そこで今回はまず、「新編相模国風土記稿」から塩田の記述を含んだ海に関する項目をひと通り攫ってみました(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)。各項目からは浜の名や規模に関する記述と塩田に関する記述以外は削除し、また塩田に関する記述を含まないものは省略しています。このため、大住郡、高座郡と鎌倉郡の村がゼロになっています。大住郡(平塚宿、須賀村)の海に塩田の記録がない理由はわかりませんが、高座郡側は広く砲術稽古場として使われていましたし、鎌倉郡側は七里ヶ浜が江の島道の通路となるなど、海浜が別の目的で利用されていたために、広い面積を必要とする塩田を作る余地が元々なかったのでしょう。もっとも、高座郡側の砂浜が砲術稽古場になる以前に塩田があったかどうかについては不明です。
- 小田原宿(卷之二十四 足柄下郡卷之三):
○海 驛南にあり、東古新宿町濱より西山角町境まで、長千三百三十間餘、町裏に添て浪除堤あり、堤下より浪打際まで幅七八十間、是を小餘綾濱、袖ケ浦など唱ふ、古は三角町の屬新久に鹽田ありしに、元祿圖にも鹽濱と題す、寳永中富士山焚燒の後、屢怒浪に押れて廢せりと云、潮落五六間餘、…
- 早川村(卷之三十一 足柄下郡卷之十):
○海 南方に在、…古より鹽田ありしに波荒となり、明和六年以後製鹽の事廢す、此海濱より西南の方福浦村に至る迄、海浦を總て片浦と唱ふ、其道程凡三里十一町餘、…
- 前川村(卷之三十七 足柄下郡卷之十六):
○海 南に在、濱邊を袖ヶ浦と云、古は鹽濱あり、正保元祿國圖等にも載、享保七年の頃より荒砂となり、製鹽の事次第に衰へしに、明和元年に至り全廢す、東は山西村境より、西は國府津村の海濱、二本松の邊に至る迄を鹽畑と號し、其反別凡六町四段三畝二十九歩、…
- ニノ宮村(卷之四十 淘綾郡卷之二):
○小名 △鹽海、志保美○正保の改には別村とす、元祿の改には二ノ宮村の内と傍記して、村高も本村に合す、其後村内に併入して、全く小名となりし年代詳ならず、古此海濱にて鹽を製造す、依て此名あり、今其事廢すといへども、永錢は舊に依て出せりと云、…
○海 南方にあり、漁船六艘を置、…古へ鹽田ありし事は、小名の條に註記す、
- 川勾村(卷之四十 淘綾郡卷之二):
○海 南方にあり、古へ鹽田あり、正保二年領主よりの村方割付に、鹽永五百七十文上納のこと見ゆ、今廢す、慶安年中の割付には、鹽永の沙汰なし、
- 浦ノ鄕村(卷之百九 三浦郡卷之三):
○海 村の東方にあり、海岸に天神崎北方にて武相國界の出崎なり、雀ケ浦・細浦等の名あり、
○鹽濱 雀ヶ浦にあり段別二町六段餘、
- 林村(卷之百十 三浦郡卷之四):
○海 西方にあり、潮干三町餘江戸まで海上二十一里、鹽濱あり横九十間餘長三十間、竈六を置、海中に磯二あり、あにや磯長六十間横三十間中磯長十間横六間と呼ぶ、
(強調はブログ主)
位置関係がわかりにくいので、地図上でこれらの村の位置をプロットしてみました。赤のタブが「風土記稿」編纂時点で既に廃止されていた塩田、緑が当時まだ現役だった塩田です。三浦郡の2箇所の塩田については、三浦郡の図説でも産物の一つとして取り上げられていました。こうして見ると、「新編相模国風土記稿」編集時にも操業していた塩田は専ら三浦半島に集中しており、そのうち浦郷村は東京湾側にありますので、相模湾に面した塩田で残っていたのは、少なくとも「風土記稿」上は林村だけだったことになります。
東京湾側の塩田は相模湾側に比べれば操業を続けている所が多く残っていました。「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡(現在の川崎市と横浜市の鶴見区〜保土ヶ谷区など)や久良岐郡(横浜市中心部〜金沢区など)の図説では、その「産物」の1つとして塩を挙げています。
- 橘樹郡(卷之五十八 橘樹郡之一):
鹽 川崎領の内海岸の諸村にて鹽竃を設て製す、上品にて播州赤穂の產におとらず、他へ運漕するに及ばず、纔に土地にてひさぐのみなり、
- 久良岐郡(卷之七十三 久良岐郡之一):
鹽 當所の鹽は鐡釜を以て製するゆへ、其色殊に白からず、行徳鹽より亦劣れり、按に當所の鹽濱は古より始りしにや、稱名寺所藏永和二年六月二十三日の文書に、稱名寺領内外敷地鹽垂場等事、早任觀應三年三月三日御寄進狀之旨、可令領掌と載せ、及び同寺所藏康安二年五月二十四日の文書にも鹽場の事出たり、
そして、荏原郡(東京都品川区〜大田区など)から久良岐郡にかけての各村々の塩田にまつわる記述を拾うと、次の様になります。
- 荏原郡:
- 東大森村 西大森村 北大森村(卷之四十一 荏原郡之三):
もとより海濱なれば昔は漁鹽の利あり、すでに正保中の記録には鹽を貢せしことも見ゆ、いつの頃よりか鹽やくことはやみしかと、漁獵は今も事とせり、
- 橘樹郡:
- 潮田村(卷之七十一 橘樹郡之十四):
產物鹽寳曆十四年池上太郎左衞門が願によつて燒出せり、鹽竈は巽の方西岸にあり、一町四段九畝十五歩、西南の方に一町七段許の菅野あり、爰にても元祿の頃までは鹽を製しぬ、其稼を廢して今は永錢のみを出せり、
- 小田村(卷之七十一 橘樹郡之十四):
水田多く陸田少し、この餘茅畑と號して南の方堤の内に九段九畝六歩の地あり、是昔の鹽燒場の跡なりと云、又堤の外に二十三町九段五畝十三歩の地ありて共に永錢を貢す、
- 池上新田(卷之七十一 橘樹郡之十四):
巽の方はすべて海岸にてこの邊に鹽竃二ヶ所あり、
- 大師河原村(卷之七十一 橘樹郡之十四):
萱野一段四畝ほどは海邊にあり、また芝原ありて廣さ四段二十八歩許、鹽竃も近村に同じく海邊にありて.鹽濱段數二十町六段九畝十六歩なり、
- 久良岐郡:
- 社家分村 寺分村 平分村(卷之七十四 久良岐郡之二):
村内鹽濱あり、耕種の暇には鹽を製て餘業とし、又漁獵をなせるもあり、
鹽濱六浦より三艘までの海邊にあり、當所の鹽は鐡釜にて煮るゆへ他の殊に白きものには似ず、下品なり
- 洲崎村(卷之七十四 久良岐郡之二):
村の南方なる入海の邊堤の内に鹽燒場あり、
- 町屋村(卷之七十四 久良岐郡之二):
土人鹽を燒て生產の資とす、
- 谷津村(卷之七十六 久良岐郡之四):
村民農業の暇には、薪を伐り鹽燒場に持行て鬻けり、
- 宿村(卷之七十六 久良岐郡之四):
農隙には薪をとり町屋洲崎等の村々に持出、鹽燒料となして生產をたすく、村内にも鹽竈ありて鹽を製すといヘど、もとより僅なれば他所ヘは販かず、古人西湖の趣ありと賞して八景を撰す、村内鹽濱の邊を小泉の夜雨と稱し、則八景の一なり、八景のことは谷津村能見堂の條に詳なり、
- 坂本村(卷之七十六 久良岐郡之四):
農隙には薪をとりて鹽燒料に、町屋村へ鬻て少く生產を資く、村内にも東北の方に鹽竈あり、宿村と入會の所なり、
- 赤井村(卷之七十六 久良岐郡之四):
爰も農耕の暇には薪を伐出して生產をたすく、(注:伐出先を明示していないが、直前の坂本村の記述を「ここも」と受けていることから、恐らく塩田に薪を供給していたものと考えられる)
- 太田村(卷之七十八 久良岐郡之六):
吉田新田開墾せざりし頃は、此邊海濱にして鹽竈ありしと云、今も鹽たれ坂など云は其遺名なりとぞ、
- 中里村(卷之七十九 久良岐郡之七):
村民農耕の間鹽を煮、或ば薪を伐て橘樹郡大師河原村に出すを餘業とす、
- 峰村(卷之七十九 久良岐郡之七):
旱損の地にて村民農業の暇には薪を伐笹を刈て、橘樹郡大師河原村に鬻き、鹽の薪として生產の資とせり、
これらの記述の中に、「播州赤穂」や「行徳」といった当時の塩の名産地とされていた地域の名が挙がっています。このうち「赤穂」は今でも塩の著名なブランドとして通用していますね。この「赤穂」(現在兵庫県赤穂市)を含めた瀬戸内から江戸に送られる塩は「下り塩」と呼ばれていました。
江戸時代は寛文から享保(一七世紀中葉―一八世紀初頭)にかけて、製塩が大いに発展したが、その生産の中心はほとんど瀬戸内海の沿岸に集中したかの観があった。それぞれの藩が殖産興業政策に基づいて海岸の随所において塩田の開発を保護奨励した結果、瀬戸内海の沿岸地方は能率的な入浜式塩田に好適の地として発展を約束され、東北地方や北陸地方の塩業はしだいに衰微していった。そして、ついには製塩を中止するか、藩の保護のもとに辛うじて余喘をたもつほかなかった。仙台、金沢の両藩が塩の専売を行なわねばならなかった事情は、こうした危機を打開するための手段でもあったわけである。
かくて瀬戸内海地方の塩田のみはわが世の春を謳歌し、当時の全国塩生産の九割までを、この地方の塩田によって占めていた。この時期に、塩田の開発が活発に行なわれ、十州塩田のうち有名な塩田はたいていがこの時期のものといってよい。すなわち、赤穂塩田の新浜は正保三年(一六四八)に、安芸の竹原塩田の開発は慶安三年(一八五〇)に、備後の松永塩田は寛文二年(一六六二)にそれぞれ開発され、その他、貞享年間には防州三田尻塩田の古浜が、享保年間に中浜が、宝暦年間に鶴浜が開発されている。つまり、寛文前後から享保年代にかけて、開発がどんどんとつづけられたのである。
しかし塩田の過剰施設の結果は、いきおい塩が需要を上回ってつくられ、それはひいて塩の価格の暴落を招くこととなった。そして享保年代の末になると、再生産ができなくなってしまった塩小作人が続出した。そこで、これに対処するため安芸の三原屋貞右衛門が休浜法を考えて十月から翌年一月まで塩つくりを休み、値段をつりあげることに努力した。
(「ものと人間の文化史7 塩」平島裕正 1973年 法政大学出版局 125〜126ページより、強調はブログ主)
この「9割」という数字については、別の所では「最大で7割」という数字も見られ、計算の拠り所を何処に求めたかによっても変わる様ですが、何れにしても日本国内でも特に気候条件に恵まれた地域が各藩の庇護の下で生産過剰になる程までに成長し、全国の塩の供給量を自ら制御できる力を付けていたというのですから、他の地域の塩田にとってはたまったものではありません。十州(注:播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予の瀬戸内に面した国々)がとくにもてはやされたのは、地理・気象条件のうえからみて、海浜が遠浅で、潮に干満の差が多く、晴天に恵まれて雨量の少ないことと、塩田に用いる細砂の入手が容易なことや、藩主が領民にたいして理解があったり、すぐれたリーダーが輩出したことなどに由来するものと思われる。
(上記同書130〜131ページ)
もっとも、江戸という一大消費地にとって「下り塩」はあまりに遠方から運ばれてくるために、台風などの悪天候によって海路が荒れると入荷が途絶し兼ねないという課題もありました。そうした懸念もあって幕府からの庇護を維持され、江戸や北関東の塩流通の下支えをしていた行徳(下総国、現千葉県市川市〜浦安市)の塩田も、遠方から下ってくる塩に伍してその地歩を堅持していました。
上に掲げた武蔵国の塩田の中で、操業を止めたと記されている所の多くは、こうした江戸時代の主要産地からの低廉・高品質で流通量も多い塩に圧された結果なのかも知れません(久良岐郡の太田村の様に、吉田新田の大規模な埋め立てによって海浜が無くなったために塩田を止めざるを得なくなった様な事例は別ですが)。操業を止めても「永錢を貢す」、つまり塩にかかっていた年貢は従来通り納めなければならないとされた村も多かったので、その様な村ではその分を別の稼業等で補うことが前提であった筈ですが、幕府や藩の強いバックアップを期待できる地域ではないこともあり、やはり相当に不利だったのでしょう。特に久良岐郡の塩の質の悪さが指摘されていますが、より品質の良い塩を得るための新たな窯を誂えるだけの体力がなかった故ではないかという気もします。むしろそれでも、こうした強力な地域に対抗して何とか操業を続けようとする塩田も少なくなかったと言うべきなのかも知れません。
また、塩焼きに直接関わらない内陸の村でも、塩を煮詰める際に必要となる薪の供給源となっていたことも、「新編武蔵風土記稿」の記述から見えてきます。特に久良岐郡の中里村の様に、自らも塩を焼きながら併せて橘樹郡の大師河原まで薪を供給していた例もあり、薪の供給源が近隣に留まっていなかったことが窺えます。因みに、いわゆる「金沢八景」の1つに「小泉夜雨」があり、同地の宿村の記述に見える様に、この風景を構成する中に塩田があったことも追記しておいて良いかも知れません。相摸国側の浦郷村も金沢の入江に隣接する場所にあり、この付近の村々で営まれていた塩田と併せて見た方が良さそうです。
武蔵国側の塩田の実情の話が長くなってしまいましたが、これに対して相模湾の塩田は大半が操業を停止してしまっており、その理由に「波荒」「荒砂」等環境の悪化が挙げられており、時期的に富士山の宝永噴火と結び付けられているのが気に掛かります。あるいは宝永噴火の4年前の元禄地震の影響もあるかも知れませんが、何れにしてもこうした天変地異によって製塩に必要な環境が整わなくなったというのは、一見すると確かに納得しやすい理由であるように見えます。
しかし、以前「元禄地震報告書」(内閣府防災担当)を検討した時にも触れましたが、相模湾岸はこの地震によって多少なりとも隆起したと考えられる地点が多いのも事実です。関東大震災などの大地震の際にも隆起傾向があることが観測されていることと併せて考えると、小田原〜早川で「塩田が浪を被る様になった」というのはどうも腑に落ちません。何か別の要因で小田原・早川付近の海岸線の後退を説明できるものがあるかも知れませんが、今のところこれらの自然災害によって起き得る現象として上手く説明が付けられないのが正直なところです。
一方、前川村の項では「荒砂になったから」ことから塩田が次第に廃止されていったと指摘されていますが、
つまり砂が粗くなると砂粒の間隔が広がって海水を吸い上げ難くなり、効率が落ちてしまうという点を言っているものと思われます。これは一見すると宝永噴火によるスコリアが大量に流れ着くようになったと考えたくなります。しかし、河川の様に上流から運ばれて来るスコリアが直接堆積する場所ならば砂粒が変化するというのも有り得そうですが、酒匂川から相模湾岸を経て堆積した砂が、果たしてスコリアの流下量の増大で変異するという説明で本当に問題がないのか、疑問も残ります。(瀬戸内)沿岸の地質は花崗岩が主なので、白砂青松の美しさ、遠浅の海べりは、沖の方まで浅い砂地がつづき、波おだやかで絶好の塩づくり浜になる。塩田で使う細かい砂の入手にも便利である。この砂は毛細管現象で海水中の塩分を吸い上げるのであるから、この砂の乾燥のよいことは必要条件である。
(「ものと人間の文化史7 塩」142ページより、注、強調はブログ主)
その点では、「新編相模」に記された「荒浪」「荒砂」といった状況が必ずしも実情を正確に表現していないのではないかという疑念も湧いてきます。もっとも、相模湾岸で塩田操業を止めた所でも、武蔵国内と同様に貢税は引き続き発生していた村もあり、こうした村では塩田を止めた分を別で稼がなくてはならなくなっていた点は一緒です。その点で、安易な理由付けでは塩田操業を止めてしまうということも出来なかったと考えられます。塩田を廃業するにあたって貢税を受ける名主も現地を視察して事情を確認の上で已む無しと判断しているでしょうから、実情に合わない説明では受け容れられなかったと思われるからです。先ほど見た「下り塩」の影響下では相模湾岸の塩田も元より不利な状況下にあったのは一緒でしょうから、多少なりとも不利な条件が増えれば撤退已む無しと判断されるのも宜なるかなとも思えるものの、天変地異を逆手に取って塩田にも影響が及んだかのように言い立てているとまでは、俄に判断しにくいということです。
その様な訳で、江戸時代の相模湾岸の塩田に関する「新編相模」の記述は、表向きで元禄地震や宝永噴火の相模湾岸への影響を示唆している様に見えながらも、その個々の記述にはなお地学面からの検討を必要とする面が残っており、他方で当時の塩の流通事情も併せて考えてみなければいけない、なかなか厄介な課題を提示している様に思えます。当時の関連史料が更に見つかったら、もう少し突っ込んで考えてみたい課題ではあります。