子どもの貧困率16.3%と過去最悪にしたアベノミクス-貧困連鎖がもたらす社会的損失と戦争のスパイラル

井上伸 | 国家公務員一般労働組合執行委員、国公労連書記、雑誌編集者

厚生労働省「国民生活基礎調査」より過去最悪となった貧困率

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昨日(7/15)、厚生労働省が公表した「国民生活基礎調査」で、2012年の相対的貧困率が16.1%となり、過去最悪だった前回調査(2009年)の16.0%より0.1ポイント悪化したことや、17歳以下の子どもの貧困率は前回を0.6ポイント上回る16.3%に達し初めて全体の貧困率を上回ったこと、ひとり親家庭の貧困率が54.6%と前回を3.8%も上回ったことなどが明らかになっています(上のグラフ参照)。また、平均所得額は537万2千円で1988年以降で最も少なく、生活意識について「苦しい」と回答した世帯の割合も全体の59.9%と増加し(下のグラフ参照)、母子世帯の84.8%、子どものいる世帯の65.9%が「苦しい」と回答しています(下のグラフ参照)。

厚生労働省「国民生活基礎調査」より
厚生労働省「国民生活基礎調査」より
厚生労働省「国民生活基礎調査」より
厚生労働省「国民生活基礎調査」より

こうした過去最悪の数字は、深刻な貧困化をすすめるアベノミクスの正体を明確に示しています。加えてこの調査は、2013年7月時点での所得によるものですから、貧困層を直撃している今年4月以降の消費税増税でさらに貧困が深刻なものになっていることは明らかです。とりわけ、子どもの貧困を深刻化させているアベノミクスがもたらす社会的損失を考える際のいくつかの言説をあらためて紹介しておきます。

まず、『子どもの貧困白書』(子どもの貧困白書編集委員会、明石書店)によると、「子どもの貧困」は次のように説明されています。

子どもが経済的困難で社会生活に必要なものの欠乏状態におかれ、発達の諸段階におけるさまざまな機会が奪われた結果、人生全体に影響を与えるほどの多くの不利を負ってしまうことです。これは、本来、社会全体で保障すべき子どもの成長・発達を、個々の親や家庭の「責任」とし、過度な負担を負わせている現状では解決が難しい重大な社会問題です。人間形成の重要な時期である子ども時代を貧困のうちに過ごすことは、成長・発達に大きな影響をおよぼし、進学や就職における選択肢を狭め、自ら望む人生を選び取ることができなくなる「ライフチャンスの制約」をもたらすおそれがあります。子どもの「いま」と同時に将来をも脅かすもの、それが「子どもの貧困」です。

出典:『子どもの貧困白書』(子どもの貧困白書編集委員会、明石書店)より

そして、「子どもの貧困」は、経済的困難によって、「(1)不十分な衣食住、(2)適切なケアの欠如(虐待・ネグレクト)、(3)文化的資源の不足、(4)低学力・低学歴、(5)低い自己評価、(6)不安感・不信感、(7)孤立・排除」などの「不利の累積、ライフチャンスの制約、貧困の世代間連鎖(子どもの貧困→若者の貧困→大人の貧困→次世代の子どもの貧困)」をもたらすものと指摘しています。(『子どもの貧困白書』11ページ)

以前、ブログで紹介していますが、山野良一さん(千葉明徳短大教授、「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワーク世話人)は次のように指摘しています。

軍事費へ税金投入→教育・医療・社会保障費削減→貧困増大→子どもの貧困増大→貧困脱出へ軍隊入隊→戦争、という「貧困と戦争のスパイラル」

アメリカでは、貧困な人たちだけが暮らす地域と、豊かな人たちが暮らす地域が、明確に分離しています。いちばん児童虐待が多い貧困地域では子ども1,000人に50人の割合で発生し、いちばん少ない豊かな地域は1,000人に0.2人です。貧困地域では、豊かな地域の250倍の児童虐待が起きているのです。

児童虐待だけではありません。ティーンマザー=10代の子どもの妊娠は、貧困地域の大きな問題ですし、銃犯罪、麻薬の問題などが貧困層に集中してあらわれています。

アメリカは、「貧困大国」であり、「虐待大国」でもあります。アメリカでは1年間で、1,300人もが児童虐待で亡くなっています。日本は虐待は50人で、一家心中を含めると1年間で100人の子どもが亡くなっています。アメリカは子どもの数が日本の3倍ぐらいありますが、それでもアメリカの児童虐待による死亡数はケタが違って多いことが分かります。また、アメリカは「監獄大国」でもあり、人口3億人のうち刑務所・拘置所などに収容されるのは1年間に1,000万人、30人に1人で、貧困者が多くをしめています。

また、アメリカの子どもの貧困は戦争と深く結びついています。ジャーナリストの堤未果さんが『ルポ貧困大国アメリカ』(岩波新書)の中で指摘されているように、子どもが貧困から抜け出すには、軍隊しか選択肢がないような状況にされているわけです。貧困で学校にも通えない、家族は十分な医療も受けられない。そこを抜け出すには、軍隊に入れば、大学にも通えるし、いろんな資格も取れる、家族も医療を受けられるようになる、というわけです。アメリカでは、「徴兵制はいらない。貧困があるから」と言われていて、まさに国家規模の「貧困ビジネス」が戦争になっているわけです。

たとえば、イラク戦争において、兵士が戦場には行きたくないと拒否すれば懲戒除隊として扱われ、奨学金や医療保険、住宅ローンの融資などを受ける権利も奪われるわけです。結局、貧困のため戦場に行かざるを得ず、イラクからの帰還兵にPTSDなどの精神障害や自殺が増大しています。PTSDで兵士を続けられなくなった貧困層の若者の家族は崩壊し、本人も社会への復帰ができずホームレスとなるケースも増えています。

アメリカにおいて、軍事費へ税金投入→教育・医療・社会保障費削減→貧困増大→子どもの貧困増大→貧困脱出へ軍隊入隊→戦争、という「貧困と戦争のスパイラル」ともいえる状況になっているわけです。

アメリカのこうした状況は、貧困問題と戦争の問題が密接に関係していることを示しています。日本においても、憲法25条の生存権保障と、憲法9条の平和主義をともに重要な課題として追求する必要があるのです。

給料から税金、社会保険料などを引き、児童手当、児童扶養手当など社会保障給付金を足して計算し、中央値の半分を「貧困ライン」といいます。日本では親子2人で195万円、3人で239万円ほどで、この額は生活保護の基準とほぼ同じです。

この「貧困ライン」以下で暮らす17歳以下の子どもの割合を「子どもの貧困率」といい、日本の特徴は「ひとり親家庭」の貧困率がOECDで最も高いことです。しかも、政府が社会保障などの施策を行うことによってヨーロッパ諸国は子どもの貧困率を下げているのに、日本だけが政府の施策によってかえって子どもの貧困率が高くなる状況にあります。ひとり親は、ほとんど非正規労働者であり、社会保障が少ない一方、税金や社会保険料が非常に高くなっているのです。

アメリカでは、貧困家庭の乳児の死亡率は1.7倍で、入院回数も2倍になっています。日本でも阿部彩さんの調査「0~4歳の子どもの成長と家族の経済状況(2008年)」によれば、貧困家庭の子どもほど、身長・体重の数値が小さく、病気の発生率が高いが通院ができず、逆に入院が多くなるなどの傾向があることが分かっています。

アメリカのチャイルド・ディフェンス・ファンドの報告はこう述べています。「当該の子どもだけが被害者なのではない。子どもが発達上の課題を背負ってしまったら、社会はそのコストを代償しなければならない。企業はよいスタッフを見つけることができなくなる。先生は補習や特別教育に時間を費やさなければならなくなる。裁判所はさらに多くの犯罪や家庭内暴力の審理をしなければならなくなる」。子どもの貧困を解消するための社会的な投資を増やすことによって、子ども自身だけでなく、社会全体の損失を減らすことができるのです。私たちは「子どもの貧困」の問題に敏感にならなければいけないと思います。

それから、ノーベル経済学賞受賞者のロバート・ソローが中心になって、子どもたちの貧困がアメリカ社会全体へおよぼすコストを試算したレポート(1994年、Children's Defense Fund)の内容を、山野さんは著作『子どもの最貧国・日本――学力・心身・社会におよぶ諸影響』(光文社新書)の中で次のように紹介しています。

子どもの貧困を放置すると財政の無駄遣いとなる

子ども時代に1年間貧困状況にあると、生涯賃金は約1万2,000ドル(約152万円:92年当時)減額すると予想。そこで、国内すべての貧困な子どもたち約1,400万人について合計すると、1年間の影響のみで1,769億ドル(約22兆円)の減額になるとしています。一定の条件のもとでは、賃金の変化はほぼ生産性の変化と等価であるという経済学上の仮説に基づけば、この額は子どもたちの貧困がもたらす社会全体の生産性の減額になります。

他方で、ここでは子どもたちの貧困をなくすためのコストについても計算していて、国勢調査からすると、92年当時は、子ども1人あたり、平均2,800ドルあれば貧困ラインを超えることができたとして、合計約400億ドル(約5兆円)があれば、全米の子どもたちを1年間貧困から抜け出させることができると分析しています。

つまり、ソローたちの計算によれば、貧困を終結させるためのコストより、貧困から影響を受けるコストの方が上回っていることになります。こうして、ソローたちは、子どもの貧困を放置することによって、多くのお金を無駄遣いしていると主張するのです。

ソローのレポートには次のように書かれています。

子どもが貧困に苦しんでいるとき、当該の子どもだけが被害者なのではない。子どもが貧困を原因とした発達上のさまざまな課題を背負ってしまったら、社会はそのコストを代償しなければならなくなってしまう。企業は良いスタッフを見つけることができなくなる。消費者は、商品にもっと高い料金を払わなければならなくなる。病院や保険会社は、本来なら予防できたはずの病気を治療しなければならなくなる。学校の先生は、補習や特別教育に時間を費やさなければならなくなる。一般市民は、街頭で危険な思いをするかもしれない。政府は、刑務所の職員をさらに多く雇わなければならなくなる。市長は、ホームレスの人たちにシェルターを提供しなければならなくなる。裁判官は、さらに多くの犯罪や家庭内暴力などの事件を審理しなければならなくなる。税金を払う人は、防げたはずの問題にさらにお金を払わなければならなくなる。消防職員と医療関係者は、貧困の問題がなければ発生しないはずの忌まわしい緊急事態に対応しなければならなくなる。葬儀の担当者は、貧困の問題がなければ死なないはずの子どもたちを埋葬しなければならなくなる。

これも以前ブログで紹介していますが、阿部彩さんは次のように指摘しています。

“貧しい「子どもの貧困」見る目”の改善を

子どもが希望したとしても、親が貧困なら、高校にも大学にも行けなくても仕方がない――このような最低限の生活水準に対する貧しい価値観であるというのが残念ながら日本の現状といえます。これは、「貧困は自己責任」とする考え方が、親のみならず、その子どもにまで浸食しているといえるのかもしれません。こうした状況で、「教育の平等」や「機会の平等」を訴えても、支持されないはずです。しかし、「教育の平等」「機会の平等」が支持されない社会とは、どのような社会でしょうか。不利な状況を背負って生まれてきた子どもたちが、そのハンディを乗り越える機会を与えられない社会とは、どんな社会でしょうか。自らが属する社会の「最低限の生活」を低くしか設定せず、向上させようと意識しないことは、次から次へと連鎖する「下方に向けての貧困スパイラル」を加速させ、結局、社会全体の活力や生活レベルを下げていくことにつながります。私たちは、まず、この貧しい価値観、この貧しい“「子どもの貧困」を見る目”を改善しなければなりません。「子どもの貧困」に対する政治の無自覚は、じつは社会の無関心、私たちの無関心の裏返しでもあるのですから。

それからフィンランドの事例を以下のように以前ブログで紹介しています。

「教育機会の平等」があってこそ、活力ある社会が生まれる

フィンランドでは、子育ては、親だけの責任ではなく、社会全体の仕事だと考えられています。子どもに平等な教育を提供するのは、親にではなく政府の責任にあると考えられています。ノートや鉛筆など学校で必要なものはすべて教室にそろっています。理解するまで一人ひとりに丁寧に教えていく授業。フィンランドに学習塾はありません。子どもに授業の内容を理解させるのは学校の責任です。フィンランドでは、教育は子どもの可能性を引き出すものと考えられています。家庭の経済状況によって、子どもの未来が閉ざされてしまうことはありません。家庭の経済状況にかかわらず、すべての子どもに平等な教育機会を保証するフィンランド。その背景には社会全体で支え合う国民全体の合意があります。フィンランドの企業の社会保険料負担は日本の2倍です。1991年の不況で、フィンランドの失業率は18.4%に跳ね上がり、財政危機に陥りました。しかし、フィンランド政府は、教育費を増額したのです。財政危機にもかかわらず、教育費を増額したのには次のような裏付けがあったのです。教育が受けられないため、働けない人に対する国の負担は、生活保護など年間1人当たり96万円、生涯で2,230万円もの負担になります。一方、教育を受けて働くことができれば、国に税収が年間1人当たり76万円、生涯で1,770万円の税収を得ることができるのです。教育への投資を最優先することが財政危機を解決することなのです。教育への投資は、将来の経済成長につながり、税収が拡大するのです。教育にかかるコストよりも教育で得られる利益の方が大きく、「平等」と経済の活力というものは相反するものではなく、「教育機会の平等」があってこそ、活力ある社会が生まれるのです。

最後に、東京大学名誉教授・田端博邦さんの指摘を紹介しておきます。

労働市場と連関する自己責任社会の貧困問題

賃金・労働条件が産業別に社会的に決定されるヨーロッパにおいては、失業も個々の企業の問題ではなく、社会的に解決すべき問題になりますので、手厚い失業保険や公共的な教育訓練制度の充実がはかられているのです。ところが、日本などの「自己責任社会」においては、失業した場合には、失業保険があるとしても、基本的には自分自身で生活を立てなければなりませんし、また再就職のための教育訓練なども自前の費用でまかなわなければならないというのが原則になります。日本の若者の貧困問題などは、こうした「自己責任社会」の負の側面を示していますが、北欧やヨーロッパでは、こうした場合に生活保障付きの教育訓練機会が提供されるのです。

そして、ヨーロッパでは産業別に労働者の技能によって賃金が決められますから、子どもを育てる際の支出については、賃金とは別に社会保障が必要となるため、労働組合は社会保障を充実・発展させていく役割も果たすことになります。つまり、ヨーロッパの労働者は、技能別のフラットな賃金ですから、子育てなどライフサイクルに応じてかかる支出については、賃金以外の社会保障によってカバーすることになったのです。そういう意味では、ヨーロッパで社会保障が発展した理由のひとつは、労働市場の構造にあるともいえるでしょう。

それから、教育のあり方の問題です。北欧をはじめとするヨーロッパでは、大学の授業料が無料というだけでなく、大学生に生活費が支給されます。つまり、大学に行きたい人は誰でも生活が保障されて通学することができるのです。

ところが、日本などの「自己責任社会」では、教育費はプライベートに負担する考え方が支配的で、とりわけ高額な授業料となっている日本の大学教育においては自己責任が貫徹しています。教育費が私的に負担される「自己責任社会」では、私的負担の教育費は個人がそれによって将来の利益を得るためだけの投資と考えられ、それで獲得した知識や能力は、個人の利益を追求するためだけに使われるべきものと考えられることが多くならざるをえません。その教育費を負担することができない個人は、そうした利益を得ることができませんが、投資をしていないのだからやむをえないという考えが基本的になってしまいます。

逆にヨーロッパなどの「社会的責任社会」「連帯社会」では、教育の機会が親の経済的地位で左右されるのではなく、社会の構成メンバーの経済的能力を高めるためにみんなで支え合う公的な教育を提供する必要があるとベースで考えています。「社会的責任社会」「連帯社会」では、教育への投資は、個人の「自己責任」ではなく、「社会の責任」ですから、教育の成果は、個人の利益だけに還元されるべきものではなく、社会に還元されるべきものとなります。ヨーロッパでは、大学まで含む教育全体が公共サービスと考えられているのです。

私は「自己責任社会」と「社会的責任社会」「連帯社会」の大きな違いが、この教育に対する考え方にあるように思えるのです。教育を提供する社会の考え方と、教育を受ける個人の考え方は、相互に強め合う関係になるのではないでしょうか。教育を自己責任にしないで社会の責任として提供する社会には、社会的な意識の高い個人が生み出され、そうした個人が構成する社会はさらに強い「社会的責任社会」「連帯社会」を生み出していき、まったく逆の流れで、教育を自己責任とする社会では、さらに強い「自己責任社会」が生み出されてしまうことになると考えられるかもしれません。

雇用や教育、社会保障、住宅などの公共的な支えが弱くなればなるほど、人々は「自己責任」で暮らさざるをえません。公共性の欠如は人々の利己心を増殖し、公共支出の増加は、利己心から人々を解放するといえるでしょう。

東京大学名誉教授・田端博邦さん談、文責=井上伸】

井上伸

国家公務員一般労働組合執行委員、国公労連書記、雑誌編集者

月刊誌『経済』編集部、東京大学職員組合執行委員などをへて、現在、日本国家公務員労働組合連合会(略称=国公労連)本部書記、国家公務員一般労働組合(国公一般)執行委員、労働運動総合研究所(労働総研)労働者状態分析部会部員、月刊誌『国公労調査時報』編集者、国公一般ブログ「すくらむ」管理者。著書に、山家悠紀夫さんとの共著『消費税増税の大ウソ――「財政破綻」論の真実』(大月書店)がある。ここでは、行財政のあり方の問題や、労働組合運動についての発信とともに、雑誌編集者としてインタビューしている、さまざまな分野の研究者等の言説なども紹介します。

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