2014年07月17日

思考の言語化

ぜんぜん自分の頭でまとまりついてないことだけど、ツイッターで連投しそーになったからこっちで。

昨日、人とちょっとチャットで議論っぽいことをした。
ある話題について、私がそれに批判的な意見を持って、その批判を相手に伝えよーとした。
批判は、議論の相手に対してじゃなくて、話題として持ち出されたある事実に対して。

私が言いたかったことは、私の言葉では相手に理解がちゃんと伝わらなくて、こーいう話をしてても不毛だ、って、議論を打ち切られた。

私は、なんで自分の考えがこんなに伝わる言葉にならないんだろー、っていうもどかしさを感じたまま。
相手はぜんぜん言葉の通じない頭の人なんかじゃなくて、反対にものすごい頭のいい人で、私の足りない言葉をいろいろと補足して考えてくれるぐらいの知能が高い人。

その人に「えー、どーしてー」っていうぐらいに自分の言葉が「意味を持つ意見」として伝わらなかった。

頭にある思考を言葉にする、ってものすごいむずかしい。
私はいつもこの壁にぶちあたってる気がする。

その時も、自分の思考は私の頭の中で映像としてあった。
言語化されてない映像だけが、私の中にある元の思考。

それをそのままディスプレイに映しだせる技術があればいーのにねー。

私の中に、その話題になった世界が立体的に浮かんで、その世界を自分は見て、こーいうことなんだ、っていう理解が自分の中に出来て。
それで、この世界ではここがおかしいよ、っていうことを言葉にして、それを人に伝えてみたかった。

頭の中に浮かぶ映像のある場所に指さして、
「ここ。ね?ここ、ひずみがあるでしょ。このひずみが、この話題の問題点なんだよ」
ってことを伝えたかった。

それを言語にしなければ、私の頭の中にある映像は人にわからないから、「ひずみ」の指摘が伝わらない。

絵画では「写生」ってあるよね。
見たものをそのまま写し描くの。

文章でも写生はできる。
でもそのためには、そこにあるものを描写する語彙がなければ、正確な言語化ができない。

きれいな赤いリンゴがあって。
それを「きれい」「おいしそう」って言う人がいて。

でも私は、
「ちょっと待って」
って言いたかった。

そのリンゴ、きれいに見せかけてるだけで、その「きれい」は自然じゃなくて作為だよ、って。
作為による効果は、その作為をこらした人の利になるだけなんだよ、って。
その「利」は、作為をされた側の「利」にならないどころか、「害」ってこともあるんだよ、って。

きれいにペイントされたリンゴかもしれない。
カラダに悪い甘味料を注射された果実かもしれない。

それを、
「きれい」「おいしい」
って感じて食べた人は、
「リンゴはカラダにいい食べ物だから」
「おいしいものを食べるのは幸せだよね」
って思っていても、ほんとは、そのカラダを蝕んで、その人に結果的に不幸をもたらすものかもしれない。

すべての人に幸せをもたらすことのよーに見せかけたそれは、まずはじめにその作為をほどこす人の利(満足)になることなんだよ、って。
それを気づかせない構図になってるのが、「ひずみ」なんだよ、って。
その「ひずみ」がある限り、それはぜんぜん「はっぴー」なものではないよ、って。

そんなふーに感じたことに対して、私はその考えをなんとか言語化したかった。

自分の考えが言語化できないもどかしさって、私自身の知能の問題だから、人と議論したければ、このスキルを高めることが必要。
って、ものすごい感じた。

伝わらない言葉をしつこく投げかけて、こんな話を続けても不毛だと相手に思わせる。
その「不毛」っていう言葉をうけとめて、私は黙る。
だから、私とその人のあいだはこじれはしない。

だけど、私が「?」と疑問に感じたことは、なにも変わらないまま。
「それは正義じゃないよね」
って感じた事実に、その疑問を意見として投じなければ、いろんなもののひずみは放置されたままになる。

なにかに疑問をいだいて、それについて考えて、自分がその考えを自分の外に出すには、他人にも理解される「言葉」がひとつの手段になるよね。

ここにこーいう考えがあります。
この考えはどーでしょーか。

って、自分の頭からひっぱりだして表に提示するために、私は自分の思考の言語化の訓練をもっとしなくちゃねー、ってイヤってほど感じた。

まとまってない思考をこんなふーにブログに書いてみることも、ひとつの訓練になるのかな。
それともそんなやり方はダメなのかな。

それすら私はわかってない。
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posted by luv at 19:29| ラスベガス 曇り| ライフ的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする