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人はなぜ性器を隠すのか

私たち人間は、自分の性器が他者、とりわけ異性の他者に見られることに強い羞恥心を感じる。植物は、自分の性器である花を、それこそ「はなばなしく」誇示し、動物も、自分の性器の露出を恥ずかしいとも何とも思っていない。なぜ人間だけが恥ずかしそうに自分の性器を隠さなければならないのか。

1. 人間だけがセックスをタブーにしている

人間にとって、性器の露出は、恥ずかしいだけの問題ではない。日本では、例えば、自分の性器の写真をインターネット上で公開すれば、猥褻物頒布の罪で逮捕される。

第174条 公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。

第175条 わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。

公然猥褻や猥褻物頒布等は、一部の目撃者が不快感を持つかもしれないから有罪というわけではない。刑法180条にあるように、両者は親告罪ではない。だから、例えば、ストリップ小屋でストリッパーが性器を露出すれば、客は当然全員満足するだろうが、それでも公然猥褻と判断され、逮捕される。

ところが、これはよく考えると奇妙なことではないだろうか。一般に、犯罪行為は、他者に不利益をもたらすから処罰される。利他行為を法で禁止することはナンセンスである。ではなぜ、一方で金を払ってでも異性の性器を見たいという人が多数いるにもかかわらず、その人たちの欲望を満たしてやることが有罪になるのか。

私たちが、性器を隠蔽しなければならないのは、セックスをタブー化するためなのかもしれない。しかし、この推測は、なぜセックスをタブーにしなければならないのかという新たな問いを生じさせる。

セックスをタブー視している動物は人間だけである。動物の中には、隠れてセックスをするものもいるが、それは交尾中に捕食動物に狙われないようにするためとか、メスを独占しているアルファオスの目を盗むためといった動機に基づくのであって、恥ずかしいから人目を避けて性交するという動物は人間だけである。文化によっては、人前でのセックスが宗教的儀式として行われるところもあるが、そうした例外は、かえって衆人環視の元にセックスすることの非日常性を証拠立てている[g]

[g] ギリシャでは、裸でいることが恥ずべきことではなかった。但し、はじめからそうだったというわけではない。プラトンによれば、この習慣は、クレタから始まり、スパルタに伝わり、前ギリシャに広まったとのことである。この他、ジャイナ教の裸行派は、完全な裸体で修行をする。

2. なぜ性フェロモンは機能しなくなったのか

結論を先に述べよう。私の仮説は、人間は、失った性フェロモンの機能を代償するために、性器を隠し、セックスをタブーにしているというものである。別の表現を用いるならば、自然排卵動物である人間を人為的に交尾排卵動物にするために性器を隠しているということである。

自然排卵動物とは、一定周期で排卵を行い、排卵の時期になると、メスは発情して性フェロモンを出し、オスに知らせて交尾し、妊娠するタイプの動物で、多くの哺乳類が自然排卵動物である。

これに対して、交尾排卵動物は、メスが、交尾の際にオスから受けた刺激によって排卵し、妊娠するタイプの動物で、猫、ウサギ、イタチ、ミンク、テンなどが典型的にそうである。典型的な交尾排卵動物は、交尾をしない限り、排卵しない。

人間は、他の霊長類と同様、自然排卵動物であって、典型的な交尾排卵動物ではない。だから本来は、女は、性フェロモンを用いて、男に排卵期を教えなければならないのだが、なぜだか人間は、フェロモンに対してほとんど反応しない。読者の中には、「私は、異性の臭いをかぐと性的に興奮するから、フェロモンを感知する能力がある」と言う人がいるかもしれない。しかし、それは、必ずしも性フェロモンを感知する能力を証明するものではない。なぜならば、フェロモン自体は無臭で、狭義の嗅覚によって感知されないからである。

フェロモン信号の受信は、鋤鼻器官(ヤコブソン器官)という、人間の場合、鼻孔の内側近くにある小器官によってなされる「第六感」である。現在の人間においては、「第六感」は、嗅覚全般と同様に、他の哺乳動物と比べて著しく後退しており、発情をもたらす刺激は、嗅覚的信号よりも視覚的信号の方がメインである。しかし、かつては、私たちの祖先も、他の霊長類と同様に、フェロモンによって発情したと考えられている。

ヒトの個体発生において、胎齢24週目くらいの胎児のときに鋤鼻器官から神経束が伸びて脳の先端にある副嗅球につながる。一度は他の哺乳類と同じように鋤鼻神経系が完成するのである。副嗅球はその後胎齢が進むにつれて消えていき、出産時には痕跡となり、新生児に神経束が残ることは稀である [鈴木 隆:匂いのエロティシズム, p.123]。この個体発生で繰り返されるプロセスが、ヒトの系統発生でも生じたようだ。

だが、果たして、私たちは、フェロモンの影響を全く受けなくなったのだろうか。人間の性フェロモンは、思春期から壮年期にかけて、腋や性器などの特定部位のアポクリン腺から分泌される。女性に男性の性的魅力を格付けさせたイギリスでの実験によると、女性の被験者を、男性の腋の下から分泌される男性フェロモンの中に置くと、全員が、そうでないときと比べて、男性の性的魅力度を高く評価した。とりわけ、排卵期の(つまり、妊娠可能な)女性には大きな効果があった。男性に対する女性フェロモンの影響も、オーストリアの研究者によって確認されている。現に、フランスの娼婦は膣液を耳の裏に塗って、男を誘惑する。

このように、人間もいまだにフェロモンの影響を受けてはいるが、人間において性フェロモンが果たす役割が決定的に小さくなってしまった。これは、繁殖戦略上不利なことである。私たちは、発情期とかフェロモンとかを動物的だとして軽蔑し、これらを捨てたことを進歩と考えがちである。しかし、フェロモンは、光学的刺激とは違って、夜間でも有効だし、密閉されない限り、障害物を乗り越えるので、コミュニケーションの手段としては優れている。また何よりも、男は、排卵期がわからなくなったおかげで、自分の子孫を残すという本来の目的からすれば「無駄な」セックスをしなければならなくなった。

こうしたデメリットを考えるならば、人間が自発的に、フェロモンを捨てたとは考えられない。では、なぜ、私たちの祖先は、排卵期にだけフェロモンに刺激されて発情するという通常の性生活から逸脱したのか。

前回の[論文編:ヒトは海辺で進化したのか]で紹介したアクア説は、この問いに答えてくれる。

In mammals, oestrous status is communicated by scent signalling - a pheromonal message emitted by the female. Being airborne, it may be carried quite a long way - as evidenced by the distance a dog will travel to locate a bitch on heat. But in a wading or swimming ape, the pheromones would be washed away almost as soon as they were secreted.

哺乳類では、発情期であることを知らせる信号は、嗅覚的なものである。メスがフェロモンを出して、それを伝えるのだ。空気中であれば、そのにおいは遠くまで運ばれる。オスの犬が遠くから、発情期のメスを探り当ててやってくることからも、それは分かる。しかし私たちの祖先たる類人猿が水につかっていたのなら、分泌されたフェロモンは、すぐに押し流されて消えてしまったはずである。

[Elaine Morgan:The Scars of Evolution, p.148-149]

フェロモンは空中でのみ正しく異性に伝わるのであって、水中では流されて機能しない。だから、水中への適応放散でヒトがチンパンジーと分岐して以来、しだいに男は、女がいつ発情しているのかわからなくなったと考えることができる。ただし、水中生活が増えたからといって、すぐにフェロモンが機能停止したと考えることはできない。その証拠に、私たちは体毛を完全に失っていない。

アクア説によれば、ヒトは、水中生活に適応するために、裸になった。だが、ヒトには、例外的に毛が残っている箇所が三つある。頭部と腋の下と性器周辺である。頭髪や髭などが残存しているのは、呼吸のため、頭が水中に没することが少なかったからである。人間が腋の下と性器周辺に毛を生やしているのは、腋と性器から放出されるフェロモンを毛に付着させることにより、効果的に空中に散布するためである。四足歩行をしていた時には、鼻の高さと性器の高さが同じだったが、直立二足歩行をするようになってからは、高くなった鼻の位置に合わせて、腋の下からも分泌されるようになったと考えることができる。

3. 規範の非日常的侵犯が排卵を促す

水辺で暮らすことが多くなると、性フェロモンを媒介にした交尾が減る。しかし自然排卵での妊娠が減っても、人類は滅びることはなかった。ヒトのメスは、オスから強い性的刺激を受けることで、交尾排卵して妊娠することができた。すなわち、強い性的刺激があれば、オスは射精することができ、メスは、オルガスムスに達することで、下垂体からLH(黄体形成ホルモン)サージを引き起こし、排卵し、妊娠することができる。

そうした強い性的刺激は、日常的な倦怠を打ち破る非日常的なエロティシィズムでなければならない。そして、エロティシィズムの炎を燃え上がらせるのは、非日常的な死の恐怖である。

竹内久美子はこんな例を挙げている [竹内 久美子:三人目の子にご用心!―男は睾丸、女は産み分け, p.175-191]。第一次世界大戦および第二次世界大戦での調査によると、兵士たちに1日程度の休暇を与えて帰郷させると、排卵期ではない、つまり、本来妊娠可能でない状態の女性までが妊娠した。また、アメリカでは、パール・ハーバーから268日経った後、出産ラッシュがあった。このことは、パール・ハーバーのニュースがアメリカに流れた日、セックスした女性が非常に高い確率で妊娠したということである。

夫が戦場に出かける時、妻は夫とのセックスはこれが最後になるのではないかという不安に駆られる。なぜ、そうした不安があると妊娠しやすくなるのか、竹内にはわからない。

興奮すると女は排卵する。しかしそれがどういう意味を持つのか、まだ定かではない。

しかし、有性生殖の本来の機能が生存を脅かすリスクの増大への対処であることを考えれば、なぜ死の危険が生殖機能を向上させるのかは容易に理解できる。すなわち、種の存続が危なくなると、その種は、様々な子供を作ることで、種全体の絶滅を阻止しようとする。

死の危機が迫ると妊娠率が向上するということは、妊娠率を向上させるには死の危険を作り出せばよいということである。実際、交尾排卵動物の中には、この手法を実践している動物もいる。例えば、ミンクのオスは、メスの首筋を噛み、血をほとばしらせることでメスを興奮させ、排卵させ、妊娠させる。人間の場合でも、強姦や不倫といった、法や道徳を破るセックスの方が、合法的な夫婦どうしの日常的なセックスよりも妊娠率が高い。

人間以外の霊長類も、自然排卵だけでなく、交尾排卵をする。例えば、オランウータンのオスは、発情期でないメスを強姦することがある。だが、人間以外の霊長類は、性フェロモンの機能が健在であるため、自然排卵だけでも確実に繁殖できる。これに対して、人間は、自然排卵だけを頼りにしていると、繁殖が不確実になる。

そこで、人間は性器を隠蔽し、セックスをタブーにした。性器を日常的に隠蔽し、その露出を規範によって禁止することで、その規範の非日常的侵犯がもたらすエロティシィズムの興奮を増大させる。

性器の隠蔽以外の方法でもセックスをタブーにすることができる。例えば、男女の肌の接触を禁止することにより、抱擁のエロティシィズムを高めることもできる。だが、セックスのタブー化で最も中心的な役割を果たしているのは、性器の隠蔽である。

セックスをタブーとすることは、セックスの否定ではなくて、むしろ肯定である。刑法第174条に明文化されている公然猥褻の禁止は、猥褻の否定ではなくて、肯定である。もっと正確に言えば、それは否定することによる肯定である。

読書案内

人間でも性フェロモンが機能していることに関しては、この本を参照されたい。

書名 男と女はなぜ惹きあうのか―「フェロモン」学入門
媒体 新書
著者 山元 大輔
出版社と出版時期 中央公論新社, 2004/12

この本のアプローチは、ユニークだ。ただし、匂いのエロティシズムと性フェロモンは関係がない。匂いのエロティシズムはフェティシズムの一種であり、人間の性の本質を成さない。

書名 匂いのエロティシズム
媒体 新書
著者 鈴木 隆
出版社と出版時期 集英社, 2002/02

アクア説による、性フェロモンの無効化については、この本の203-204頁に書かれている。教科書などには、サバンナに住むヒトのメスは、子育てをするために、食糧をオスに依存せざるをえないので、夫婦の絆を強めるために一年中発情するようになったという専業主婦説が、定説として載っているが、この説に対する批判も、この本に譲ろう。

書名 進化の傷あと―身体が語る人類の起源
媒体 単行本
著者 エレイン モーガン 他
出版社と出版時期 どうぶつ社, 1999/01

「興奮すると女は排卵する」という話は、この本で紹介されている。

書名 三人目の子にご用心!―男は睾丸、女は産み分け
媒体 単行本
著者 竹内 久美子
出版社と出版時期 文芸春秋, 1998/08
[投稿者:永井俊哉|公開日:2002年11月 2日|コメント:36個]
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コメント(36)

永井さまのこの説には、諸手をあげて賛同しがたいような、なんとなく正鵠を射ていない「微妙なズレ」、隔靴掻痒の感じがして仕方がありません。それが何なのか、表現に挑戦してみます。
原因は、おそらく、問題提起が「なぜ人は性器を隠すのか」となっているせいだと思います。
「性のタブー視は、猥褻概念と不可分一体である」
まず、この命題は首肯して戴けるのではないか、と思います。
たとえば、野球場で素っ裸で応援した女性が取り押さえられるとか、ストーリーキングの男性がつかまるなどは、「公然猥褻罪」の適用場面です。逆に言えば、公然猥褻罪が規定されていなければ、野球場で素っ裸で女性が応援しようが、そのまま真っ裸でチアリーディグしようが許されることになるのでしょう。
であるならば、この問題は、「人はなぜ、猥褻概念を創って法的にこれを規制しようとするのか?」 という問題提起にすべきではないでしょうか。
「なぜ人は性器を隠すのか」という問題提起との「ズレ」の中には、どのような問題がひそんでいる、と言えるでしょう? この点、わざわざ、「性器隠蔽」という形の問題提起にこだわっておられる永井さまの深い思索の跡をお教え戴ければ、と思います。

本論文の結語には、
“刑法第174条に明文化されている公然猥褻の禁止は、猥褻の否定ではなくて、肯定である。もっと正確に言えば、それは否定することによる肯定である。”

とありますが、そもそも人間社会が「猥褻」概念を(法的に)創っている運用している事自体が「猥褻(概念)の肯定」(勿論、猥褻行為の肯定とは言わない)なわけですから、その意味では、あまりに当たり前のことを言っているだけのことになり、結語としての訴求力も微弱になるように思います。

だからこそ、先のように「人はなぜ猥褻概念を創り、これを規制しようとするのか」という問題提起にすべきだと思うのです。
もしも、この命題の回答として、永井説のような、性をタブー化することで性の価値性を高め、その結果、人間の性活動を健全に機能させるため、というような主張を当てるとすると、これは、どうも前述の猥褻の問題提起からはズレて来ているし、的確な回答にはならない、ということになると思うのです。
それとも、この問題提起に対しても、同じ結論で構わないと仰られますでしょうか。

人間社会が猥褻概念を創設した折りには、永井説のようなことまで想定しておらず、単に公序良俗を害するのを阻止しよう、というようなことであったように思います。
そして逆に、もしも、そうではなく、猥褻概念を法律制定して禁止する際、その保護法益を「人間の健全な性活動の保護」とか「TPOを弁えた健全な性活動」、このようなものとして想定していたとするのならば、この場合、永井説は、新説たりえないことになってしまいます。
そして勿論、保護法益が「公序良俗」とか「健全な性風俗」のみである場合でも、その延長的解釈として、「人間の健全な性活動の保護」とか「TPOを弁えた健全な性活動」、という事も、当然、「解釈の範囲内」に含まれると言えましょうから、この場合も、永井説はさしたる新説性がない、ということになってしまいます。

というわけで、「人はなぜ、猥褻概念を創って法的にこれを規制しようとするのか?」 という形で論じ直して戴いた方が宜しいかと思うのですが、如何でしょうか?
 

猥褻は、たんなる法の問題ではありません。法的な処罰の対象にならない場合でも、人々は猥褻なるものに眉をひそめ、できるだけそれを隠蔽しようとします。よって、“たとえば、野球場で素っ裸で応援した女性が取り押さえられるとか、ストーリーキングの男性がつかまるなどは、「公然猥褻罪」の適用場面です。逆に言えば、公然猥褻罪が規定されていなければ、野球場で素っ裸で女性が応援しようが、そのまま真っ裸でチアリーディグしようが許されることになるのでしょう”というのは間違いです。猥褻の否定は、法を超えた根源的な規範なのです。

“そもそも人間社会が「猥褻」概念を(法的に)創っている運用している事自体が「猥褻(概念)の肯定」(勿論、猥褻行為の肯定とは言わない)なわけですから、その意味では、あまりに当たり前のことを言っているだけのことになり、結語としての訴求力も微弱になるように思います。”

私は「猥褻の禁止は、猥褻を否定することによる猥褻の肯定である」と言っているのであって、「猥褻の禁止は、猥褻を否定することによる猥褻概念の肯定である」とういう「当たり前のこと」を言っているのではありません。よく読みましょう。前者は当然のことながら、「猥褻行為の禁止は、猥褻行為を否定することによる猥褻行為の肯定である」という命題を含意します。

法を作る人は、必ずしも、その前提となる規範の根拠を理解したうえで作っているとは限りません。法学者に、なぜ猥褻がいけないのかを聞いても、多分誰も答えられないでしょう。法益を「公序良俗」「健全な性風俗」「人間の健全な性活動の保護」「TPOを弁えた健全な性活動」と定めたところで、正当化には役立ちません。「良」「健全な」という価値語を含んでいるため、規範命題としては「良くないことをするべきではない」というトートロジーになっています。

永井さまらしからぬ皮相な返答のように感じられ、「あれ?」と思いました。

<公然猥褻罪が規定されていなければ、野球場で素っ裸で女性が応援しようが、そのまま真っ裸でチアリーディグしようが許されることになるのでしょう”というのは間違いです。猥褻の否定は、法を超えた根源的な規範なのです>
     とのことですが、
そもそも、そのように “猥褻の否定は、法を超えた根源的な規範なのです“ と決めつけて良いのか? という問題をまず、論じるべきではないでしょうか。
以前の、永井さまの教養大学講義録でのこのテーマの論文では、
ギリシャでは、裸でいることが恥ずべきことではなかった。但し、はじめからそうだったというわけではない。プラトンによれば、この習慣は、クレタから始まり、スパルタに伝わり、前ギリシャに広まったとのことである。この他、ジャイナ教の裸行派は、完全な裸体で修行をする。

という補注が入っています。勿論、「はじめからそうだったというわけではない→ はじめは皆そうだったと思われる」という判断、つまり、「人は原始のはじめっから、誰でも裸でいることを恥ずべきことだと思っていただろう」という判断を 永井さまはお持ちのようですが、本当にそれで良いのか、という問題です。
人に分化し始めた原始の人の知能において 果たして「恥ずかしい」という感情が起こるのかどうか--ここから議論すべきではないでしょうか。
「個体発生は系統発生を繰り返す」論ではないですが、初期の幼児は自分の裸を恥ずかしいとは思いません。その点を考慮するのは必要でしょう。いわゆる「鏡像的に自己を観る智恵」が機能するようになって、初めて恥ずかしいと感じる段階に入るであろうからです。

この議論をして戴ければ、旧約聖書のアダムとエバの寓話が語るような、「善悪判別能力(あるいは事理弁別能力)獲得できる魔法のリンゴ果実を食したところ、にわかに恥ずかしいという感情が芽生えた」
という世界的に蔓延しているユダヤ知見に関しての論駁になりますし、世界的にも、大人気論点に関しての永井氏の新説発表ということになりましょう。

しかし、もしも、古代ギリシャのように、たとえ後天的カルチャーとしてであっても、「裸でいることが恥ずかしいことではない」という人類カルチャーの成立が可能であるならば、野球場やアメフト場で女性が素っ裸でチアリーディグしても「眉をひそめそれを隠蔽しよう」とする人は(ほとんど)いない(というカルチャー)ケースが有り得るかもしれません。
「いや、有り得ない」と仰るならば、その点もしっかり論じてほしいところです。
あるいは、共産主義的なイデオロギー洗脳手法で、全国民に対して「裸でいることは恥ずかしくない」と教育・喧伝し続ければ、猥褻観念・概念のないカルチャーを創出することは可能なのか否か?

そして、次の論点としては、奇しくも、永井さまが書いた通り、
“猥褻の否定は、法を超えた根源的な規範なのです”

という考え方についてです。実は、最初から、この点の議論に永井さまを引っ張り込みたかったのですが、そちらから指摘して戴いて助かりました。
「(成文)法を超えた根源的な規範」という考え方の話になれば、勿論、かのハンス・ケルゼンの「根本規範」論とも関係して来るでしょう。
人が国会で成文法を制定する現象を分析すると、憲法のような人倫の核ともなる法であればあるほど、その前段階として、成文法を超えた「根本的・根源的な規範」が既に認められるからこそ、それが成文法に反映される、という考え方---こうした根本規範的な考え方において、永井さまと私は意見を同じくするようです。
であれば、私の主張の内容を敷衍しなおせば、
「人はなぜ、<猥褻>という成文法以前の観念を脳味噌で作り出し、この行為が公然と為されることに眉をひそめ、これを法概念化・成文法化して禁止するのか?」
という形で論じ直してほしい  というのが私の真の要望であったこともご理解戴けると思います。

勿論、成文法レベルの話、すなわち、
成文法化した「猥褻」の概念内容については、有権解釈機関である裁判所が、「そもそも猥褻とは・・・」と定義づけて、ここで決められた中身から概念の外延(集合論で言えば集合円)が決定し、その円の内側ならば猥褻として禁止・取締まりをし、円の外ならば猥褻にあらず、として取り締まらない、という区別をつけて、国家は法を運用しています。
たとえば、今は昔の「女性のアンダーヘア解禁」も、裁判所の定義からすれば、それは猥褻物に該当しないから、ということになのでしょう。(しかし会陰部はいけないらしい)
ではしかし、時代が推移するにつれ、将来的に、人の性器そのものが猥褻物に該当しない、という解釈判断がなされる可能性はあるのか?? (現在でも、例外的に、医学書での性器露出は猥褻物に該当しない、という判断ですが)(インターネットにより性器露出も普及一般化して新たな性風俗が創出されるかもしれませんし)
どうせなら、そこまで論じて戴かなくては・・と思います。

というわけで、「なぜ人は性器を隠すのか」という形で問うよりも、
「人はなぜ、<猥褻>という成文法以前の観念を脳味噌で作り出し、この行為が公然と為されることに眉をひそめ、これを法概念化・成文法化して禁止するのか?」
と問いただす方が問題の核心に切り込み形になるのではないか? という問題提起です。
問い方を変えると、結論も微妙に (あるいはかなり大きく)違って来るはずだと思うのです。
如何でしょうか?

また、永井氏の「性フェロモン減少の補償反応」説で行く場合、「性フェロモン減少」の現象と、「恥ずかしいとして性器隠蔽する」という「猥褻観念 」形成現象との間の、時間的な前後のズレの有無の問題にも触れて戴いた方がわかりやすいでしょう。
つまり、後者が時間的に後続的であるならば、性フェロモン減少によって従来の動物的な性交・妊娠・出産・子孫繁栄に支障が出てきたため、本能的な補償作用として、インフレ的お手軽セックスを防止して、「性器へのアクセスや性交成就への困難性を人為的に作り出す事でその希少性と価値を高める戦略を本能的に立てた」結果である・・・というような主張なるのでしょう。
もっと言えば、それは売春婦が自身の値段をつり上げるために、「ダメヨ、ダメダメ」と交渉手段の一つとして「ダメ出し」するのと本質的には共通するものだということでしょうか。(永井さまは「その通りだ」と仰りそうな感じがしますが・・・)
この点も、はっきりさせておくべきだと思います。

そして最後に思うのは、「性フェロモン減少の補償反応」と「我々が抱く根源的猥褻観念」との間には、どうもかなりの「ズレ」があるのではないか? ということです。
であれば、素っ裸でチアリーディグすることに眉をひそめることにおける「我々の隠蔽願望」の内実が「性フェロモン減少の補償反応である」とは、どうも言えない可能性が高いのではないか、  ということです。
もしかしたら、もっと単純な 「浄・不浄」的な観念に近いのではないか、とも思います。
この点に関する永井さまの知見もお伺いしておきたいと思います。

“ギリシャでは、裸でいることが恥ずべきことではなかった..”

この注を含め、以前の文章は、書籍編に移転しています。大空さんの昔の質問もここに移転しました。

◎ なぜ人は性器を隠すのか
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/genitalia.html

古代ギリシャでも日常的に人々が裸だったわけではありません。確かにオリンピックでは男性競技者たちが全裸でプレーしましたが、既婚女性の閲覧は禁止されていました。未婚女性は、いい男の品定めをするために見ていたようですが。

“もしも、古代ギリシャのように、たとえ後天的カルチャーとしてであっても、「裸でいることが恥ずかしいことではない」という人類カルチャーの成立が可能であるならば、野球場やアメフト場で女性が素っ裸でチアリーディグしても「眉をひそめそれを隠蔽しよう」とする人は(ほとんど)いない(というカルチャー)ケースが有り得るかもしれません。”

同じような例をもう一つ挙げましょう。刑法第190条に「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の懲役に処する」とあります。たとえ、法が死体損壊を禁止していなくても、死体を辱めることにたいして、私たちは自然と嫌悪を感じます。死体を痛めつけることが習慣として定着すれば、そのうちなんとも思わなくなるでしょうが、だからといって、死体損壊罪の根拠が法にだけあるとはいえません。これは、人類に普遍的な規範だからです。

“「人は原始のはじめっから、誰でも裸でいることを恥ずべきことだと思っていただろう」という判断を永井さまはお持ちのようですが、本当にそれで良いのか”

「原始のはじめ」というのは何万年前のことを言っているのですか。私たちの祖先が、他の動物と同様に、性器を隠蔽していなかったが、ある時点から隠蔽するようになったということは確実です。問題は、いつからかということです。化石人骨を分析しても、手掛かりを得ることができないので、ヒトがいつから性器を隠すようになったのかはわかりません。コロモジラミの遺伝子解析から、人類が毛皮の服を着始めたのは今から約7万年前ということがわかっています。遅くともこの頃からは性器を隠していたことでしょう。しかし、衣服を発明する前から、ちょうど熱帯地方に住む現在の自然民族の男女ように、ペニスケースや腰紐を使って、性器だけを隠蔽していたかもしれません。

“共産主義的なイデオロギー洗脳手法で、全国民に対して「裸でいることは恥ずかしくない」と教育・喧伝し続ければ、猥褻観念・概念のないカルチャーを創出することは可能なのか否か?”

“時代が推移するにつれ、将来的に、人の性器そのものが猥褻物に該当しない、という解釈判断がなされる可能性はあるのか?”

人類が、セックスなしで、人工授精により繁殖するようになれば、性の抑圧は、理論的には不要になります。

“「なぜ人は性器を隠すのか」という形で問うよりも、「人はなぜ、<猥褻>という成文法以前の観念を脳味噌で作り出し、この行為が公然と為されることに眉をひそめ、これを法概念化・成文法化して禁止するのか?」と問いただす方が問題の核心に切り込み形になるのではないか?”

猥褻だから禁止するのではありません。禁止するから猥褻になるのです。そして、この禁止は、成文法よりももっと根源的な規範によって禁止されているのです。

“それは売春婦が自身の値段をつり上げるために、「ダメヨ、ダメダメ」と交渉手段の一つとして「ダメ出し」するのと本質的には共通するものだということでしょうか。”

そうです。

“「性フェロモン減少の補償反応」と「我々が抱く根源的猥褻観念」との間には、どうもかなりの「ズレ」があるのではないか?”

現象と本質にずれがないならば、学問は不要です。主観的動機と客観的原因は必ずしも一致しないのです。

“猥褻だから禁止するのではありません。禁止するから猥褻になるのです。そして、この禁止は、成文法よりももっと根源的な規範によって禁止されているのです。”

それはつまり、「種の保存と繁栄」という生命体の根本的要請が根源規範として横たわっているというように理解して宜しいでしょうか。

それにしても、「禁止するから猥褻になる」 という論理は、わかるようでわからない点が多々あります。「では、禁止しなければ猥褻にならないのか?」 というとそうではないと思うのです。

答案をカンニングしようとする友達から覗かれないにうよ、自分の答案の用紙を隠しながら解答を記入している女生徒の行為は「猥褻」とは言えません。

ここで問題となるのは、「猥褻」の概念です。

永井さまは、言葉の定義の流動性を理由にして、学者的な形式的定義を嫌う傾向があると感じられますし、それが原因で、既存のアカデミズムからは相当に嫌われてしまうのだと思うのですが、やはり、ここでも、「猥褻」とは?  という概念規定を意図的に回避しながら性器隠蔽理由について論じているため、おかしなことになるのではないか、と考えます。

「真理とは」「愛とは」などと論じておられるのですから、性器隠蔽論とあわせてシリーズ的に、「猥褻とは」という命題で、一つ論じて戴きたいと思います。
如何でしょうか?

刑法175条の「猥褻」の意義については、判例があり、

同条の猥褻とは、「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」とあります。

これにより、「猥褻」を禁止することによって、司法機関(又は国家)が守ろうとしている秩序と保護法益は、「社会的TPOを弁えた性欲の発動」「正常な性的羞恥心」「健全な性的道義観念」ということになります。

いずれも、性行動エントロピーを縮減して社会システムを維持するためのもの、ということができましょう。

“同条の猥褻とは、「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」とあります。”

要するに、猥褻とは、性的羞恥心を惹き起こすものということですね。私もこの定義でよいと思います。

カンニングもばれると恥ずかしいと感じます。ただし、その羞恥心は性的ではないから、猥褻という概念が適用されないだけです。

大空さんの説を類型化すると、「人は恥ずかしいから性器を隠す」というタイプに属することになると思います。では、恥という感情はどのようにして生じるのでしょうか。私は「服が性器の露出を恥ずかしくしたのではない」で次のように書きました。

“そもそも恥という感情は、悪いと自覚しながら規範に背いた人が、その事実を他者に知られたと知った時に体験する感情です。隠されていて見えないということは、恥という感情が成立するための必要条件でしかなく、これに規範の侵犯が加わらなければ必要十分条件とはなりません。要するに、性器の隠蔽はたんなる事実ではなくて、規範なのです。そして、なぜ性器を隠し、セックスをタブーにしなければならないという規範が生まれたかを問う時、私が「人はなぜ性器を隠すのか」で立てた最初の問いに戻ります。”
http://www.systemicsarchive.com/ja/c/genitals.html

目的手段関係をまとめると、次のようになります。

交尾排卵を促して女を妊娠させなければならない→男も女もセックスでオルガズムに達しなければならない→性器の露出に希少価値がなければならない→性器を隠蔽しなければならない(性器の露出は恥ずかしくて猥褻でなければならない)

人間はおかしい ~陰部を出そう!~

なぜ陰部は…あんなに立派なのに
隠す必要があるのだろうか。

僕は不思議でたまらない…………。

陰部は成長の証だ!!

発想の転換が必要のようです。
 まず、根底にある差別を、ここで見逃してはならないと考えます。
 では、何が差別なのかということですね。昔の日本は、性に対して非常に開放的であったようです。
 いつから隠すようになったのかだと思いますが、時の政治体制が深く関わっていたように推察します。

 太平洋戦争(第二次世界大戦のことで厳密には、アメリカにとっては、太平洋戦線のこと。日本では、大東亜戦争と言っていた由)当時の状況を、最近よくテレビドラマなどで見る機会が増えてきました。最近見た映画で「母べえ」なども、当時の様子がよく再現されているのが分かります。
 父べえが思想犯で捕えられて、獄中でなくなりますが、明らかに思想統制です。自由など、かけらもない、「自由度」が最低の時代だったようです。
 従軍慰安婦問題にしても、彼女たちの人間性は、完全に否定されていると言って過言ではないと思います。
 否定すること、つまり差別です。人として仕合せ(古文書にはこう書いてある由)に生きる機会の平等を、奪われていると見なせるからです。
 赤紙(召集令状)とて同じこと。拒否できない状況にあって、一人ひとりが自由の思想はなくかつ武器も持たない状況にあっては、言われるままに行動する以外に抗うすべがなかったと言えましょう。
 そんな状況のなか、性とて制限・管理されていたということですね。戦地へ行かされたのは、男性だけのようでしたから。どこの世界でも、差別的な世界は、性を、つまり人としての存在を否定をするという形をとることがよくわかると思います。
 ちなみに、自由の国アメリカは、性に対してオープンなことは、エロサイトが証明するところですが、理性を狂わす恐れの高い性器は、公の場には出すべきではなかったと考えます。
 そんなアメリカでは、夕陽のガンマンよろしく自由を守るため、そして最も大切な命を守るための銃を所持しています。ワシントンDCは、銃規制が厳しいと聞きますが、規制が敷かれたことにより、凶悪な犯罪が増えたとのことで、問題となっているようですが。
 翻って、わが日本の国を見た時に、命をかけて守るべき「自由」は、人々の心にはないのが現状かと思います。したがって銃など必要なかったというべきか。 平気で法律違反(差別)をしている自由のない民族に、明るい未来などあるはずがありません。その証拠に、一家心中、殺人、汚職、偽装、殺虫剤などと、他人の存在を否定する行為が、後を絶ちませんね。命が最も大切なはずなのにです。なおかつ、死刑が平然と行われている現状が、なくならない限り、日本は再び自滅絵の道を歩むことでしょう。個人単位では、すでに歩み始めているようですが。
 みんなで力を合わせ、銃規制を撤廃させて、アメリカの上をゆく自由で平和な力強い社会を、手を携えて作る努力を始める必要があると思います。
 二度とあのような戦争に持っていってはならないと思います。そうしないと、戦争で平和の土台となって死んでいった人たちに対しても、顔向けが出きないような気がしてやみません。

“昔の日本は、性に対して非常に開放的であったようです。 いつから隠すようになったのかだと思いますが、時の政治体制が深く関わっていたように推察します。 ”

「昔の日本」というのはいつのことを言っているのですか。文献で確認できる範囲では、日本人が性器を恒常的に露出していたことはありません。最古の記述である『魏志倭人伝』には、次のように描かれています。

“その風俗は淫らならず。男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 ”

興味本位でこの文章を読んでしまいました。
私、思うんです。もし「性器を日常的に見ることができる環境」が普通ならば、男性も女性も顔を見て表情を読み取るのと同じように、また、性的な反応に敏感な性器をちらっと見かけるだけで、その人の心の一部が見えてしまうんじゃないかと。顔の表情や仕草プラス、気持ちが伝わってしまうんじゃないかって。

好きな人に気があったりしたら、特に男性ならすぐにわかってしまう性器。

下心や内心がかいま見れてしまうその存在は、脳が発達した人間が頭を使って恋愛を演出しようとすることを邪魔する存在なんじゃないかと思ったりするのです。

いくら気取っていても下半身の変化が見えてしまったら、なんだか間抜けですもんね。

すみません。稚拙な話で。

"一般に、犯罪行為は、他者に利益をもたらすから処罰される。"
の箇所は、
"一般に、犯罪行為は、他者に損害をもたらすから処罰される。"
のことではないかと思いましたが、いかがでしょうか。

御指摘ありがとうございます。修正しました。

話の本質から外れるかもしれませんが、排泄物は他人に不快感を与えます。 性器を隠すのは、排泄機能を共に備えているから、というのも一つの理由ではないでしょうか。 
もうひとつ素朴な意見を。 一物の大小による人格評価を避けるためにも隠すことは必要なのではないでしょうか。

“排泄物は他人に不快感を与えます。 性器を隠すのは、排泄機能を共に備えているから、というのも一つの理由ではないでしょうか。”

鼻汁や鼻糞といった排泄物も他人に不快感を与えますが、私たちは鼻や鼻孔を隠さないし、それを晒すことが恥ずかしいとは感じません。

“ 一物の大小による人格評価を避けるためにも隠すことは必要なのではないでしょうか。 ”

体の形状で人格評価をすることが無理だとしても、人物評価ならできるでしょう。しかし、その場合、人物評価の中で最も重要な部位である顔を隠さないのはなぜでしょうか。

>鼻汁や鼻糞といった排泄物も他人に不快感を与えますが、私たちは鼻や鼻孔を隠さないし、それを晒すことが恥ずかしいとは感じません。

糞害というのは聞きますが、鼻糞害というのは聞いたことがありません。 無人島で一人で住むのならともかく、社会通念上、許されること、控えること、してはいけないこと、があるのではないでしょうか。  

>体の形状で人格評価をすることが無理だとしても、人物評価ならできるでしょう。しかし、その場合、人物評価の中で最も重要な部位である顔を隠さないのはなぜでしょうか。

人間の官感のすべてが首から上に集中しています。 たとえ隠したくとも、顔を覆えば生きてゆくことはできません。 

“糞害というのは聞きますが、鼻糞害というのは聞いたことがありません。 無人島で一人で住むのならともかく、社会通念上、許されること、控えること、してはいけないこと、があるのではないでしょうか。”

江戸時代の日本では、糞尿は、害毒として忌避されずに、肥料として売買されました。それにもかかわらず、江戸時代の日本人が性器を隠した理由は何でしょうか。「社会通念上許されないから」というのは答えになっておらず、なぜ社会通念上許されないかがさらに問われなければいけません。

“たとえ隠したくとも、顔を覆えば生きてゆくことはできません。”

イスラム圏では女性が実行しています。「指の長い男はなぜもてるのか」でも書きましたが、一部の女性は男性の指の長さで男を判断しているようです。猿投太郎さんの理論を徹底させるならば、指も隠さなければならず、露出してもよいところはほとんどなくなってしまいます。それぐらい、体の各部分は人物評価の対象になってしまうのです。猿投太郎さんの理論の根本的な問題は、その体の部位に劣等感を持っている人はともかくとして、優越感を持っている人がなぜそれを隠さなければいけないのかがわからないというところにあります。

生殖・代謝・個体保持、は生物の生物たる根源的所以です。 代謝、すなわち、排泄も「人はなぜ性器を隠すのか」という問いに要求される解答の一部でありましょう。 が、生殖器としての性器と、排泄機能としての性器を並列して論ずるには無理があるようです。 次の点を指摘して討論を切り上げた方がよさそうですね。

江戸のいつの頃をいわれるのか不明ですが、人口60万、日常の生活行動半径を10kmと仮定して、リサイクル資源としての糞尿と耕作面積における需給バランスはおそらく負、つまり、肥料としての経済的価値は高く、野菜との物々交換など行われていたようです。 この経済問題と性器を隠すことと、どのような関連があるのでしょうか。 

>“無人島で一人で住むのならともかく、社会通念上、許されること、控えること、してはいけないこと、があるのではないでしょうか”
>「社会通念上許されないから」というのは答えになっておらず、なぜ社会通念上許されないかがさらに問われなければいけません。

“社会通念上許されない”とはいっていません。 「罪」とは規則の生む概念であり、罰則以前の自制の有無、すなわち、個人の持つ文化を問題にしているつもりです。

「社会通念」は、時代、地域、価値観などにより変わりますが、通常、軽微な反社会的行為に付帯する規範意識を指し、その程度により、その持つ文化の質が問われます。 用を足したあと後足で砂をかけるマナーの良い犬もいます。 ましてや、ホコ天の路上にしゃがみ込み排泄などすれば、何らかの社会的制裁を受けるのではないでしょうか。 新聞紙がプリントされた皿にカレーライスを盛って出されたら、その家には二度と行きません(余分でした)。

“たとえ隠したくとも、顔を覆えば生きてゆくことはできません” は隠す必要のないことを強調したつもりです。

隠される部分には何らかの意味が必ずともないます。 ヘジャブはパンツのように機能のすべてを覆っているわけではなく、そのチラリズムが余計に好奇心をあおります。 その意味では、先生のいう“公然猥褻の禁止は、猥褻の否定ではなくて、肯定である。 もっと正確に言えば、それは否定することによる肯定である。” 論の象徴といえるかもしれません。 

ちなみにアラブの長丈の衣服は、身を隠す場所のない砂漠でスカートのように裾を広げ、用を足すためのポータブルトイレの機能も兼ねています。

長い指の好きな人。 アゴのたるみに興奮する人。 耳たぶの形にこだわる人。これらは、リビドーから派生する、大なり小なり誰にでも具わっているフェティシズムでありましょうが、焦点がボケますのでこの辺で。 

猿投太郎さんは、最初のコメントで二つの仮説を出しました。

 [1] 性器を隠すのは、排泄機能を共に備えているから。 
 [2] 一物の大小による人格評価を避けるため。

[1]に関しては、「生殖器としての性器と、排泄機能としての性器を並列して論ずるには無理があるようです」ということだから、撤回ということですね。[2]に関しては、「その体の部位に劣等感を持っている人はともかくとして、優越感を持っている人がなぜそれを隠さなければいけないのかがわからない」という私の反論に対して答えていませんが、これも撤回ということでしょうか。

>[1]に関しては、「生殖器としての性器と、排泄機能としての性器を並列して論ずるには無理があるようです」ということだから、撤回ということですね。

撤回ではありません。 最初から生殖器と排泄器の役割を分け、「性器を隠す理由」のひとつとして排泄機能としての局所を上げたまでです。 

肛門は通念上性器ではなく、糞と尿を混同したのはうかつだったと思います。 が、「人はなぜ性器を隠すのか」という命題は、「性器」すなわち生殖機能から派生する諸々を限定しており、やはり、排泄という生理的機能は別問題として扱うほうが論議を深める、という意味で合理的ではないか、という提言です。 

>[2]に関しては、「その体の部位に劣等感を持っている人はともかくとして、優越感を持っている人がなぜそれを隠さなければいけないのかがわからない」という私の反論に対して答えていませんが、これも撤回ということでしょうか。

永井先生は “公然猥褻の禁止は、猥褻の否定ではなくて、肯定である。 もっと正確に言えば、それは否定することによる肯定である。”というご持論に確信をお持ちのようです。 シラノ的ニュアンスを感じないわけではありませんが、基本的にそのトラディショナルな考え方は理解できます。

厳しい自然環境に無防備な人間は、最初は隠すのではなく、局所保護のために腰巻なりフンドシなりを身にまとったと思います。 しかし、文化意識が高まるにつれ、隠すことに意味が生じたのではないでしょうか。 すなわち、社会が複雑になるにつれ、一物の大きさが必ずしもその者の総合力と比例するものではない。 つまり、その大小による人格および人物評価の対象価値が薄れた、と考えます。 

“選択の多様性”あるいは“機会の平等”、の開放度は物心両面において文化の豊かさを量るバロメーターといえます。 性器を覆う薄っぺらな布切れとはいえ、果たしたその役割はきわめて大きく、男には理性を、女には分別、という精神的大革命をもたらしたのは確かだと思います。

性器が第一義的に隠すべき部位だとしても、それを隠してしまうと、次に、性器を連想させる部位(肛門、尻、乳房)もまた性器に準じた扱いを受けるようになります。例えば、女性の乳房は、少なくとも文明国においては、性器と同様に隠すべき恥ずかしい部位という通念がありますが、これは、女性の豊かな乳房が尻の形状を連想させるからでしょう。乳房には排泄機能がないので、排泄機能は猥褻にとって本質的ではないと言うことができます。

“厳しい自然環境に無防備な人間は、最初は隠すのではなく、局所保護のために腰巻なりフンドシなりを身にまとったと思います。 しかし、文化意識が高まるにつれ、隠すことに意味が生じたのではないでしょうか。 すなわち、社会が複雑になるにつれ、一物の大きさが必ずしもその者の総合力と比例するものではない。 つまり、その大小による人格および人物評価の対象価値が薄れた、と考えます。”

もしもそうだとするならば、「一物の大小による人格評価を避ける」というのは性器隠蔽の原因ではなくて結果ということになります。

>性器が第一義的に隠すべき部位だとしても

「なぜ人は性器を隠すのか」を論ずるのが本項ではないのですか。 最初から決めつけるのはいかがなものでしょう。

>女性の乳房は、少なくとも文明国においては、性器と同様に隠すべき恥ずかしい部位という通念がありますが

「なぜ女性はオッパイを隠すのか」と「なぜ人は性器を隠すのか」は、文明社会において無益な性的刺激を拡散しない、という意味において同じことであり、“恥ずかしい部位という通念” というより “マナー” の問題ではないでしょうか。

>女性の豊かな乳房が尻の形状を連想させるからでしょう。

私はマシュマロをイメージしますが、尻とオッパイを混同したことはありません。 永井先生は尻フェチなのでしょうか(クスッ)

>乳房には排泄機能がないので、排泄機能は猥褻にとって本質的ではないと言うことができます。

乳首のない乳房を想像してみてください。 ただの肉塊です。 乳房は立派な排泄機能を具えているではありませんか。 ほとんどの乳児はオッパイから養分を摂取(代謝)し成長(個体保持)します。 その記憶はマザー・コンプレックス、あるいは、ある種の猥褻であるフェチなどというかたちで伴侶の選択(生殖)に何らかの影響を及ぼしていると思います。 

“猥褻”問題は、私の論題から外れます。 が、“猥褻” も高度化すれば、性的欲動を制御する論理的思索により、その内に別次元の未知なる快楽が潜むことを予測し、くどいようですが永井先生のご持論 “公然猥褻の禁止は、猥褻の否定ではなくて、肯定である。 もっと正確に言えば、それは否定することによる肯定である。” を補強する、より質の高い快楽を見出す手掛かりともなり得るのではないでしょうか。

>もしもそうだとするならば、「一物の大小による人格評価を避ける」というのは性器隠蔽の原因ではなくて結果ということになります。 

繰り返しますが、個体保持・代謝・生殖、は生物としての人間の本質であり、密接に関連しあっています。 ゼロサムに支配された生物の営みは惨いものであり、そのあからさまな行為をアカデミックに見せかけるのが文化、あるいは文明の役割の一部、否、すべてといってよいのかもしれません。 原因⇒結果を繰り返しつつ、ベターな合理性と価値観を見出そうとする、その一連の行為の中に「性器を隠す」ことも含まれるのではないでしょうか。

“最初から決めつけるのはいかがなものでしょう。”

未開社会では、男女とも性器しか隠していません。女性は、紐のようなもので性器だけ隠し、乳房や尻を露出させていますが、それが恥ずかしいとは感じていません。だから、性器が第一義的に隠すべき部位と言ったのです。それ以外は二義的な派生物です。

“「なぜ女性はオッパイを隠すのか」と「なぜ人は性器を隠すのか」は、文明社会において無益な性的刺激を拡散しない、という意味において同じことであり、“恥ずかしい部位という通念” というより “マナー”の問題ではないでしょうか。”

なぜ乳房を露出することが性的刺激を拡散させるのか、それに対する説明がありません。繰り返しになりますが、「マナー」とか「社会通念」とかいうのは説明になっていません。

“私はマシュマロをイメージしますが、尻とオッパイを混同したことはありません。永井先生は尻フェチなのでしょうか(クスッ)”

それは私の嗜好に基づく個人的見解ではなくて、デズモンド・モリスの説です。これに関しては、「性的自己擬態の記号論」で詳述したので、そちらをご覧ください。

“乳房は立派な排泄機能を具えているではありませんか”

排泄とは「生物体が体内に生じた不用な物質を体外に出すこと」(明鏡国語辞典)「生体が不消化物,代謝の最終産物,その他有害物質などを体外に排出すること」(栄養・生化学辞典)です。母乳は生物体(乳児)にとって必要な物質ですから、母乳を分泌することは排泄とは言いません。排泄は、有害な不要物を体外に出すことですから、汚らしく、それを隠蔽するという行為は理解できますが、母乳のような、汚らしくない、むしろ美しい有用物を分泌する行為をなぜ隠蔽しなければならないのでしょうか。

“原因⇒結果を繰り返しつつ、ベターな合理性と価値観を見出そうとする、その一連の行為の中に「性器を隠す」ことも含まれるのではないでしょうか”

一般に“A→B∧B→A”というように因果関係が双方向に成り立つなら、AとBは相互作用の関係にあると言います。猿投太郎さんは、「性器の隠蔽」と「一物の大小による人格評価回避」が相互作用の関係にあるといいたいのですか。そう言い換えたところで、本質的な問題解決になっていません。

 [1] 一物の大小による人格評価回避 → 性器の隠蔽

という因果関係が成り立たない以上、

 [2] 性器の隠蔽 → 一物の大小による人格評価回避

という因果関係が成り立っても、相互作用の関係にもないと言わざるを得ません。そもそも、秘宝というものは、普段隠しているからこそ、それを誇示した時、相手に大きなインパクトを与えるものなのだから、[2]も本当に成り立つかどうか怪しいし、女をめぐる争いで、男たちが自慢話をしたがるのは、古今東西変わらないことだから、人格評価を回避しなければいけないというのも理解に苦しむところです。


先生は既に結論をお持ちのようですから、討論の拡大を防ぐ意味でも、開示していただけませんか。

「なぜ性器を隠すのか」に対する私の結論は、本文および書籍編の「なぜ人は性器を隠すのか」に書いたとおりです。これ以外に何をどう「開示」せよと言うのでしょうか。

性器には、人間のみならず、生物発生以来その存在理由のあらゆる根本が凝縮されていると思います。 サルトルの言葉でしたか「コップ一杯の水からでも哲学を語ることができる」。 いわんやそのモノのズバリ「性器」に関するはなしですから裾野は広く、奥は深い。 帰納的な方が焦点を絞りやすいと考えましたが、勇み足だったようです。 

>「マナー」とか「社会通念」とかいうのは説明になっていません。
>未開社会では、男女とも性器しか隠していません。女性は、紐のようなもので性器だけ隠し、乳房や尻を露出させていますが、それが恥ずかしいとは感じていません。だから、性器が第一義的に隠すべき部位と言ったのです。それ以外は二義的な派生物です。

たしかに環境・文化により変わる「社会通念」「マナー」は普遍とはいえません。 熱帯では腰巻ひとつでも暮らせますが、寒冷地では不可能です。 しからば、限られた地域の未開社会を基準として論ずるのも一方的なような気がします。 文明といわれる社会では、あらゆるジャンルが、直感・感性・理性・知性、加えて経済性、それぞれの価値観、またシチュエーション(TPO)においても細分化されます。 オッパイ(あるいは性器も)を露出して恥と感じない未開社会と、隠すのを当然とする文明社会のどちらが本質といえるでしょうか、御見解を賜りたい。 

>それは私の嗜好に基づく個人的見解ではなくて、デズモンド・モリスの説です。

私は永井先生と討論しています。 先生自身は、尻とオッパイを同一視することに賛意するや否や、ハッキリしていただきたい。

>排泄とは・・・

先生ご指摘のように「排泄」は適切な表現ではありません。 が、男性器は常に新鮮に保つため、古くなった精子を排出します。 乳房も過剰なミルクは絞りだします。 乳牛など、強制的にでも吸乳しないと命に関わります。 膣は排泄器ではありませんが、やはり古くなった卵子を定期的に排出します。 
排泄物、および排出物は高濃度の栄養素を含み、露出された性器は細菌類の格好の餌場であり、粘液質に取り着いた細菌は容易に体内に侵入し深刻な病気の原因となります。 

口腔、陰核、膣、などの粘液質、あるいは露出しているために半角質化しているものの男性器、唇、乳首などは、接触、摩擦などの物理的刺激だけで性的に活性化します。 口本来の役割はエネルギー摂取と意思伝達ですので別として、意思とは係わりなく反応する性感帯を露出することは、周囲の不特定多数にあらぬ関心と期待を抱かせる原因となり、同時に本人の、あるいはパートナーに対する貞操観を疑わせることにもなりかねない。 

また、男性器、あるいは乳房は出っ張っていますので、日常生活の邪魔になる、と同時に怪我も負いやすい。 気候によっては真っ先に深刻な状況に陥る。 

乳房は女である象徴的な特徴であり、陰茎もまた男のシンボルです。 社会的に男女同権を目指す文明社会において、身体的特徴により、その持つ能力にハンディーがついたのでは理念に反する。

探せば他にもあるのかもしれませんが、以上のような事情から、露出するよりも覆う方が各個体にとり利益をもたらすのは間違いのない事実だと思います。

>原因⇒結果を繰り返しつつ、ベターな合理性と価値観を見出そうとする、その一連の行為の中に「性器を隠す」ことも含まれるのではないでしょうか

私は、
性器の隠蔽 > 一物の大小による人格評価回避
といっているのであり、
性器の隠蔽 = 一物の大小による人格評価回避
といっているわけではありません。

>一般に“A→B∧B→A”というように因果関係が双方向に成り立つなら、AとBは相互作用の関係にあると言います。猿投太郎さんは、「性器の隠蔽」と「一物の大小による人格評価回避」が相互作用の関係にあるといいたいのですか。

前提をすり替える論法は、相手を混乱させるのに有効ですが、かつてソフィストの使ったクラシックな手です。

私の提起した論題は、排泄機能と人格評価回避、に限られます。 人格回避の問題もおおむね上記した社会性云々とリンクしており、猥褻問題を抜きにすれば、「人はなぜ性器を隠すのか」は、それほど深入りする価値をもつ命題とは思えないのですが・・・。

“たしかに環境・文化により変わる「社会通念」「マナー」は普遍とはいえません。”

私が「説明になっていない」といったのは、「性器の隠蔽は社会通念/マナーだから人は性器を隠す」という説明は「人は性器を隠すべきだから性器を隠す」というトートロジー的説明であるからです。「なぜ人は性器を隠すべきなのか」、「なぜ性器の隠蔽は社会通念/マナーなのか」という問いに答えなければ、何も説明したことにはなりません。隠蔽の方法や程度の普遍性を問題にしているのではありません。

“先生自身は、尻とオッパイを同一視することに賛意するや否や、ハッキリしていただきたい。”

最初からはっきり言っています。私の個人的嗜好に基づく偏った見解ではないと反論するために、デズモンド・モリスの名前を挙げたまでです。

“男性器、あるいは乳房は出っ張っていますので、日常生活の邪魔になる、と同時に怪我も負いやすい。 気候によっては真っ先に深刻な状況に陥る。 ”

ということは、日常生活の邪魔にはならず、怪我の心配もない時には、性器を他者の目の前で露出してもかまわないし、恥ずかしくもないということですか。

“私は、性器の隠蔽 > 一物の大小による人格評価回避といっている”

つまり「一物の大小による人格評価回避」は性器隠蔽の原因ではないということですね。


大分昔の学生の頃、人気のない八丈島の海岸で素っ裸で何時間か過ごしたことがあります。 満身に日の光を浴びた愚息は喜びのあまり、引力に逆らい天に向かって誇らしげにそそり立ち、その雄々しい姿に、とどけば頬ずりしたいくらいでした。 

>なぜ人は性器を隠すべきなのか
>性器が第一義的に隠すべき部位だとしても

絶海の孤島に一人漂着したら、人間は性器を隠すでしょうか。 私は必要でない限り隠しません。

>日常生活の邪魔にはならず、怪我の心配もない時には、性器を露出してもかまわないということですか

孤島に一人、という条件下では、その通りです。 ここにおいて“なぜ人は性器を隠すべきなのか”という全称命題は根拠を失います。

>「なぜ性器の隠蔽は社会通念/マナーなのか」という問いに答えなければ、何も説明したことにはなりません。

いくつか例を挙げて説明したつもりですが、不足でしょうか。 

禁断の果実を食べたのがエヴァだけであり、アダムが食べなければ、人類の性器に関するその後に、はたして、どのような事態が展開したのでしょうか。 
日本人は公衆浴場でも一物を堂々と人前に晒しますが、中華圏を除く東南アジアではパンツをはかずに手拭いで前を隠すだけでサウナに入ったりしたら大騒ぎになり、支配人がすっ飛んできます。
「社会通念、マナー」は、他の一人以上の存在との関係性において変化する過渡的現象にすぎない、と考えます。 これまで「陰部」などと蔑まれ隠蔽されてきた気の毒な陰茎ですが、近い将来、意識変革が進み、派手なデコレーションを施したペニスアートなるファッションが登場する可能性を決して否定できません。

私は「性器を他者の目の前で露出してもかまわないし、恥ずかしくもないということですか」と書いたのに、なぜ「他者の目の前で」の部分を無視するのですか。

「他者の目の前で性器を露出してはいけない」という規範は、他のすべての規範と同様に、例外がないわけではありません。しかし、だからといって、そのような規範がないということにはならないのですから、なぜそのような規範があるのかを問うことは無意味ではありません。

>私は「性器を他者の目の前で露出してもかまわないし、恥ずかしくもないということですか」と書いたのに、なぜ「他者の目の前で」の部分を無視するのですか。

絶海の孤島で一人、という前提で話しています。 

>「他者の目の前で性器を露出してはいけない」という規範は、他のすべての規範と同様に、例外がないわけではありません。

すなわち、「他者の目の前で性器を露出してはいけない」という規範があるとすれば、例外はあるが、規範ゆえに「人は性器を隠す」というトートロジーそのものではないでしょうか。

>しかし、だからといって、そのような規範がないということにはならないのですから、なぜそのような規範があるのかを問うことは無意味ではありません。

「規範」を定義しようとするならば、本項の命題はあまり相応しいとも思えません。 しかし、このような身近な問題を提起し「真」を問う永井先生の態度には賛同します。

「他者の目の前で」の部分を無視している以上、私の議論に対する反論になっていません。また性器隠蔽の原因について述べたのでない命題を原因について述べた命題と誤解して、それをトートロジーと言っても、私に対する反論にはなっていません。本文を読めばわかるとおり、私は「性器を隠蔽するべきだから、性器を隠蔽するべきだ」と言っているのではなくて、妊娠率を上げるためには、日常的には性器を隠蔽しなければならないといっているのだから、私の主張は分析的ではなくて総合的です。


自然回帰を標榜する一部のナチュラリストやヌーディストたちは「他者の目の前で」ありのままの姿を晒しますが、彼らとて一般社会においては隠すでしょう。 主張を貫き通し得られるメリットよりも、露出することにより受ける社会的なダメージのほうが大きいからだと思います。 その理由についてはすでにいくつか挙げました。 全称命題が成り立たない以上、一見解に止まり、絶対とはいえません。 

何度も繰り返すようで恐縮ですが、「なぜ人は性器を隠すのか」の命題に対して、回答は複数考えられ、大まかに
(1)代謝 にともなう保健衛生上の問題(含む・快不快) 
(2)個体保持 隠さないことにより生ずるハンディーキャップの縮減
(3)生殖 
に分ければ、私は(1)と(2)を限定して論じています。 (2)につきましては(3)と重なる部分もあるかとは思いますが、議論を単純化するという意味において人格評価回避という「社会性」の一部に限らせていただきました。 先生は(3)に主眼を置いて論じておられるようですが、これでは議論を続けても平行線をたどるばかりです。 「総合的」がどのようなことを指しておられるのか、よく分かりませんが、(1)(2)(3)に分析的でない検討を加えるならば、先生のご専門である「哲学」に行き着き、本項の命題としての必然性が薄れることになりはしませんか。 

妊娠率の向上、すなわち、自己遺伝子の存続を図るのは人間に限らず、あらゆる生物に組み込まれた本質的機能と考えます。 雌雄同体の生物は多く見られますが、例えば黒鯛や貝の一部などは環境が悪化しその存在が脅かされれば、多くはメスに性転換し種全体の保存を図るといわれます。 ちなみに、今回の大震災後、結婚相談所における成婚率も飛躍的に伸びたそうです。 
このような事実から、潜在的遠因とはなり得るでしょうが、取り立てて「ひとはなぜ性器を隠すのか」の根拠を「妊娠率を上げるため」とするのは論理の飛躍と感ずるのですがいかがなものでしょう。
 


“全称命題が成り立たない以上、一見解に止まり、絶対とはいえません”

「いかなる人も、他者の目の前で性器を露出してはいけない」という規範は、例外を命題内部に取り込むこと(これを論理学では条件法導入と言います)で、普遍妥当性を持った全称命題にすることができます。条件法導入を施した全称命題は全称命題ではないと言うのなら、すべての科学法則/法規範が全称命題ではなくなります。どのような科学法則/法規範も、すべて適用条件によって制約されるのだから、無制約的に成り立つ全称命題は、科学法則/法規範にはないと言ってよいでしょう。

“「総合的」がどのようなことを指しておられるのか、よく分かりません”

分析的/総合的という言葉は、カントが言っている意味で使っています。

“取り立てて「ひとはなぜ性器を隠すのか」の根拠を「妊娠率を上げるため」とするのは論理の飛躍と感ずるのですがいかがなものでしょう”

これ以外に本質的な理由は存在しないのだから、これを答えとせざるを得ないでしょう。


>本質的な理由とは「妊娠率を上げるため」

「妊娠率を上げるため」が本質ならば、なぜ「妊娠率を上げる」のが本質なのでしょうか。

質問の趣旨がよくわかりませんが、「生命は、なぜ死滅を選ばず、むしろ自らを維持し、増殖し続けようとするのか」という質問であれば、それに対する私の答えは、「自殺はなぜ悪なのか」にありますので、そちらをお読みください。

人は社会を作り上げていく上で性を隠す必要が出来てきたのではないでしょうか?、「自殺はなぜ悪なのか」、その他になぜ人殺しはいけないのか。ある脳科学者が人間は利己主義から共恵戦略を発達させることにより氏族内での殺し、騙しを禁じたと言っています。正し氏族間では別。永井さまは、社会は、ネゲントロピーとしてのシステムであり、そしてすべての価値は私(たち)のネゲントロピーへの貢献によって決定される。と、「自殺はなぜ悪なのか」で述べていますが、やはり生命、そしてその一部である脳もネゲントロピーのシステムによって作られている、影響を受けているのでしょうか?

人間以外の群生する動物は、性器を隠さないで社会を作っているのだから、「社会を作り上げていく上で必要」というのは説明として不十分です。互恵的な利己性も、人間の社会にだけ当てはまることではありません。なぜ人間だけが性器を隠さなければいけないのか、そこを考える必要があります。

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