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6.メディアの影響――見てはいけない見せてはいけない
まず、前回の予告とは違った内容でお送りすることをお詫びしなければならない。この問題は児ポ禁推進者の最大の言い分であるにもかかわらず、今まであまり大きく触れてこなかったことに気づいたからである。そこで、今回は一章をこの問題にさいてみる。
その問題とは、メディアが人間に及ぼす影響についてだ。
児童ポルノ禁止法推進者が、漫画、ゲームなど創作分野への規制の拡大を唱える最大の理由が「性的搾取を助長する漫画や画像も規制すべき」というものである。つまり、メディアの影響によって児童ポルノなどが助長され、被害者が増えるならば規制すべきではないか、というわけだ。この、メディアによって暴力的なメディアが子どもを暴力的にする、性的なメディアが子どもを性的にするというメディア悪影響論を「強力効果論」という。
この主張が説得力を持つには、メディアが人間の行動を変えるほどの影響力を保持しているというのが大前提となる。つまり、児童ポルノなどを描いたメディアによって読者が影響され性的搾取を自ら行うまでに至るので規制するべきだ、となる。もし、そうならないのであるなら規制は無意味だ。
では現実は一体どうなのだろうか。
メディアが受け手にもたらす影響の研究が始まったのは1930年代、戦争における宣伝放送などの研究からだった。やがて、1940年代になるとアメリカの大統領選挙戦におけるメディアの研究へと引き継がれる。その流れの中で、1960年にクリッパーという研究者が打ち立てたのが後に言われる「限定効果論」である。クリッパーは、今までの研究においては肯定的だったメディアの影響を否定してみせる。
クリッパーの唱えた限定効果論とは、メディアの効果は受け手(読者・視聴者など)の態度を補強する以上のものではないというものだった。受け手のスタンスは最初から変わらず、受け手はメディアの情報から都合のいいものを拾って、あるいは都合のいい解釈をして自己の立場を補強していく、つまり、メディアは受け手の性質Xに影響を与え一時的に+αはするが、そもそもの性質Xは変化してYにならない、と唱えたのだ。
これはつまり、暴力的なメディアの影響を例にあげるなら、暴力的なメディアに触れた人間は番組などに影響されて一時的に暴力性が+αすること(ついついアチョーとロッカーを蹴りたくなったり)はあっても、根本的な暴力性が変化する(人間として凶暴化する)ことはないということだ。言い換えれば、元々暴力的な人間が実際の暴力行為を起こす引き金にはなっても(メディアの影響による+αで暴力行為発生の閾値を越える)、穏やかな人間の性質を暴力的に変えることはない、ということになる。
メディアに触れることで犯罪の引き金が引かれる可能性があるということから、一見、メディア悪影響論と変わらなくも見えるがそれは違う。この論はメディアが存在すること、メディアの活動が悪影響なのではなく、それは社会に存在するその他多くの影響と同列に過ぎないというものである。メディアに限らず犯罪の引き金を引くものは多くあり、またその効果は人によってまったく違う。限定効果論は、メディアが他のものと比較して特異な影響を与えることはない、ということを説いている。
今でもアナウンス効果の存否が論じられるようにメディアによる影響に関する研究は諸説入り乱れているが、反面、科学的な検証はあまり進んでいない。数多くのメディア論が論じられてきたが、科学的に実証されたのは限定効果論だけである。メディア規制派が強く唱える強力効果論は様々な検証が繰り返されたにもかかわらず、今まで科学的な裏づけは得られていない。もっとも、限定効果論も既に40年以上も昔の学説であり、意義を唱える声は根強い。つまり、極論するならメディアによる影響が完全に立証された例はないのである。メディアが受け手にどのような変化を与えるかについてはよくわからないのである。この完全に立証された正解がないという状況が推進派が強力効果論を持ち出せる余地なのだが、限定効果論という模範的解答がある以上説得力は薄い。規制推進派はそのような不完全な説を振りかざしているのである。
表現の自由は民主主義の根幹をなす重要な権利であり、その制限は他の権利の制約と比較してもより慎重で最小限でなくてはならない。よって、表現の自由に制限を加える場合には「危険な恐れ」があるだけではなく、「明白かつ現在のさしせまった危険(clear and present danger)」がある場合に限るという原則がある。
これはアメリカの判例によって確立されたもので、1927年にブランダイス判事は以下のように述べている。
『明白かつ現在の危険』の事実認定のためには、直接の容易ならざる暴力行使が予想されたか、あるいは唱導されたか、もしくは過去の行動からみてそのような唱導がその時に計画されていたと信ずるに足る理由があったか、そのいずれかが示されなければならない。
害悪を生ぜしめるおそれのある影響が非常に差し迫り、十分な論議をつくす機会を与えられる以前に害悪が発生するかもしれないというのでない限り、言論の自由から生ずる『危険』が『明白かつ現在』のものと考えることはできない。
論議によって虚偽と誤謬を明らかにし、教育によって害悪を回避し得る時間的余裕があるなら、採るべき手段は言論をよりいっそう自由に許すことであって、沈黙を強いることではない。
緊急事態の存在だけが制限の正当な理由となる。
また、差し迫った危険といえども害悪のおそれが比較的重大でないなら、
民主制を有効に運営せしめるために不可欠であるこの機会の禁止を要求する正当な理由にはならない。
この文章に全てが語り尽くされている。本章はこの引用以外は蛇足の感すらある。議論は尽くされているだろうか。議論の間に重大な害悪が発生することが懸念されているだろうか。教育における努力は十分か。科学的に立証すらされていない学説を根拠に規制強化を掲げる推進者にそのまま問い掛けたい。これは憲法21条で保証されている表現の自由、そして禁じられている検閲に抵触する可能性もある。多くの場合熱心な護憲派である児ポ禁推進者達が自ら憲法を殺そうとしているのではなんのための護憲派なのか話にならない。
また、かつての西ドイツではポルノ解禁で性犯罪が激減したように、ポルノグラフィには犯罪抑止効果があるのは良く知られている。儒教の影響で性道徳に厳しく、また性表現に関して日本よりはるかに規制が厳しい韓国の性犯罪率は日本の10倍である。これらの例からも、ただ単に性に関する情報を締め出せば性秩序が保たれるのではないということがわかる。ポルノを犯罪助長とする論は現実とは180度ずれたむしろ危険な考えであるといわざるを得ないだろう。ポルノを全面的に禁止すれば、逆に性犯罪率が激増するのは火を見るより明らかである。見せるポルノと見せないポルノの線引きがないこの議論は、ただ単に規制派が気に入らない表現を抹殺したいだけであるかのようである。
推進派が有害な情報を隔離すれば秩序が訪れると考えているのであれば笑うほかない。これほどまでにはっきりと証明されているというのに、政治家、学者が知らないはずがないだろう。だが、未だ有効な反論は聞かれない。もはやこれは口実である。こじつけである。彼ら彼女らはただ単に目障りなモノを消したい、それだけだ。
だが、別の面から見れば現在の性情報の氾濫は大きな問題である。週刊誌やスポーツ新聞、そしてその広告など、公共の場で多く目にするものには過剰な性情報が溢れている。セクハラ裁判にも発展しているように、ポルノの受容者も時と場所や公共性を自覚するべきだろう。権利を正当に行使できない者には権利は認められない。ポルノを手にするものならば、自らのためにこそそれを自覚するべきである。
なぜなら、メディアの無意識への影響と意識(知識)への影響はまったく別物だからである。人間の行動は意識と無意識、言い換えれば理性と本能によって決定されている。メディアの影響によって無意識の行動が変化するという強力効果論は否定されているが、意識のレベルではその限りではない。誤った知識に基づく判断が行われた場合、それが迷惑行為、犯罪行為に繋がる可能性は否定できない。無意識ではなく、意識的な判断に基づくからこそそれは大きな危険を伴う。
だからこそ、過去のように、また現在も一部で見られるような暴力、性的情報の無秩序な空間が広がっているようではならない。特に判断能力、また責任能力が十分ではない青少年の手に渡りやすいような位置にあってはならないのはいうまでもない。秩序あるゾーニング(棲み分け)こそ、規制推進派、反対派両派の為に求められるものだ。メディアの過度のコマーシャリズムやポピュリズムは自らの首をしめるだけだろう。また、受け手側もメディアリテラシーなど情報選別能力を鍛えなければならないのはいうまでもない。
自由と放任を履き違えてはいけない。情報を受け取る権利は、自らの手で確保し、守り、育てなくてはならないのだ。
賢明な読者諸兄の答えは既に出ているであろうと思う。
(連載終了)