2014/05/29 長年放置しておりまして、申し訳ございません。ここやVORCで書いていたような研究は現在、主に各種『ゲームサイド』誌に書き綴っております。よろしければご覧くださいませ。またそのほか最近の動向に関してはtwitter:@hallyvorcにてお知らせしております。いずれ更新を再開したいとは思っております。
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■[dawn] バベッジのゲームマシン (4)
ニューヨーク万博で話題をふりまいたニモトロン (前回参照) は、人間と互角以上の「知性」を見せた最初の機械でした。しかしこれがバベッジの思い描いたゲームマシンだったといえるでしょうか? ニモトロンは、あまりにもニムというゲームに特殊化しすぎていました。それ以上には発展させようがなく、他のゲームにも応用が利かないものだったのです。その意味で、チク・タク・ツーの向こうに万能ゲームマシンの姿を見ていたバベッジの理想には、まだ及んでいなかったといえます。
バベッジの先見性を語り継ぐ者は、1930年代にはすでに見当たらなくなっていました。しかしニモトロンが誕生する数年前くらいから、バベッジ再評価の芽が息吹いてはいます。デジタルコンピュータ時代の先駆となるふたりの重要人物が、この頃それぞれ別個にバベッジの解析機関を再発見し、そこから多大な影響を受けていたのです。ひとりは英米におけるプログラム式汎用計算機の実質的な開祖、ハワード・エイケン。彼がハーヴァード・マークIとして知られる最初の汎用マシンを完成させたとき、自らをバベッジの後継者に喩えた話は有名です。しかし真にバベッジの後継者と呼ぶに相応しいのは、理念においても行動においても、そしてゲーム研究の姿勢においても、もう一人のほうでしょう―――そう、アラン・チューリングです。
この時代に至っても、バベッジを輩出したケンブリッジ大学だけは、なおバベッジの記憶を留めていました。ここでは彼の (おそらくは暗号解読に関する) 功績を、数学の講義を通して教えていたのです。チューリングがバベッジについて知ることになったのは、まさにそのおかげでした。彼は解析機関にヒントを得て、いわゆるチューリング・マシンを発想したと考えられています。1936年の論文ではじめて示されたこの「思考する機械」は、今日ある汎用コンピュータのモデル像をいち早く示したものでした。
■[dawn] ハードウェアなきチェスプログラミング
第二次世界大戦中から終戦直後にかけて、興味深い現象が起こっています。まだ今日的な意味でのコンピュータが誕生していないにも関わらず、チェスをプレイするためのプログラムがいくつか考案されているのです。先陣を切ったのは、プログラム制御の汎用計算機を世界ではじめて完成させたドイツのコンラッド・ツーゼでした。彼は1945年ごろ、構想中の新型マシン・Z4のためにPlankalkülというプログラミング言語をまとめあげ、それを使ったチェス運行用プログラムを書いています。
ツーゼは最初のマシン・Z1を完成させたあとで、はじめてバベッジの解析機関について聞き及んだというくらいで、他国におけるコンピュータ開発事情にはほとんど無頓着でした。アシェレシスタやニモトロンのようなゲーム機についても知識は持っていなかったことでしょう。彼のプログラムはゲームを攻略するという段階までは到達しておらず、ルールに矛盾しないよう駒を動かすので精一杯というものでした。
チューリングもツーゼとだいたい同時期に、チェスの自動プレイについての考察をはじめていました。彼は戦時中、ドイツ軍の暗号解読に従事していたのですが、その当時に同僚たちと、ゲーム木から最善手を探す方法について議論していたそうです。学生時代からチェスを嗜み、またバベッジを愛読していたというチューリングですから、自動チェスマシンへの憧憬はたぶんもっと早くに抱いていたに違いありませんが、暗号解読の現場に身を置くことで、思考に弾みがついたのでしょう。彼は暗号解読に自動チェス研究との共通性を見出していたといいます。
チューリングは大戦後期から、より高度な暗号を解読するための専用コンピュータ・COLOSSUSに接し、これを通して電子式デジタルコンピュータの具体的な原理と性質を体得しました。そして戦後、この経験を活かしてACEと呼ばれるイギリス初の汎用コンピュータ開発計画を立案指揮します。しかしプロジェクトは予算に恵まれず、ACEの独特すぎる設計も仇になって、間もなく計画は頓挫しました。チューリングはプロジェクトを抜け、1948年秋にマンチェスタ大学数学部へ講師として赴任しています。
■[dawn] ハンド・シミュレーション
ちょうどその頃アメリカで、チェスマシン研究に重要な転機をもたらすことになる、一冊の書物が出版されました。ノーバート・ウィーナの著した「サイバネティクス」です。同名の学問を確立したことで有名なこの大著のなかで、ウィーナはチェスをプレイする機械を作ることが可能かどうかについても論じ、そのための新しい方法論を示したのです。
この頃すでにノイマンが、チェスはミニマックス法によって完全攻略できるゲームであるということを解き明かしていたのですが、同時にミニマックス法を使用するチェスマシンの開発は、その当時の技術では不可能だということも分かっていました。現代のスーパーコンピュータをもってしてもまるで足りないほどの、途方もないメモリ量が必要となるからです。バベッジが100年前に直面したのと同じジレンマに、この当時の自動チェス研究もまた突き当たっていたわけです。
ウィーナが気がついたのは、ミニマックスのようなパーフェクト戦略だけがすべてではないということでした。彼のサイバネティクとはつまり、機械で人間を超えるのではなく、真似ようとする考えかたです。人間ならばチェスに勝ちもすれば負けもする。まずは普通の人間と適度に渡り合える程度の強さから始めてみるのも、無意味なことではない―――それが彼の論理でした。研究者たちはこれによって、必勝という呪縛から初めて解放されたのです。
ミニマックスに代わる手段として、彼は評価値という考えかたを提案します。先読みするのはせいぜい2〜3手先までにしておいて、そのなかで相手の駒を取ったりチェックをかけたりできる有利な手には高い得点を与え、その逆に不利な手には低い得点を与える。そうしてもっとも高い点がついた手を選ばせるという方式でした。これなら必要なメモリ量は現実的な範囲で抑えられます。
この方法を最初に実践したのがチューリングでした。彼はほんの数年前まで、機械が人並みにチェスをこなすようになるまでには100年以上かかるだろうと考えていましたから、ウィーナのアイデアには目から鱗が落ちる思いだったに違いありません。「サイバネティクス」が出版された直後から、チューリングはマンチェスタ大学の仲間たちとともに、1手のみの先読みに基づいて局面評価を行うチェス対局アルゴリズムを組み始めています。
彼らはほどなく、ふたつのアルゴリズムを完成させました。しかしマンチェスタ大学にはまだそれらを走らせることのできるコンピュータがありません。そこで彼らはアルゴリズム中の演算をすべて手作業で行い、人力で「動作」させるという荒業に打って出るのです。チューリングがハンド・シミュレーションあるいはペーパーマシンと名付けたこのやり方は、一手指すのに30分以上を要するという気の遠くなるようなものでした。しかも、そうまでして実行した最初のアルゴリズムたちは、決着をつけることができずに終わってしまいます。ですが彼らは挫けることなくアルゴリズムの改良を進め、1952年にはハンド・シミュレーションと人間の対戦を実現するところにまで漕ぎ着けています。
■[dawn] CAISSAC
おそらく「サイバネティクス」を刊行した直後あたりに、ウィーナはケヴェドの業績を発見しました。今から30年以上も前に、部分的とはいえチェスをプレイする機械が実在していたという事実は、研究者たちを多かれ少なかれ驚かせ、そして勇気づけたことでしょう。これこそ思考機械への最初の挑戦であるとして、ウィーナはアシェレシスタを高く評価したそうです。
アシェレシスタのプレイを見学するノーバート・ウィーナ (左)。このアシェレシスタはレオナルドの息子ゴンザロ・ケヴェド (右) が1920年に製作した2代目で、磁石によって駒を動かすよりスマートな設計になっている。写真は1951年のもので "From Analytical Engine to Electronic Digital Computer: The Contributions of Ludgate, Torres, and Bush" (Brian Randell, 1982) [PDF] より引用した。 |
「サイバネティクス」出版から一年あまりのち、ウィーナの同僚だったクロード・シャノンは、「チェスをプレイするコンピュータのプログラミング」(Programming a Computer for Playing Chess) という論文を発表します。ターク、アシェレシスタ、ニモトロンといった過去のゲームマシンたちの意義を辿りながら、汎用コンピュータ時代のゲームプログラミングにおける指標を示したこの論文は、またゲーム研究が意思決定の必要な他の分野にも役立つはずだと指摘し、そこに学術的な正当性を与えようとしている点でも興味深いものといえます。 この論文の主要な関心は、ウィーナが提唱した評価値の要素をさらに掘り下げ、具体的に評価関数化することにありました。これはすぐにもプログラミングに応用できるものでしたが、チューリングのケースと同様に、やはりまだ汎用コンピュータそのものが存在していません。そこで彼は1950年ごろ、CAISSACと呼ばれるチェス専用コンピュータを組んでいます。このコンピュータがどういう仕組みでどのようなアルゴリズムを動作させていたのか、シャノンは詳細を一切公表しませんでした。ただいずれにせよ、チェスを完全にプレイすることはできず、最大6駒までの終盤ゲームにしか対応していませんでした。CAISSACは、いってみればさらなる複雑化を遂げたアシェレシスタだったわけです。おそらくは評価関数の挙動を確認するための実験機として製作されたのでしょう。 | 当時の高名なチェスプレイヤであるエドワード・ラスカ (左) にCAISSACを紹介するシャノン (右)。写真は「コンピュータチェス―世界チャンピオンへの挑戦」 (David Levy/Monty Newborn, 翻訳:飯田弘之/吉村信弘/乾伸雄/小谷善行, サイエンス社) より引用。CAISSACはおよそ150個のリレースイッチを使って組まれており、サイズは100x100x150cm。電磁石によって駒の位置を検知するが、自動で駒を移動させることはできない。縦横軸に配列されたランプの示す位置に、手を使って駒を移動してやる必要があった。 |
シャノンはその後も継続的にゲーム研究を行っており、1953年には「チェスプログラムは自分の失敗と成功を学習できるか?」という次なる課題に取り組んでいます。そしてこの研究のために、ジョン・マッカーシイとマーヴィン・ミンスキイというふたりの助手を雇いました。彼らはシャノンとの研究を経て人工知能という新しい学問分野を確立し、のちにはMIT第一世代ハッカーたちの育ての親ともいえる存在になっていくのです。「スペースウォー!」を手がけたスティーヴ・ラッセルもまた、マッカーシイの門下生でした。このシャノンから続く潮流に身を置いていなければ、彼もコンピュータをゲームマシンにしようというアイデアには辿り着かなかったかもしれません。