9条の骨抜きは許さない
まず、あらためてこの条文を読み返してみたい。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
戦後の日本の針路を決定付けてきた日本国憲法の第9条である。
これを素直に読めば、「日本は絶対に戦争をしない。軍隊も持たない」ということに尽きる。
ただ、他国から攻められたとき何もしないのはおかしい。そこで戦後の歴代内閣は「個別的自衛権」は認める、と解釈してきた。日本が攻められたときは防衛し、そのための自衛隊も保持する。「暴力をふるってはいけないが、正当防衛は認める」という人間社会の常識に沿った解釈といえよう。
この解釈は40年以上前に確定し、ずっと堅持されてきた。もはや9条と一体化している。
9条を何回読んでも「他国がしている戦争に参加してもいい」「海外に出て行って戦争してもいい」という意味には取れない。
もし、そういうことをしたいのなら、憲法を改正するしかない。それが道理である。
▼自衛隊の姿変わる
しかし、その道理の通らない無理な読み替えを、安倍晋三政権は断行しようとしている。
安倍内閣はきょう1日、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行う予定だ。安倍内閣の判断で、9条の解釈を「個別的自衛権だけを認める」から「個別的自衛権と集団的自衛権の両方を認める」に変更するというのだ。
個別的自衛権が「自国を守る権利」だとすれば、集団的自衛権は「他の国がしている戦争に参加し、片方の国に加勢することができる権利」ということだ。どんなに「限定的だ」と弁明しても、本質はそこにある。
今なぜそんな権利の行使が必要なのか。安倍政権は「安全保障環境の変化」を理由に挙げる。北朝鮮や中国の動きが物騒だから集団的自衛権が必要だ、というのだ。
一見もっともらしいが、日本が危ないのなら「自国を守る」能力を強化すればいい。それも軍事力だけに頼らず、隣国と対話する外交努力があってしかるべきだ。
安倍首相はもともと改憲論者であり、「戦後レジーム(体制)」を否定する発言を繰り返している。自衛隊の活動を狭く限定した現行の憲法を「戦後レジーム」の象徴と捉え、そこからの脱却こそ自分の使命と考えているようだ。
自衛隊は1日で発足からちょうど60年になる。現行の憲法解釈を守ってきたからこそ、自衛隊はこの60年、海外の戦闘で1人も死んでいないし、1人も殺していない。この自衛隊の姿を誇りに思う国民は、決して少なくない。
▼平和主義の「鎖」
米国は大戦後「世界の警察」を自任して各地の紛争や政変に介入してきた。ベトナム戦争やイラク戦争など、後になってみれば明らかに理のない軍事介入もあった。
こうした不名誉な戦争に日本が本格的に加担せずに済んだのは憲法9条の解釈で集団的自衛権の行使を禁じてきたからだ。その意味で9条は米国に追随して戦争に加わろうとする日本政府を平和主義につなぎ留めてきた鎖なのだ。
首相が会見で憲法解釈変更を目指す方針を示したのは5月中旬だ。その後1カ月余りの協議で自民、公明両党は解釈変更で実質的に合意した。国会の論議はほんの数日で、国民の理解も進んだとはいえない。あまりに拙速である。
安倍政権が憲法改正の手続きでは国民の支持を得られないと判断して閣議決定で憲法を実質的に変えるのであれば、いくら政府が否定しようと「解釈改憲」であり、憲法の安定性を大きく損なう。一内閣による9条の勝手な「骨抜き」は許されるものではない。
政府は秋の臨時国会で、憲法解釈変更に伴う関連の法整備を審議する構えだ。それまでに国民的論議を広げ、政府と与党の独断専行に歯止めをかける必要がある。
安全保障に関わる政府の動きを監視し、それが日本の平和主義の土台を弱めるものであれば、あくまで異議を唱えていきたい。
=2014/07/01付 西日本新聞朝刊=