ヒーローバニー×天使おじ③
*ちょっとずつ不定期。③はかなり長いですすみません…!
この後は成長したバニーと虎徹さんが再び出会います。
その僅か十数分前。
サマンサとクリスマスプレゼントを選んで帰ってきたバーナビーは、元気よく玄関の扉を開けた。
「ただいまー!」
だが、両親の出迎える声も姿も返らない。
鎮まり返った家の中は何故か不気味で、バーナビーは敏感に何かを感じ取り足を竦ませた。
その後にサマンサも続いて入ってくる。
「ぼっちゃん?どうされたんです?」
「サマンサ…」
瞬間、パン、パン、という乾いた破裂音が2回続けて響く。
それはバーナビーには何か分からなかったが、明らかに銃声だとサマンサには分かった。
「なんてこと…」
サマンサは抱えていた紙袋を取り落とし、口元を抑えた。
「…パパ、ママ…!」
バーナビーはだっと駆け出し、サマンサの手を離れて階段を駆け上って行く。
「いけません!ぼっちゃん!誰か、誰かを呼んできます!!」
「だって、マーベリックのおじちゃんもいるんでしょう!?」
ああ、とサマンサの喉から呻き声が漏れる。
エミリーもバーナビーも銃は持たない。
故に来客中であるそのマーベリックしか、銃を撃つ人間はあり得ないのだと、どうしたらバーナビーに伝わるだろう。
でなければ強盗の類もあり得るが、セキュリティのしっかりしたこの家に入る事はまず有り得ない。
「それでも、ここにいてください!いえ、サマンサと一緒に!早く!」
一旦はサマンサに手を引かれ、外に出たバーナビーだったが、サマンサが門を出た所でばっと踵を返す。
やはり両親が気になって、それどころではいられない。
「あっ!」
転んだサマンサに一瞬だけ振り返って、バーナビーはきっと目を上げて駆け出して行った。
「サマンサは、だれかをよんできて!ぼくが、パパとママをたすけるんだ!」
虎徹に言われた、誰かを守れる人間になれという言葉が皮肉にもバーナビーを突き動かす。
バーナビーは中へ戻り、あっという間に階段を上がり切る。
廊下の先を見て、光の漏れる扉に近づいていく。
そこは両親が客人を迎えるのにいつも使っている客間で、マーベリックもそこにいる筈だった。
マーベリックは両親の親友で、バーナビーも何度も会った事がある。
今日も出かける前に頭を撫でてくれて、気を付けて行くんだよと声を掛けてくれた。
バーナビーはそっと客間の扉を押し開ける。
中はもう、火の手が回り始めていた。
その中央にスーツ姿のマーベリックが立っていて、傍のソファーには両親が倒れている。
両親はだらりと力なく四肢を投げ出し、既に事切れていた。
バーナビーは衝撃に目を瞠り、ぶるぶると震えてその場に立ち尽くした。
ギイ、と開いた扉の音に、ゆっくりとマーベリックが銃を下ろしながら振り返る。
マーベリックはバーナビーに気が付き、ああバーナビー、おかえりと抑揚のない声で呟いた。
「…見てしまったのか。いけない子だ」
優しかった筈の声も、今は嫌悪感しか呼び覚まさない。背筋が凍ったまま動けないバーナビーに、ゆっくりとマーベリックが近づいてくる。
「君のパパとママは、一足先に天国へ行ってしまったよ。…君がいないのでは忍びないから、一緒に送ってあげよう」
だが、バーナビーは動けない。
4歳の子供が、この恐怖に打ち勝つ術を持ちえる筈がない。
「さよなら、バーナビー」
逃げなければと思うのに、足が竦んでしまって震えるばかりで、叫ぶ事も出来ない。
銃を構えたマーベリックの手が、静かにバーナビーの上に翳される。
周囲はもう赤い炎の海で、逃げ場もない。
もう頭の中に浮かんだのは、やさしくあたたかい虎徹の顔だけだった。
…たすけて。
たすけて、タイガー。
マーベリックを目一杯に映しながら、バーナビーは溢れる涙を拭いもせず虎徹を呼んだ。
玄関になど回る余裕はない。
虎徹は躊躇いもせず、窓ガラスをぶち破る選択をする。迷っている暇はない。
腕を翳しガラスを割って虎徹が中に飛び込むと、まさにマーベリックがバーナビーに手を掛けようとしている所だった。
手で急制動をかけ、虎徹は炎には構わず床を蹴る。
「やめろおおお!!!」
蛇はまだマーベリックの中だ。
まだ人間のままの相手に、天使の力をそのままぶつける訳にはいかない。
虎徹は床を蹴ると同時に翼を仕舞い、雷のような速度でマーベリックの背後へと踏み込む。
声に驚いたマーベリックの右腕を弾き飛ばし、腕を返してみぞおちへ強烈なボディブローを決める。
手加減する余裕はなかった。少なくともあばらの数本は折れただろう。
「あぐ…っ!!!」
床に倒れ込むマーベリックをよそに、虎徹は体をバーナビーとマーベリックとの間に捻じ込ませる。
小さな体を抱き上げて、背後に飛びずさる。
「バニー!バニー、大丈夫か!?」
だが、声を掛けてもバーナビーは動かない。
目を大きく見開いて氷のように固まったままだ。
炎の中で目を凝らせば、リビングのソファーには無残な姿のバーナビーの両親が横たわっている。
どちらも拳銃で銅や頭を打ち抜かれ、ぐったりとした姿は生ある者のそれではない。
命の気配も全く感じられなかった。
―――マーベリックが、2人を殺したのだ。
「…どうしてだ!!!何故2人を殺した!!?親友だろうが!!!!」
「…愚問だな」
目の前で、ゆら、と呻いていた筈のマーベリックが立ち上がる。
先ほどまでとは明らかに様相が違う。
ぞくりと背筋を突き抜けた肌寒さに、反射的に虎徹は羽根を広げてマーベリックを睨みつける。
天使の虎徹ですら一瞬気押す程の、禍々しさ。
これはもう、マーベリックというより中に潜んでいた蛇そのものだ。
羽根がもたらす空気の清浄さに、腕の中のバーナビーがようやく我に返る。
自分を守るように広がる翼は、明らかに虎徹のものだった。
「タイガー?タイガー、タイガー!!」
泣き出すバーナビーのために、虎徹は更に翼を広げた。
あたたかい翼でバーナビーを包み、蛇の禍々しさから少しでも遠ざける。
呼吸が楽になったのか、バーナビーは涙をいっぱいに溜めた目で虎徹を見た。
「パパとママが……タイガー…」
「よく頑張ったな。あとはおじさんに任せろ」
勢いよく羽根を引き抜いて、虎徹はそれをバーナビーへ渡した。
「…バニー、これを持って、端の方へ。そこから動かないで、おじさんを待ってられるな?」
羽根はバーナビーの掌に乗ると一瞬青と金色に光り、バーナビーの全身を包み込んだ。
急場しのぎでしかないが、これで少しは保つ筈だ。
「うん…っ」
両親を失ったばかりのバーナビーから離れるのは辛いが、それでは蛇と戦えない。
素直でいい子のバーナビーに感謝して、虎徹は蛇と向き合った。
蛇は赤い目を爛々と輝かせ、マーベリックの体の中から語りかけてくる。
「この人間は、視聴率なるもののために、ずっと八百長を仕組んでいてな。まるで天使のように善の象徴とされていたヒーローは、皆その八百長の道具であったわけだ」
「八百長…?」
「それをこの2人に指摘され、自首を勧められ、邪魔だ、殺してやりたいと叫ぶので、我が少し手を貸してやっただけの事」
「お前がそそのかしたのか…それで、バーナビーの両親を…!」
「そそのかしはしたがな。最後に決断したのはこいつよ。人間などげに脆い、まったく脆いものだ」
「…お前が、蛇だな?」
「蛇、な。言い得て妙だ。我の名は、ウロボロス。人間の悪しきゆめより出でて、闇と混沌の中へ還る悪しきけもの」
「驚いたな。…人間みてえなしゃべり方をしやがる」
「我は明確な破壊の意志と、それを示す言葉とを持っている。世界を壊し、また光なき闇へと還る、ただそれを望むのみ」
青い霧を纏ったような濃い影が、奇妙に歪んでマーベリックに纏いつく。
口の中では夜の黒よりもなお黒い、濃密で昏い蛇の舌が蠢いている。
虎徹は翼を大きく広げ、全身を青く光らせてマーベリック、否、蛇と対峙した。
力を使うと青く光るのは、高位の天使の特性だ。天使が力を使う媒介にもなる、周囲のエーテルが活性化するとそう見える。
虎徹は天使の中でもひときわその青と、自身の力である金色が混ざって眩しく光り輝く。
剣などを持たずとも虎徹は己の体があれば戦うには十分だった。ずっとそうして、人間を悪しきものから守ってきたのだ。
おそらく蛇が付けたのだろう火は隣室に延焼し、あっという間に屋敷全体を包んでいる。
そう長くはここも保たない。
先に動いたのは虎徹だった。
ぎゅ、と革靴で一歩踏み込み、次の瞬間には信じられない膂力で蛇の喉元に肉薄する。
この雷のような速度と、柔軟な身体から繰り出される一撃一撃が虎徹の最も得意とする戦い方だ。
案の定蛇もついていけず、掌底で顎を打たれ体が浮いた所に2撃連続で拳を打ち込む。
勿論マーベリックの体ではなく、中の蛇だけを狙っている。
天使の力は人間を傷つける事には決して作用しない。
ごぼ、と泡を吹き出し、マーベリックは数メートルを吹き飛ぶ。
絨毯に転がり、口元を拭ったマーベリックは赤く染まった目を忌々しげに上げた。
「…貴様、並の天使ではないな。―――7天使か」
「だったらどうした」
「…7天使の中で、我らと戦うものはただ一人。…知っているぞ、『ワイルドタイガー』だろう」
「よく知ってんな」
「…食った『神の目』、あるいは天使から、いろいろと聞き出させてもらった」
ざわ、と膨れ上がった虎徹の怒りで、髪の先がばち、ばち、と激しく放電する。
「食った…?食っただと!?」
「食うさ。我々にとって、天使の力は大きな栄養源だからな」
人間だけに飽き足らず、天使まで喰らったというのか。
今まで一体どれほどの命が奪われてきたのかと思うと、はらわたが煮えくり返る。
ひゅ、と、虎徹の拳が風を切った。
頬を炎で赤く染めながら、虎徹は手首を掴んで右フックを脇腹に叩き込む。
「ぐ…っ!!!」
マーベリックは絨毯の上で腹部を押さえて苦悶し、ごぼりと蛇の形を吐き出す。
「バニー!見るな!」
その余りにも醜悪で凄惨な様に、虎徹は翼を広げてバーナビーからそれを隠した。
虎徹の雷のような重い攻撃に打ち据えられ、現れた蛇の本体が更に姿を変える。
焼け爛れた脳天が赤黒い肉を曝け出し、塊が不随意にのたうつ様はグロテスクそのものだった。
だが、こんな事で怯みはしない。
「さっさと本性を現しやがれ、俺が!全部!消し去ってやる!!」
「おのれ、ワイルドタイガー…!!!」
吼えた虎徹に呼応して、蛇が呪うような言葉を絞り出す。
黒い塊と見えたそれは、激しく震えたかと思うと赤い口腔を耳まで開き、轟々と燃え盛る屋敷を揺るがす咆哮を上げた。
「ひっ」
バーナビーが思わず耳を覆う。
ぬめった塊に赤い亀裂が入り、みしり、と音を立てて背中が二つに割れる。
殻を脱ぎ捨てるようにして中から這い出してきたのは、その大きさを虎徹の倍以上にも増した赤黒い大蛇だった。
「ふ、しゅるるるるる…」
喉を鳴らすような不気味な声と共に、ずり、とその体が床を這う。
双頭の蛇は大きく口を開け、虎徹の前で首をもたげる。
周囲に撒き散らすどす黒い魔素と瘴気の影響を受けて、接地している床が黒く侵食されていく。
同時に蛇に触れている空間もひずみ、ず、ずず、と闇に呑みこまれて軋んでいく。
こんな悪しきものに出くわしたことはついぞない。放っておけばこの屋敷ばかりか、シュテルンビルトさえ飲み込みかねない化け物だ。
「忌々しい、こんな所で姿を晒すつもりなどなかったというのに…!!!」
これには虎徹も露骨に眉を寄せた。
「人間の世界から去れ、蛇。…しかもバニーの両親の体まで、呑み込むつもりかよ。そうはさせねえぞ」
「抜かせ、貴様も喰らってやるわ!!」
目にしただけで怖気が走る蛇は首をゆっくりと動かし、虎徹にもう一度獰猛な猛りを上げて襲いかかった。
「っと!!」
虎徹は右手を閃かせ、青く輝く腕で強力な尾の一撃を受け止める
全体重を掛けた蛇の一撃は堅固な虎徹の盾によって遮断され、逆に腰を捻った虎徹の重い拳が頭部に直撃する。
脳を揺さぶられた衝撃に苦鳴を上げ、蛇は本能のまま反射的に後ろに後退する。
そこへ更に虎徹の強烈なボディブローが決まる。
速さと打撃の強さでは虎徹に敵う天使はいない。
引いた腕からも、青い光の粒子がばちばちと空気に爆ぜた。
かなりの深手を負わせたように思えたが、当の虎徹は不本意そうに眉を顰める。
「…やっぱ、この姿のまんまじゃこんなもんか。一撃じゃ撃ち抜けねえ」
悪しきものの本性は様々だ。
だが、それらすべてに共通するのが天使の使うエーテルと真逆の物質である、魔素で出来ている構造体だという事だ。
天使が触れるだけでも穢れてしまう、魔素の密集した体を破壊するにはそれなりに骨が折れる。
しかもバーナビーや両親の遺体を気にしながらでは、どうしても力をセーブする他にない。
「しゃあねえ、腕だけでも…!」
虎徹が右腕に手を滑らせると、青い光が手首の部分から放射状に放たれる。
高密度のエーテルが凝縮し、余剰分の力が絶えず激しく放電する事によって実体化しているように見えるのだ。
悪しきものを撃砕する、これが虎徹の最強の奥の手だった。
ただ、繰り出すのに多少時間がかかるのが難点だ。
虎徹を待たずに手負いの蛇は最期の力を振り絞って口を開き、どこにその余力を残していたのか渾身の力で赤と黒の莫大な重力波を放つ。
轟音を上げながら重力波は直進し、虎徹の眼前に迫る。
「だっ、あんなもんがどっかに触れたら辺り一帯吹き飛んじまうだろ!!」
虎徹は敏捷に動いて中空を蹴り、腕を支点にして重力波を直接受け止める。
空間すら喰らい、暗黒を生み出す巨大な重力波が虎徹の力と拮抗し束の間静止した。
「んぎぎぎぎ、結構重てえなこれ!」
虎徹はもう片方も青くエーテルの吹き出した両腕を、躊躇いなく重力波の中へ突っ込んだ。
弾き飛ばす事が出来ないのなら、後はもう物理的に壊すしかない。
ぎしりと回転を止めた重力波は青い光に飲み込まれ、大きく撓んでばちん!と破砕する。
膨れ上がった青い光は重力波を吸い込むと霧散し、二度、三度と青白い放電を繰り返して完全に収束した。
だが重力波の消滅を待たず、蛇も虎徹を噛み殺そうと迫っていた。
何に巻き込まれようとも虎徹さえ殺せればそれでいいのだと、剥き出しの殺意と怒りが蛇を突き動かす。
…もっとも、それすらも虎徹の予測の範囲内だ。
虎徹の青く光る双眼がひたりと鎌首をもたげる蛇を見据える。
「―――滅びろ。悪しき蛇!!」
謳うような声が響き、虎徹は再び床を蹴った。
左の拳で蛇の頭を打ち上げて、全力を込めた右の一撃が蛇の脇腹を貫く。
虎徹の本気の拳で内蔵を打ち抜かれ、蛇の全身に浄化の青い光が幾筋も走る。
断末魔の絶叫を上げ、蛇は胴体を引き絞って激しくのたうつ。
それでも虎徹を引き裂かんとする咆哮でびりびりと空気が震えるのを、虎徹は静かに見据えていた。
蛇はぐねぐねと身を捩り、遂に形象崩壊を起こした。
ずずん、と床に沈んだ蛇は体の実に4分の3を失っていて、ひく、ひく、と痙攣を起こしている。
ちりちりと砂のようにほどけていく体から目を離し、虎徹はバーナビーの両親の元へと駆け寄った。
やはり、両親は銃で撃たれどちらも事切れていた。
目を閉じさせて、虎徹は羽根を引き抜いてその体を光で包む。
炎に包ませてしまうより、きちんと墓を作って弔ってやりたい。バーナビーのためにも、と虎徹は強く思った。
「ベンさん!俺、転送系は得意じゃねえから頼む!」
『おう!』
待機を続けていたベンと『神の目』たちに二人の遺体の回収を任せ、虎徹はバーナビーに近づいて行った。
「バニー、待たせたな。おいで」
虎徹が寄って行くと、バーナビーは泣きながら虎徹の元へと走ってくる。
「バニー!」
「タイガー…!!」
真っ赤に腫らした目が痛ましい。
せめても記憶を消して立ち去る前に、思いきり甘えさせて、抱き締めてやりたい。
少しでも愛された記憶を、体に残してやりたい。
これから孤独になるこの子に、一体それ以上何をしてやれるだろう。
叶わなかった両親の分まで、己の娘の分まで、虎徹はあらゆるものを重ねあわせながら、目の前の小さな体に手を伸ばした。
「さ、ここにいたら駄目だ。行こうバニー…」
指先が触れる寸前で、バーナビーが目を限界まで見開く。
「だめ!!!タイガー!!」
虎徹が動くよりも、バーナビーの方が早かった。
マーベリックがゆらりと立ち上がり、虎徹に向かって引き金を引く。
蛇が中に逃げ込んだのかと、ざわりと再び虎徹の全身が総毛立った。
仕留め損ねた、と力を発動させるよりも先に、虎徹はバーナビーに突き飛ばされて大きくバランスを崩した。
この小さい体のどこにそんな力があったのだろう。
パン、と再び銃声が上がり、虎徹の前でバーナビーがゆっくりと倒れていった。
スローモーションのようにバーナビーが虎徹の手をすり抜け、横に倒れて行く。
「バニー!!!!!!!!!」
絶え間ない力の行使で、流石に虎徹にも疲労の色がのぞく。
虎徹は残る力を右手に集め、マーベリックの腹部に拳を叩き込む。
「…仕留めたか…!?」
浄化の青い焔は全身を包み、苦悶の声を上げて蛇が消滅する。―――だが。
真っ黒な鱗が一枚、マーベリックの額で光を放って消えたことに、虎徹は気付けなかった。…それどころではなかった。
「バニー!」
自分を庇って倒れたバーナビーを抱き起こし、虎徹は服が汚れるのにも構わず傷の具合を見る。
大人でも致命傷となり得る傷は、肉を抉るようにバーナビーの首に命中していた。
首には太い血管があるから、流れ出す血量もその分多くなる。大量に失血し、顔色がどんどん真っ青になっていく。
がくんがくんと体が痙攣するのを、必死で抑え込む。
「バニー!!バニー!!!」
更に勢いを増した炎の中で広げた虎徹の翼が、更に抜け落ちていく。
こんな時、回復系も得意でない自分を呪いたくなる。
せめて回復系の名手であるブルーローズか、スカイハイがいてくれたなら。
戦闘に特化する虎徹の力では止血する位が精一杯だった。
「バニー!!」
「へへ…タイガー、ぼく、タイガーを、まもれたかな…?」
虎徹が言った事を覚えていたのだろう。
健気な姿に、虎徹の双眸からぼろぼろと涙が零れた。
「バニー…!」
「まもってくれた、おかえし。…だいすきだよ、タイ…」
バーナビーはかすかに笑い、そのままがくりと事切れる。
血に塗れた小さな体がぐんと重さを増し、虎徹は嫌だ、駄目だ、とバーナビーをかき抱いた。
助けなければ。
この小さな子供までも、死なせてはならない。
虎徹は一瞬考えて、きっと目を上げた。
虎徹の目は、赤い炎の海の中で、宝石のようにきらりと金色に輝いた。
奇妙な程静かな、けれど張り詰めた様な横顔は、覚悟を決めたものだけが持ちえる表情だった。
「待ってろな、バニー。今、助けてやる」
虎徹は言い置いて、おもむろに己の翼に手を掛けた。
力を緩めずに掴むと、全体に鈍い痛みが走る。それでも、虎徹は構わずに更にぐっと手を引いた。
「……………ぐう…っ、ああああああああっ!!!!!!」
ぶちぶちぶちぶち、と嫌な音がして、虎徹は己の翼を根元から引き千切った。
無理に引き剥がしたせいで、血の代わりに更に青と金の粒子が傷口から吹き出す。
血よりも濃い、それは虎徹の命そのものの輝きだ。
引き千切った翼でバーナビーを包み、震える手で頬をやさしく撫でる。
天使の力の象徴である翼は、それ自体に力の大半を蓄えている。
言い換えればこれを対価として使う事で、初めて使うことが出来る力もある。
―――それが、決して神の許可なしに行ってはならない、命の呼び戻しだ。
あらかじめ天が決めた運命を捻じ曲げ、命数を変える行為は最も神の怒りを買う行為となる。
…間違いなく、天には帰れなくなる。あるいは、力そのものを剥奪されるかもしれない。
過去に何人も虎徹はそういう天使を見てきた。
そうはなるなと、村正や安寿にも厳しく言われ続けていたというのに。
それを分かっていて、虎徹はバーナビーを助ける道を選んだ。
バーナビーの頬を撫で、虎徹は痛みを堪えて笑う。
「ごめんな、バニー、…あとちょっとだけ、我慢、な…」
翼が更に青く輝き、光となってバーナビーの中に溶けて行く。
深い傷口は羽根が包み、たちまちに癒して行く。
力の半分を失い、それをバーナビーに使う事で虎徹はバーナビーを蘇生させた。
虎徹から零れ出た青い光が渦を形成し、消費されて散った粒子を巻き上げて、天へと昇って行った。
体を抱き締め、胸に耳を押し当てる。
バーナビーの鼓動が戻った事を確認し、片翼になった虎徹はようやく小さく息をつく。
じくじくと激しく痛む背は軋んで、上手く立ち上がる事も出来ない。
それでもバーナビーを腕の中に抱え、虎徹はよろ、と足を踏み出す。屋敷そのものがもう崩れ始めていた。
「待ってろ、今、助けてやるからな…」
まるで眠るようなバーナビーの顔に、虎徹は愛おしそうに頬ずりした。
なんとか炎から逃げ延び、外に出てきた虎徹の所へ、消防隊員が慌てて駆けつける。
「…すんません、この子を、頼みます」
「大丈夫ですか!!!いや、むしろ貴方こそ!!」
「俺は頑丈ですから。さ、早く病院へ」
消防士に抱きかかえられて運ばれていくバーナビーを見送って、虎徹は一歩後ろに下がった。
燃え盛る屋敷を囲む野次馬たちの中へと上手く紛れ、探される前にとその場を立ち去る。
暫く離れてから翼を出して飛ぼうとしたが、やはり駄目だった。
片翼では天に帰る事も出来ないばかりか、ろくな力も残ってはいない。半分に戻るまでにも相当な時間がかかるだろう。
まして、いかに間に蛇や虎徹が介在していたとはいえ、一人の子供の命数と運命をねじ曲げてしまった。
天の門は遥か遠く、神も何も答えてはくれない。
…今度ばかりはロイズも虎徹を庇い切れないだろう。
けれど、虎徹は後悔だけは微塵もしていなかった。
バーナビーを助けられただけで十分だった。
自分はどうなってもいい。ただ、自分を庇おうとさえしてくれた、あの可哀相な、健気な子供だけはどうしても助けたかった。
背は翼を仕舞ってもずきんずきんと激しく痛み、体は疲労で今にも昏倒しそうだった。
だが、もう一つやっておかなくてはならないことがある。
自分が休むのはそれからだ。
「…タイガー!ばかやろう…!」
駆けつけたベンは、燃え落ちる邸宅と、そこから少し離れた所で炎を見つめている片翼の虎徹を見つけた。
蛇の気配は既にない。だが、何があったかは大体察することが出来た。
思わず叫んで怒鳴り付けると、虎徹はぼろぼろの体で、ひどく誇らしげに笑ってみせた。
明け方。
空が菫色に変わって行く、最も天使の力が強くなる黎明の時間。
病院のベッドで眠るバーナビーの所に、そっと虎徹が姿を見せた。
ハンチングを目深に被り、音もなく虎徹はバーナビーの元へと近づいた。
「ごめんな、バニー。俺がもっと早く駆けつけてたら、…お前の両親だって…」
悔恨に胸を焦がしつつ、虎徹はそっとベッドの傍に屈む。
ちいさな手を取って、じっと寝顔を覗き込む。
「…ずっと、傍で見守ってるからな。お前が俺を忘れても、ずっと、ずっとだ。―――約束な」
さらりと小さな額にかかる髪を梳き、唇を寄せる。
虎徹に関わる記憶を消すと、虎徹はすっと立ち上がった。
これ以上は、離れ難くなる。
「俺も、大好きだ。バニー」
へへ、と笑い、虎徹は静かにバーナビーの元を去って行った。
それから、20年が経った。
虎徹は天に戻れないまま、時に人助けをしながら、けれど人との距離は一定に取ったまま、バーナビーを見守り続けた。
虎徹の定位置は大体ジャスティスタワーの上か、そうでなければバーナビーの近くだった。
バーナビーはマーベリックが後見人となって、寄宿舎を経てあらゆる勉強をスポンジが水を吸うように吸収し、その全てを優秀極まる成績で修めていく。
幼かった顔が母エミリーに似て育って行き、モデルや俳優もかくやと思うほどに目の覚めるようなハンサムに成長した。
バーナビーは虎徹が眩しく感じる程に立派な青年へと育って行ったのだった。
マーベリックはその後蛇の片鱗も見せず、また、両親の事件もベンたちの手によって、物取りによる不幸な殺害事件として処理された。
だが、やはりバーナビーが全てにおいて順風満帆であった筈はない。
バーナビーもまた、表面上は柔和でも、人との間に一定の距離を置き、誰かと親しくなるのを避ける傾向にあった。
それは虎徹にはどうする事も出来ない。
時折炎の記憶だけは思い出すのか、夜に苦しんで眠れない事もあるようだった。
けれど、バーナビーがどんな苦境にあろうとも、虎徹は決してバーナビーの所にだけは降りなかった。
これ以上の介入は、バーナビーでさえも天に目を付けられかねない。
だから決して姿は見せず、バーナビーがどんな選択をし、どのように生きようとしているのか、ただ傍で見守る。
何があってもそうすると、助けた瞬間から決めていた。
4歳の子供が成長していくのはあっという間だ。
目まぐるしく日々は移り変わり、一日が過ぎるたび成長し、違う顔を見せてくれる。
20年は決して長くはなかった。
…むしろ、素晴らしく成長を遂げて行くバーナビーから目が離せなかった。
15歳で寄宿舎を出たバーナビーは大学院までの全てのカリキュラムを18歳までに終えてしまうと、その足でさらに専門的な知識を得るべくあらゆる勉学に貪欲に励んだ。
目だけはその根を詰め過ぎる性格のせいで悪くなってしまったが、ハンサムぶりは少しも損なわれない。
3年を掛けてそれを終えると、今度はバーナビーは何を思ったか、ヒーローアカデミーへ入る道を選ぶ。
後見人であるマーベリックも賛成しているようで、アポロンメディアを挙げてバーナビーを迎え入れるつもりのようだった。
―――そうしてバーナビーは晴れて、24歳でヒーローとなり、光当たる舞台の上に立った。
シュテルンビルト始まって以来の顔出しのヒーローとして、バーナビーは己の両親の事までも全てを市民たちの元に晒した。
隠す事など何らないと、決して目線も下げない。
「僕が市民の皆さんを守ります」
全てを話した上でフェイスカバーを上げ、手を軽く上げる横顔は何処までも晴れやかだった。
虎徹が助けた子供は、シュテルンビルトに熱狂的に迎え入れられ、誰からも愛されるヒーローとなった。
…虎徹も勿論、例外ではなかった。
バーナビーは真面目で、クールな癖に一途で、内に情熱を持っている。
それを、おそらく虎徹だけが正しく知っている。
見つめているだけでも嬉しくて、悲しい顔をしている時は夜、そっと屋根の上でバーナビーを見守った。
嬉しそうにしている時は共に笑い、自分の事のように喜んだ。
そして、20年を見つめて来て、いつの間にか、バーナビーに恋をしていた。
決して届く事のない恋。
それでも、虎徹はしあわせだった。
片翼のまま、上手く飛べもせずそれでも、傍にいられるだけで幸福だった。
バーナビーが幸せになればなるほど、助けた事は間違いではなかったのだと実感することが出来る。
些細な幸せ、ただそれだけで虎徹には十分だった。
この幸せが、バーナビーが天寿を全うするまでずっと続くのだと、信じて疑わなかった。