そらとべないて

底辺でダメ人間がどこまでいくのか試してみる

短歌を詠む読むには

短歌とは

短歌詠みさんのツイッターをフォロー、ブログ購読をすることが多い。短歌詠みさんたちの書く文化系コンテンツに惹かれやすいのが理由だろう。必然的に短歌を見かける機会も増える。

短歌を詠んだ、読んだ経験がないから、コツやポイントがわからない。良い短歌とはなにが優れているか調べようとして、あ。芸術のよしあしの判断に、すぐ外側の評価を求めたがる。自分がいいと思うものと周りにとっていいものが一致しないと落ち着かない*1欠点に気づいた。

しかし自分で考えようとしても、まったくわからない。思いつくのは、全体の文章が短くなればなるほど*2、物語(文脈)には読み手側の介入する割合が増えるのでは、ということ*3

J-POPの歌詞で考えてみよう。歌詞には、ある種の世界観や文脈がある。そこから、フレーズだけを抜くとどうなるか。たとえば、

歩いて帰ろう

歩いて帰ろう

これから「歩いて帰ろう」という1フレーズだけを切り出して、眼前にぽんと置いてみたら。ぼくなんかは、おかねがなくて、4駅ぶんあるいたことを思い出した。つまり、情報が少ないと僕の物語が入り込む余白が大きくなる。そしてそれは、斉藤和義の物語とは重なり合わないだろう*4

短歌の基本、57577という文字制限は前述のワンフレーズよりちょっと長い。詠み手側の物語の断片と読み手側の物語の断片が互いに重なり合うギリギリを突くのにちょうどいいバランス。ドシロウトとしては短歌にそんな印象を持っている。

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短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

穂村さんのエッセイはいくつか読んできたけど、この本は雰囲気が違う。いままでパジャマやティーシャツジーパンだった人が、ネクタイ締めクリーニング済みサイズピタリスーツ着てきた。

短歌界隈でない人の歌読みについて「なにかが分かっていない、前提となるなにかが欠けている」という主張にうなずいた。ドシロウトの僕にとってもそうだ。短歌を読んでも、掴んだ感覚になれない。穂村さん曰く「歌というのは基本的にひとつのものがかたちを変えているだけ」だ。ひとつのものとは「他人の生とは交換不可能な一回性、生のかけがえのなさ」だ。他にも「詞は普通から離れたもの、歌は普通が濃いもの」「具体的な小さな違和感を大事にする」だそうです*5

詠み読みする際のフレームワークをひとつ得られた。けど、まだできそうな気がしない。小説読みで言うなら、この著者の文体はまだ自分と合っていない、そんな感覚に似ている。最近だと平野啓一郎さん、昔だと三島由紀夫さん、いまのところこの二人の小説は音読して慣らさないとどうにも読み進められない。それは特定の著者の文体に慣れすぎてるから、という可能性が高い。

短歌も同じで*6文化に慣れないと詠み読みできない気がしている。

たぶんこれもウソだ。なんか気恥ずかしいのだ。短ければ短いほど、それを選んだ必然性が求められる。外側の評価ばかり気にしている人にはハードルが高いのかも。小説だと、他者に語らせられるけど、短歌はできない。おまえがどうなんだ?そんな根源性も求められる。と思いついて、それが穂村さんの言ってることなのかな、という気がした。

*1:作り手の場合はそのほうがいいかもしれないが

*2:情報がすくないほど

*3:たぶん、もう既に言ってる人はいると思うけど

*4:抽象度の高いフレーズは重なりやすいが、詩や歌で抽象度が高いフレーズは使われにくいのでは、と思う

*5:それ以外に、ネットに載っていないような短歌の技術についても紹介している

*6:すぐできる人はできるんだろうけど