ここから本文です
[PR] 

引き揚げ:仲間がバタバタ死んだ−強制労働耐えた平野力さん

両丹日日新聞 7月20日(日)8時30分配信

凍る大地と厳しいノルマ

 労働は過酷だった。大地は凍って、ツルハシさえはじき返す。「まるで鉄板に穴を掘るようでした」。それでもノルマは厳しく、「ブストライ(早く)、ブストライ!」「ラボート!(働け)」と監視兵にわめき散らされる。酷寒の中とあって、何度も凍傷になりかけ、仲間と指や鼻をマッサージしあった。

 水が無いので風呂に入れない。顔や歯も洗えない。シラミと南京虫ばかりわいて血を吸っていく。空腹と疲れで、倒れ込むように寝床についても、かゆくてたまらず、眠りが浅くなる。みんなどんどん体が弱り、死んでいった。「年寄りやないんですで。若い、体力旺盛やったもんが、そうやって次々死んでいくんです」

 寝ても起きても頭の中は食べ物のこと。とにかく空腹だった。半世紀以上を経た今も、当時のことは頭から離れない。「宴会やらで、食べきれずにどうしても料理が残りますわなあ。それを見ると、あー、これがあったら、あいつは死なんですんだのに、とねえ」。自身の苦難は気丈に語ってくれる平野さんも、仲間の死については、涙無しには語れなかった。

帰りを待つ家族も必死−無数の岸壁の母たち

 日本人が抑留されている間、帰国を待つ家族らも、じっとしていたわけではなかった。引揚船が入港するたび、舞鶴には「もしやこの船に」と岸壁の母、岸壁の妻が詰めかけた。

 平野さんの母は「わが子が寒い思いをしてるのに」と冬でも衣一枚で過ごした。父は病の体をおして、GHQや日本政府へ働きかける全国運動に参加。こうした人びとの「肉親を返せ」との声が大きなうねりとなって、抑留者の帰国がかなう日が来た。

 収容所内で「帰国が始まるらしい」とのうわさを耳にしても、まだ信用しきれなかったが、日本人を大勢乗せた列車が東へ向かうのを見るようになると「今度は本当だ」と希望がわき、やがて自分たちの番が来た。ウラジオストックから乗り込んだ引揚船の名は「第一大拓丸」。いろんなことがありすぎ、最後まで安心できなかった抑留・引き揚げだったが、舞鶴が近づき、青い松が見えたとき「ああ、やっと帰って来たと思えました」。

 夢にまで見たわが家へ帰宅。そこで母から知らされたのは、平野さんの名を呼びながら3カ月前に父が亡くなったとこと。「親父の死に目には間に合わなんだけど、私は帰ってこられただけ幸せ。シベリアだけじゃない、同級生の多くが南方で、沖縄で、特攻や玉砕してます。絶えてしもた家が近所にも、ようけあります。わしらのようなことは二度と若者に経験させたらいかん。戦争は絶対にいかんのです」

両丹日日新聞社

12次へ
2ページ中2ページ目を表示

最終更新:7月20日(日)8時30分

両丹日日新聞

 

PR

Yahoo!ニュースタブレット版公式アプリ

注目の情報


元奪三振王・池谷公二郎の歩み

現役12年間で4度リーグ優勝。現在は野球指導者や解説者としても知られる元広島の池谷氏の歩み。

他のランキングを見る