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 作家の井上ひさしさんが残したエッセー集「ふふふふ」に、こんな趣旨の文章がある。

 〈議会やお役所は、形あるものはなにも作り出すことができない。その代わりに政治家やお役人はコトバを原料に、なにか国民のためになる価値を作り出す。そのために、わたしたちは血税の中から彼らに、安くない報酬を割いている〉

 この表現を借りれば〈価値を作り出す〉はずの言葉を、あべこべに使う政治家が目につく。

 例えば、自民党が全国の議員に注意の通達を出すに至った、女性差別ヤジ。石原伸晃環境相の「最後は金目でしょ」発言。少しさかのぼれば、麻生太郎副総理のナチスを引き合いに出した「手口に学んだら」発言や、石破茂・自民党幹事長の、デモとテロを同一視したようなブログもある。

 政治家は言葉で社会の枠組みを作る仕事だ。その大事な道具をひどく無神経に使っている。

 発言が問題になると、「迷惑をかけた」と謝る。それで、おしまいでいいのか。

 傷つけられた人が求めるのは、通りいっぺんの謝罪ではないはずだ。深く自省し、どんな考え違いをしていたかを探し、その誤りをどう修正しようと考えているのか。被害者に伝え、社会に向けて説明すべきは、そういう言葉だろう。

 たくさんの「迷惑をかけた」からにじむのは、自分の言葉と向き合うことなく、早く騒ぎを収拾したいという思惑だ。迷惑をかけた相手や社会にというより、仲間に向けて言っているようにすら見える。差別ヤジを発した都議が、自民党の会派を離れるという内輪向けの行動で責任をとったかのように振る舞っているのが象徴的だ。

 「言葉が足りなかった」「本心が伝わらなかった」という釈明もよく聞く。しかし、そんな決まり文句をいくら重ねても説明にはならない。

 いっそ黙りこくって、失言を避ければいいのか。政治家ではないが、こんな例もある。

 「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」と公言したNHKの籾井勝人会長はその後、「放送法順守」「コメントを控える」を連発し、批判をやり過ごす。公共放送のトップとして責任放棄ではないか。

 暴言や失言を責め、ただ辞任を迫ればいいというわけではない。しかし無責任な発言は繰り返される。そしておざなりな謝罪が醸し出す「決着したような感じ」。それを受け入れ続けては、言葉によって築かれる社会の土台は弱まる一方だ。