデ侯、陛下がこんなにもひょうきんになってしまわれたのは侯の監督不行き届きのせいです。侯が陛下を甘やかすから・・・・・・」
その言葉にリヒテンラーデ侯がむっとして言い返した。
「私のせいだと言うか。大体陛下がひょうきんになられたのは卿の責任であろう」
「どういうことです。私のせいとは」
「ブルクハウゼン侯を嵌めるとき、台本まで作って陛下を指導したのは誰じゃ、卿ではないか。陛下がひょうきんになられたのは卿が妙な小芝居を教えたからじゃ」
リヒテンラーデ侯の言葉にヴァレンシュタイン元帥は憤然として答えた。
「確かに台本は作りました。演技も指導しました。しかし、黒真珠の間で大笑いしろなどとは書いていませんし、指導もしていません。仕事を楽しむのは結構ですが、楽しみすぎです!」
「わ、私だけではないぞ、軍務尚書も統帥本部総長も一緒だったのじゃ。何故私だけを責める。二人も同罪じゃろう」
「陛下のお傍に一番居るのはリヒテンラーデ侯です」
その言葉に軍務尚書も統帥本部総長が激しく頷く。
「とにかく、帝国軍三長官と副司令長官が呼び出されたのです。いずれ納得のいく説明をしてもらえるものと考えております。失礼させていただきます」
むっとして帰ろうとするヴァレンシュタイン元帥をリヒテンラーデ侯が呼び止めた。
「待て、まだ話は終わっておらん」
「?」
「卿の祖父は誰なのじゃ?」
「・・・・・・」
「知っておるなら言うが良い、このままだとまた陛下の孫だと噂が出るぞ。それとも言えぬ訳でもあるか」
リヒテンラーデ侯は何処か意地の悪そうな表情で元帥に問いかけた。元帥はしばらく黙って侯を睨んでいたが薄く笑うと侯に答えた。
「言っても宜しいですが、後悔なさいますぞ」
「なんじゃと」
「私の祖父の名前はクラウス・フォン・リヒテンラーデ侯爵、貴方です」
「!」
一瞬皆沈黙した。
「そうか、予ではなく国務尚書の孫か、良かったの、頼りになる孫で」
陛下の爆笑とともに出される言葉にリヒテンラーデ侯は体を震わせた。
「冗談ではありません。このような性格の悪い孫など持った憶えはありませぬ」
「そんなことはありません。私は侯に良く似ていると軍務尚書、統帥本部総長に言われました」
澄ました顔でヴァレンシュタイン元帥は言うと、軍務尚書、統帥本部総長を見た。それにつられ軍務尚書、統帥本部総長が口々に答える。
「確かに似ているとは思うが」
「うむ、似すぎるくらいにな」
軍務尚書、統帥本部総長の声にリヒテンラーデ侯は
「何処も、似とらんわ! 一体何処を見ておる」
と怒鳴りつけた。
「ご安心ください、お爺様。リヒテンラーデ侯爵家の家督が欲しいとか、養育費を払えとか、認知しろとか言いません」
「あ、当たり前じゃ! 何がお爺様じゃ、第一私は外で子供など作っておらんわ!」
「お爺様、自慢になりませんし、証人も居ません。私とお爺様が他人だと説明するのは難しそうですね。しかし、陛下の孫などと言われるよりはましでしょう」
その声に陛下がまた爆笑し、それがリヒテンラーデ侯を更に激昂させた。
「こ、この悪党め、何と言う嫌な奴じゃ。卿などヨルムンガンドに食われてしまえ!」
リヒテンラーデ侯の罵声を聞きながら、ヴァレンシュタイン元帥はにっこりと笑うと
「それでは皆さん、祖父をよろしくお願いします」
と告げ、マントを翻して謁見室を出て行った。
「ええい、何といやな奴じゃ。腹の立つ、これも、あのヒルデスハイムの阿呆のせいかと思うと更に腹が立つわい」
「閣下、少し落ち着きませんと」
「何を落ち着くのじゃ、ゲルラッハ子爵。陛下、本日の謁見は終わりにいたしますぞ」
「うむ、善きに計らえ」
「ゲルラッハ子爵、午後の閣議は卿が取り仕切れ。私は家に帰る」
「帰るのでありますか?」
「おお、そうじゃ。文句があるか、ゲルラッハ子爵。不貞寝じゃ、陛下とあの小僧のせいでの、とことん疲れたわい。宜しいですな、陛下」
「おお、たまにはゆっくり休むが良かろう。孫の事でも考えながらの」
「陛下!」
「そちが要らぬのなら予が貰うぞ」
「陛下!」
陛下はリヒテンラーデ侯の抗議を無視し大笑いをしながら謁見室を出て行った。残されたのは、怒り心頭に達しているリヒテンラーデ侯と必死に笑いを堪えている廷臣たちだった。
巡航艦ツェルプスト~ヨハン・マテウスの回想
帝国暦 487年 12月17日 巡航艦 ツェルプスト ヨハン・マテウス
同僚のカール・ホルスト上等兵が話しかけてきた。
「おい、マテウス」
「何だい? カール」
「オーディンに侵攻していた貴族連合軍はヴァレンシュタイン司令長官によって撃破されたそうだ。流石だな、二倍の兵力を持つ敵を破るなんて」
「まあ、司令長官ならその程度はやるさ」
「ふーん、あの人ツェルプストの艦長もやってたんだよな」
「ああ、第一巡察部隊の司令と兼任してたよ」
もう四年になる。あの時の俺は二等兵だったが今では上等兵になっている。そしてあの人は中佐から元帥だ。あっという間だった。
「どんな人だったんだい、俺は今年の春に配属になったから知らないんだけど」
「そうだな。やっぱり他の人とはちょっと違ったよ。何処が違うかと言われても困るけど……」
「ふーん、そうか、やっぱり違うのか」
カールが何処と無く憧れるような表情をしている。どんな人か……。知らないほうが良いよ、カール。あの人は外見はどうしようもないほどお嬢で中身はとんでもない悪魔だった。黒い尻尾が生えていないのが不思議なくらいだったんだから……。
帝国暦484年 1月20日 オーディン ヨハン・マテウス
巡航艦ツェルプストへの配属が決まった。軍専門学校を卒業して通信兵として最初に配属されたのは宇宙艦隊司令部だったのはまだ我慢できる。新人をいきなり最前線に出すのは危険だと思ったのだろう。だがもう一年が経っている、それなのに今度は第一巡察部隊か……。
巡航艦ツェルプストなんて艦齢二十五年を超える老朽艦だ。前線には出せないから国内でしか使えない艦。そんな艦に配属されても少しも嬉しくない。おまけに巡察部隊だなんて国内の巡視部隊じゃないか、俺は最前線で反乱軍と戦いたいんだ。それなのに……。
やりきれない思いを胸に抱いて家に帰ると姉のアティアが話しかけてきた。俺より四歳上の姉は軍務省の人事局に務めている。
「ヨハン、新しい辞令が出たんでしょう。あんた今度は何処なのよ、まさか最前線じゃないでしょうね」
姉は俺が最前線勤務を望んでいるのを知っているがそれには酷く反対している。姉にしてみれば最前線に行きたがる俺の行為が馬鹿げたものに見えるらしい。“あんたみたいに最前線に行きたがる男が多いから、私達が結婚できないんじゃない”。姉の口癖だ。
「違うよ、第一巡察部隊、巡航艦ツェルプストに配属が決まった」
幾分ぶっきらぼうに答えると姉が噛み付くように話しかけてきた。
「巡航艦ツェルプスト! あんた本当に巡航艦ツェルプストに配属になったの?」
何だ? 一体どうしたって言うんだ? 巡航艦ツェルプストってなにかやばいのか?
「そうだけど、それがどうかした?」
思わず恐る恐る尋ねると姉は興奮して俺にまくし立てた。
「何言ってるのよ、ヴァレンシュタイン中佐が艦長の艦じゃない」
「え? 艦長って決まってるの。俺が聞いた話じゃ、まだ決まってないってことだったけど」
「最新情報よ、軍務尚書、宇宙艦隊司令長官の推薦で中佐が艦長兼第一巡察部隊の司令になったの!」
ヴァレンシュタイン中佐? サイオキシン麻薬、アルレスハイム星域の会戦で有名になった、あのヴァレンシュタイン中佐か……。その中佐が艦長? しかも軍務尚書、宇宙艦隊司令長官の推薦? すげえな、俺とたいして歳も変わらないはずだけど……。
「あんた、中佐からサイン貰ってきてよ」
「はあ? サイン?」
「そうよ、サイン、後で色紙渡すから貰ってきてよ。あの山猫供にギャフンと言わせてやる」
姉は妙に力んでいる。何なんだ、一体。
「姉さん、山猫って何さ」
「山猫よ、兵站統括部の女どもよ」
俺が訝しげにしているのが不満だったのだろう、姉はさらにまくし立てた。
「いい、兵站統括部っていうのはね、碌な男が居ないの。分かる? 山奥で人が居ないところなのよ。そこに居る雌猫どもだから山猫なの!」
「随分酷い言い方をするんだね」
「何言ってるの、あいつらの肩を持つの、あんた」
「いや、そういうわけじゃないけど」
やばい、姉の目が吊り上がっている。よっぽど兵站統括部の女性兵に頭に来ているみたいだ。
「あいつら油断できないのよ、時々軍務省とか宇宙艦隊司令部に来て男をかっさらっていくんだから。分かる? あいつ等はほんとに手癖の悪い山猫なの!」
「……」
姉は以前、男に振られたと言ってたけど、まさか山猫に男を取られたのか? 気持は分かるけどこの荒れようは姉の方が山猫だ。
「おまけに中佐と一緒にケーキ食べてる写真なんて持ってるし、むかつくのよ! ヨハン! サイン必ず貰ってくるのよ!」
「ああ、分かったよ」
「それと、中佐の足を引っ張るんじゃないわよ、分かった!」
「もちろんだよ。そんなことするわけないじゃない」
とりあえず、此処は逆らわずにいよう。目を吊り上げてまくし立てる姉は間違いなく山猫だ。あの紅い爪で引っ掻かれたくない。
帝国暦484年 5月23日 巡航艦 ツェルプスト ヨハン・マテウス
「駆逐艦ラウエンより入電、レーダーに感有り」
「位相は」
俺が駆逐艦ラウエンからの報告を伝えるとワーレン少佐は重厚な口調で問いかけてきた。いかにも頼りがいのある、指揮官の声だ。この艦を動かしているのはやっぱりワーレン少佐だ。俺は憧れを感じながら少佐に答えた。
「八一七宙域を九一三宙域に向かって移動中との事です」
俺の返答にワーレン少佐はヴァレンシュタイン中佐に視線を向ける。
「全艦に命令、直ちに宙域八一七に向かう。軽空母ファーレンに命令。ワルキューレを出し偵察行動をさせるように」
あー、ヴァレンシュタイン中佐が命令を出したが、声は少し高いし、それに全然威圧感が無い。これじゃあ、いまいちなんだよな、緊張感ゼロ、ヤル気でねえよ。
中佐は艦長席で御行儀良く座っている。小柄で華奢な中佐は遠目には女の子のようだ。ワーレン少佐と比べると余計にそう見える。サイオキシン麻薬、アルレスハイムの会戦では功績を挙げたと言われているけどとてもそうは思えない。
当初この艦に来た中佐は殆ど艦長としての職務も部隊の動かし方も分からなかった。ワーレン少佐が付きっ切りで教えていたがその様子はまるで何処かのお嬢様と使用人だった。あれじゃワーレン少佐が気の毒だと皆で思ったものだ。
まあ、それでも熱心に覚えていたから二月もすれば任務をこなせるようになっていたけど、飲み物はココア、ピーマンとレバーが嫌いって何だよ、まるで子供じゃないか、皆大笑いだった。俺達乗組員の中佐に対する評価は“お嬢”だ。姉さんには悪いけど馬鹿くさくってサインなんか貰えるもんか、冗談じゃない。姉さんから貰った色紙十枚は俺の部屋に放置したままだ。
「どういうことだ、何故積荷の確認が出来ない?」
「はっ、それが、船長が反対しているのです」
「こちらは公務だぞ、何を考えている」
ワーレン少佐が少し眉を寄せて呟いた。かっこいいぜ、なんとも言えない渋さだ。男はこうじゃなきゃ。俺も言ってみたいぜ”こちらは公務だぞ、何を考えている”。
駆逐艦ラウエンが民間の交易船パラウド号に積荷の臨検を通知してから一時間経ったけど、まだ臨検が終わらないようだ。兵を派遣したけれど、どうもパラウド号の船長が臨検に反対しているらしい。
埒が明かない、誰かが向こうに行って指揮を取り直すべきだ。そうは思ったけどヴァレンシュタイン中佐が交易船パラウドに自ら臨検に行くと言い出したときには何かの冗談だと思った。パラウド号では何かトラブルが起きているのは間違いない。お嬢に解決できるもんか。
お嬢、お嬢はツェルプストで大人しくしてればいいんだよ、所詮は飾り物なんだから。俺も同行者の二十名の中に選ばれた時には罰当たりだとは思ったけど心の中でオーディンを罵ったぜ。
俺も不安だったけどワーレン少佐はもっと心配だったんだろう、中佐に同行してくれた。正直ほっとしたね、少佐が一緒なら何とかなるからな。さて、パラウド号に向かうとするか。
帝国暦484年 5月23日 交易船 パラウド ヨハン・マテウス
「バルツァー船長、コンテナから妙な物を見つけましたよ。御禁制のトラウンシュタイン産のバッファローの毛皮十枚。あれは一体どなたからの依頼ですか、教えていただけると助かるのですが」
やばいよ、やばいよ、やばいよ。トラウンシュタイン産のバッファローって何んだよ、それ。御禁制? なんでそんなのが有るんだよ。バルツァー船長も乗組員たちも黙ったままだ。みんな積荷が何か知っているぜ、あれは。確信犯だよ、絶対に。
仲間は皆不安そうな表情をしている、俺も多分同じだろう。変わらないのはお嬢だけだ。どういうわけか楽しそうな表情をしている、状況分かってんのか、こいつ。
俺が不安に思っているとお嬢とバルツァー船長がなにやら遣り合っている。“言いがかり”だとか“早く解放しろ”だとかだ。バルツァー船長は自信満々だ、多分貴族が後ろについてるんだろう。いけ好かない親父だが触らぬ貴族に祟り無しだ。さっさと帰ろうぜ、意地を張るなよ、お嬢。
「残念ですがそうは行きません。バルツァー船長、協力していただけないのなら貴方達には全員ここで死んでもらいます」
「!」
おいおい、何言ってんだよ、正気か、お嬢? ワーレン少佐もギョッとしているぜ、頭大丈夫か?
「何を馬鹿なことを言っている。我々を全員殺すとはどういうことだ?」
バルツァー船長が顔を真っ赤にしてヴァレンシュタイン中佐を怒鳴りつけた。全く同感だ、もっと言ってやれ。
お嬢は穏やかに微笑みながらバルツァー船長を見ている。やばいよ、これ。どっかおかしいんじゃねえの?
「交易船パラウド号は海賊に襲われ、乗組員は全員死亡、積荷も奪われ、船は海賊の攻撃により跡形も無く爆発、そういうことです」
「馬鹿な、何を言っている。お前達が臨検しているという事はオーディンに知らせたのだぞ」
「なるほど雇い主はオーディンですか、まあもうどうでも良い事ですが……。海賊は第一巡察部隊の名を騙ったのですよ、バルツァー船長。臨検と称してパラウド号に乗り込み貴方達を皆殺しにして積荷を奪った。本物の第一巡察部隊が来たときには海賊は既に立ち去りパラウド号の残骸しか残っていなかった。大変残念です」
「……ざ、残念だと」
残念じゃねえよ! 全員皆殺しって何だよそれ。笑いながら言う事か? 頭おかしいぞ、お嬢。バルツァー親父が顔を青褪めさせて抗議している。ワーレン少佐がお嬢を止めに入った。
「ヴァレンシュタイン司令、いくらなんでもそれはやりすぎです。もう彼らも分かったでしょう。こちらの取調べに協力するはずです」
そうだよ、その辺で勘弁してやれよ、お嬢にしては良くやった。それは認めるからさ。
「甘いですね、ワーレン少佐」
げっ、何言ってんだよお嬢。ワーレン少佐に“甘い”! 気でも狂ったか? 早く謝るんだ! ワーレン少佐もむっとしてるぞ、どうなってもしらねえぞ!
お嬢とワーレン少佐が話をしている。段々ワーレン少佐の顔が強張ってきた。おいおいワーレン少佐が負けてるよ、嘘だろ。二人が近づいて小声で話している。ワーレン少佐の顔が青褪めてきた。
やばいよ、ワーレン少佐が青褪めるって一体どんな話だよ。俺は隣に居る奴の顔を見た。こいつも青褪めている。いや、全員不安そうにしている中で、お嬢だけが笑みを浮かべている。おかしい、どっかおかしいぜ、これ。
「何だ、一体、何故俺を見る? 俺をどうするつもりだ」
「いえ、ワーレン少佐が乗組員全員を殺すのは嫌だと言うのですよ。ですから誰か一人に全ての罪を背負って死んで貰おうと言っているんです」
今度はバルツァー船長に全ての罪を擦り付けて終わりにしようとお嬢が言い出した。
“冗談は止めろ、そんな事が許されるのか”
“ふ、ふざけるな、そ、そんな事が、ゆ、許されると思っているのか”
バルツァー親父は抗議しているけど誰も彼を助けようとはしない、ワーレン少佐も沈黙したままだ。そんなバルツァー船長をお嬢は冷笑を浮かべながら見ている。怖いよ、こいつ、マジで怖い。
「貴官の名前は?」
え、俺? いきなり何? 勘弁してくれよ。
「ヨ、ヨハン・マテウス二等兵です、ヴァレンシュタイン司令」
「マテウス二等兵、私はバルツァー船長が嫌いなのですが、貴官はどう思います?」
「は、はい、小官も嫌いであります」
もちろん嫌いだよ、お嬢が嫌いな物は俺も嫌いだ。ピーマンもレバーも嫌いだし、好きなものはココアと甘いものだ。俺はお子様でいい。
「気が合いますね、マテウス二等兵。名前と顔はしっかりと覚えましたよ」
「はっ、有難う御座います」
覚えなくて良いから、御願いだから覚えないでくれ。それとニコニコ笑うのは止めてくれよ、怖いんだよ、あんたの笑顔。マジで怖いんだ、小便チビリそうだよ。
「ところで、私はバルツァー船長は死ぬべきだと思っているのですが貴官はどう思います?」
バルツァー船長がギョッとした表情になって俺を見ている。何てこと訊くんだよ、勘弁してくれよ。俺が自分も同感ですって言ったらどうなんだよ? この人殺されちゃうの? 一生俺トラウマになるぜ。ワーレン少佐、助けてくださいよ。
「ワーレン少佐が気になりますか、マテウス二等兵。大丈夫ですよ、ワーレン少佐はもう直ぐ昇進して異動です。遠慮せず、本当の事を言ってください」
お嬢が優しい声で話しかけてくる。怖いよ、何だよそれ、俺達の事怒ってるの? お嬢って呼んで馬鹿にしてるって……。ワーレン少佐が居なくなったらどうなるか分かってるのか、そう言う事? 今自分に味方すれば許してやるがどうする? そう訊いてんの? 勘弁してくれよ。
「ヴァレンシュタイン司令」
ワーレン少佐が止めに入ってくれた。助かった、有難うございます、ワーレン少佐。少佐は命の恩人です。マジで感謝です。
そこから先はお嬢がバルツァー船長を脅しまくって終わった。軍人よりも犯罪者のほうが似合いそうな脅し文句だった。バルツァー船長は最後は泣きながら許してくれと懇願して、中佐は“興が冷めました”と言ってバルツァー船長をいたぶるのを止めた。つまらなさそうだった。
多分、お嬢の本当の狙いはバルツァー船長じゃない。お嬢を見くびっていた俺達乗組員を脅し上げることだ。自分を見くびるとどうなるか、バルツァー船長を見てよく覚えておけ、そう言いたかったんだと思う。実際パラウド号に行った連中は皆お嬢に怯えていたからな。きっとそうに違いない。
帝国暦484年 7月15日 オーディン ヨハン・マテウス
「やったじゃない、昇進ね、ヨハン」
「うん」
オーディンに帰ってくると、俺達を待っていたのは昇進だった。何といっても皇帝陛下の財産を不届きな盗賊から守ったんだ。当然と言える。俺は二等兵から一等兵に昇進した。姉も喜んでくれた。
「ねえ、サイン貰えないの」
「無理だよ、姉さん。前にも言ったけどヴァレンシュタイン中佐は艦長兼司令で忙しいんだ。サインくださいなんて言えないよ。仕事の邪魔しちゃいけないだろう?」
「うーん、残念」
残念そうな姉の表情を見ると胸が痛んだ。ごめん、姉さん。でも中佐のサインなんか貰っちゃ駄目だ。呪われるぜ、絶対祟りがある。一生結婚できないとか、三代先まで早死にするとか。中佐は山猫にくれてやれよ、その方が絶対幸せになれるから。
「ねえ、俺達中佐を除いて全員昇進したけどさ、中佐はどうなるの。勲章貰ったみたいだけど」
「中佐の昇進は十月よ、人事異動に合わせて昇進するの」
「?」
「昇進が早すぎるから本人のためにならないって言う事。凄いわよね、昇進が早すぎるなんて」
「へー」
確かに凄い。俺も一度で良いからそういう扱いを受けてみたいもんだ。
「多分異動もあるんじゃないかな、何時までも巡察部隊にはいないわね」
「そうなの」
「そうよ。今年はサイオキシン麻薬の後始末で外征はなかったけど来年は有るわ。多分中佐も出征するんじゃないかしら」
「……」
「あんた、まだ前線に出たいの?」
「いや、俺は巡察部隊で良いよ。前線は中佐みたいな人に任せるさ」
「そうね、あんたみたいな凡人はそれが一番よ。今の世の中、生き残るのは大変なんだから」
そう言うと姉はクスクス笑い出した。正直面白くはなかったけど、姉の言う事が幾分か分かるような気がした。あんな化け物みたいな人間の居るところには近づきたくない。命が幾つあっても足りはしないからな。中佐が異動になるなら俺は巡察部隊でいい。平穏なのが一番だ……。
NO.1、再び(1)
帝国暦485年12月28日 帝都オーディン 兵站統括部第三局第一課 アデーレ・ビエラー
「はーっ」
溜息が出た。私の目の前には山積みになった書類が有る。第六次イゼルローン要塞攻防戦で消費した物資、要塞補修のための物資の要求だ。この書類を今日中に片付けなければならないと思うとウンザリする。
今年もあと少しで終わるというのに仕事は少しも減らない。多分明日にはまた同じような物資の要求書が山積みになっているだろう。それを思うとどうにも気が滅入ってしまう。私の心はどんよりとした今日の天気のようだ。明るくなる兆候など何処にもない。
こんな事じゃいけないのは分かっている。幸い兵站統括部第三局第一課長のディーケン少将は朝から軍務省へ出かけているから咎められる事は無い。彼以外にもここには士官がいるが皆私達下士官におんぶに抱っこのボンクラ士官だ。私達に注意など出来るはずもない。
それを良い事に私は眼の前の書類をただ眺めている、しかし気合いを入れて仕事に取り掛からなければいずれ書類は増え続け収拾がつかなくなるのも分かっている。分かってはいるのだが……。
私達兵站統括部第三局第一課の職員にとってはイゼルローン要塞攻防戦は悪夢だ。例え勝っても、いや勝つのが当たり前なのだがそれでも悪夢だ。皆が勝利に浮かれている時に私達だけが書類に埋もれ悲鳴を上げている。出来る事なら戦争は反乱軍の勢力内に踏み込んでやってほしい。
視線を少しずらすと写真立てに彼が映っていた。優しい笑顔でケーキを食べている。少し心が和んだ。私の心の安定剤……。彼がいなくなってからもう三年が経つ。あの時もイゼルローン要塞攻防戦の後始末で忙しい時だった……。要塞攻防戦は悪夢だ。少しも良い思い出が無い。また溜息が出た。
「どうしたの、アデーレ。溜息なんて吐いちゃって」
振り返ると私の後ろにはコルネリア先輩が立っていた。
「コルネリア先輩……、毎日が虚しくて」
コルネリア先輩に虚しさを訴えると先輩は蒼い瞳は優しく和ませた。
「困ったわね、貴女ももう軍曹になったのだから少しは立場を自覚してもらわないと。貴女の背中を見ている部下もいるのよ」
「それは分かっていますけど……」
私もコルネリア先輩も軍曹に昇進している。先輩は二年前、私は今年だった。何人かの部下も付けられ指導しなければならない立場だとは分かっている、でも……。また溜息が出た。
「あらあら、また溜息。そんな調子じゃヴァレンシュタイン准将(ぼうや)に笑われるわよ」
苦笑交じりにからかわれても私の心は全然浮き立たなかった。
「笑われても良いです。ここに居てくれるなら……」
本当にそう思う、准将がここに居てくれたらどんなに楽しいだろう。つらい仕事も喜々として片付けられるに違いない。兵站統括部、五年前までここは不毛な砂漠地帯だった。でもヴァレンシュタイン少尉が配属され青く潤いに満ちたオアシスになった。誰もが皆彼がいる事を喜び、彼と仕事が一緒に出来る事を楽しんだ。でもその黄金の日々も二年と続かなかった……。
今の彼は宇宙艦隊司令部の作戦参謀として軍主流を歩むエリートだ。今回のイゼルローン要塞攻防戦でも大活躍をしたと聞く。おそらく少将に昇進するのは間違いないだろう。このまま作戦参謀として司令部に居るのか、或いは何処かの艦隊の参謀長、分艦隊司令官になるのか、彼の目の前には眩い未来が待っている。
ヴァレンシュタイン准将が落ちこぼれの兵站統括部に戻って来ることは間違ってもない。准将、お願いですから宇宙艦隊司令部の牝犬どもに騙されないで……。あの牝犬どもは殆どが宇宙艦隊に恋人を持っているんです。そして出兵の度に寂しいと言って彼氏に内緒で浮気している、最低の尻軽の軽薄女なんです。 私は准将の貞操が心配です。
「しょうがないわねぇ。……そう言えば今度ここに異動してくる士官がいるみたいよ」
「異動? ここにですか?」
「ええ、ハインツがそう言っていたわ。もっとも誰が異動になるのかは教えてくれなかったけど」
先輩が少しでも私の心を浮き立たせようとしているのが分かった。有難い事だ。
先輩の恋人は人事局に勤めている、その言葉に間違いは無いだろう。でも良いのかな、そんな事言っちゃって。 個人を特定したわけじゃないから良いのかな。それにしてもこの時期に兵站統括部に異動? どうも腑に落ちない。
「ディーケン課長、最近軍務省に行く事が多いでしょう、どうもそれの件らしいわよ」
「でもこの時期に異動ってどういう事でしょう」
私が問いかけるとコルネリア先輩が“ああ、ごめんなさい”と笑顔で答えた。
「今回のイゼルローン要塞攻防戦の論功行賞よ」
「論功行賞? まだ艦隊は戻ってきていませんけど……」
艦隊が戻るまで後四、五日はかかるはずだ。
「急いでいるみたいね」
「急ぐ?」
私の言葉に先輩が頷いた。生真面目な顔だ、いつものにこやかな先輩の顔じゃない。
「軍は次の戦いを考えているらしいわ。最近勝ち戦が続いているからたたみ掛けようというのね。艦隊が帰還すると同時に新しい人事が発令されるみたい」
「そして戦争準備ですか……、ますます忙しくなりそう」
また溜息が出た。イゼルローン要塞への物資の補給、次期出兵に伴う補給、どちらも楽じゃない。その上新しく配属される士官の世話……。勝ち戦なのにここに異動してくるのだ。余程のドジを踏んで使えないと判断されたのだろう。そんなのが来ても足手まといになるだけだ。
「まあ嘆いていても仕方ないわ、ぐずぐずしてると書類に埋もれるわよ」
「そうですね。今日も残業かな」
「頑張りましょう、お互いにね」
そう言うと先輩は笑みを浮かべて私の肩を叩いた。先輩って癒し系、有難うございます……。
帝国暦486年 1月 2日 帝都オーディン 兵站統括部第三局第一課 アデーレ・ビエラー
「アデーレ、アデーレ」
「どうしたんです、コルネリア先輩」
お昼休み、食事を終えまったりとしている私のところにコルネリア先輩が血相を変えてやって来た。どうしたんだろう、こんな先輩は見た事が無い。
「何落ち着いてるの、貴女。人事発令、見た?」
「いいえ、見てません」
「何やってるの、ヴァレンシュタイン少将(ぼうや)が戻って来るわよ」
「えーっ」
私だけじゃなかった、彼方此方で驚きの声が上がる。慌てて軍のホームページから人事発令を確認する。マウスのキーの動きが遅い! なんて苛立たしいの! 兵站統括部は発令リストの中でも一番最後だ。それだけで軍内部での兵站統括部の位置が分かる。ずっと探していくと……、有った!
エーリッヒ・ヴァレンシュタイン少将 現職:宇宙艦隊司令部作戦参謀 新職:兵站統括部第三局第一課長補佐。
戻ってくる、私達のナンバー・ワンが戻ってくる! でも課長補佐?
「先輩、課長補佐ってどういう事でしょう?」
「さあ、どういう事かしら」
私が首を傾げると先輩も首を傾げた。
役職の階級から言えば課長の下は係長、その下が主任になる。課長補佐という役職が無いわけではない、本来は課長と係長の間に有り、課長の職務を補佐するのが役目だ。もっともかなり中途半端な地位で課長昇進までの一時的なポスト、或いは定年間近の人が箔付けのために就いたという。現在では長い戦争による人員不足から置かれていない。
「一時的なポストでしょうか、先輩」
「それともずっとそこに置くのかしら……」
一時的なポストなら兵站統括部に置く必要は無いはず、だとするとずっとここに置くのだろうか? つまり左遷? でも今回の戦いでは大功を挙げたと聞いているけど……。戸惑いながら先輩に視線を向けると先輩も困った様な表情をしている。
「分からないですね」
「そうね、分からないわね。課長なら知っていると思うけど……」
そう言って先輩はディーケン少将の席を見た。少将は席に居ない。多分外に食事に行っているのだろう。
ディーケン少将が部屋に戻ってきたのはお昼休みが終了する直前だった。そして私達が尋ねるより早く課員を集めるとヴァレンシュタイン少将が第一課に戻ってくる事を話しだした。もしかすると外に食事に出たのは昼休み中に詮索されることを嫌ってのことかもしれない。
「既に人事発令を見て知っているかもしれないが、今度ヴァレンシュタイン少将が兵站統括部第三局第一課に配属されることになる。此処には五日から出仕する筈だ。役職は課長補佐、私の補佐をしてもらう」
課長の言葉に皆が顔を見合わせた。やはり補佐というのが皆引っかかっている。
「アダー軍曹、ヴァレンシュタイン少将と副官、フィッツシモンズ大尉の机と椅子を用意して欲しい」
「はい、分かりました」
「以上だ、皆仕事に戻ってくれ」
そう言うとディーケン少将は机に戻り書類を見始めた。食えない人だ、私達が何を知りたがっているかなど百も承知だろう。それなのに素知らぬふりで仕事をしている。もっとも人事の裏事情など簡単に話せるものではないだろうし、聞くことも出来ない。
「さてと、机と椅子を用意しないと……。ヴァレンシュタイン少将(ぼうや)の机は課長の隣ね、副官の大尉の机は少し離れたとこに置かないと」
コルネリア先輩が指で場所をさしながら呟いている、ぼうやか……、先輩は少将を何時もぼうや呼ばわりして困らせていたっけ……、またあんな日が来るんだ……。でも今度はお邪魔虫の副官が居る。
ヴァレンシュタイン少将は将官になった時、副官を採用している。ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ中尉、いや昇進しているから大尉か……。名前で分かるけど帝国人じゃない、ヴァンフリート星域の会戦で反乱軍から亡命してきた女性士官だ。
少将よりも年上でかなりの美人らしい。二人が並んでいるととても目立つと聞いたことが有る。フィッツシモンズ大尉は亡命者だから帝国の事はよく分からない、そのため少将が何かと世話を焼いているという話も聞いたことが有る。面白くは無いが少将は優しいし、副官を気遣うのは止むを得ないと思う。だからそれは我慢できる、我慢できないのはその女が戦場にまで付いていくことよ!
反乱軍では帝国軍と違い女性も士官学校に入学し士官として前線に出て戦っている。彼女もそんな女性士官の一人だ。今回の戦いでも最前線まで付いて行ったと聞いた時には眩暈がした。なんて羨ましいんだろう、最前線で少将と一緒に戦うなんて。戦っている少将を一目でいいから見たい、どんな活躍をするのか知りたい、ずっとそう思ってきたのに彼女はいつも一緒なのだ!
どんな女性なのか確認しなくては……。少将の足手まといになる様な女性ならいかなる手段を取っても排除する。でもその前に、この人事の裏事情を確認する事が必要だわ。まさかと思うけど彼女がこの人事に絡んでいる可能性もないとは言えないのだから……。
「どうもシュターデン少将と上手くいってなかったようね」
「シュターデン少将?」
私の問いかけにコルネリア先輩が頷いた。そしてクッキーを一つ口に入れると満足そうに頬を綻ばせた。確かにここのクッキーは美味しい。
私と先輩は今兵站統括部の近くに有る喫茶店に居る。ここで先輩の恋人と待ち合わせだ。彼から今回の人事異動の経緯を教えてもらおうと言うのだけれど……、先輩、情報収集が早いです。何時の間にか今回の異動に関する噂を調べてる。
「宇宙艦隊司令部では結構力を持っているようね。ブラウンシュバイク公と繋がりが有るらしいわ」
「じゃあ軍では有力者なんですね」
先輩が頷いた。
「まだ階級は低いけどね、無視できる存在ではない、そんなところかしら」
ブラウンシュバイク公か……、平民出身の少将を左遷する事なんて簡単だろうな、可哀そうに……。ブラウンシュバイク公に睨まれた以上この先の出世は有りえない……。これからはずっと兵站統括部か……、傷付いてるだろうな、落ち込んでるかもしれない。傷心の少将を私が慰めてあげなきゃ……、ちょっと嬉しいかも。だとするとやっぱりあの副官は邪魔よ!
「宇宙艦隊司令部に知り合いがいるんだけれど随分酷かったらしいわよ」
「酷いって言うと?」
「出兵計画を練る時も何かにつけてネチネチ嫌味を言ったらしいわ。ヴァレンシュタイン少将(ぼうや)は相手にしなかったらしいけど……」
上等じゃないの、シュターデン。バックにブラウンシュバイク公が付いてるからって良くも少将を苛めてくれたわね。あんたは私を、兵站統括部を敵に回したわ、あんたの補給要請は最大限後回しにしてあげる。私が飲んでるこのコーヒーみたいに不味くてどす黒い気分にしてあげる。
「何故そこまで嫌うのでしょう? ヴァレンシュタイン少将が平民だから、ですか?」
「うーん、ジェラシーじゃないかしら。ヴァレンシュタイン少将(ぼうや)が宇宙艦隊司令部に行ったのはミュッケンベルガー元帥が要請したからだっていう話だし、元から司令部にいた人間にとっては面白くないわよね」
「なるほど、そうですね」
ヴァレンシュタイン少将には後ろ盾が無い。司令部に呼ばれたのは純粋に実力を買われての事だろう。元から居た参謀達にとっては、特に縁故を利用して司令部に居る人間には面白くないに違いない。辛かっただろうな、この国では平民が有能だと言うのは決して本人のためにはならない。むしろ凡庸な方が安楽な一生を終える事が出来る……。
ドアが開く音がして視線を向けるとコートを着た男性がこちらに歩いて来るのが見えた。長身、明るい茶色の髪、整った顔には感じの良い笑みが浮かんでいる。ハインツ・ブリューマー少佐、先輩の恋人だ。
「待たせてしまったかな」
「大丈夫よ、今日はアデーレが居てくれたから」
「それは良かった」
ブリューマー少佐がにっこりと私に微笑んできた。私も笑顔を返したけど正直複雑だった。どうして良い男って恋人がいるんだろう。
ブリューマー少佐がコートを脱ぐと先輩の隣に座りコーヒーを頼んだ。
「それで、俺に話しと言うのは何かな?」
先輩がチラっと私を見てから少佐に話しかけた。
「ヴァレンシュタイン少将(ぼうや)だけど課長補佐っておかしくないかしら?」
「少将閣下に対してぼうやは止せよ、上官侮辱罪で罰せられるぞ」
顔は顰めているが笑いを含んだ言葉に先輩が肩を竦めた。凄い、ぼうやで話が通じるんだ。二人だけの時はそう呼んでいるのかもしれない。
「左遷ですか?」
私が問いかけるとブリューマー少佐が笑い出した。
「まさか! どうしてそんな事を考えるんだ」
「違うの、ハインツ」
「もちろんだよ」
お願いです、私の前でイチャつかないで下さい。ムカつくよりも悲しくなる。
「今回の異動はヴァレンシュタイン少将の希望によるものなんだ。それを受けてミュッケンベルガー元帥からエーレンベルク元帥へ、そしてハウプト人事局長に少将の席を兵站統括部に用意するようにと指示が有った」
意外な言葉だ、先輩も目を丸くしている。少佐がそんな先輩を可笑しそうに見ている。
「少将は元々あまり体が丈夫じゃない。それなのにヴァンフリート以来かなり無理をしているからね。今回の戦いでも体調を崩したことが有ったようだ」
「それで兵站統括部に異動を希望したんですか」
少佐が頷く。
「少将はずっと兵站統括部にという思いなのかもしれないがミュッケンベルガー元帥はそうは考えていない。あくまで一時的なものと捉えている。だから人事も課長補佐という中途半端なものになったんだ。もし本当に兵站統括部に戻すなら何処かの課長にしているよ」
なるほど、そういう事か……。ミュッケンベルガー元帥は少将を宇宙艦隊司令部に戻すつもりでいる。兵站統括部に居るのはあくまで一時療養ということ、だから役職も課長補佐にした、いつでも異動できるように……。ヴァレンシュタイン少将は左遷されたわけではない。ほっとしたけど少し寂しい、また宇宙艦隊司令部に行ってしまう……。
「ではシュターデン少将と仲が悪くて追い出されたんじゃないの? シュターデン少将は宇宙艦隊司令部では力が有るんでしょう?」
先輩が納得がいかないという口調で尋ねたが少佐は苦笑を浮かべた。
「そんな事は有り得ないよ、コルネリア。ヴァレンシュタイン少将はヴァンフリートでもイゼルローンでも大功を立てた。勝つことが出来る用兵家であることを証明したんだ。それを左遷なんて事をしたらミュッケンベルガー元帥は周囲から不信を買うだろう」
「……」
「それに今回シュターデン少将は昇進しなかった」
「……」
思わず先輩と顔を見合したが先輩も驚いている。この大勝利で司令部要員が昇進しない? 有り得ない、どういう事? 少佐に視線を戻すと少佐が軽く頷いた。
「ちょっと問題が有ったようだね、ミュッケンベルガー元帥の不興を買ったようだ。シュターデン少将のミュッケンベルガー元帥に対する影響力は大きくは無い、人事に介入なんて無理だよ。せいぜい出来ても嫌がらせ程度だ」
少佐は笑っているけど笑いごとじゃありません。嫌がらせでも十分にムカつきます。
「今回、ヴァレンシュタイン少将は兵站統括部に異動はしたが次期出兵計画の立案には携わる事になっている」
「そうなんですか?」
そんな事、ディーケン課長は一言も言わなかった。あの狸爺い。
「それに今回の人事でミューゼル少将が中将に昇進した。率いる艦隊も一万隻を越えるし参謀長にはケスラー准将が配属された。次の遠征にも参加することが内定している」
「ミューゼル少将、いえ中将ってグリューネワルト伯爵夫人の弟でしょう?」
先輩の言葉に少佐が頷いた。グリューネワルト伯爵夫人の弟、皇帝の寵姫の弟。まだ二十歳になっていないのに、碌に功績もあげていないのに中将……。話を聞くだけでムカつくわね!
「ミューゼル中将を次の遠征にとミュッケンベルガー元帥に推薦したのがヴァレンシュタイン少将だ。ケスラー准将を参謀長に推薦したのもね」
先輩が目を丸くして驚いている。多分私も同じような表情だろう。少佐の言う事が事実ならヴァレンシュタイン少将はミュッケンベルガー元帥に強い影響力を持っていることになる。なんて凄いんだろう!
「まあそういう訳だから、少将への心配なら無用だよ。いずれは宇宙艦隊司令部に呼び戻されるだろうからね。帝国でもっとも期待される若手士官だね」
帝国でもっとも期待される若手士官……、誇らしいんだけど少し寂しい。さっきまでは左遷じゃないかと心配したけど今では何時かは兵站統括部からまた去ってしまうと落ち込んでいる。私、本当はどうしたいんだろう……。
NO.1、再び(2)
帝国暦486年 1月 5日 帝都オーディン 兵站統括部第三局第一課 アデーレ・ビエラー
今日はいつもより早く職場に出仕した。何と言っても今日はヴァレンシュタイン少将が初出仕する日なのだ。出仕してくる少将を出迎える形で今日を迎えたい。そう思って早く出仕したのだけれどそう考えたのは私だけじゃなかったようだ。私以外にも多くの女性下士官が妙に早く出仕している。
少将が出仕したのは就業開始十分前だった。後ろに背の高い赤毛の女性を連れている。女の私から見ても結構美人だ。おそらくはフイッツシモンズ大尉だろう。一緒に来るなんて、なんて嫌な奴! 少将は部屋に入ると“お早うございます”と挨拶をしてきた。フイッツシモンズ大尉も同じように挨拶してきた。私達も“お早うございます”と挨拶を返す。ちょっと不本意、何であんな女にまで……。
ヴァレンシュタイン少将は課長席に歩を進めるとディーケン少将に話しかけた。着任のあいさつだろう、“宜しくお願いします”と言っている。三年前まで部下だった人間が同じ階級になって戻ってきた。ディーケン少将はどう思っているのだろう。
もしかすると面白くは思っていないのかもしれない。でもヴァレンシュタイン少将はいずれは宇宙艦隊司令部に戻りさらに上に向かうだろう。それを思えば邪険には出来ない、そう考えているかもしれない。或いはここで結びつきを強めておけば後々自分の利益にもなる、そう考えているのか……。
二言、三言話してからディーケン少将がヴァレンシュタイン少将の席とフィッツシモンズ大尉の席を指し示した。ヴァレンシュタイン少将とフィッツシモンズ大尉が席に向かう。
以前より少し背が伸びたかな、でも男性にしてはやはり小柄。カワイイ所は少しも変わっていない。顔立ちは優しいままだしさっき聞いた声も昔のまま変わっていなかった。柔らかく温かみのある声……。嬉しくて涙が出そうになるくらい何も変わっていない。
ヴァレンシュタイン少将がコートを脱いだ。襟に蔓が一つ、肩に線が一つ入っている。帝国軍少将を表す軍服だ。変わったのは軍服だけ……、本当に三年で大尉から少将になったんだ。気が付けば溜息を吐いていた。
「大きくはならなかったけど、偉くはなったわね」
いつの間にか先輩が私の後ろに居た。
「そうですね、本当に立派になっちゃって」
なんでだろう、ちょっと声が湿ってる。さっきまでは変わってないと思ったのに今では凄く変わったような気がする。
「母親みたいな台詞ね、アデーレ。嫁いびりをしちゃ駄目よ、お母さん」
「酷いです、先輩、母親だなんて。それに嫁いびりって一体なんですか?」
「分からないの? フィッツシモンズ大尉に意地悪をしちゃ駄目よって言ってるの。彼女はヴァレンシュタイン少将(ぼうや)が選んだ副官なんだから、少将に嫌われるわよ」
「……そんな事、しません」
釘を刺されてしまった……。分かってます、我慢します。あの副官は好きになれそうにないけどヴァレンシュタイン少将に嫌われたくは無い。そのためならどんな我慢だって出来ますとも……、多分……、きっと……、我慢しなくちゃ。また溜息が……。以前の溜息は虚しさが溢れたけど今日は切なさが胸に溢れる。
帝国暦486年 1月12日 帝都オーディン 兵站統括部第三局第一課 アデーレ・ビエラー
兵站統括部第三局第一課に四人の士官が入ってきた。皆若い、二十歳前後が二人、二十代半ばが一人、一番年長らしい一人も三十代前半だ。二十歳前後の一人は金髪の凄い美男子だけどちょっと冷たそうな感じがする。
あれはミューゼル中将ね、となるともう一人の赤毛の若いのはいつもくっいているという噂の副官か。あとの二人、二十代半ばの士官は長身で優しそう、三十代の男性も誠実な感じで好感が持てる。あまり軍人ぽくないな。どうして他の部署には良い男が居るんだろう、兵站統括部にも少しは資源を分けて欲しいわ。
「エーリッヒ」
背の高い士官がヴァレンシュタイン少将に声をかけた。名前を呼んでいる、顔には笑みが有るし明るい声だ。その声を聞いた少将も嬉しそうに声を上げた
「ナイトハルト」
少将が席を立って彼のほうに行く。歩く速度が速い、そして少将の顔にも笑みが有る。余程親しいらしい。 ナイトハルトと呼ばれた士官の階級は准将だ。二十代半ばで准将! 少将程じゃないけどこの人も出世が早い! 好青年で能力も有るなんて最高!
「どうしたんだい。こんなところへ」
「卿に頼みたいことがあってね」
「そちらも一緒かな?」
「ああ」
少将と准将が笑みを浮かべながら話をしている。映えるなあ、第三課の女子課員達は皆五人を見ている。
「応接室が空いている。そこで聞こうか」
「有難う、エーリッヒ」
「久しぶりだね、ナイトハルト。准将に昇進か。おめでとう」
少将達が歩き始めた。少将とナイトハルトと呼ばれた准将は楽しそうに話している。士官学校で同期生なのだろう、年恰好からしてそんな感じだ。
「有難う、エーリッヒ。卿も少将に昇進だ。おめでとう」
「ああ、有難う。ところで何処に配属になったんだい」
「ミューゼル閣下のところだ。もっとも二百隻ほどの小部隊だが」
「これからさ、まだ最初の一歩だろう」
「そうだといいね」
准将で二百隻、若いけど艦隊指揮官として将来を期待されているという事かな。ミューゼル中将の配下ということは次の戦いにも参加するということよね。勝てば少将に昇進か。いいなあ、出来る若手士官か……。
応接室に入ったのは少将とミューゼル中将、それからナイトハルトと呼ばれた士官と三十代の士官だった。赤毛の副官は応接室に入らなかった。フイッツシモンズ大尉が相手をしている。楽しそうだな、羨ましい、というかズルい。
なんで彼女ばかり良い男が傍にいるのよ。やっぱり偉い人、将来有望な人の傍にいないと駄目なんだ。傍に居ればその人の友人とか知り合いと親しくなるチャンスが有るんだから。少将、お願いです、私も傍においてください。
少将達の話し合いは三十分程で終わった。ミューゼル中将達が帰った後、少将とフイッツシモンズ大尉が話をしていた。少将は軽く苦笑を浮かべていたけど大尉は釈然としない様子だった。一体何を話してたんだろう。
少将が兵站統括部に来てから一週間が経っていた。兵站統括部第三局第一課はこれまでになく活気に満ちている。イゼルローン要塞への補給物資の手配などで忙しいのだが、皆それを苦にすることなく業務に励んでいる。やっぱり職場に華が有ると違うわよね。見てるだけで心が洗われる気分よ。それに少将のおかげで今はとても仕事がし易くなっている。
ヴァレンシュタイン少将の仕事は二つある。一つはディーケン課長の下へ行く書類の事前審査だ。私達が作成した書類は先ずヴァレンシュタイン少将の下に行く。少将は書類を審査し三つに分類している。一つ目は何の問題も無い書類。二つ目は少将では判断できない物、これにはその理由を記したメモを添えてある。三つ目は明らかにミスが有る物……。
一つ目と二つ目はディーケン課長の下に行く。一つ目については課長がサインをして終了。二つ目については課長が判断理由をヴァレンシュタイン少将に説明する。問題無ければサインをしてくれるがそうでなければディーケン課長は書類を私達につき返してくる。三つ目についてはヴァレンシュタイン少将がおかしな点をメモに記して私達に返却する。
フィッツシモンズ大尉は審査の過程で少将が疑問に感じた点の確認をしている。過去、どのように処理しているか? 本来であればどのように処理すべきなのか? 軍の規程などを調べ少将に報告している。書類の量が多いから結構大変そうだ。補給業務に精通させるとともに管理する能力を付けさせようとしているのだろうと皆で噂している。ただのお飾りにするつもりは無いらしい、当然よね。
少将のもう一つの仕事はクレーム対応だ。兵站統括部第三局第一課は補給業務を扱う部署だけど時折その補給業務についてクレームをつけてくる人間がいる。“補給が遅い”、“こちらが要請した物と違う”、“数量が合っていない”等……。大体が向こうの発注ミスなのだ、こちらの責任ではない。
それでも連中はこちらに責任を押し付けようとする。何と言っても兵站統括部は落ちこぼれの集まりだし立場が弱い。そして実戦経験が無いから相手はそれを責めてくる。“所詮後方で仕事をしている人間には実戦の厳しさは分からないだろう、ぐだぐだ言わないでさっさとやれ。こっちは忙しいんだ、書類ごっこに付き合ってられるか”。
直接ここに乗り込んでくる人間もいればTV電話で文句を付けてくる人間も居る。どいつもこいつも居丈高になってこちらを責める。そして私達は何時も泣寝入りだった。悪くもないのに謝って改めて補給の手配をする……。
でもヴァレンシュタイン少将がここに来てからは変わりつつある。クレームには少将が直接対応してくれるようになった。きっかけは出仕二日目に有ったイゼルローン要塞駐留艦隊からの通信だった。
レーザー水爆ミサイルと囮ミサイルの数量を間違ったのだが自らのミスを認めず口汚く女性下士官を罵る声にヴァレンシュタイン少将が見かねて代わったのだ。本当ならディーケン課長が代わるのだが課長は席を外していた。ヴァレンシュタイン少将は以前ここに居たから状況は理解している。相手は駐留艦隊の補給担当士官、階級は少将だった。
「こちらは補給の申請書通りに送っていますが」
『そんな事はどうでもいいんだ! レーザー水爆ミサイルを直ぐ送れと言っている。大体おかしいとは思わないのか、囮ミサイルの数が多すぎ、レーザー水爆ミサイルの数が少なすぎるだろう!』
相手は自分のミスを認めることなく少将を責めてきた。どうやら相手は少将の事を知らないらしい。あるいはヴァレンシュタイン少将が兵站統括部に異動になったという事を知らないのかもしれない。
担当の女性下士官は少将が責められているのでおろおろしている。私の席は彼女の斜め後ろに有るから振り返れば状況は直ぐ分る。多分後で皆に責められるんじゃないかと心配なのだろう。去年配属されたばかりの新人だ、マリーネ・エックハルト伍長、ヴァレンシュタイン少将の事は噂でしか知らない。
「そうですね、発注時点で気付きそうなものです。それに発注ミスは今回が初めてと言う訳ではないようですね。見直しはしなかったのですか?」
『なんだと!』
ヴァレンシュタイン少将のいう通りよ、この男は発注ミスの常習犯なのだ。痛いところを突かれたと思ったのだろう、スクリーンに映る男は顔を真っ赤にしている。
TV電話に映る相手は居丈高だったけどヴァレンシュタイン少将は気にした様子は無かった。平然というかおっとりした口調で対応している。もっとも内容はちょっと辛辣。一体どんな表情をしているのか、私からは少将の顔は良く見えない、残念! そして少将の後ろにはフィッツシモンズ大尉が……、あんた邪魔よ、私は少将だけを見たいの! 視界に入らないで!
穏やかに話す少将に苛立ったのか、相手はさらに嵩にかかって少将を責めたてた。そして第一課の課員は皆心配そうに少将を見ている。
「改めて申請書を出してください」
『そんな暇は無い! こっちは最前線で忙しいんだ! 一々書類なんぞ作ってられるか! そっちで何とかしろ』
「出来ませんね、そんな事は」
『実戦も知らない奴が生意気を言うな!』
あー、言っちゃった、それは拙いんじゃない。そう思っているとヴァレンシュタイン少将がクスクスと笑い声を上げ始めた。その姿にさらに相手は激高した。
『何が可笑しい!』
「実戦なら知ってますよ、先日の戦いではアイアースにまで行きましたからね」
『アイアース?』
「まだ名前を言っていませんでしたね、小官はエーリッヒ・ヴァレンシュタイン少将です。先日まで宇宙艦隊司令部に居ましたが今は兵站統括部第三局第一課長補佐を務めています」
『……ヴァレンシュタイン……、貴官……』
スクリーンに映る相手の顔が強張った。
「申請書を出してください」
『いや、それは、しかし……』
「分かりました、後はこちらでやります」
『そ、そうか、分かってくれるか』
相手はほっとした表情を浮かべている。マリーネもほっとした顔をしている。これで終わりかな、相手も次からはちゃんとするかな。
「ええ、貴官とこれ以上話をしても無駄だという事が分かりました。後はゼークト提督と話します。ご苦労様でした」
『ゼークト提督? おい、ちょっと……』
抗議する相手を無視してヴァレンシュタイン少将は通信を切った。そして何処かを呼び出し始めた。本当にゼークト提督を呼び出すの? 私は周囲を見たけど皆目を点にして少将を見ている。マリーネはオドオドして泣き出しそうだ。フィッツシモンズ大尉が溜息を吐くのが分かった。
繋がった……、厳めしい、不機嫌そうな顔をした初老の男性がスクリーンに映っている。帝国軍大将だ、軍服の襟には蔓が一つ、肩には線が三つ入っている。イゼルローン要塞駐留艦隊司令官ゼークト大将? 本当に呼びだしたの?
互いに敬礼をすると大将閣下が低い声で話し始めた。
『ゼークトだ』
ゲッ、やはりゼークト提督だ。どうするんだろう。
「兵站統括部第三局第一課長補佐、ヴァレンシュタイン少将です」
『うむ、先の戦いではご苦労だった。で、何の用かな、ヴァレンシュタイン少将』
う、凄い。この不機嫌そうな顔をした提督が少将を労っている。少将が立てた功績はかなりのものなんだ。
「先日、駐留艦隊よりレーザー水爆ミサイルと囮ミサイルの補給の要請が有りました」
『うむ』
私の目の前のTV電話が着信音を立てた。受信スイッチを押下すると例の少将の顔が映った。
『ヴァレンシュタイン少将を出してくれ』
えっと、どうしよう。そう思っているとヴァレンシュタイン少将の声が聞こえた。
「今ゼークト提督とお話しています。そのまま待たせてください」
「はい」
スクリーンに映る少将の顔が真っ青になった。“ちょっと待て”、“ヴァレンシュタイン”とか喚いている。うるさいな、少将は今ゼークト提督と御話し中なんだから大人しく待ちなさいよ。礼儀知らずは怒られるわよ、受話音量を下げてあげるわ。口をパクパクさせている少将をみて思った、私ってホントに気がきく良い女よね。なんで恋人が居ないのかしら?
声が聞こえなくなったので不審に思ったのだろう、フィッツシモンズ大尉がこちらを振り返った。口をパクパクさせている少将を見て憐れむような表情をしている。そして私を見て一つ溜息を吐いた。何なのよ、それは! 本当に嫌な女ね!
「申請書通り物資を手配したのですが補給担当士官よりレーザー水爆ミサイルと囮ミサイルの数量が間違っていると叱責されました。早急に物資を送りなおせと」
『送りなおせばよかろう』
ゼークト提督は訝しげな表情をしている。多分何でそんなことで連絡してくるんだと思っているのだろう。
「こちらは申請書通り物資を送っています。間違っていたのは申請書そのものなのです。申請書を改めて提出して欲しいと言ったのですが忙しい、そちらでやれの一点張りです。レーザー水爆ミサイルの数が少ないと思わないのかと叱責され、無能扱いされました。しかし申請書にはゼークト提督のサインも有ります。それを疑えと言われましても……」
『……』
ゼークト提督は苦虫を潰した様な表情をしている。まあ無理もないわよね。補給の申請書は補給担当士官が起案し、艦隊司令官が決裁してから兵站統括部に送られてくる。おそらくゼークト提督は碌に内容を確認せずに申請書にサインしたのだろう。
ヴァレンシュタイン少将の言葉はそれを指摘している。カワイイ顔して意外に辛辣なんだから。ゼークト提督が渋い表情をしているのも半分はバツが悪いからだろう。数が少ないと思わないのかという非難はそのままゼークト提督にも跳ね返るのだ。
口パクちゃんが申請書を書きたがらないのも司令官の決裁が必要だからだ。補給の申請書が短期間に二回も来ればゼークト提督も妙だと思うだろう。前回発注ミスが有ったと分かれば当然叱責される。誰だって怒られたくは無い、だからこちらに責任を被せようとする。
私の目の前のスクリーンでは口パクが酷くなった。酸素不足の魚みたいだ。“もう少しお待ちくださいね”とにっこり笑って小声で囁く。ああ、なんて快感なのかしら。こんな快感、エッチしたって味わえない。ヴァレンシュタイン少将、少将は最高です。貴方以上の男性はいません。私を最高の気分にさせてくれる。
「それに申請書の誤りは今回が初めてではないようです。頻繁に誤っているようですし、閣下に知られないようにその責めを常にこちらに押し付けています」
『……分かった、申請書は出しなおさせる。早急に輸送の手配を頼む』
不機嫌そうな表情、面倒くさそうな口調、早く終わらせたい気持ちが見え見えだ。多分補給担当者を呼びつけて叱りつけて終わりだろう。口パクちゃんは顔を強張らせている。可哀想に、こってり絞られるわね……。でもこれも日頃の行いが悪いせいよ、これからは心を入れ替えて頑張るのね……。
これで終わりかな、これからは少しは変わるのかな、そう思った時だった。ヴァレンシュタイン少将の声が聞こえた。ちょっと不本意そうな声だ。
「どうも閣下は小官の懸念がお分かりではないようです」
『なんだと、何が分かっていないと言うのだ』
不機嫌そうなゼークト提督の顔に訝しげな表情が浮かんだ。提督だけじゃない、皆が不審そうな表情をしている。口パクちゃんもだ。一体何が分かっていないのだろう。
「先程も言いましたが申請書のミスはこれが最初ではありません、頻繁に起きています。補給担当士官が自分の任務である補給を満足にこなせない、おかしいとは思いませんか?」
『……』
確かにそうなのよね、粗忽にしてはちょっと多すぎる。
「しかも責任は兵站統括部に負わせることで駐留艦隊司令官の知らないところで補給がなされている。何故自ら申請書を起案しゼークト提督に決裁を取らないのでしょう」
『……何が言いたい』
低い声だ。もしかすると怒ってる? 口パクちゃんは? 口パクちゃんはキョトキョトして落ち着きが無い。何で?
「駐留艦隊に誤って送られた物資ですが、こちらには戻されていません。そちらできちんと保管されているのでしょうか? まさかとは思いますが横流し等の不正が行われているという事は……」
『馬鹿な、そんな事は……』
有り得ない、そう言いたかったんだと思うけど提督は口籠ってしまった。第三課の課員は皆顔を見合わせているし所々で頷く姿も有る。私も有り得る話だと思う。口パクちゃんは真っ青になっていた。あんた、その顔色は有罪よ!
「有ってはならないことだと小官も思います。しかし戦闘中に消費した事にすれば物資の数量を誤魔化すのはそれほど難しくは有りません」
提督が唸り声を上げて考え込んでいる。そしてヴァレンシュタイン少将が気遣うような口調で話しかけた。
「監察が入る前に一度提督の手で調査されたほうがよろしいでしょう。放置して監察が入った場合、不正が無ければ問題ありませんが、そうでなければ提督も責任を問われる事は間違いありません」
『部下の監督不行き届きか……』
忌々しそうな口調だった。口パクちゃんの運命は決まった、例え不正が無くてもイゼルローン駐留艦隊からは追放ね。スクリーンに映った口パクちゃんは首でも吊りそうな顔をしている。次は何処に行くのやら……、此処だったら精一杯可愛がってあげる。ヒールでガシガシ蹴りを入れてあげるわ、楽しみ。いまからヒールの先を磨いておかなきゃ。
「いえ、それだけではありません」
楽しい想像にうっとりしているとヴァレンシュタイン少将の声が聞こえた。言い辛そうな口調でゼークト提督と話しかけている。ゼークト提督が少将を見詰めた。
「申請書は提督が決裁されております。その誤りを見抜けなかったとなれば過失を問われるでしょう。最悪の場合、提督御自身が不正に関与していた、故意に見過ごしたと取られかねません」
『馬鹿な! そんな事は有りえん!』
提督が顔を震わせて否定した。屈辱を感じているのかもしれない。でも少将は首を振って話を続けた。
「小官は提督を信じております。しかし監察がその可能性を無視するとは思えません。先程も申し上げましたが早急に提督の手で調査をされるべきかと思います」
少将は提督を気遣っている。この間の戦争で親しくなったのかな? ゼークト提督が大きな溜息を吐いた。
『……卿の言うとおりだな、直ちに調査を行うとしよう。それと今後の事だが駐留艦隊への補給は私の決裁の有る申請書のみ対応してくれ』
「承知しました」
『うむ、卿の心遣いに感謝する』
互いに敬礼を交わし通信が切れると少将がこちらに身体を向けた。スクリーンに向かうと柔らかく笑みを浮かべた。口パクちゃんは真っ青になってブルブル震えている。分かるわ、多分首の周りが寒いのね。
「聞いての通りです。補給に関してはゼークト提督と調整しました。御苦労様でした」
そう言うと少将は一方的に通信を切った。本当に御苦労様、口パクちゃん。もっとも大変なのはこれからだろうけど。
「フィッツシモンズ大尉、全員に通知してください。今後、駐留艦隊への補給はゼークト提督の決裁を必ず必要とする事。それから理不尽と思われる苦情に対しては私に回すようにと」
「はい」
いいなあ、直接指示を貰えるなんて。そう思っていると大尉が少将に話しかけた。
「先程の少将閣下ですが本当に不正を働いているのでしょうか」
ちょっと納得がいかないと言う口調だ。あんたね、ヴァレンシュタイン少将の対応に文句有るの! 副官でしょ、あんたは!
「さあどうでしょう、何とも言えませんね。ただ今後は補給業務に携わる事は無いでしょうし、駐留艦隊からこちらに無茶な依頼も無くなる事は確実です。それで十分ではありませんか」
少将がクスッと笑うとフィッツシモンズ大尉が呆れた様な表情をした。本当に嫌な女ね。
その後、ヴァレンシュタイン少将の言ったとおりイゼルローン駐留艦隊の補給担当士官は交代した。新しい担当者は妙に低姿勢でヴァレンシュタイン少将に“宜しくお願いします”とか言ってきた。口パクちゃんはどうやら本当に不正をしていたらしい。逮捕されて軍法会議にかけられるそうだ。軍籍の剥奪は免れないだろう。
今回の一件では皆が驚いている。ヴァレンシュタイン少将は駆け引きがかなり上手だ。ゼークト提督を上手く操って駐留艦隊を押さえつけてしまった。何時の間にそんな駆け引きを覚えたのだろう。三年の間に信じられないくらい立派になっちゃって……。本当に母親みたいになってきた、どうしよう……。
後日談 今日は
帝国暦 489年 2月 27日 オーディン ゼーアドラー(海鷲) ハンス・エドアルド・ベルゲングリューン
「なあ、ベルゲングリューン、司令長官は“今日は”と言われたんだ、“今日は”とな」
「そうか」
俺が答えるとビューローは“そうだ”と言ってグラスのワインをぐっと呷った。そしてフーッと息を吐く。酒臭い息だな、かなり酔っているのが分かる。
「その後、ヴァレンシュタイン司令長官は“何でもありません”と言ったんだ」
「そうか」
もう三回目だ。ビューローは大分酔っている。そろそろ引き揚げるとするか、明日も仕事なのだ、深酒は良くない。
「ビューロー、そろそろ帰るか」
「いや、もう少し、もう少し付き合ってくれ、あと一杯だ、な、あと一杯」
「……」
完全な酔っぱらいだ。……仕方無いな、もう少し付き合うか。ワインボトルを持ってビューローのグラスに注いだ。二本目だ、いつもより一本多い。これで最後にしなければ……。
「これが最後だぞ」
「うむ、これが最後だ」
いかん、呂律が怪しくなっている。いや、そう聞こえただけかもしれん……。しかしビューローは酷く酔っている。よっぽど今日は辛かったらしい。
「卿は良いよな、良い上官を持って……。いや、俺はミッターマイヤー提督が悪い上官だと言っているわけじゃないんだ。そういうつもりは全くない!」
「……」
これは二回目だ……、しゃっくりをした……。
「故意に忘れたわけじゃないし、直ぐに研修の申請書を作ってくれたんだからな」
「当然だろう。ミッターマイヤー提督はそんな酷い事をする方じゃない」
「そうだ、そんな方じゃない。それに戦場での指揮は的確だ。まだお若いが間違いなく名将だと俺は思っている」
ビューローが力強く頷いている。気持ちは分かる、だがな、ビューロー、空になったワインの瓶を握りしめながら力説するのは止めろ。その内振り回し始めるぞ、危ないだろう……。口に出して注意した方が良いかな……。
ビューローの言うとおり、ミッターマイヤー提督は名将と言って良い。俺の上官であるロイエンタール提督とは親友なのだが二人の性格は大分違う。ミッターマイヤー提督は天然だがロイエンタール提督は怜悧。よく気が合うなと思う事がしばしばある。
今回の研修の申請書の一件もいかにもロイエンタール提督とミッターマイヤー提督らしい出来事だ。ミッターマイヤー提督はロイエンタール提督に“どうして自分に一言言ってくれなかったんだ”と抗議していたがロイエンタール提督は“当たり前の事で卿に教える事でもないと思った”と平然としたものだった。
もっともミッターマイヤー提督が引き上げた後で苦笑していたから内心では困った奴、とでも思ったのかもしれない。とにかくクールだ。ロイエンタール提督のクールな所は何処となくヴァレンシュタイン司令長官に似ているような気もする。
「でもなあ、ベルゲングリューン。ミッターマイヤー提督はこう言われるのだ、“やっぱり司令長官は卿の事を気にしているのだな、羨ましい事だ”と……、何処が羨ましいのだ? 俺は少しも喜べん、卿なら喜べるか?」
「いいや、俺が卿の立場でも喜べんな」
五年半前、第359遊撃部隊に三人の少佐が居た。ヴァレンシュタイン少佐、ビューロー少佐、そして俺ベルゲングリューン少佐……。ヴァレンシュタイン少佐はミュッケンベルガー元帥、エーレンベルク元帥の秘蔵っ子だった。
俺達はそんなヴァレンシュタイン少佐に反感を持った。能力が有る事は分かったが彼を受け入れる事が出来なかったのだ。変に話しかけて取り入ろうとしているんじゃないかと思われても詰まらんし、司令長官から元帥達に妙な士官が居ると言われるのも御免だった。俺達は碌に話すこともなく過ごした。当然ヴァレンシュタイン少佐も俺達に良い感情は持たなかっただろう。
そして今、ヴァレンシュタイン少佐は宇宙艦隊司令長官ヴァレンシュタイン元帥になり、俺とビューローは正規艦隊の司令部幕僚を務めている。俺はロイエンタール提督、ビューローはミッターマイヤー提督。しかもヴァレンシュタイン司令長官の抜擢によって幕僚になった……。
出世コースなんだよな、どう見ても俺とビューローは出世コースを歩いているとしか思えない。しかし俺達はそれを素直に喜べずにいる。ヴァレンシュタイン司令長官は俺達を嫌っているはずだ。それなのに旗下の正規艦隊の司令部幕僚に抜擢した……。どういう訳だろう、本当に何の意味もないのだろうか……。
「ベルゲングリューン、ヴァレンシュタイン司令長官はな、難しい顔をして書類を見ていたのだ」
ビューロー、お前の方が難しい顔をしているぞ。
「うむ、偉くなるにつれて抱える問題も大きくなるのさ。おかしな話ではないぞ」
出来るだけ気楽に言ったつもりだったがビューローの表情は変わらなかった。
「しかしな、俺が申請書を持って行くと直ぐにサインをしてくれたのだ」
卿、俺の話を聞いているか?
「なるほど、司令長官はサインをしたのだな」
「そうだ、そして“今日は”と言われたんだ」
……四回目だ。
「その後、“何でもありません”と言ったんだよな」
俺が先回りして言うとビューローはちょっと傷ついたような表情をした。いかんな、ビューローを傷つけてしまったか……。しかし、そろそろ切り上げないと……。
「そうだ、“何でもありません”と言ったんだ。本当は何を言いたかったんだと思う?」
俺に聞くな、分かるわけがないだろう。それにビューロー、そんな縋る様な目をするんじゃない。近所で飼っているポメラニアンを思い出すじゃないか。
「さあ、よく分からん」
「お前なんか大っ嫌いだ、顔も見たくない……。そう言いたかったのかな?」
「それは無いだろう」
本当は卿がそう思っているんじゃないか……。
「気分が良くない? 笑わせてもらった? かな……。直属の司令官にも忘れられている哀れな奴……。笑えるよな?」
「そんな事は無い、笑えないさ」
俺が否定するとビューローは生真面目な表情で頷いた。
「そうだよな、笑えないよな」
「……ビューロー」
「大爆笑してしまうもんな、大笑いだ」
そう言うとビューローは大声で笑い出した。いかん、ビューローはかなり自虐的になっている。
「そんな事は無いだろう、考え過ぎだ」
敢えて軽い調子で言ってみたが、ビューローには通じない。笑いを収めると目を据えて問いかけてきた。
「じゃあ、厄日か?」
「それも考え過ぎだ」
「……」
ビューローが唸り声をあげてグラスを睨んでいる。今度はブルドックだな……。
「なあ、ビューロー」
「うむ」
「俺達はちゃんと昇進しているし何処かに左遷されたわけでもない、そうだよな」
俺の言葉にビューローはちょっと間をおいてから頷いた。
「何か他の連中と比べてあからさまに差別されたわけでもない、そうだろう」
「うむ」
「俺達は公平に扱われていると思う。そんなに心配する事は無いんじゃないか」
ビューローは小首を傾げて考えこんでいる。まあ考え込むのも無理もないな、俺も納得していると言うよりはそう思いたがっている部分が強いのだ。司令長官を畏れるのは俺やビューローだけではない。若くして高い階級に有る人間の中にはヴァレンシュタイン司令長官を畏れる者が少なくない。
軍人としての資質に対してだけではなく自分以上に昇進の早い司令長官に不可思議なものを感じるのだろう。自分に自信が有る者ほどそういう傾向が有る。
司令長官の傍近くに居るワルトハイム達もその点では変わらない。普段側に居るからか彼らは司令長官の事を良く知っている。彼らは司令長官を尊敬しているし敬愛してもいるのだがその彼らでも時折畏れを抱くようだ……。
「……そうかもしれん、確かに差別はされていないだろう。……しかし俺達は疎まれているんじゃないかな」
いかんな、また元に戻った。
「バイエルラインだって補給基地には飛ばされなかったし、旧ローエングラム伯の艦隊も新たにシュトックハウゼン提督を司令官に迎えている、艦隊は解体されなかった」
「……」
バイエルラインはともかく旧ローエングラム伯の艦隊が解体されなかった事は皆が驚いた。司令官が反逆者として処断されたのだ。本来なら麾下の高級士官達は何らかの処分を受けてもおかしくは無かったと思う。俺だけでは無い、皆がそう思っていたはずだ。
例え処分が無くとも多少ポストで割を食ってもおかしくは無かった。実際に艦隊は正規艦隊からは外れる事になった。しかし全員昇進したし異動も無かった。司令長官は艦隊には全く手をつけなかったのだ。
今では新司令官としてシュトックハウゼン上級大将が司令官となりいずれはイゼルローン要塞を攻略する事になるらしい。司令長官配下の艦隊としての扱いは全く変わっていない……。
「司令長官は鷹揚な方でそんな根に持つ方ではないのかもしれんぞ。俺達が感じ過ぎなだけなのかもしれん」
「そう思うか」
だからな、ビューロー。その縋る様な目は止めろ。つい頭を撫でたくなるじゃないか。
「少なくとも司令長官は公平な方だし陰険な方でもない。悪い方じゃないだろう」
「……そうだな」
「そうさ、俺達にとってはそれで十分じゃないか」
「……そうだな」
ビューローが幾分困惑した様な表情で頷いた……。
これで一ヶ月位は持つかな。来月の末ぐらいにはまた酒を飲みながら愚痴を零すだろう。今度はどっちかな、最近はビューローが多いから今度は俺かもしれん……。それにしてもあの時の第359遊撃部隊がいまだに祟るとは……、人間どんなところで躓くか分からんな。
五年半前、帝国を揺るがした事件が発生した。サイオキシン麻薬事件だ。一年間、軍が外征を取り止めるほどの大事件だった。軍の一部に辺境の基地でサイオキシン麻薬を密造。軍、そして民間に流す事で利益を上げていた連中が居た。
サイオキシン麻薬が非常に危険な事は皆が分かっていた。警察はサイオキシン麻薬の撲滅に力を入れていたが結果を出せずにいた。当然だろう、事が事だ、誰も軍人がそんな事をしているとは思っていなかったのだ。サイオキシン麻薬の被害は確実に帝国を蝕んでいた。
その事件の摘発のきっかけを作ったのがヴァレンシュタイン大尉だった。大尉は少佐に昇進しそれ以後エーレンベルク、ミュッケンベルガー両元帥の信任を得ることになった。苦い思い出だな、あの頃の事は……。
気が付けばビューローがテーブルに突っ伏していた。
「おい、ビューロー、寝るな、寝るんじゃない」
「……お許しを、お許しを……」
ビューローは突っ伏したまま誰かに謝っている。どんな夢を見ているのかと思うと溜息が出た。また俺がこいつを背負って帰るのか……。酔っ払いって重いんだよな……。
二人で司令長官に謝ってしまおうか。しかし、俺達の気の所為だったらそれこそ笑い話だろう。いや、笑い話なら良い。司令長官に軽蔑されたら……。
“卿らは私の事をそんなつまらない人間だと思っていたのですか”
冷たい視線で見据えられる光景が目に浮かぶ。はーっ、厄介な人だ。怖いし嫌われてるかもしれないから近づきたくは無いんだが、軽蔑はされたくない、どうしたもんだろう……。
もう一度あのころに戻れたら……。
追憶 ~ オフレッサー ~
前書き
少し短めです。
帝国暦 488年 6月17日 オーディン ヘルマン・フォン・リューネブルク
まだ昼には早い時間だがドアを開けて店の中に入った。あれからもう半年以上が経つが店の中は少しも変わっていなかった。客はそれほど多くない、むしろ空席が目立つ。この店が混むのは後一時間程後の事だろう。店の主人、いや親父だな、彼が俺を見て微かに頭を下げた。ほんの少し、申し訳程度だ。
適当な席に座ると親父がやってきた。相変わらず無愛想なオヤジだ、むっつりとしている。客商売など到底出来そうな男には見えない。オーディンで料理を作るより辺境で樵(きこり)でもやっている方が似合いそうな男だ。
「お待ちしておりました。いつもの奴で構いませんか?」
待っていた? 低くどすの利いた声だった。まじまじと親父を見たがまるで表情を変えない。無言で俺の答えを待っている。
「……ああ、いつもの奴を頼む」
親父は軽く頭を下げると戻って行った。妙な感じだ。いつもの奴か、俺はここに来るのは二度目だ。しかも前回から半年以上が経っている。それなのに親父は俺を常連客の様に扱い俺もそれを受け入れている……。覚えているのだろうか、俺を。……俺とオフレッサーを。
ここに来るのは正直迷った、行くべきだとも思ったし、行くべきではないとも思った。大体俺はここに何をするために来たのだろう? 食事をするためだろうか? あの男の事を思い出すためだろうか? 良く分からない、だが俺は今此処に居る……。
暫くして料理が運ばれてきた。親父が出してきた料理はアイスバインを使ったシュラハトプラットだった。白ワインが一本添えられている。あの時と同じだ、間違いなく親父は俺を覚えている。親父が俺のグラスにワインを注いだ。一口飲む、冷えた液体が喉を潤した。爽やかな酸味と芳醇な香りが口の中に広がる。
「美味いな」
素直に美味いと言えた。かなりの上物だろう、この店には似合わない代物だ。美味いと言った事が嬉しいらしい、無愛想な親父が微かに笑みを浮かべた。
「あの後、オフレッサー閣下がいらっしゃいました。私にこれを預けておくと言われまして……」
「……」
オフレッサーが預けた……。
「もう直ぐ内乱が始まる。先日飯を食ったあの男と闘うことになる。俺が勝つか、あの男が勝つか……。勝った方がこの店に来るだろう、その時、このワインを出してくれと……」
「そうか……」
もう一口飲んだ、やはり美味い。来て良かった、オフレッサーの配慮を無にせずに済んだのだ、間違いでは無かったと思えた。勝者に相応しい、いや勇者に相応しい飲み物と言えるだろう。出来る事ならあの男にも飲んで欲しかった……。
“馬鹿を言え、卿が俺の立場なら降伏するか? 敗者を侮辱するな、勇者として扱え”
“我等の前に勇者無く、我等の後に勇者無し。さらばだ、リューネブルク”
いや、あそこで散ったからこそ飲んで欲しかったと思うのだろう。人は無理な事ほど叶えたいと願うものだ……。あの男が捕虜に甘んじる事など有り得ない。
「オフレッサー閣下と一騎打ちをなされたそうで」
「ああ」
親父がゆっくりと頷いた。
「二、三年前からあの方は嘆いておられました。装甲擲弾兵としての自分は少しずつ衰えていると」
「衰えている?」
「はい、そして願っておられました。自分がヴィクトール・フォン・オフレッサーとして闘える間に思う存分闘える相手と出会いたいものだと。……御辛かったのでしょうなあ、ただ老いていくという事が……」
「……」
親父は遠くを見ている。無愛想な親父の詠歎する様な口調が心に残った。力有る男がその力を発揮する事無く老いていく、その事に苦しんでいる。傍で見ているのは辛かっただろう。親父が俺を見た、穏やかな目をしている。
「喜んでおいででしたよ、オフレッサー閣下は。ぎりぎりで間に有ったと、ヴィクトール・フォン・オフレッサーとして闘えると……。このまま朽ちて行くのかと思ったが大神オーディンは最後に俺の望みを叶えてくれたようだとおっしゃっていました……」
「そうか……」
俺は間に有ったのか……。
“卿とは闘えぬのかと思った。だが大神オーディンは俺を哀れんでくれた。卿が来てくれた時、一騎打ちを望んだ時、俺は嬉しかった。感謝するぞ、リューネブルク。良く此処へ来てくれた”
あの言葉に偽りは無かった。オフレッサーは本当に喜んでいた。しかし、衰えていた? それが事実なら俺が勝てたのは僥倖としか言いようがない。
親父がゆっくりしていってくれと言って厨房に戻った。運が無かったな、オフレッサー。衰えていなければ勝利を収めたのは卿だっただろう。いや、衰えていたからこそ俺と戦いたがったのかもしれない。そうでなければ俺との戦いなど望む事は無かったはずだ。歯牙にもかけなかったに違いない。
食事は美味かった。絶品と言って良いシュラハトプラットと美味い白ワイン。十分に堪能できた。勘定を済ませる時、親父にまた来てくれと言われたが素直に頷く事が出来た。妙なものだ、来るときに有った拘りは綺麗に消えていた。
“このシュラハトプラットを食べて戦場に出る、このシュラハトプラットを食べるために戦場から戻る、その繰り返しだ。人間など大したものではないな、いや、それとも大したことがないのは俺か……”
その通りだ、オフレッサー。人間など大したものではない。詰らぬ事でくよくよ悩み、美味いものを食べれば悩みも消える、そして何を悩んでいたのかと馬鹿馬鹿しく感じる、その程度の生き物だ。だがそれでも何かに拘る、拘らずにはいられない、それも人間だ……。
卿が俺との一騎打ちに拘ったのもそれだろう。卿は信頼できる上官に出会う事が出来なかった。貴族達からもその血生臭さを疎まれ受け入れられる事は無かった。孤独だったはずだ、だからこそ装甲擲弾兵としての力量に、戦士としての誇りに拘った……。ただ生きて行くのなら不要なものだ、だが人として死んでいくには不可欠なものだったろう。
気が付けば宇宙艦隊司令部に来ていた。司令長官室は今日も喧騒に包まれている。昼休みの筈だがここは静寂とは無縁だ。執務机で決済をするヴァレンシュタインに近付くと彼が俺をチラッと見た、そしてまた決裁に戻る。
「相変わらず此処は賑やかですな」
「ええ、内乱の後始末も有りますが艦隊司令官達が治安維持のために出撃しています。色々と大変です」
大変です、と言いながらも声は明るい。戦争よりも国内の発展に力を尽くせることが嬉しいらしい。妙な男だ、軍人なのに。
「装甲擲弾兵はどうです、掌握出来ていますか?」
「徐々に努めてはおります」
「徐々にですか……。頼みますよ、総監。直ぐに戦争が始まる事は無いと思いますが油断はして欲しくありません。私はこの宇宙から戦争を無くしたいんです」
ヴァレンシュタインが俺を見た。笑みは浮かべているが目は笑っていない。
ヴァレンシュタインの推薦により逆亡命者である俺は装甲擲弾兵の総監に就任した。異例の事だ、帝国始まって以来の事だろう。彼は俺を信頼し、俺を評価し、俺の事を心配もしてくれる。ヴァンフリートで、イゼルローンで、そしてオフレッサーと戦ったレンテンベルクでその事は分かっている。俺は良い上司を持つ事が出来た。
「分かっております、小官も三十年後の宇宙を見てみたいと思っているのです。閣下との約束ですからな」
「そうですね」
ヴァレンシュタインが頷いた。
そう、俺には夢が有る。三十年後の宇宙をヴァレンシュタインと共に見るという夢が。俺だけでは無い、他にも同じ夢を見ている人間が大勢いる。だから俺は孤独ではない、老いて行く事を怖れる事も無い。俺は一人の人間として希望と夢を持ってこれからの人生を生きていけるだろう、三十年後の宇宙を見るために……。