論争:市場の廃絶しかないのか2


 置塩信雄『経済学はいま何を考えているか』についてのぼくの感想を読んだ人から、メールをいただきました。
 「社会主義は市場の総否定しかない」という、今ではかなりめずらしくなった議論ですが、裏返せば世間によくある共産主義観そのものでもあり、市場の問題とマルクスの関係などについては、いずれつっこんでおきたいと思っていたので、この機会にちょっとかんがえてみましょう。


Zさんの主張=「市場廃絶以外はありえない」

 この人――Zさん、と仮に呼びましょう――の立論は、きわめてシンプルで、「商品の生産は、おたがい知らないところでやってるんだから、つくりすぎたり足りなかったりするので、はじめからぜんぶいくつ必要かを計画的に決めてつくりましょう」ということです。

 こんなにシンプルにすると怒られるので、もう少しだけ色をつけましょう。

「商品の生産は、おたがい知らないところでやってるんだから、世の中にどれくらい需要があるのかは、商品を市場にもっていった初めてわかる。はじめからいくつ必要か、そのためにどれだけみんなが働けばいいかをだれも勘定せず、商品をものすごくつくりすぎたり、むっちゃ足りなかったりして、それを価格の上下によって調整する。だから、しばしば恐慌(不況)というひどい形で調整されるのだ。いくらで売れるか、どれくらい売れるか――自分の運命を自分で管理できない、それはまるで神のみぞ知る、という状態になる。だから、ぜんぶはじめから社会が何がいくつ必要かを決めてそれで生産をしましょう」

 マルクスやエンゲルスの文章に対応させてみましょう。

「互いに独立に営まれながら、しかも社会的分業の自然発生的な諸分肢として互いに全面的に依存し合っている私的諸労働が社会的に均斉のとれた基準に絶えず還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的でつねに動揺している交換比率を通して、それらの生産のために社会的に必要な労働時間が――たとえば、だれかの頭の上に家が崩れ落ちてくるときの重力の法則のように――規制的な自然法則として暴力的に貫徹される」(マルクス『資本論』1部1篇1章4節)

「周期的な革命〔恐慌〕によってのみ貫徹される法則を、われわれはなんと考えるべきだろうか? それこそ、まさに、関与者たちの無意識にもとづいている自然法則なのである」(エンゲルス『国民経済学批判大綱』)

 ぼくは、“商品生産=商品経済=市場経済が、てんでばらばらな生産の仕方で、そこには恐慌の「芽」がふくまれている”というところまでは同意します。
 Zさんは、そこから、いきなり「商品生産=市場の廃絶、計画による置換」へと飛躍してしまいます。まるでそれしか対案がないといわんばかりに。

 Zさんにたいする、いちばんてっとりばやい批判としては、「ぼくは市場をいかしながらそこに社会的理性をうちたてるのが共産主義だとはのべたが、それはある領域では市場をなくしたり、また市場をのこす領域にも社会の理性が働くしくみを築け、といったのであって、市場原理が猛威をふるう今のままの姿を残せとは一言もいってない」ということで終わりだろうと思います。

 たぶん、ぼくが「市場や生産については聖域にせず、必要ならばちゃんとふみこんで改革のメスをいれますよ」といっていることをそっくり見落として、なにか市場にも生産にもいっさい手をつけずに社会主義をとなえているようにお考えなのだろうと思います。つまり早い話が誤解していらっしゃるのではないかと。
 その誤解がとければ、実はZさんと手をとりあえるかもしれません。

 ところがZさんは、それでは許してくれないかもしれないのです。
 わたしが市場の主権ではなく社会が主権をもつ経済にするのですよ、とのべても、「市場によって(つまりは価値法則によって)剰余労働の処分が決定されている限りは、『社会が決定している』のではなく社会の上に立つ価値法則が決定しているのです」(Zさん)などとのべてきているからです。
 これが意味することは、「市場が1グラムでも残ってれば、それは市場の(社会にたいする)支配である」という結論に他なりません。つまり、Zさんの主張は、市場を殲滅・撲滅し、この世から追放しなければ絶対に社会的理性はうちたてられないという論理構造を内包させているのです。だからこそZさんの主張は必ず「市場の支配の廃止」ではなく「市場の廃止」なのです。

 問題は「市場を1グラムも許さず、市場を廃絶した、一元的計画による社会主義」を認めるかどうか、これ以外のモデルは絶対に許さないかどうか、ここにあります。
 



第一の批判:どうやって膨大な需給を調整するのか?

 ぼくがZさんにたいする批判と呼びかけの角度は二つあります。

 第一は、もし一元的計画におきかえるしか道がないと考える場合、ただちにひきおこされる疑問があるということです。第二は、マルクス自身の共産主義論にてらして疑問がある、ということです。


 第一の問題。
 それは市場システムを完全廃絶し、一元的計画に置き換える「しかない」と考える場合、市場メカニズムがもっている調整作用をいったいどのように「民主的」に果たすのか、ということです。

 たとえば、ぼくが女性にプレゼントするために服を買うとしましょう。

 一元的計画にした場合、「服をXトン生産」というソ連のような指令でことがすむわけではありません。ある一人の女性が「服の需要をもつ」とは、いかに多くの情報から成り立っているかをみてみましょう。

(ア)まず夏用のシャツでなければなりません。秋用や冬用はほしくありません。
(イ)色は白地に青いストライプです。これがもし、青ではなく紺色だったら暑そうでイヤです。
(ウ)そのストライプは「ピンストライプ」でなければならず、少しでも太ければ「ボーダー」みたいになってしまい、そういうものはほしくありません。
(エ)そでがフレンチスリープでかわいくてすずしげなものがよく、張りのある生地でできていれば清楚で凛とするのですが、もし柔らかい薄手のシフォンなどでつくられていたら、「女の子」っぽすぎて自分は選択しません。
(オ)価格は1万円前後のものを選びます。3万円だと高級すぎてプレゼントには合いません。5000円だと「洗ったらダメになるだろうなあ」などという不安がよぎります。
(カ)サイズはM。Sでは小さすぎ、Lでは大きすぎます。
(キ)この服を彼女の誕生日に間に合わせるよう、今から2日間で自宅まで届けてほしい。それ以後は要らないのです。

 これが服一つの需要にまつわる情報であり、人によってはさらに必要な情報が多段階に分かれている可能性があります。服、いや女性用シャツという部門でさえ、需要のための情報が、かくのごとく調整不能なほど膨大に存在するでしょう。これが「男性用ネクタイ」「老人用寝巻き」……とさらに無数にあり、その嗜好は日本でいえば1億3千万人が、365日のタイミングで異なっています。
 もういわずもがなですが、こうした無限の需要情報があらゆる種類の消費財、さらにあらゆる生産財にわたって存在しています。さらに、これを生産するために相互の量的調整が必要になります。おそらく1日だけで1人に数億、数兆の変数がかかわってきます。

 ただ国民の需給を「合計」するだけでは問題は終わりません。
 仮にPOSのようなコンピュータシステムがかなり発達して「集計」が技術的に可能になったとしても、それを「民主的に」討議にかけ、社会的合意を得る、というプロセスが残ることになります。
 もし、Zさんのいうように、「民主的に決定された計画」にするためには、中央当局の需給計画案をすべての国民が討議し承認するプロセスが必要になります。これをさらにくり返し修正するというプロセスも必要になってきます。そのために社会が費やす時間やコストはいったいどれくらいになるでしょうか。そして、そのとき、社会の構成員はすべての生産物と社会的需要についての知識をもって判断していることが前提とされることになります。つまり80才のおじいさんが若い女性の夏用ブラウスの需給量の合理性について、十分な知識と判断をもっていなければならないということになります。「ブルジョア社会では、各人は商品の買い手として百科全書的な商品知識をもっているという“擬制”が支配的に行われている」(『資本論』)というマルクスの皮肉が、Zさん的な「一元的計画社会」に適用されてしまうのです。

 市場メカニズムは、価格を媒介として、この調整を短期のうちに低コストで実現してしまいます。

 これらは、「ソ連経済モデル」批判として、長い間いわゆる「近代経済学」の立場からずっとおこなわれてきたものです。そのことを知っているからこそ、置塩信雄は、あえてこの問題では市場メカニズムをある程度利用せざるをえない、と考えたのでしょう。


 不破哲三も同様に、市場のもつ否定的側面とともに、その調整作用を肯定的に評価し、市場に改革をくわえたうえで、次の社会にひきつぐということを主張しています。
 しかし不破はこの問題はたいへんストイックに論じており、市場が持っている調整メカニズムについての効用をのべ、かなり長い間こうした市場のしくみは残るに違いないというのですが、未来永劫それが必要になるかどうか断定的にのべることは避けています。それが遠い将来をふくめて技術的に解決してしまうかもしれないということを念頭においているせいでしょう。おそらくそれが科学的にはもっとも厳密な態度です。


 Zさんはこの問題には何も答えていません。

 Zさんの想定している社会は、ほとんど「戦時共産主義」か、よくても旧ソ連の「社会主義」です。Zさんの理屈をつきつめていくと、需給を管理する「社会的理性」が一元的であればあるほど全体整合性が発揮でき、ソ連のような中央当局による一元的・中央集権的管理や計画があればあるほどよいということになります。中央官僚が情報を独占し、Zさんのいきつく先は「ソ連経済」しかありません。



第二の批判:市場経済と資本主義の混同、または恐慌の可能性と現実性の混同


 以上は市場メカニズムの、ある意味で「肯定的側面」なのですが、しかし、市場経済すなわち商品経済には、そのなかから資本を必然的に生み出し、マルクスが『資本論』のなかで論じたような重大な問題をひきおこす「芽」が孕まれています。

 Zさんは主観的には、おそらくその面をとらまえて「市場」を批判し、「だから市場は廃絶し、計画でおきかえるしかないのだ」と主張するのです。
 「もし市場を廃絶しないなら、お前はプルードンではないか」とZさんはいいます。

 そこで第二の問題にうつります。
 このZさんの「市場廃絶」論は、ぼくからみると、マルクス自身の共産主義論にてらして疑問があるということです。その一番大もとの問題点は、Zさんは、市場経済と資本主義を混同しているということです。

 Zさんは、いわゆる「価値法則」から一足飛びに市場の廃絶へとつきすすみます。
 冒頭にのべたようにマルクスは価値法則が外的な強制法則として作用し、それが「暴力的な貫徹」、すなわち恐慌となって破滅的に現れることへとつながっていくことを示唆しました。

 しかし、その恐慌へいたる道は、あくまで「芽」であり、可能性にすぎません。
 
 マルクスは、貨幣を媒介とした商品生産が「販売と購買の分離」を生むこと、あるいは「生産の無政府性」を恐慌の「可能性」への根拠としました。たしかに、めいめいが自分の思惑で勝手に生産し、それが物物交換なら需給はそう大きくはズレませんが、貨幣を媒介にした場合、自分がつくった商品が対応する現実の需要をもっているかどうかはすぐにはわからないので、「つくりすぎ」「たりなさすぎ」という事態は、知らぬ間に加速されてしまいます。

 Zさんの「市場廃絶」論の論拠はほとんどここにとどまっています。
 しかし、たとえそうであっても、価値法則においては、そうはいっても多少なりとも価格のメカニズムによって調整がはかられます。それが社会の需給全体をおびやかす「暴力的な貫徹」すなわち恐慌の「現実化」にいたるまでには、まだかなりの距離があります。

 マルクスは、この恐慌の可能性と現実性をとりちがえることを次のように批判しています。

「ついでに言えば、商品の変態に含まれている恐慌のこのような単純な諸可能性――たとえば購買と販売の分離――から恐慌を説明しようとする経済学者たち(たとえばJ.St.ミルのような)も、それ〔商品生産に内在する諸矛盾を忘れることで恐慌を取り除く「小理屈」のこと〕に劣らずまちがっている。これらの規定は、恐慌の可能性を説明するものではあるが、とうてい恐慌の現実性や、さらになぜその過程の諸局面が、ただ恐慌によってのみ、つまり暴力的な過程によってのみ、それらの内的な統一を貫徹させうるような衝突にいたるのか、ということまで説明するものではない。この分離は恐慌において現れる。それは恐慌の基本形態である。恐慌をこのようなそれの基本形態によって説明することは、恐慌の定在をその最も抽象的な形態で言い表わすことによって、恐慌の存在を説明することにほかならないのであり、したがって、それは恐慌によって恐慌を説明することにほかならない」(マルクス『剰余価値学説史』)

 レーニンもやはり恐慌の説明として同じあやまりをおかし、恐慌を「生産の無政府性」から、つまり恐慌の「可能性」から、直接説明してしまっています。

 問題は、市場経済のなかに資本が「登場」し、その破滅的な突進の運動が、「恐慌の可能性」を「恐慌の現実性」にまでいたらしめるというまさに「資本主義」の問題なのです。
 資本の剰余価値をもとめる自己目的的な運動は、富=価値を莫大に生産しながらも、労働者への配分をできるだけ低くおさえようとします。それこそが「剰余価値」の発生と拡大の秘密だからです。こうやって資本の生産力に比して狭い限界におしこめらた労働者大衆の消費、ここに恐慌の発生の「根拠」があります。いわゆる「生産と消費の矛盾」です。
 しかし、これもまた恐慌の「根拠」あるいは「原理」であって、恐慌が現実性へと転化するには、その狭い消費の限界をふみやぶって、そして資本主義そのものの制限をふみやぶって生産を拡大するだけ拡大するという異常なメカニズムが作動するという“生産のための生産”というメカニズムにまで問題を掘り下げねばなりません。
 マルキスト以外の人のためにわかりやすくいえば、いわば「バブル」のメカニズムです。

 マルクスは『資本論』を価値法則すなわち市場経済論にとどめずに、資本の運動メカニズム全体の解明にまですすみました。もしZさん流に、市場さえ廃止すればことがたりるというのであれば、マルクスは第1章で筆をおればそれで済んだ話です。
 Zさんは、恐慌の可能性と現実性をとりちがえたこと、もっといえば、市場経済と資本主義そのものをとりちがえたのです。

 いまコミュニストがなすべきことは、このように「最も抽象的な形態」のうちに問題を解消することではないのです。資本が「もうけ」によって、あるいは信用の作用によって、あるいはそのほかもろもろの資本の運動メカニズムによって、社会そのものと激しく衝突するまで生産を暴走させるのはなぜかというそのしくみを解明し、それをどうやって統御するシステムをつくりだすか、ということを考えることではないでしょうか。


青写真に固執しなければ、多様な知恵が結集できる

 マルクスの『資本論』をもう一度よく読んでみましょう。

 そこには、共産主義社会についての言及は数多くありますが、多くはその社会の大づかみな特徴づけしかありません。

「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」
「社会的生産過程の、すなわち物質的生産過程の姿態は、…自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれる」
「社会的生産過程の…意識的な社会的管理および規制」
「共産主義社会」
「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」
「現存の生産手段および労働力によって直接的かつ計画的に実現されうるいっそう合理的な結合」
「この否定〔資本主義的私的所有の否定〕は、…資本主義時代の成果――すなわち協業と、土地の共同占有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共同占有――を基礎とする個人的所有を再建する」
「共同的生産」
「社会化された生産」
「労働者たちが自分自身の勘定で労働する社会状態」
「人間社会の意識的な再構成」
「生産が社会のまえもっての現実の管理のもとにある」
「生産者たちが自分たちの生産をまえもって作成した計画に従って規制する社会」
「資本が生産者たちの所有に、ただし、もはや個々ばらばらな生産者たちの私的所有としての所有ではなく、結合した生産者である彼らの所有としての、直接的な社会的所有としての所有に(転化する)……これまではまだ資本所有と結びついていた再生産過程上のすべての機能が、結合した生産者たちの単なる諸機能に、社会的諸機能に、転化する」
「結合的生産様式」
「結合した労働の生産様式」
「社会の資本主義的形態が止揚されて、社会が意識的かつ計画的な結合体として組織される」
「より高度の経済的社会構成体」
「社会化された人間、結合した生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝(を)……合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおく」

 生産手段の社会化についても、その具体的な形態について青写真をあれこれ描くという馬鹿な真似はしていません。計画的な理性が発揮された社会と、現在の資本主義のもとでの商品生産がどれほど差があるか、という比較は各所でおこなっていますが。

 Zさんは、最後ののぞみとして、ここでマルクスがたとえば「生産者たちが自分たちの生産をまえもって作成した計画に従って規制する社会」と発言していることをもって、それを事前の一元的計画による需給量決定だと主張するかもしれません。

 しかし、それはソ連=社会主義にとらわれた頭で見るからそのようになるのであって、経済の予測をどんな形でおこない、それを社会に適用していくのかということについては、それ以外にさまざまな「知恵」が考えられます。だからこそ、マルクスはそのことを微細に描くことをしなかったわけです。

 すでに現代では国家独占資本主義が、資本蓄積に奉仕するという役割のもとでこのような「計画的理性」を一定発揮し、生産や市場に容喙してします。しかし、それはあくまで基本は資本蓄積への奉仕、つまりもうけの道具のためにすぎません。

 ぼくが「市場や生産システムについては指一本触れない」などと主張しているのではないんだ、そして市場は完全廃絶するしかないという主張は実は未来の可能性の手をしばってしまう不自由な立場なんだ、ということを共有できたら、ぼくとZさんは手をとりあって、共産主義についてもう少し建設的な議論をお互いにすすめていけるかもしれません。



参考:奥野ほか『戦後日本の資金配分』
   マルクス『資本論』『剰余価値学説史』
   エンゲルス『反デューリング論』『国民経済学批判大綱』
   不破哲三『マルクスと「資本論」』『マルクスと未来社会論』