2009年に書かれた論説文に、『刑事裁判における被害者供述の信用性判断 -供述の対称性という視点からの検討-』というのがあるんですよね。
こういった問題に適当な反応を示すと面倒なので、敢えて僕は紹介するだけにしますが、この論説では、強制わいせつ罪の被告人と被害者との供述について、その信用性を両者の供述の対称性という観点から論説しています。以下、そのまとめの部分の抜粋です。
本研究では、被害者Bと被告人Aの「供述の対称性」という観点を手がかりに、それぞれの供述の特徴を示し、その特徴からそれぞれの供述の体験性を検討できるかを試みた。「供述の対称性」という観点からは、本事案の骨格と言うべき部分に関しては、被害者Bと被告人Aのどちらの供述内容にも挙がっている。これは、両者とも本事案そのものを認めていることがそのまま表れているといえるだろう。しかし、裁判上での同意があったかなかったかの問題以前に出来事の骨格は同じであるにもかかわらず、両者が供述する骨格の前後の文脈は全くと言づていいほど異なるものであった。そこで、(中略)被害者供述と被告人供述についてこれまでの供述分析のなかで提示されてきた基準を用いて、体験性について検討し、さらに被害者供述についてその構成のあり方を検討した。その結果、本研究自体は、どちらの供述のほうが信用性があるのかどうかに言及するものではないが、(中略)被害者Bの供述よりも被告人Aの供述のほうが体験性が伺え、さらに被害者Bが合意のあった出来事を〈非合意-強制〉の文脈に置き換えた可能性が示唆された。
しかしながら、本事案のように同ーの出来事を体験した者どうしが、その出来事が「被害-加害」といった利害関係を生み出したとき、どのような供述をするのかというそもそもの法則性はこれまで実証的にも確認はされていない。本事案に照らせば、実際には加害行為を行っているにもかかわらず自らを守るために嘘をつき、実際の出来事をどのように再構成するのか、あるいは実際には加害行為もなかったにもかかわらず被害を受けたかのように見せるために嘘をつき、実際の出来事をどのように再構成するのかという心理学的な一般法則がないのが現状であろう。
今後、同ーの出来事を体験した者の供述の対称性という観点を現実の供述分析で活用していくために、人はそもそも共有された出来事をどのように語るのか、さらには自らの利益になるようにするために、あるいは不利益にならないようにするために共有された出来事をどのように語りなおすのかを実証的に検討する必要があるだろう。
と、つまりは「同一体験が“加害-被害”という関係に陥ったとき、その加害者も被害者も供述において真実を語らずに事実を自己の都合に合わせて置き換える可能性があり」、そして「そこには法則性は見られない」ということ。
読んで、僕は当たり前な気がしたのですが、こういうことって、ちゃんと警察や検察がわかっていないと意味がないと思うんですよね。加害者は罪を逃れようと嘘をつく可能性がある、ということは重々に承知していても、被害者が嘘の供述で不必要に相手を陥れようとしている可能性には、考えを及ばせようとすらしていないんじゃないだろうか?もし考えが及んでいれば、被害者とされる人物の供述の信憑性をもっとしっかりと検証しているはずで、そうなれば冤罪はもっと少ないはずじゃないかと、思います。
2007年に映画『それでもボクはやってない』が公開されるなど、社会的に警察の先入観による捜査や固定観念に対して疑問が投げかけられ、こういった論説文まで公開されているのですが、果たしてそれから5年程が経って、今現在の警察はどうなっているのでしょう?
年の瀬でいつも以上に躍起になって検挙率を上げようとしているだろう警察。徴収違反金が予算として計上されているという謎の警察。もちろん全ての人がそうというわけではないのですが、目的と結果がひっくり返っているとの指摘が多いのも事実なんですよね・・・・・・。そして、逮捕時点で報道が為され、例え誤認逮捕でも無罪になっても事の顛末は報道されないという現状の中、疑わしきは捕まえろという通達が全国の警察に発せられているという今日、もしかしたら、明日、人生が変わってしまうかもしれませんよね・・・・・・。