安倍首相がどんなに「国民の命と平和な暮らしを守る」と訴えても、閣議決定による解釈改憲の矛盾は覆い隠せない。

 きのうまでの2日間、衆参両院の予算委員会で開かれた集団的自衛権をめぐる集中審議。政府の答弁は、とても国民を納得させられるものではなかった。

 憲法改正をせずに集団的自衛権行使を認めることができるのか。このことが、ここ数カ月の論争の最大の焦点だった。

 安倍首相はこの点について、予算委でこう答えた。

 「9条の解釈の基本的な論理を超えて武力行使を認めるのは困難であり、その場合には憲法改正が必要になる」

 つまり、今回の解釈変更による集団的自衛権の行使は許されるが、それ以上は憲法改正が必要だというのだ。

 ところが、83年に内閣法制局長官はこう答えている。

 「集団的自衛権の行使を認めたいなら、憲法改正の手段をとらざるを得ない」。この答弁を「その通りであります」と閣僚として追認したのが、当時の安倍晋太郎外相だ。

 憲法改正をしなくてもできることとできないことの間の線引きが、明らかに変わってしまっている。

 これだと、いま首相が「できない」といっている「湾岸戦争やイラク戦争での戦闘参加」も、いつの間にか「できる」ようになってもおかしくない。

 首相は武力行使の新3要件を「世界で最も厳しい」と強調する。その一方で、中東ホルムズ海峡の機雷封鎖による経済的影響も勘案すると述べた。石油不足がきっかけでも、自衛隊を紛争地に派遣する可能性があるということだ。

 ならば、自衛隊員の生命の危険が高まることを国民にきちんと説明すべきだ――。こうした切実な問いに、首相は全く答えようとはしなかった。安全保障環境の変化や新3要件の説明を繰り返すばかりで、議論はかみ合いようもない。

 一連の安全保障政策の見直しは、日本人だけの生命にかかわる問題ではない。集団的自衛権の行使や多国籍軍への後方支援の拡大は、世界の様々な紛争に日本が軍事的な関与を強めるということだ。

 紛争当事国の国民の生命や生活に、日本も責任を負わざるを得なくなることを意味する。いまの日本に、それだけの覚悟はあるのか。

 問題の射程は広く深い。衆参1日ずつですむわけがない。さらなる閉会中審査を含め、徹底した国会論議が不可欠だ。