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【生活保護を問う・外国人受給者(上)】超厚遇・日本の生活保護、抜け出せなくなった中国人夫婦の“人生”
「助けて」と強行入国
戦前から戦中にかけて満州などに移住し、敗戦の混乱で中国を抜け出せなくなった大勢の残留邦人をめぐっては、昭和47(1972)年の日中国交正常化により、ようやく本格的な永住帰国の道が開いた。
ただ身元引受人を立てることが帰国の要件とされ、帰るに帰れない人が続出。平成5(1993)年9月には残留婦人ら12人が行くあてもないまま、成田空港に強行帰国。「助けて」と書かれたプラカードを掲げ、故国に受け入れを直訴する“事件”も起きた。
これがきっかけとなり、翌6年に「残留邦人支援法」が成立。ここから90年代後半にかけて、婦人らの帰国が一気に加速した。劉さんの母親もその一人。中国人の夫と移り住んだ先が大阪の府営団地だった。
バブルはすでにはじけ、景気は後退局面に入っていたが、中国の貧しい農村とは比べるべくもない。言葉が分からなくとも、仕事はある-。劉さん、王さん夫妻も子供の手を引き、母の後を追って大阪へ向かった。
就職、病気、無職…行きついた先は
来日当初、夫妻は中国人の知人の紹介で紙袋の製造工場に就職した。低収入ながら2人の子供を必死に育てたという。だが、10年ほど前に王さんが結核を患い、1年近く入院。劉さんも感染して長期療養を強いられ、そろって無職に。日本語のできない中国人に働き口は少なく、たどり着いた先が市役所の生活保護窓口。以来、一度も仕事に就いていない。
支給額は夫婦で月に約11万円。収入に応じて決まる団地の家賃は1万円程度だ。節約を心がけ、1日2食。早朝の散歩が唯一の趣味という。
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