物事って、見方が変われば当然評価が変わりますよね?で、十人十色って言葉もある・・・・・・。
だからこそ、物事に先入観を持つことはよろしくないし、僕は基本的に先入観を持たないんです。
で、ただ、いくら先入観を持たないといっても、自分の中で判断をしていかないと物事って進まない訳です。例えば、街中で昔の友人を発見した場合・・・・・・。
ある人はこう言いますよね。
「友人なんだから、声かけるでしょ。かけなかったら、なんか赤の他人みたいでおかしいじゃん」って。
でも、別の人はこう言います。
「でも何年も会ってないんだよ?気まずくない?っていうか、そもそも向こうは声をかけられたくないかもじゃん」って。
さらに別の人は、こう言います。
「自分の格好を見て、相手の格好を見て、自分の方がイケてないなって思ったら声かけない」って。
他にも、こんな意見もありますよね。
「記憶を遡って、名前がパッと浮かんだ相手なら声かける。そうじゃなければ、素通り」とか、
「知ってる相手でも、そんなに仲が良くなければ気付かないフリをする」とか、
「とりあえず声かけようかとも思うんだけど、間違いだったら嫌だからやめる」とか、
「何も気にしないで声かけちゃうで。で、間違えても、後ろの人宛だった体で押し通す」とか。
僕なんかは、「何も考えずに気ままに動く」んですけどね(笑)
で、この例で言えば、結局「相手と自分の関係性を踏まえたうえで、相手の状態から声をかけたようと思えば声をかけたらいいんだよね」ってことで、そういう大多数が頷くことのできる無難なところが、いわゆる“平均値”なんですよね。そして、マジョリティに流されやすい日本人は、その“平均値”と自分の主たる考えの間にない判断を目の当たりにすると、「普通じゃない」と感じてビックリします。
でも、「普通〇〇だよね」とか「一般的に△△だよね」って判断されることのほとんどは、実はそう言ってる人が触れてきた小さな社会の中の“平均値”に近いかどうかというだけの話なんですよね・・・・・・。だから、そうやって“平均値”を基にした“普通”とか“一般”とかって、実は判断の幅を狭めているだけの話で、立派な判断をしているわけでもなければ、器量が小さいんだとさえ言えてしまう。本当はもっといろいろでいい。もっとバラバラでいい。
個性を出すことは、誰かの価値観に新しい一石を投じるだけの話。そして、個性を認めることは自分の価値観を拡げる新しい一石を受け止めるということ。“平均値”に縛られることなく自由に自分や他人と向かい合いたいと思う今日この頃です♪