あるべき文書がなぜないのか。このまま、説明なしではすまされない。

 42年前の沖縄返還に伴う米国の財政負担を、日本が肩代わりするという秘密の合意。

 日本政府は否定してきたが、米公文書館が公開した文書で、90年代以降裏付けられている。

 その存在を認めた司法判断が、きのう最高裁で確定した。元毎日新聞記者の西山太吉さんらが国などを相手に起こした情報公開請求訴訟である。

 判決は文書を開示しないことを認めており、形の上では国側の勝訴だ。だがその判断は、密約は存在し、01年の情報公開法施行前に秘密裏に廃棄された可能性を否定できないという見方に基づいている。政府は判決の意味を厳しく受け止めなければならない。

 沖縄密約文書を「ないものはない」とかわしてきた政府の態度は目に余る。密約によって多額の税金が使われた。国民の評価にさらされるべきだ。当時の外務省の内規に照らしても永久保存すべき文書だったことは裁判所も認めている。

 その存在をジャーナリストとして突き止めた西山さんは刑事罰を受けた。その一方で、闇に葬った政府関係者がとがめなしでは、あまりにバランスを欠くのではないか。

 そもそも政府が「文書が存在しない」といって公開を免れられるのなら、情報公開制度は成り立たない。

 知る権利のうえからも、歴史を記録する観点からも、「第一級の極めて重要な歴史文書」と裁判所が評価した今回の密約文書が、この先も存在しない状態でいいとは考えにくい。

 政府が見つけられないならいっそ、米国側に文書の写しをもらい、それを保存、公開することを考えてはどうか。

 気になるのは、米側の公開文書や外務省元局長の証言から原告が密約文書の存在をはっきり立証したのに、文書の性質によってはその後保管されなくても許容されるかのような判断を最高裁がしたことだ。情報公開を狭めることにならないか。

 公文書管理法が11年に施行され、公文書の保存や廃棄のルールは明確になった。しかし、年内に施行される特定秘密保護法で指定されたら、それとは別ルートで扱われる。外交に不利益だとみなされれば、半永久的に秘密扱いにできるのだ。

 この大がかりな情報隠しの道具を適正に運用できるのか。沖縄密約文書をめぐる一連の政府の姿勢を振り返るにつけ、疑問と不信は新たになる。