私がきょータソと結婚したとき、周りの友達からは「幸せになってねー」とか「末永くお幸せに〜」って言われた。私も友達が結婚したときは「幸せになってねー」って言っちゃうんだけど、いつもひっかかる。自分で言っておいてなんだけど「幸せになってね」って言葉はおかしい。これじゃまるで今が幸せじゃないみたい。
(結婚式はもうちょっと仕事が落ち着いた頃に余裕をもってあげたいねということでまだ挙げていない。目安は来年。)
私が「幸せになりたい」と思ったのは、リアル中学2年〜20歳ぐらいの多感な時期だけだった。ちょっと傷ついたら「幸せになりたいよお・・・」と嘆いていた。あの頃はあまりにも未熟だったから、ちょっと嫌なことがあると、すぐに落ち込んでは、自分は不幸だと思う節があった。
今の状況が不幸だと思うのも、幸せだと思うのも、結局は気持ち次第なところはある。「どん底に陥ったことがないからそんなこと言えるんだろ」なんて思われてしまうかもしれないけれど、実際どん底がどれだけ深いのかも知らないから、それを言われると困るけれど・・・。
だけど私は、できることならいつでも前を向いて幸せを感じて生きていたいなと思う。つらいことがあっても、ちゃんと乗り越えていけるように、気持ちを前に向けられるようでいたい。
そう考えると、きょータソの存在はすごくありがたい。きょータソがいるから、ネガティブ思考な私も前向きになれたし、きょータソがいるから悩むことがあっても解決できるようになった。
悩みっていうのは必ず原因あってのことだから、フォーカスするのは自分の気持ちじゃなくて、悩みの原因。つらいつらいって言ってる自分にずっと酔ってるのはちょっとアレです。ちゃんと前向きになれるようにならなきゃダメだよ。きょータソに言われた言葉だ。落ち込むことが悪いということではなくて、ちゃんと問題解決力を養おうねってこと。
「どうしたらいいの?」「どうしようもないよ!」
昔、精神的に堕ちて悩んでいるときは、考えているようで、ちゃんと考えていなかった。ひとりで悩んでウジウジしているクセがずっとあったけど、最近はちゃんと問題が起きたら解決できるように頭を使って考えて、問題を解決できるようにしている。
私は、幸せになりたいというよりも、なるべく苦労をしない人生を送りたい。とはいえ人生は長いから、苦労は絶対出てきちゃうに決まっている。でも、その時々でちゃんと問題を解決していけるようでありたい。今はその修行を積まなくちゃいけない。
あと「幸せって麻痺しちゃうものだと思う」ってことも書いてみる。
例えば家を建てたその瞬間は幸せだと思っても、数年経てば自分の家があることが当たり前になって、それを幸せなことだと感じ続けるのは難しい。「幸せだなあ」と思った気持ちをずっと継続的に持ち続けるって大変だ。
ちょっとでも長く「幸せだなあ」を継続させるには「思いやり」というスパイスが必要だと思う。家を建てたら、稼いでくれてありがとうとか、家をキレイに管理してくれてありがとうっていう感謝の気持ちを持つこと&それを表現することが、相手を思いやるってことだと思う。それ以外にも思いやりの形はたくさんあるけど、書き出したらキリがないから省く。
思いやりが無くなったら、夫婦はダメだろうなーと思うし、お互いに思いやれる関係っていうのは素敵だなーと思う。だから、きょータソとはずっとお互いに思いやれる関係でありたい。そのための努力はきちんとしていきたい。ちょっと話が反れるけれど、ご飯を美味しい、ありがとうって言って食べてくれるのは嬉しい。お弁当の感想もいつも報告してくれるのが嬉しい。こういうのがずっとずっと続いていけばいいなーと思う。
夫婦じゃなくても、人は、人としてちゃんと思いやりを心がけているほうがいい。思いやりに欠けている人は、人から優しくされることは当たり前なのに、誰かに優しくすることは当たり前じゃない。それなのに優しくされなくなると不幸だと思って気苦労する。思いやりが足りない人は、人が嫌がることを平気で言ってしまう。そうしているうちに、周りから人がいなくなって、ひとりぼっちになってしまう。親戚のおじさんを見ていて前々から思っていたことだ(反面教師にしてしまってごめんなさい)。
@まとめ
「幸せになりたい」って言葉はどこかおかしいなって思ってるっていうお話。「幸せである」ためには「問題解決力」と「思いやり」のポイント(MP&OP)を上げてかないといけないんじゃないかなーと思っているっていうお話。誰かを思いやれるって、気持ちに余裕がないと出来ないことだから、問題解決力も上げていって、悩んでる時間を減らさなきゃねってお話。
そして、左耳に痛みと違和感があるという問題を抱えていて「問題解決力」のこと書きたくなったって話。耳のことは、また朝起きたときに書こうと思う。ぶっちゃけタダのニキビだから心配ないと思うけど、ちょっとやーだ(笑)。