Nanpa is Suicide

A stupid man write this blog.

高石さんについて思うこと(続き)

さきほど、「高石さんについて思うこと」を書いた。

しかし、少し抽象的で、ただ気焔あげているだけの一般論のようにも思われる。

なので、ここで具体例を用いて僕の浅はかさをよりわかりやすく書こう。

 

こんなツイートがあった。

 

高石さんのエサの撒き方について、ここで解説したい。

代々木忠さんのトークイベントについて、僕がつぶやいたら、

 

「カリスマがカリスマと会う瞬間だったのだろうなと思う。カリスマは冷静にカリスマを見る。熱狂したら終わり」

 

と高石さんがつぶやいた。

冷静に考えて、僕がカリスマなわけがない。しかし、彼にこのようにつぶやかれた時に、僕は有頂天になった。「俺はカリスマだ!」と本気で思い込んだ。だが、褒められて有頂天になるような人間は、カリスマからはほど遠い。

僕はこのようにブログを書いている。ナンパやホストをしている。「愛のキャラバン」にも彼のおかげで出た。何が言いたいかというと、カリスマになりたがっている人間だという状況証拠が揃っているのだ。つまり、僕は誰かに「君はカリスマだ」と言われたいのである。

しかし、現実には、僕はただの無能者である。前の目の子ども1人まともに叱れない。ナンパの時もホストの時もどもる。反応が遅いし、空気も読めない。カリスマなわけがない。

 

褒められたことが少ない人間が、ちょっとでも褒められたら喜ぶなんてことは、別に珍しい現象ではない。しかし、問題は、「君はカリスマだ」と言われた後に起こる現象である。彼にこう言われたことによって、僕の心はどのようになるのかを隠さずに書こう。

普通、他人から「君はカリスマだ」などと言われない。さらに、僕は「君はカリスマだ」と言われたかった。したがって、「君はカリスマだ」と言われたら、それは強く心の中に残る。何度も何度も、心の中で、彼の言葉が反芻される。なぜなら、快感だからである。あと、僕が暇な学生だからだと言うこともある。

このように、心に刻まれてしまった言葉は、現実の行動に影響が出る。たとえば、僕がナンパでガンシカされるとする。すると、僕はこう思う。

「僕は高石さんというカリスマに、『君はカリスマだ』と言われたのだから、あの女の子が僕を無視するのはおかしい」

こんな風にして、現実逃避の手段になってしまう。彼の言葉が、僕の見たくない現実を隠してくれる。他人を褒めることは、その場で他人を楽しませるだけではなくて、このように他人の行動に影響を与える。褒め言葉も、時に強力な呪いになると思う。

小野さんも、このメカニズムで現実逃避をしているのだろう。彼女はこのメカニズムをおそらく認識はしていない。彼のことが好きである自分を正直に認めていないことがその証拠である。

彼女の所作や文章を見て、僕はこのメカニズムに気がついた。また、彼に直接言われなくても、彼のツイートやブログを見て、勝手に現実逃避の手段にしている人もいる。

 

もうひとつ例を出そう。それは、あの平均化訓練だ。

彼が平均化訓練を始めたら、彼の周りの人たちも平均化訓練を始めた。

別にそれ自体は構わない。他人がしているいいことを自分もやってみるのは、悪いことじゃない。

だけど、平均化訓練の感想が、同じようなものばかりになっているのは、奇妙である。みんな平均化訓練をやってみたものの、実はよくわからないというのが真実なのではないか。先に彼が平均化訓練について、感想を述べてしまっていたから、それをそのまま写しただけではないか。

彼らの本当の欲望を当てよう。それは、高石さんと同じ感覚を自分も持ちたいということだ。しかし、そんなことは不可能である。違う人間なのだから。僕は、ある種の人間は、個性や自発性を持てないのではないかとさえ思ってしまう。

自分もカリスマと同じ感覚を持っていると思いたい。そう他人から思われたい。人生の時間を無駄にしていると思う。わからないなら、正直にわかりませんと言えばいい。何も感じられないから、そもそも言葉にできませんと言えばいい。そこから、自分の人生が始まるのだと思う。

 

もちろん、僕は彼を責めているわけではない。現実から目を背けている僕が悪い。僕の心が貧しいがゆえに、彼を「食い物」にしているのである。

「食い物」にされたことがない人間には、一生わからないことだと思う。わからないことは、正直にわからない。しかし、開き直らないこと。そんな強さがほしい。