バニーと薔薇色の世界
*意外に需要があったので、ざらっと書いていたものを投げておきます
序盤のみ
頭上に広がるやわらかな水飴色の空を見上げれば、くうとおなかが鳴る。
美味しそうな色だなあと子供心に胸が高鳴ったが、あいにく飴もチョコレートも何も持ってはいない。
ぱちぱちと零れそうに大きな緑色の瞳いっぱいに空を映し、しばらくバーナビーは空に見入っていた。
昼下がりの街には春の気配が濃密に溢れていた。
鮮やかなアネモネやフリージアの花が街路の花壇に咲き乱れ、純白や淡桃色、あるいは紫がかった深紅色の様々な種類の木蓮が放つ芳しい甘い香りがあたたかい風に乗って漂っている。
10分ほどもそうしていただろうか。
再びおなかが鳴り、空腹に我に返る。
ずっとここで空を見ていても腹が膨れる訳ではない。
視線を下げ、バーナビーは掌をそっと広げる。
うん、と念じてみるが、思い描いた飴はちっとも手の中に落ちては来なかった。
『お前は気がそぞろだし、素質はあってもまるで気概っつーもんが足りないね。
おととい出直してきな』
昨日家庭教師のたま緒に言われた言葉が蘇る。
これが母であったなら、とっくに空から飴が滝のように降り注いでいる頃だ。
やっぱり駄目かとバーナビーは肩を落とし、家に帰ろうと再び歩き出した。
バーナビー・ブルックスJr.。
まだ12歳の子供にはひどく仰々しい名前だ。
これは彼の本当の名前ではない。
バーナビーの家は代々男の長子に【バーナビー】という名前を継がせる決まりになっている。
その古い仕来たりからも分かるように、バーナビーの家はちょっと変わった家である。
分かりやすい言葉で言うならば、バーナビーの家は【魔法使い】の一族である。
この世界ではすっかり【魔法使い】は廃れてしまっている。
魔法の定義は雑駁に言って、『自分の意志の力によって自らの構成素子を含む世界に干渉し、様々な奇跡を起こす力』を言う。
世界最初の魔法使いは名をプラティナと言い、彼女はあらゆる魔法を使いこなし、世界で最初にして最後の【不死者】―――イモータルとなったと言われている。
彼女を最初の一人として枝葉が分かれ、以降数千年をかけて今ではシュテルンビルトで生まれた人間の全員がその因子を受け継いでいる。
だが、全員がその因子を表出させる訳ではない。更に、プラティナの因子が、血が、遺伝情報が薄れるほど強い力は使えなくなっていく。
魔法などと奇跡の力を使える者は急激にその数を減らしていき、現代においてはそれは魔法とは言わず、『NEXT』という特殊能力として扱われている。
けれどそのNEXTさえも発現するのは今や数百人に一人だ。
つまりは2200万人が暮らすシュテルンビルトでも、NEXTは僅かに5万人弱しかいない計算になる。
ただ、今でもシュテルンビルトにはプラティナの直系の血を受け継ぐ魔法使いの一族及び、それを守る守護者の一族が存在していると言われている。
中でもNEXTの祖たるプラティナの名前はちゃんと教科書にも載っていて、シュテルンビルトのどんな子供でさえも彼女を知っている。
だが実際彼女の姿を見た者はいないので、人々はそれをお伽話のように諳んじるが、これは全て本当の話だ。
バーナビーの家はまさにその、プラティナ―――白銀の魔女の直系の家なのである。
バーナビーの父親は婿ながら一族と眷属全てを束ねる長で、シュテルンビルトを害悪から守る役目も追っていて家には不在がちだ。
そしてバーナビーの母エミリーはプラティナの直系に当たり、『時の魔女』と呼ばれる今代最強の魔女だ。
そんな2人の子供であるバーナビーはプラティナ並みの強い魔法の素質を持っているが、まだ幼いが故に上手くその力を使いこなす事が出来ない。
焔を出そうとして池や風呂をぐらぐらに沸かしたり、花を咲かせようとして逆に枯らせてしまったりと失敗は多岐に渡る。
それを憂いた母エミリーが付けてくれた、エミリーの旧知で魔法の家庭教師のたま緒にも魔法の制御の至らなさについては散々言われている。
たま緒は魔法を使えない魔女だが、その代わり魔法の仕組みやNEXTについては誰よりも詳しい。
故に『始まりと終わりの魔女』などと呼ばれていて、昔はバーナビーの父親も酷い目に遭ったことがあるらしい。
見た目は母と変わらないのに、母ももう亡くなった祖母も彼女から魔法を習ったというのだから驚きだ。
本当は誰に言われずとも分かっている。
バーナビーは勉強だって運動だって人並み以上に出来るのに、肝心要の魔法だけはどうにもこうにも不得手だった。
自分でもそれが何故なのか分からない。
今日もたま緒に絞られるのかと思うと泣きたくなった。
「こんにちは、ぼっちゃん!
何だか悲しそうな顔をしているね、大丈夫かい?」
そんなバーナビーを心配してか、街中でたくさんの色とりどりの風船を配っていたピエロが声を掛けてくれた。
「大丈夫です。
心配してくれてありがとう」
小さな頃から大人に囲まれて育ってきたおかげで、バーナビーはその所作だけは大人顔負けの丁寧さを身に着けていた。
にこりと笑ってみせればピエロは目を見開いて驚く。
「その年でずいぶん立派だねえ!
良い子にはこれをあげるよ!」
ピエロからバーナビーは大きな真っ赤な風船を貰った。
風船は嬉しいが、たった一つではなんとなく寂しい。
(少しくらいなら、増やせないかなあ)
ほんの出来心で魔法を掛けてみる。
だが、やはり不得手な魔法は時として予測を超える反作用を起こす。
ぽん。
いきなりバーナビーが持っていた風船がぽん、と増えた。
目を大きく開いて見ていると、更に風船は花開くように数を増す。
(わあ、成功だ!)
一見の成功に喜ぶバーナビーだったが、その目の前で風船はどんどん増えていく。
異様な光景にぎょっとピエロも目を見開いた。
「ぼっちゃん!
ちょっと、どうしたんだい!」
「あれっ、おかしいな…ぼ、僕にも分からな――――」
また失敗したと思った時にはもう遅かった。
浮力を増した風船はバーナビーの軽い体重では抑え切れず、ふわりと宙へ上がっていく。
両足がコンクリートから離れた。
「あ!」
バーナビーの悲痛な叫びが響き渡る。
慌てて魔法を掛けて戻そうとするが、焦るばかりで魔法は全く発動しない。
『魔法は意志の力だよ。
使う者の心ひとつで決まるんだ。それを忘れないように』
有難いたま緒の言葉もまるで今のバーナビーの助けにはならない。
―――それが分かった所で、どうしたらいいというのだ!
風船の力で空へ上がっていくバーナビーに、周囲にいた大人たちも一斉に騒ぎ出す。
だが誰もそれを助けることは出来ない。
すっかりもう大人たちの手の届かぬ所まで上がってしまっていた。
不安でどっと涙が溢れ出す。
「ふええ、ママ、パパ、たま緒先生、」
呼んでも無駄なのは分かっていた。それでも呼ばずにはいられない。
ぼろぼろと涙の粒が宙に零れた。
「た、たすけて…誰か…っ」
誰か、と祈るように強く願った瞬間、バーナビーの上にさっと影が差した。
反射的に顔を上げればやさしい笑顔と目が合う。
「大丈夫か?」
歯を見せてにかりと笑ったのは青い光を纏い、目をアイパッチで覆った男性だった。
男性は風船の束を掴み、バーナビーににかりと笑いかける。
「よかった、間に合ったな」
「おじさん、だれ…?」
だが男性の体重が加わっても風船の浮力は落ちず、二人の体は再び上昇を始める。
引き攣ったバーナビーの顔を見て、安心させるように男性はバーナビーの頭をわしわしと撫でた。
「とと、俺の体重でも無理だな。
ぼうず、おじさんがしっかり掴んでるからちょーっと我慢しとけ!な!」
男性は腕からワイヤーを射出し、手近なビルの手すりに巻き付ける。
「一気に離すと危ねえから、ゆっくりな」
よく通る声は穏やかで、何故だか酷く安心した。
警戒心のようなものはまるで起こらなかった。
そっとたくましい腕でバーナビーを抱えると、男性はハンチングを押さえて少しずつ空に風船を離していく。
「ほら、大丈夫だろ?」
こくんと頷けば男性はバーナビーの睫毛に溜まった涙を拭い、青を宿した瞳が弧を描いて撓む。
風に乗ってふわふわと二人は空の中を降りて行った。
男性の優しい笑顔と、空の中でも鮮やかな風船の鮮やかな色彩がバーナビーの目に焼き付く。
二人の浮遊時間は数分にも満たなかっただろう。
「ほい、おまっとさん」
すとんとこともなげにビルの壁に足を掛け、ワイヤーを使って器用に地面へと降りる。
バーナビーを下ろした後も、男性は同じ目の高さに屈んでくれた。
考えてみれば結構な高さまでバーナビーは上がっていたのに、それをものともしないこの男性はいったい何者だろう。
「怖かったろ?よく頑張ったな」
頭を撫でられ、安心したのかまたどっと涙が溢れた。
「…風船、一個だけになっちまったけど。
今度は飛ばないから安心しろな?」
泣いている事には触れず、あくまでも男性は優しかった。
せめて何か返したいと胸をいっぱいにしながら何度も頷くと、よし、とそれを見届けて男性は立ち上がる。
視線を腕に走らせ、時計を気にしている風だった。
「っと、もうこんな時間かよ!!
ぼうず、一人で帰れるか?」
「う、うん」
「よし!偉いぞ!」
言葉と共に男性が全身に纏ってから青い光が消え、目が明るい飴色に輝く。
男性はよく日に焼けた肌といい、バーナビーが今まで会った事もないいわゆるオリエンタル系のようだった。
「じゃあな。
気を付けて帰るんだぞ!」
ハンチングを押さえ、男性は長いコンパスをフル回転させてあっという間に雑踏に消えていく。
名前を聞く暇もない。
胸にはあたたかな余韻だけが残り、男性が行ってしまっても、何となくそこを離れがたかった。
日が暮れるまでバーナビーはじっとそこに立って、男性の後ろ姿を目に焼き付けていた。
そこからどこを通って帰ってきたのか思い出せない。
バーナビーが家に駆け込むと、母親はちょうどリビングにいた。
「どうしたのバーナビー。
そんなに息を切らせて帰ってきて」
母はリビングで優雅に紅茶を飲んでいた。
バーナビーの豪奢な金髪は母譲りで、顔立ちもまるきり母に似ている。
「っ、あのね、あのね、おかあさん」
「なあに?」
「あの、今日…」
母エミリーは首を傾げ、立ち上がろうとしてバーナビーが後ろ手に持っている風船に気が付いた。
「まあ、それはどうしたの?」
「あのね!貰ったんだよっ。
ごめんなさい、僕…歩いていて風船を貰ったの。
それで、風船が増えたらいいなって、軽い気持ちで魔法を使おうとしたんだ」
エミリーは頭ごなしに叱らず、じっとバーナビーの話に耳を傾けている。
「それで?」
「そうしたら、風船がものすごく増えちゃって…
空に上がって行っちゃったんだ。
それで、僕が泣いてたら、おじさんが助けてくれたよ」
「おじさん…?どんな人?」
「あのね、帽子をかぶってて、目をこんなマスクみたいなもので隠してるの!
…お礼もちゃんと言えなくて、僕…」
暫くエミリーは何かを考えていた風だったが、不意にぱん、と両手を打ち鳴らす。
「おかあさん、閃いたわ。
それは多分、『ワイルドタイガー』ね」
「…『ワイルドタイガー』?」
「そう」
エミリーはくすくすと嬉しそうに笑った。
「シュテルンビルトを守ってくれている7人のヒーローの内の一人よ。
帽子とアイパッチが彼の特徴だから、間違いないわね」
「ワイルドタイガー…僕を助けてくれたのが、その人なの?」
「彼はヒーロー1優しい人だもの、子供だって大人だって分け隔てなく助けてくれる。
貴方を助けてくれたのが彼で良かったわ!
いつかお礼をしに行かなくちゃね」
「ワイルド…タイガー…」
けれどバーナビーはもう母の話は耳に入っていなかった。
考えるのはただ、昼間に自分を助けてくれたワイルドタイガーの事ばかりだった。
きらきらと輝くバーナビーの瞳は今ここにいないワイルドタイガーの姿を追い求め、その頬はまるで恋でもしているかのように淡い薔薇色に紅潮していた。