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5.性の自己決定権――誰が何をどうするか

 今回は児ポ禁問題とはややずれるが、青少年保護育成条例などさまざまな関連諸問題につながる一大キーワード「性の自己決定権」を考えてみたいと思う。性というのは、人間の本能であり、根本的原始的機能でもあって、その決定権はまさに人間個人の尊厳に関わる重要な権利であり、社会の公序良俗のためにはある一定の自制や制限、常識による管理も必要とされる非常にデリケートな問題でもある

 わいせつ、姦淫及び重婚の罪を取り締まる法律には、刑法
第2編22章第174条から184条に規定がある。ここでは一部を抜粋して引用する。

(強制わいせつ)
第176条
 13歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、6月以上7年以下の懲役に処する。13歳未満の男女に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。


(強姦)
第177条

 暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、2年以上の有期懲役に処する。13歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。

(親告罪)
第180条

 第176条から前条までの罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
第180条 2項
 前項の規定は、2人以上の者が現場において共同して犯した第176条から前条までの罪については、適用しない。

 補足だが、176条の暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、6月以上7年以下の懲役に処する。13歳未満の男女に対し、わいせつな行為をした者も、同様とするという文章の意味がわかりづらいと思うが、これは13歳以上に関しては暴行や脅迫を伴うわいせつ行為を犯罪とし、13歳未満に対しては単純にわいせつ行為を犯罪としているのである。177条も同様である。ここでいう暴行や脅迫とは、その言葉の直接的な意味よりも範囲が広く、相手の意に反して、といった程度のものだ。(とはいえ、「相手の意」というものが何かというのは難しい問題である。「一回だけ」といっていたのに「二回」行為に及べば意に反しているから強姦だろうか。また、必ずしも行為に及ぶ際に同意を得るわけでもない。その場合の判定も難しい。判例によっても判断はまちまちである)

 なぜこのような仕組みになっているかというと、子供の性の自己決定権は不十分と考えられているからである。例えば、小学生に「させて」と言ってその子が承諾したといっても、その子供が本当にその行為の内容を理解しているか、あるいはその決定の重大性を理解しているか、大人に対して自分の意思を表明できるか(断れるか)、といった問題が生じるからである。よって、刑法では13歳未満の子供は性の自己決定権が不十分として本人の意思は問題とせず一律に保護している。つまり、13歳未満の子供への性行為は、いかに相手の同意があろうと犯罪なのである。これに限らず意志表明の能力が無い(弱い)場合は、法で保護されることがほとんどである(親権や成人後見人制度など)。これは、児ポ禁や淫行条例の問題につながる重要なキーワードなので覚えていて欲しい。

 生殖活動は生物としての人間の機能である。機能が備わった時点で、人間の体はその行為を想定していることとなる。一般的に精通や初経が12歳前後で迎えられることを鑑みれば、この境界線は理にかなっているといえるだろう(社会的な境界線としては別問題だが)。

 ちなみに、親告罪とは被害者が告訴することではじめて犯罪となるものである。告訴できるのは告訴能力があるものに限られる。未成年には告訴の法定代理人(保護者)がいる。

法務省(男女共同参画審議会第3部会 第9回議事録より)
 親告罪の告訴権者は被害者となっていますから未成年であるからといって告訴ができないわけではなく、本人に加えて法定代理人にも告訴権があるということで、法定代理人が被疑者である場合には、その親族もできるということです。ただ、告訴は講学上訴訟行為とされており、要するにその意味を理解できる能力を持っていなければ告訴行為は無効になりますが、その訴訟能力を有するようになるのは恐らく15〜16歳前後ころだろうと言われております。

 一方のいわゆる淫行条例(青少年保護育成条例)では、この制限が18歳未満とされている。

第22条 何人も、青少年に対し、淫行またはわいせつな行為をしてはならない。
2 何人も、青少年にわいせつな行為をさせてはならない。
3 何人も、青少年に対し、淫行又はわいせつな行為を教え、又は見せてはならない。
(北海道)

第13条の2
何人も、青少年に対して、みだらな性行為又はわいせつな行為をしてはならない。
2  何人も、青少年に対して、前項の行為を教え、又は見せてはならない。
(岐阜県)

 青少年とは18歳未満のことである。規制内容は都道府県によってまちまちだが、ほぼ同一内容と見て問題ない(長野県のみ該当する条例が無い)。この条例では境界線を18歳においているのである。(青少年保護育成条例に関してはあくまで一例として提示しただけなので詳述しないが、詳しく知りたい方は淫行条例改正運動様が詳しい)

 今まで詳述したように、児ポ禁法でも保護対象の基準は18歳となっている。

第2条 この法律において「児童」とは、十八歳に満たない者をいう。

 一方、民法では婚姻について以下のように定められてある。

第731条
 男は、満18歳に、女は、満16歳にならなければ、婚姻をすることかできない。

 婚姻を(やや古典的ではあるが)性交渉に関する契約という観点から見れば、父母の同意が必要ではあるが女性に関しては16歳からそれが許されるということである(もっとも改正議論もある)。

 また、性に関する情報を自ら選ぶことも性の自己決定権の一環であり、その制限であるX指定R指定など15禁18禁の分類もまた性の自己決定権の分類のひとつといえるだろう。性という一種の衝動を自己コントロールできる年齢に関して、ひとつの目安があげられている。

 このように、さまざまな法律(条例、慣習、規制)によって基準がまちまちなのである。それは性の自己決定権に関する統一された解釈が無いということでもある。繰り返すが、基本的に性の決定権は自己の権限であり、他者によって決められるものではない。よって強姦や強制わいせつなど、本人の意思以外によって強いられる行為は犯罪となる。しかし、その意思表明が不十分であったり、不明瞭であったり、不完全である場合が往々にしてある。そのひとつが、子供の場合である。子供もまた一人の人間として権利は尊重されるべきだが、その未熟さ、無知さによって誤った選択をしてしまう場合、あるいは、大人にいいように扱われてしまう場合がある。大人の場合は本人の未熟さ、の一言で済まされる自己責任の問題だが、子供の場合はまだ発展途上、教育途中であり、一人の成人になるまでは保護されなければならない。そのため、自己の行動に責任が持てるようになるまでの間は法律によって保護されているのである。
 しかし、保護すべき対象として見た場合、7歳、12歳、13歳、15歳、17歳は明らかに別物である。その年齢にはその年齢にふさわしい保護が必要なのは言うまでも無い。善し悪しは別として、性風俗の低年齢化、一般化は現実問題であり、その議論を避けてこの問題を語ることは出来ないだろう。高校生の性交経験率は1993年の15%前後から1999年の25%と大幅な上昇が見られる(財団法人日本性教育協会調査)。

 今回は児ポ禁法とはあまり関連の無い話になってしまったが、児ポ禁法は不当な性的搾取から児童を保護するためのものだからである。青少年保護育成条例とは法としての性格が根本的に違う。しかし、例えば18歳以下のアイドルの写真集のように、児ポ禁法で規制される恐れのあるものの中には、本人の意思が重要な意味をしめるものも存在するのもまた事実である。18歳以下の者は衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するものを視覚により認識することができる方法により描写したものという非常に曖昧かつわかりにくい規定によって、性交状態や裸体でなくとも表現が制限される可能性がある、といった問題である。水着などの着衣による自己表現もセックスアピールの一種であることを考えれば性の自己決定権の一貫と考えられるだろう。未成年は自己の性を売りにできるのか、何歳からその責任がもてるのか。そういう意味でこれは同一の議題でもある。
 児童売春や搾取的な児童ポルノに関しては何ら議論の余地は無い。これは間違いない性的搾取、性的虐待であり弁護の余地はなく、児童や成人に関わることなく保護されるべきであり、取り締まられるべきであろう。しかし、自ら生業として選んでいる場合、自己の承諾がある場合その線引きは微妙になる。売春婦は自己の性を商売としているが、売春は法律によって禁止されている。では、売春婦とAV女優と(いわゆるセクシー系)アイドルの差異とは何だろうか。程度の問題だろうか。ならば線引きは何処だろうか。それは性の自己決定権問題である。個人が責任を取りうる性の決定権の範囲と、社会の許容する範囲の問題である。自分が許容していても社会が許容しない自決権もある。そして、それは同じく年齢における議論と同一である。これは実に難しい問題であり、決して単純な議論が出来る問題ではない。

 社会通念的な性のの決定権と現実の乖離はますます進んでいる。前時代的な貞操観念はもはやそこには影も形も無い。では、「古きよき時代」への回帰を求めるべきなのであろうか。それはまったく無意味な問題である。よい時代などというものは何処にも無い。古いものがよいものなのであれば、江戸時代でも、平安時代でも、縄文時代でも、もっと別な性風俗はあったのである。むしろ、「清く正しい」と思われている貞操観念とは儒教精神から江戸後期に徹底され、明治政府に引き継がれたものであって、日本の文化、伝統から見ればそちらの方が異端といわざるを得ない。性風俗は変化するのである。
 つまり、青少年保護育成条例に見られる青少年を健全に育成するなどという前時代的な性風俗規正には首を傾げざるを得ない。青少年は健全たれ、という希望はわからなくもないが、青少年は健全でなくてはならないと強制することに意味は無い。ましてや、その健全というものが、性に関する情報を全てシャットアウトすることで達成されると考えているのならお笑い種である。経済をしらぬものがよきエコノミストたりえるだろうか。戦争を知らぬものが平和主義者たりえるだろうか。性に関して無垢なものが、正しい性に関する自己決定権を行使できるだろうか。本当に無知がいいと思うなら、性教育も止めてしまえばよいのである。病院によって管理された生殖、出産をおこなえばよい。
 そもそも、性教育ですら彼らの思うような機能を果たしているだろうか。小学生など性教育をしたところで赤面するかニヤニヤするかからかい合うかのどれかが相場だろう。子供達は真摯に性教育を受けて、まじめな知識として受け止めるだろうか。それ以前になぜ子供は下ネタが大好きなのだろうか。子供は子供達なりの受け止め方で、それを知っていくのである。時には暴走して、時には尻込みして、子供独特の嗅覚で真実をかぎつけていくのである。
 だが、これは非常にデリケートな問題である。子供もどんどん性知識をつけたほうがいい、とは間違ってもいえない。少しならいいが多いといけないといった塩のようなものとも違う。おそらく必ずどこかになくてはならないのだが、それは人為的に据え付けられたものではいけないのだろう。

 私はここで明確な答えを示すつもりも無いし、それは不可能である。重要なのは、この「性の自己決定権」を議論することではないだろうか。無論、議論をしても簡単に答えの出る問いではない。単純に性に関する自己コントロールを認める年齢を上下するだけの問題でもない。古来、性におおらかであった日本人が、政治的要因で儒教によって風紀を規制され、明治政府によって引き継がれ今に至る中で、日本人はその意味と内容を議論してこなかった。性の氾濫も、そのカウンターとしての引き締めもともに大きな問題となってきたが、どれも根本の問題を欠いた議論だったのである。上記のように、法律における自己決定権の境界が曖昧なのも、その議論を経てこなかったからである。まずは問題を自覚し、その意味を捉えることから始まる。答えはまだ無い。

 一部の人間が性的な関心を不純とみなし、人間の本能すらも否定しようとしている現実がある。しかし、人間には生殖のためにプリインストールされた性欲というものがある。否定できない自然の摂理がある。乳房を見れば、性器を見れば、あるいは他のさまざまな要因によって、体が反応するというメカニズムを持っている。それを否定することに意味はあるのか。
 食欲、睡眠欲、性欲、人間の本能に起因する欲は欲望であるから暴走することもあり、個人によって自制され、社会通念によって、常識によって、あるいは法律によっても制限される必要があるものである。しかし、いかなるものを用いても、それを否定することは出来ないのである。

 蛇足ではあるが、現在の性犯罪の刑罰の軽さに言及しておきたい。性犯罪は個人のプライバシーの問題、また社会通念(される方も悪いといった捉え方)、セカンドレイプとも言われる捜査、裁判方法など、さまざまな障壁によって実際の数字以上の被害があるといわれている。強盗致傷などにくらべて刑罰が不当に軽いこと、勇気を出して告発しても執行猶予がつきやすいため更なる被害を誘発する恐れがあることなど問題点は多々ある。様々な規制によって原因の根絶に異常に傾倒する前に、現実に犯罪を犯した人間の処罰を強化するべきではないか。このままでは、実際の性犯罪の撲滅には興味がなく、有害情報規制だけが目的であると勘ぐられても仕方がないだろう。


続く