フェスティバル/トーキョー14

フェスティバル/トーキョー14 コンセプト

収束する多様性

 いくつものバラバラな考えが、見えない強制力によって道筋をつけられ、一定のパターンに収束していくような現象に、私たちは日々遭遇している。

 見えない強制力は、24時間休みなく降り注いでくる情報という形をとろうと、もっとあからさまに世論という形をとろうと、強い磁場を通り抜ける光が知らぬ間にねじ曲げられるように、 <いま> 、 <ここに> 生きている限り避けようもないことなのだろう。むしろそれが生きているということなのかもしれないと思えるほどである。

 先日も、食に関する有名な漫画が福島を描き、それが「風評被害」を助長するということで休載に追い込まれたが、「風評被害」という磁場が強力に働いた結果、本当の事実は「もうどこからも見ることができない」、ということを思い知らされたような気がする。実際そのような現象は数限りなく繰り返されており、本当に「もうどこからも見ることはできない」と諦めかけたときにこそ、「アートがまだ存在しているではないか」という地の底からのうなり声が聞こえるはずであると言いたい。

 だから今こそ、「アートの力」が必要とされている。

 光をもねじ曲げる強い磁場によって収束させられる多様性を、それでもなお確保しようとするならば、その磁場をも破壊するブラックホールのような力を想定するよりも、風にそよぐ葦のような柔構造を思い描いてみたい。そしてそのような柔構造を支えるのがアートの力であると考えている。見えない強制力に対抗できる最高の武器をアートは持っていると考えているし、そのような見えない磁場の持つ強制力の正体を暴き出そうとする多くのアーティストを信頼することによってのみフェスティバル/トーキョー14は成立しているのだと考えたい。

 本年も作品をともに創っているパレスチナのラマラにある「アルカサバ・シアター」は、世界の新聞を舞台上に山のように積み上げ、しぶとく生き続けるパレスチナの人々をその中から登場させ、「我々は新聞の社会面の中に存在しているわけではない」とかつての作品で主張した。舞台作品の強みは、そこに現実に人が立っているということだろう。

 多様性は、磁場の強制力をやり過ごしたその先にある「真実の」多様性によってのみ保証されていて、なんの努力もなく多様性が存在しているものでもないだろう。

 とはいえ、いくつもの困難や危機は存在している。もっとも大きな危機は、私たちの内に働く自己規制である。日々に降り注ぐ情報や世論の影響力の下に私たちは生きているので、自己規制しようとする意志は常に私たちの内に働いている。また、その自己規制との<緊張関係>を自覚しない限り、フェスティバルのプログラムを創ることすらできない。ただの防衛本能だけでも、はたまた自爆テロでも、何も創ることはできない、ただその<緊張関係>の自覚だけが足下を照らす一筋の灯りと思える。

多様性と少数者

 現在は、多様性を前提としてアートは成立していると考えられる。現在形のアートに触れるときには、少なくとも多様性を認めることくらいは共通項としたいとは思う。さて、その場合の現在とはどの程度の射程で言われているのかというと、あくまで基底的な社会体制の変化のなくなった先進諸国の成立とともにではあり、簡単にいえばテロやクーデターや革命といった形で社会の変化が想定されない成熟社会の成立を前提としている。自分と違った考えをもつ他者を認めるということと、そのような他者を認めたところで、テロもクーデターも革命も絶対に起きないということは、ほとんど同義であるに違いない。

 多様性の社会とは、誰もが多数とならないような社会のことで、アートは少数者の立場に立つということと、多様性を前提として現代アートは成立するということはほぼ同じである。

 ところでこれまでアーティスト、特に言語を操るアーティストといえば、反抗的、反権力的と思われてきた。どちらかと言えば、アーティストは、時の権力におもねらず、自身の選んだ道を歩み続ける人だと思われてきた。権力者にとっては、社会性の欠如した扱いにくい人種であったはずだ。

 しかしそのようなアーティスト像はすでに現在のものではない。なぜならば、それは、圧倒的な多数派を形成する強い権力の存在を前提としているからで、現在は、どのような部分(パーティー)も多数を形成しない。アーティストが少数者であると同じように。

 社会の圧倒的多数とは異なった生き方をすることで、社会を違った角度から捉えて表現行為とするようなことはもう不可能で、どのように異なった生き方をしようと、多様性の社会はそれを許容してしまう。それと同時に、少数者といえどもかなりの人数がいることは、インターネットの普及とともに確実に確かめられることである。

 多様性の社会では、アーティストもアートも社会の内側で成立させることが重要である。違った考えをもつ他者の存在を認めることさえすれば、かなりの程度すべてを社会の中へと入れこむことが可能であるはずだが、困難もたくさんある。

 この現在に新しいアーティスト像を描くことにエネルギーを注ぐか、アートという枠組みさえも消し去っていく流れの方が速いか、ここしばらくは楽しみながら眺めていたいような気分だ。

謝辞

 フェスティバル/トーキョー14は、実にたくさんの人々の心温まる支えがあって開催される。機会があれば協力いただいたすべての方々のお名前を列挙して深く頭をさげたい。特に、会社や団体に所属して、その仕事という形で助けていただいた方々について、もはや仕事上という枠組みでは語ることのできないほどの厚意を心底から感じることができ、こんなにうれしいことはなかった。

 今回のフェスティバルから大きく変化しているのが組織体制である。アーツカウンシル東京ができたことで、東京都が主催団体から外れることとなった。これはフェスティバルの自主性を尊重しようとする東京都の意志で、その配慮に深く感謝している。今後、フェスティバルはアーツカウンシル東京と手を携えて進んでいきたい。豊島区、公益財団法人としま未来文化財団は引き続いて主催団体に残って、直接的にフェスティバルを支えていただいている。私たちにとって、区や文化財団は行政機関というよりは、なにかにつけて駆け込む良き相談相手である。

 文化庁についても、引き続き多額の支援をいただいている。

 新しいフェスティバル実行委員長、及び実行委員の方々と事務局を構成するNPO法人アートネットワーク・ジャパンとの信頼関係は、これから長い時間をかけて構築することが重要で、より社会に開いた形が生み出されることを望んでいる。

 また、アジアのプロジェクトについて国際交流基金の大きな協力があるとともに、アサヒビール経営企画本部社会環境部にも協力をいただいている。

 豊島区立舞台芸術交流センターあうるすぽっととも、私たちからはよりよい関係が築けていると思っている。きっと相思相愛であるに違いない。

 東京芸術劇場には、後援という形をとりながら様々な協力をいただいている。こちらは相思相愛というより私たちの方からの一方的な愛情宣言に近い。

 感謝する相手は限りないが、どちらとも人間的な信頼関係をつくり出すための時間は惜しまないつもりである。「メールを5回出すならば、1回は実際に会いにいこう」

 なお、今回はディレクターズコミッティを形成し、集団的な共同体制によりフェスティバルを実施する。

2014年7月
フェスティバル/トーキョー14 ディレクターズコミッティ代表
市村作知雄

ディレクタープロフィール

1949年生まれ。ダンスグループ山海塾の制作を経て、トヨタ・アートマネジメント講座ディレクター、パークタワーホールアートプログラムアドバイザー、(株)シアター・テレビジョン代表取締役を歴任。東京国際舞台芸術フェスティバル事務局長、東京国際芸術祭ディレクターとして国内外の舞台芸術公演のプログラミング、プロデュース、文化施設の運営を手掛けるほか、アートマネジメント、企業と文化を結ぶさまざまなプロジェクト、NPOの調査研究などにも取り組む。現在、NPO法人アートネットワーク・ジャパン会長、東京藝術大学音楽環境創造科准教授。

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