The Lightning①
*こてつさんと因縁のあるシリアルキラーとバディが戦う話。
勿体無いのでここにサルベージ。
無駄に長いです
均整の取れた長身を薄手の上質な黒いコートに包み、銀のマフラーを緩く首元に巻いた青年は小さな紙袋を手に、悠然と公園脇の遊歩道を歩いていく。
歳の頃は20代後半から30代前半ぐらいに見える。
雪のように白い肌に、鮮やかな紫の髪に菫色の瞳が酷く印象的だった。
その端正な容貌も相俟って、街中ですれ違えば振り返らずには居られなかっただろう。
だがまだ春も遠い三月初旬にあっては、雪の多い公園を散策する者などほとんどいない。従って遊歩道も多分に漏れず、人が通る気配もない。
青年はふと足を止めて、紙袋から買ったばかりのホットドッグを取り出した。
目についた黒い鉄製の柵に積もった雪を手で払い、軽く凭れかかる。
そのままちらりと公園の左手に広がるゴールドステージの底部に目をやった。
陽の光が下層まで届くよう、幹線道路となる底部は陽光をかなりの率まで透過する特殊な流体金属によって作られている。
更には過去何度も起こったシュテルン湾からの水害を防ぐため、アッパークラスが住み主要企業のビルが並ぶゴールドステージを頂点にシュテルンビルトは三層構造となっていて、
それぞれの底部は数十体ものスティールハンマー像と4つの支柱によって堅固に支えられている。
しかしその実、シュテルンビルト市街部とブロックス工業地区を結ぶ二本の橋が落ちればシュテルンビルトは容易く孤立する。
その支柱の一本でも欠けただけで、シュテルンビルトは上へ下への大騒ぎだ。それは既にジェイクの一件が証明していた。
華やかで美しい星のように輝くゴールドステージとは対照的に、治安が悪く最下層に当たるブロンズステージやダウンタウン地区は星空を取り巻く闇夜のようにその影となっている。
光と影を内包し、体現してみせる巨大都市がこの2200万人が住むシュテルンビルトだ。
じっと上を見上げたのもつかの間、青年はまた地面へと目を落とす。
「…相も変わらず、つまらん街だな」
抑揚に乏しい、氷のように冷えた声がぽつりと落ちる。
青年と道を挟んで、少し離れた所を子供連れの母親が歩いて行った。その後をすっと青年の視線が追う。
「…母親は無価値だが、子供には未来がある。よって、母親のみ殺す」
青年はホットドッグを形の良い歯でむしりと齧り、酷くゆっくりとした動作で口元を歪めた。
「…うおお、お天道様が黄色い…」
ハンチングを目深に被り、力ない呻き声を上げて虎徹はゆるゆるとダブルチェイサーのシートに沈んだ。
二人はシュテルンビルト警察本部の【一日署長】に明日就任するに当たり、打ち合わせの為にシュテルンメダイユの本部庁舎へと向かっていた。
運転を任されているバーナビーは光を弾く見事な金髪を風圧に靡かせ、横の虎徹へ視線だけをちらりと向ける。
見事なグリーンアイズにはどことなく非難めいた色が混じっていた。
「言っておきますが、先に手を出してきたのは虎徹さんですよ」
「分かってますぅ~。昨日はおじさんが張り切り過ぎましたぁ~」
唇をすぼめ、虎徹は上目遣いにバーナビーを見つめた。
「何ですかその口調…って」
妙に色気を含んだ目線に気が付き、バーナビーはぐしゃぐしゃと胸の中を掻きむしりたいような衝動に駆られる。
「ちょっと、なんて顔してるんです」
「いいじゃねえかよ別に。すんげえ~気持ち良かったの思い出してるだけだもん」
「っ」
バーナビーはまざまざと昨晩の虎徹の痴態を思い出す。
するのも久しぶりだった。虎徹が挿れて欲しいと強請るまで、執拗な位虎徹だけを高めた。
よくも自分の理性も保ったものだと思う。
そうして虎徹の体の奥深くにペニスを咥え込ませて、大好きな所を突いて捏ね回してやれば虎徹は「気持ちいい、いい、ああバニー」とぼろぼろと喜びの涙を零して四肢を突っ張らせた。
一瞬鈍い欲望で腰が疼いた。
流石にバイクをそのまま走らせてはいられず、甚だ不本意ながらウィンカーを出して道路の路肩に車体を寄せて止める。
「お、どうした?」
溜め息をついて欲望の残り火を振り払う。
「どうしたじゃありませんよ。貴方、こんな往来で何言ってるか分かってます?」
「…恥ずかしい?」
「恥ずかしい以前の問題です」
腰にくるバイクの振動がなくなって少し楽になったのか、虎徹は幾分血の気の戻ってきた顔でにやにやと意地悪く笑う。
「いいだろそんくらい。昨日何回したと思ってんだ?
「…貴方が、声を枯らすほどには」
「だろー?そんで、飲みもん取りに行ったらとどめに紐パンだもんな。あー、また思い出しただけでムカついてきた!」
バーナビーは何も言えず、口元に手を当てて頬が緩みそうになるのを隠した。
虎徹が言っているのは、バーナビーへ届いた贈り物の話だ。
バーナビーは基本的に食べ物は受け取らないし、それ以外も届いても受け取れないと公言していた。
中に何か入っていても困るので、プレゼントの類は一応それなりのチェックをしてからヒーロー事業部宛に届くのだが、バーナビーがそれを開ける事はない。一つだけ開けて後は受け取らないなんてそういう特別は作らない、いわゆる中庸という奴だ。
だが、今回ばかりは虎徹の単なる好奇心で、山積みの中から目についたものだけ持って帰ってきた。
「だって送ってくれたもん開けてやらなきゃ可哀相だろ」この考え方の違いには大きく深い隔たりがある。
けれどバーナビーもどうしても虎徹には甘くなってしまう。
今回だけですよと言い置いて、自分の愛車に山と積んだプレゼントを持ち帰るのを手伝った。
そうしてその中から出てきたのが、赤い紐パンとそこに添えられたカードだ。
カードには口紅でキスマークと写真、それに『この下着、私に穿かせて』と携帯の番号らしきものまで付いている。
写真はそれなりの美人だったが、要はセックスしましょうというとんでもない積極果敢なアプローチだ。
よくあるんですよと涼しい顔のバーナビーに激怒した虎徹はなんと俺が穿くと言い出した。
女性ものの紐だったから、男の虎徹では下生えやあれやこれやがはみ出す大惨事になったが、なんとか穿く事が出来た。
「なーバニー、これでもっかいしよ?」
俺が嫉妬しちゃ、悪いか?なんて、そんな事を言われて他にどうすればいいのだ。
虎徹のあからさまな嫉妬は珍しいのでバーナビーも嬉しくて嬉しくて、死ぬほど燃えた。
結局紐は脱がさずにずらしては何度も挿入して、途中からスキンも虎徹が嫌がって外して、後はもう気が付けば朝だった。
「紐パンなんか俺がいつでも穿いてやるっての!お前がしたいこと、何でもしてやりてえし…てか、お前とすんの、気持ちいいし…」
虎徹はまたとんでもない事を言い出した。一瞬現実を疑うがそんな訳はない。
「…っああ、もう!」
バーナビーは言葉に詰まり、彼にしては非常に珍しいことに視線を頼りなく彷徨わせた。
ここが人通りも疎らな公園通りで本当に良かったと思う。
自分でも分かる位赤く染まったみっともない顔を、虎徹以外の誰にも見られたくはない。
虎徹はサイドカーの縁に腰掛け、バーナビーの耳元に熱く囁いた。
「ふやけんじゃねえかと思う位ご奉仕されてお前、俺がどんだけしあわせだったか分かる…?」
「…っ!」
バーナビーが赤い顔で虎徹を睨むのに、虎徹はにへ、と嬉しそうに笑うばかりだ。
これではもうまともに仕事など出来る気がしない。
「何です貴方さっきから!僕を喜ばせてばかりいて」
「嬉しいなら怒んなよ。別に誰も聞いちゃいねえし、俺だってお前怒らせたくて言ってんじゃねえぞ」
「…え?」
「バニー。…いつもはあんま、言ってやれねえけど」
虎徹の目元が赤く染まり、アイパッチの下の琥珀色の瞳が切なげに撓んだ。
「―――お前なしでいられないのは、俺の方。してなくても疼くんだって、腰と…その、ココが」
下腹部を降りた虎徹の指先が、自分でカリカリとスラックスの上から奥を刺激する。
「っ!」
目を瞠ったバーナビーの手を、虎徹の手がやんわりと捉えた。
身を乗り出して虎徹が金色の目を輝かせ、下から覗き込んでくる。
「残念。人目さえなきゃ、キスしてたとこだな」
そう言って大胆な癖に恥ずかしそうに目を伏せ、ハンチングを深く被ってしまう。
このギャップこそにバーナビーはめろめろにされてしまうのだ。
毎日毎日昨日よりももっと好きになって、これ以上どうしたらいいというのか。
「…貴方、何て、」
何て可愛い人。
言葉は続かず、ああ、とバーナビーは熱い吐息だけを吐き出した。
好きと直接言葉にしてもいないのに、こんな熱烈な愛の囁きもあるのだとバーナビーは思い知らされる。
痛い程鼓動が高鳴り、胸が苦しくなった。
…虎徹にはこうやっていつも、負かされてばかりだ。
ヒーローとしてだけでなく、恋人であるプライベートでも彼に頼られて支えられるような存在になりたいのに、やはり経験と年齢の差にはまだ大分隔たりがあるらしい。
「…なあ、仕事終わったら俺の家に来いよ。夜も泊まっていけんだろ?」
とはいえ、再び自分のシートへ戻った虎徹が言葉に含めた言外の意味も分らない程馬鹿ではない。
バーナビーは頷き、バイクのエンジンを掛け直す。
昨日の今日だろうが関係ない。いつでも一緒にいたいし、たとえセックスしなくたって寄り添って寝るだけでもいい。
それはどんな栄養剤や薬よりも二人にとって効く、愛の妙薬だ。
「はい。勿論です」
「よっしゃ決まり!とっときのこてっチャーハン作るぜ!な!」
虎徹が余りにも嬉しそうに笑うので、ようやくバーナビーも相貌を崩して微笑んだ。
「そんで今の時間は…と、」
虎徹が腕の時計に目を落とせば、時刻は12時半を回っていた。
ここからなら本部庁舎までは10分程だが、13時厳守という約束に対して余裕があるとは言えない。昼食もまだだったから、それも加味するとかなりぎりぎりだ。
「お、やべえ昼飯がやべえ!急げバニー!」
「では途中のカフェでホットサンドとベーグルでもテイクアウトしましょう。虎徹さんはいつもアボカドと海老と生ハムのサンドでしたよね?」
「お前はトマトとアスパラとハムとブリーチーズだっけ。お互いすっかり覚えちまったな」
「ええ」
虎徹が笑えばバーナビーも同じように目元を和らげる。
初めて出会った頃が嘘のように、ジェイクの一件を経て二人は深い献身と互いへの愛情とで結びついていた。
「行きますよ、虎徹さん」
「おう。頼むぜ相棒!」
たったそれだけで十二分に気持ちが通じ合う。
いつも持ち歩いている小さな財布から小銭小銭、と言いつつ二人分を当たり前のように用意する虎徹が愛おしい。
そうして再び道路に滑り出したバイクが加速するほんの数瞬前、バイクの横に沿って続く歩道を二人とは逆に歩く青年とすれ違った。
二人はヒーローであるが故に、毎日シュテルンビルトのあちこちで膨大な数の人間と出会っている。意識するとしないとに関わらずだ。
つまり、少しすれ違ったくらいならば普段は気にも留めず、いちいち覚えもしない。
―――だが、この一瞬においては別だった。
財布に目を落としていた虎徹の、犯罪や事件に対して誰よりも鋭敏な感覚が何かを捉えた。
黒よりもなお黒い濃密で巨大な悪意が虎徹のセンサーを掠め、全身が悪寒で一瞬にして総毛立つ。
「…っ!!停めろバニー!!」
殆ど言葉と同時にバイクも見事に急制動する。
虎徹がばっと振り返れば、もうそこに青年の姿はなかった。
「どうかしたんですか、虎徹さん」
「どう、って…」
バーナビーの表情は驚きだけで、これといった変化は見られない。
よもや己だけの気のせいだったかと、虎徹は無意識に詰めていた息を吐く。
勘など上手く説明できないから、何事も無いなら文字通り己の勘違いだったのだろう。
「―――いや、何でもねえ。悪ィなバニー、行こうぜ…」
だが、虎徹の声は最後まで続かなかった。
次の瞬間、大気が震える程の凄まじい轟音を上げて公園に面した教会の4つの尖塔が全て爆砕した。
高い尖塔の外殻を成していた岩石がファサードと共に崩れ教会に崩落し、バロック様式の粋を極めた美しい教会は粉々に押し潰される。
衝撃による爆風で虎徹のハンチングが吹き飛び、咄嗟に腕を交差して身を守る二人も舞い上がる激しいスモークウォールに包まれた。
「―――な、」
砂色の視界の中で絶句するバーナビーを余所に、虎徹はスモークウォールをものともせずに険しい顔で教会があった方角に目を凝らしていた。
記憶の限りでは、今は午後の第何次かの礼拝の筈だ。
平日のため日曜程の人手ではないだろうが、中には間違いなく礼拝に集まった市民が大勢閉じ込められている。
咄嗟にバーナビーはPDAを立ち上げ、登録されたアニエス宛ての直通回線を呼び出して緊急コールを送る。
シュテルンビルト全域に張り巡らせたメディアネットワークの主幹を担うアニエスは時に警察や司法局よりも情報の把握が早い。
だからこそ警察に「うちのヒーロー達を出します!」などと捻じ込み、司法局の認可を真っ先に得てヒーローに出動要請を発動させる事が出来るのだ。
PDAからはGPSの他にバイタルサインも常に発信されているから、この現場も二人のGPSを追えばすぐに見つけられる。上空からヘリでも飛ばせば一発だろう。
目の前の事態は一刻を争う。
「虎徹さん、行きましょう!スーツがなくとも、ハンドレッドパワーを使えば僕たちにも出来る事がある筈です!」
「―――ああ、そうだな。…行こう、バニー」
「…?虎徹さん?」
二人同時に能力を発動させて飛び出すが、走る虎徹の背中にいつもの覇気はなかった。
いつもならバーナビーに言われるまでもなく、真っ先に現場へ飛び込んでいってしまう虎徹の歯切れが何故か悪い。
「虎徹さん、どうしたんです。いつだって他人の為に自分を顧みないで飛び出していく癖に、貴方らしくもない。何か気にかかる事でも?」
「…お前は流石に俺をよく見てるよなあ、バニー。―――まだ自分の勘に確信は持てねえ。この現場が片付いたら話す。だから今は行って、一人でも多く助けるのが先だ。いいなバニー」
「はい、虎徹さん」
言うや否や虎徹は速度を上げ、バーナビーも地を俊敏に蹴ってその背中を追う。
常にない虎徹の様子は気にかかるが、虎徹はバーナビーに話すとはっきり言ったのだ。
今はヒーローとして目の前で起こった惨事に立ち向かわなくては。
決意も新たにバーナビーはぴたりと虎徹の横を並走し、事故現場を目指した。
現場までの交通網の混乱もあり、スーツを搭載したトランスポーターが来るより他のヒーローたちが生身で現場に駆けつける方が早かった。
スーツが間に合わずとも虎徹とバーナビーはさしたる問題はない。
隠さなければならない素性もバーナビーは関係なく、虎徹がアイパッチを付ける位で済む。
そうして二人は生身で先頭に立って人命救助を行い、その間にヒーローズも参戦してくる。
だが、8人の力をもってしても結局助けられた市民はただの一人もいなかった。
最初の崩落で既に殆ど全員が即死していた。
だがこれが単なる不幸な事故だと、早計に判断して良いものだろうか。
爆砕の瞬間を見ているだけに、虎徹もバーナビーも勿論それを疑っていた。
確かに件の教会はシュテルンビルトの中でも比較的歴史のある建造物だが、シュテルンビルトのシルバーステージから上はここ十数年程の間に今の形が形成された、いわゆる新興都市部だ。
突然こんな風に尖塔が崩落する程建物が老朽化していたとは考えにくい。
故に当初は威力の高いセムテックスやC-4による爆弾テロも疑われたが、セムテックスへの配合が義務付けられているニトログリコールは現場からは検出されず、C-4が爆発した際に観測されるオレンジの閃光も発生しなかった。
また、中にいた市民が神父や教会関係者も含めて全滅したため目撃証言も得られない事から、警察も不慮の事故として処理せざるを得なかった。
現場の最も近くにいて、唯一事故直後を目撃した二人が唯一の証人だ。
当然のように一日署長は延期となり、二人が司法局への報告と警察の調書から解放されたのは深夜をすっかり回った頃だった。
直帰を許されて乗って帰ってきたダブルチェイサーをバーナビーのマンションの地下駐車場に入れ、二人は疲れからか殆ど無言でエレベーターに乗りこむ。
いくら鍛えていてもヒーローだってただの人間だ。
特に強化系の能力であるハンドレッドパワーはヒーローの中でも近接戦闘に限って言えば最強だが、5分という絶対の制約がある。
これを切れては一時間経過するたびに再度発動する無理を繰り返していれば、流石に負担もかかるというものだ。
それでも、一人でないというだけで大分気も楽だった。
二人はシャワーもそこそこにベッドに潜ると額を寄せ合い、泥のように眠った。
特に神経質で他者の気配や干渉を極端に嫌うバーナビーは虎徹の傍でないと深く眠る事が出来ないので、虎徹がいるだけでその効果は絶大だ。
いつでもどこでも眠れてしまう虎徹も、バーナビーの何とも言えない良い匂いと少し冷たい馴染みの良い体温は何にも勝る薬となる。
一度も起きずに朝まで眠れば体力もある程度まで持ち直した。
先に起きた虎徹は残り物を利用した和食が中心の朝食を作り、髪がぼさぼさのままのバーナビーが半分寝ながらそれを食べる。
体温が低く朝に弱いバーナビーはこうしてゆっくりと目を覚ます。
ようやく意識のはっきりしてきたバーナビーが歯磨きと髪のセットに立った間に虎徹は後片付けと洗濯機を回し、空気の入れ替えと簡単なベッドメイキングをする。
これはすっかり慣れた二人の日常だ。
どんな事件の翌朝でも、一緒にいる時はこれを変えない。つまりこれで生活のリズムを保っていると同じだ。
途中行きつけのコンビニに寄りながら二人で出社して、何か最新の情報はないかとアニエスの詰めているであろうアポロンメディアの誇る報道フロアへと行ってみる。
―――すると。
コーヒーを片手に、アニエスが不機嫌そのものの顔でデスクに座っていた。
「おい、アニエス。眉間にすんげえ皺寄ってんだけど」
「寄せたくもなるわよ!」
虎徹が指差せば、アニエスがきっと弧状の眉を吊り上げる。
ばん、と机を叩き、アニエスは鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。
「…どうせ新しい情報でも欲しくて来たんでしょ?生憎だけど、ここへ来てもこれ以上何も新しいニュースはないわ」
「…どういう事ですか」
「そんなのあたしが聞きたいわよ!―――とにかく、上からの命令なの。【この件は以降、コールドケースとする】…だそうよ」
苦虫を噛み潰したような顔で、それでもアニエスは苛立ちを隠し切れないのか爪を噛む。
「コール…なに?何だそれ」
「凍結案件という意味ですよ。事件を無かった事にしろと、有体に言えばそういう事です」
「はあぁ!?市民が一体何人死んだと思ってんだよ、ふざけんな―――」
「…虎徹さん、アニエスさんに怒っても仕方ないでしょう」
噛み付かんばかりの虎徹を手で制してバーナビーが諌める。
アニエスの上と言えばマーベリックがすぐ思い浮かぶが、この場合は警察本部かあるいはヒーローを管轄する司法局だと考えるのが妥当だろう。
いずれにしても相当な圧力が掛かっている事は間違いない。
「…話自体はマーベリックCEOから来たんだけれどね。バーナビー、あんたの方がよっぽど事情知ってるんじゃない?」
「…僕ですか?いえ、僕は何も聞かされていませんが」
虎徹も反射的にバーナビーを見るが、バーナビーに思い当るような様子はなかった。
いくらマーベリックがバーナビーの後見人だったとはいえ、マーベリックは忙しい人であったし、ヒーロー事業以外の会社の経営に関してまでもバーナビーに話していた訳ではない。
アニエスもその辺りの事情は察しているからか、それ以上追及はしてこなかった。
「そう、じゃ考えても仕方ないわね。今日はロイズさんが休みでしょう、アタシがスケジュールを預かっていたから」
アニエスは胸ポケットから愛用の手帳を取り出し、ぱらぱらとページを捲る。
「午前はフリーみたいね。午後は某ブランドの路面店オープニングセレモニーのシークレットゲストの打ち合わせで、プレタポルテの試着に―――ってタイガー、どこ行くのよ!」
アニエスを待たず、虎徹は既に部屋を出ようと背を向けて歩き出していた。
驚き声を荒げるアニエスに振り返りもしないまま、彼にしては珍しく温度の低い声を落とす。
「何だよ、午前は何もねえんだろ?何処に行こうが俺の勝手だろ」
そこにある種の気配を感じ取り、アニエスはさっと蒼褪める。
虎徹には上の意向などというそういう権力じみたものが一切通用しない事は、この一年でアニエスも十二分に学んでいる。
虎徹は己の信念によってのみ動く。だからこそヒーローとしても、鏑木虎徹としても虎徹には一切のぶれがない。
だがそういう意味で虎徹は特別だ。
それなりの自由は与えられていても、所詮マーベリック子飼いのアニエスには同じ事は出来ず、また虎徹を見過ごす事も出来なかった。
司法局や警察に睨まれでもすれば動きにくくなるし、貴重な情報も得にくくなる。
「何もないって、ちょっと今は困るのよ勝手なんて!大人しくしてなさい!」
「…それこそふざけんな。大人しい野生の虎が何処にいんだよ」
これには流石のアニエスも黙り込む。
それきり虎徹は会話を打ち切り、すたすたと自動ドアの向こうに歩いて行ってしまう。
深く静かに怒っているのは顔を見ずとも背中が語っている。
「ああ…全く、聞き分けがないったら」
「心配いりませんよ。僕がついています」
アニエスが頭を抱える中、動いたのはやはりバーナビーだった。
「頼むわね、バーナビー」
「ええ。勿論です」
アニエスにスマートな笑顔だけを残し、バーナビーは虎徹の後を追う。
アニエスの気持ちもわからないでもないが、バーナビーが沿うのはあくまでも虎徹だ。
他人の為に心を砕く虎徹が、たとえ凍結案件にされたとはいえすぐ傍で亡くなった大勢の人の無念をこのままにしておける筈がなかった。
…警察や司法局が動かないのなら、自分たちヒーローにしか事件を追う事は出来ない。
捜査権がないなら掛け合って権利を取得するまでだ。
自分の追っていた事案も、実際迷宮入りしていたようなものだ。
自分は虎徹のおかげもあって両親の仇を取る事が出来たが、大なり小なり同じような思いをしている市民は少なからずいるに違いない。
凶悪犯罪における時効制度はとっくの昔に廃止されている。
どんなに時間がかかろうと犯人は暴かれるべきだし、公正で中庸なる司法の手によって罪の報いを受けるべきだ。
きっと虎徹もそう思っているのだろう。
随分とヒーローらしくなった思考も、あるいはこれも虎徹に感化されたせいだろうか。
自分のためでなく、他人の為に生きられるようになったのは傍に虎徹がいるからだ。
虎徹がバーナビーの根幹を成し、そして支えてくれている。
バーナビーにはそれが酷く嬉しかった。
「待ってください、虎徹さん」
エレベーターホールでようやく追いつくと、虎徹は胡乱気に首を巡らせた。
「…お前は残ってろバニー。社長を裏切るような真似、お前にはさせねえよ」
「分かっていませんね。僕にとって権力や、まして理解の及ばない思惑なんてさして重要じゃない。そこに貴方がいないなら猶更です。―――貴方の横が、僕の居場所だ。そうでしょう?」
「…バニー、お前」
鮮やかに笑い、バーナビーははっきりと頷いてみせた。
採光窓から差し込む日光が眩くバーナビーの髪と瞳とを彩り、不覚にも虎徹の胸はどきりと高鳴る。
「ついていきますよ、何処までも。…貴方、話してくれると言っていましたよね」
「…ああ」
「虎徹さん、貴方は何を知っていると言うんです。まさかあれが不慮の事故だなんて、子供だって信じないでしょう。もしかして貴方、犯人に心当たりでも…」
「…その、まさかだよ」
低められた声にバーナビーは目を瞠る。
では昨日から虎徹の様子がおかしかったのはこのせいだったのだ。
エレベータが到着すると、虎徹は開閉部に凭れてじっとバーナビーを見つめた。
「これからネイサンの所に行くけど、一緒に来るか」
「はい。アポロンメディアのシステムが駄目なら、シーモアさんのネットワークを…ですか」
「あー、流石バニーは察しが良くて助かるわ。とはいっても、用があるのはあいつの個人データだけどな。…もし俺が思ってる奴が犯人なら、データはそこにしか残ってねえ」
「そこにしか…?まさか、そんな事が、」
「あるんだよ」
虎徹は断言し、ひどく昏い目をバーナビーへ向ける。
「お前の時と同じか、もっとひでえ。そいつの足取りは全部が全部消されてんだよ。
…誰が消してるかなんて、そりゃ、消せる奴に決まってる」
虎徹の低い声に、バーナビーの表情も知らず険しくなった。
ヘリオスエナジーの受付にバーナビーが顔を見せただけで、色めきたった受付嬢たちはすぐに社長室へと繋いでくれた。
恋人としても相棒としてもちっともおもしろくはないが、こういう時にバーナビーの目の覚めるような美貌と万人受けする外面は大いに有効だった。
「…俺、やっぱ心狭いみてえ」
「え?何か言いました?」
「いーえ、なーんにも!」
わざと明るい口調で虎徹は誤魔化し、バーナビーに背を向ける。
中年の親父がうら若い女性に嫉妬だなんて、アントニオ辺りに知られたら笑い話もいい所だ。
5分程して秘書に案内された社長室で、ネイサンは休憩でもしていたのか新聞を広げて優雅に紅茶を飲んでいた。
流石にシュテルンビルトのエネルギー系を一手に牛耳るヘリオスエナジーの社長ともなれば、社長室も一段と凝っている。
品のいい調度品があちらこちらに飾られ、純白のユトレヒトのデザイナーズソファやフットスツールなどが整然と配置されていた。
二人が室内に入ってくると、ネイサンは顔を上げてにこりと笑う。
少なくともその表情に昨日の疲れは微塵も感じられなかった。
「あっらぁ、タイガーにハンサムじゃない。いつ見てもハンサムはハンサムよねえ。そのちっちゃくてキュッと上がったお尻触ってもいいかしら!」
「駄目」
先に返事をしたのは虎徹だった。
え、と思わずバーナビーが顔を向ける前に、渋面の虎徹がさっと二人の間に立つ。
どうして今日はいちいち皆絡んでくるのだろう。
雑誌の撮影やインタビューでは気にしたこともないのに、あからさまなバーナビーへの好意に虎徹は自分でも呆れる程反応してしまう。
自覚はしていたがやはり嫉妬など見苦しい。それなのに自分で止められないなどと、つくづく難儀なものだ。
「何であんたが言うのよ。いいじゃない減るもんじゃなし」
「うっせ、減るんだよ。つーか俺が許さねえ!」
「ケチねえ、独占欲の強い事」
「こいつは俺のなの。手ェ出したらお前でもボコボコだからな、覚えとけよ」
そこまで聞いてバーナビーは虎徹がまた独占欲を発揮しているのだとようやく気が付く。
どうして昨日からこの人はこうなんだ。
思わず口元を覆ったが、既に遅い。バーナビーの顔が赤いのに、とっくにネイサンは気が付いていたようだった。
「はいはい。…滅多に見れないハンサムのそんな顔に免じて、あんたの言う通りにしてあげる。―――で、今日は何の用?」
ネイサンが話を切り替えてくれたので、ようやく虎徹も不毛な威嚇を止めた。
「…ああ。お前、昨日の事件―――調べてみたか?」
「いいえ。正確には調べる前に司法局と、うちのCEOから圧力がかかったって感じだけど」
ネイサンの前にどっかりと座り、虎徹は俄かに眼光を鋭くした。
手招きしてバーナビーを横に座らせ、虎徹は秘書の出してくれたアイスコーヒーをず、と啜った。
「…やっぱりな」
「アニエスからも釘を刺されたわ。ヒーローは全員この件から手を引くようにってね」
「…あいつがまた、戻ってきてんだよ。…俺は昨日、現場の近くであいつとすれ違ったんだ。俺が間違える訳がねえ。―――あの悪魔の途方もねえ悪意とNEXT能力だけは、絶対に」
「…なるほど。それでアタシのとこにあるデータを見に来たわけね。どうするつもりかは敢えて聞かないけど」
「…」
無言になった虎徹の横で、バーナビーはネイサンと虎徹とを交互に見る。
ネイサンはそのバーナビーの様子に驚き、美しいネイルの施された指先を口元に当てた。
「ちょっとタイガー、まだハンサムに話してないの?」
「これから話す筈だったんだよ。バニー、大まかな説明はネイサンでもいいだろ?…俺が喋っと私情も挟んじまうから、お前にはそういうの抜きにして聞いて欲しい」
「…分かりました」
「全く、仕方ないわねえ…」
ネイサンは足を組み替え、バーナビーに向き直った。
「ハンサム、これは貴方が知らない話よ。当時箝口令が敷かれてて、事実も捻じ曲げられて一般市民には全く伝わっていない話だから」
「…当時、とは?」
「―――あの時から今も現役を続けているヒーローはタイガーだけ。…今から10年も前の話よ。タイガーがヒーローになって2年目、ルーキーとして前年の華々しい結果を踏まえて更なるステップアップが期待されていた、若さと力に満ちていた輝かしい時期―――あの悪魔は突然、シュテルンビルトに舞い降りた」
俄かにネイサンの表情が陰る。
「タイガーにとってはまさに、因縁の相手ってとこね。―――そいつの名前はエミレオ。エミレオ=エミレーデ。<金剛石の殺人者>に<脳蒐集家>に<ナイトストーカー><動く断頭台>、とかく呼び名には事欠かない殺人鬼、いえ悪魔よ。…10年前のとある満月の夜、エミレオはシュテルンビルトのダウンタウンで客を取っていた一人の娼婦を殺した。それを皮切りに、エミレオは夜も昼の別もなく彷徨い出ては男女年齢、場所も問わず何百人という命を奪った。彼の通った後は血と脳漿と桃色に濡れた臓物が飛び散り、遺体は壊され潰され引き裂かれ原型を留めない。…アタシはまだヒーローじゃなかったから、それを映像でしか見ていないけど…それは酷い有様だった。そんな殺人鬼が街をうろついているんですもの、すぐにシュテルンビルトは大混乱に陥ったわ。その混乱を尻目に、エミレオは隠れようとも逃げようともせず堂々と己の殺人美学とやらを貫く、その通り名のままに<金剛石の意志を持つ>異常なシリアルキラーだった。勿論エミレオには当時のヒーローたちが立ち向かった。…けれどエミレオは史上最強と言われるNEXT能力者でね」
「…ジェイクよりもですか」
「ジェイクよりもだよ」
これには虎徹が苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「ええ。エミレオは当時のKOHを殺害し、まだ現役だったステルスソルジャーや他の7人のヒーローのうち3人までも引退に追い込む重傷を負わせた。その穴を補填する為に、翌シーズンからアタシはオーナーからヒーローになって更にロックバイソンが入ってきたの。
…つまりタイガーはその時からいて、唯一エミレオと対峙してるヒーローって訳なのよ」
「そういえば…歴代の中でKOHがたった一人だけ、出動中に不慮の事故で亡くなったというケースがありましたね。まさかそれが、その事件だと?」
「そのまさかよ。―――とはいえこれだけの事件が起これば、世界の何処に居たって報道は流れてたでしょうね。けれどKOHが殺されてすぐ、メディアには一斉に報道規制がかかった。KOHは事故で死んだ事になり、当時の新聞も映像も皆回収され、ネットにも閲覧規制が掛かってあれはなかったものとして扱われたの。そう、今回と同じようにね」
「…エミレオ…エミレオ=エミレーデ?
エミレーデとは、まさか―――」
「そ、ご名答よ。流石ハンサム。
エミレオは世界4大財閥の一つ、エミレーデ家の出身よ。…だからさっき言ったでしょ。箝口令もヒーローの待機さえも上からの指示だって。あれは間違いなく、シュテルンビルトにエミレーデ家が介入したからに違いないわ。エミレーデ家だけで世界の3割の金を動かしてるとも言われてる。それにエミレーデはシュテルンビルト7大企業の大株主でもあるから、たとえ市長やマーベリックだってその威光に背く事は出来ないのよ」
頬に手を当て、ネイサンは溜め息を漏らす。
エミレーデ家と言えば幼い子供だって知っている、デュポン、ロートシルト、モルガンと並ぶ世界4大財閥の一つだ。
4大財閥の中での序列はロートシルトに次いで2位で、M&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキングを中心としている。
一族からは政治家も輩出しており、文字通り世界の資産中枢を担う大財閥だ。
確かにここが絡んでいるとなれば、市長や7大企業のオーナーやCEOも黙っては居られないだろう。
シュテルンビルトにおける既得権益を7大企業だけで独占し、世界中の大企業の介入を防ぐ為に4大財閥を影に置いているのだと、バーナビーも勿論知っていた。
端的に言えば、シュテルンビルトにおける4大財閥の不祥事は隠蔽され闇に葬られる。そういう事だ。
「…では、今回もそうなると?」
「ええ。残念だけど―――」
ビーッ、ビーッ、ビーッ!!
ネイサンの机に備えられた個人端末から、激しいアラーム音が鳴り響いた。
「なぁに、何事!?」
ネイサンが回線を開くと、三人の目の前に浮かんだ立体モニターに緊張した面持ちの秘書が映し出される。
「社長、お話し中の所申し訳ございません。ヘリオスエナジーのプラントがあるイーストブロックス工業地区に退避勧告が出ました。何が起こったのかは現在調査中ですが、市長も警察からもまだ何のアクションがありません」
ネイサンは眉を寄せ、報告有難うと早々に通信を切る。
ただならぬ様子に虎徹もバーナビーも緊張した面持ちで顔を上げた。
「…これはエミレオの仕業ね。退避勧告が出てるのに、真っ先にアタシたちヒーローに出動要請が来ない事自体が異常よ。―――あいつが殺人遊戯に飽きてシュテルンビルトを出て行くまで、市民を餌にする気だわ。あいつがエミレーデ家の一員である限り、世界中どこへ行ってもそう。そうして何百人も殺されてるのに、エミレーデの財力と権力は人の命にも勝るのよ。
―――反吐が出る。
救助に行けって司法局がようやく許可を出す頃にはあいつは何十人と殺して、まんまと逃げおおせてるって訳ね」
何も言えず、バーナビーは唇を噛んだ。
頭では何が正しくて何が悪なのか分かっていても、どうすればいいと言うのだろう。
理性と信念とがせめぎ合い、重い腰を上げる事が出来なかった。
そんな葛藤を知ってか知らずか、不意に横でぱん、と何かが割れる音がした。
見れば虎徹が手にしていた氷の残ったグラスを粉々に握り潰した所だった。
「…調子こいてんじゃねえぞ、あの野郎…!!」
怒りも露わに虎徹は付けていたアイパッチを毟り取り、窓の外の空を見据えて立ち上がる。
「ちょ、ちょっとタイガー!?アンタどこ行く気よ!」
「うるせえ!またあいつに誰かが殺されてくのを、黙ってここで見ていられるかよ!!
俺がどんな思いで仲間を、市民を墓地に見送ったかお前に分かんのか!?
次にあいつが現れたら、絶対に捕まえて仇を取ってやるって誓ってんだ!!!」
「だからってアンタ!タイガーとして動いたら上が黙っちゃいないわよ!?」
「んなこた分かってる!!ヒーローとして行けねえなら、一般人のNEXTとして行ってやらあ!!―――バニー、お前はここにいろ!ついてくんなよ!絶対だぞ!!」
言うなり虎徹は部屋を飛び出し、コーヒーを取り替えに入ってきた秘書の脇をすり抜けてあっという間に見えなくなった。
後には虎徹が落としていったアイパッチだけが残される。
「ったくう、ほんと猪突猛進なんだから!!
闇雲に行ったって勝てる筈ないじゃないの!」
我に返ったバーナビーはアイパッチを拾い上げ、ジャケットの胸ポケットに仕舞った。
これを付けていようといまいと、真っ直ぐ通った虎徹の芯は微塵も揺らがない。
ワイルドタイガーは勿論バーナビーの相棒だが、鏑木虎徹という個人であってもそれを誰にも譲る気はなかった。
「…困った人ですね。これを置いていくなんて」
その様子を見て、頬を押さえたままネイサンが溜め息をつく。
「ちょっと、アンタまで行くの?…素顔を知られてないタイガーはともかく、あんたは顔も名前も全部知れてるのよ?タイガーだってそう言ってたでしょ!【ついてくるな】だなんて、アンタを心配して言ったの分かるでしょう?」
「そんな事は分かってます。僕は確かにヒーローですが、同時にバーナビーという個人でもあるんです。個人の行動を咎められる謂れはありませんね。…それに、黙って相棒を一人で行かせるバディが何処にいますか」
「…ハンサム、アンタ…」
「―――シーモアさん。僕が失って困るものなんて、あの人以外には何もないんです」
バーナビーは鮮やかに微笑み、それでは、と言い残し虎徹の後を追って走り出した。
「…ふふ、いい顔するようになったじゃないの。不器用でも、ちゃんとタイガーの気持ちは伝わってるみたいね。―――それにしても…」
ネイサンは笑みを止め、すうっと目を眇めた。
氷のように冷たい表情の中、紫の瞳が炎のように灼々と燃えている。
「前と同じように好き勝手出来ると思うなよ、殺人狂のクソ野郎が。タイガーのようにアタシは優しくねえぞ。―――せいぜい首洗って待っとけ」
見えない犯人へと中指を立て、ネイサンは怒りの炎をじっと胸の内で燻らせていた。