『残響のテロル』1話をみた。主人公たちの目的や背景は全く不鮮明ながらも、見慣れた東京という空間をテロリズムでめちゃくちゃにする展開に一気に心奪われた。これからどんなふうに物語が転がっていくのかわかりませんが、楽しみにして見ようかなと思います。以下で適当に感想を。
「太陽を盗んだ」少年たち―『残響のテロル』と『太陽を盗んだ男』
アバンでいきなり青森の核燃料再処理施設に襲撃を仕掛ける少年二人組。どうやら彼らが物語の主人公的な存在らしい。この展開で、どうしてもあの伝説的な邦画『太陽を盗んだ男』を想起せずにはいられない。東海村の原子力発電所からプルトニウムを強奪し、原爆をつくって政府を脅迫する中学校の理科教師を描いた『太陽を盗んだ男』。核とテロリズムというモチーフは、『残響のテロル』とオーバーラップする。
とはいえ、両者のテロリズムの描き方はまったく異なるようにも思える。1979年に公開された『太陽を盗んだ男』において、テロリズムの目的ははてしなく「くだらない」もの。プロ野球中継を延長させ、ローリングストーンズの来日を実現させる...。徹底的ともいえる非政治性。一方、『残響のテロル』では主人公たちの目的は明らかではないわけだが、それが「くだらない」ものでない予感はそこかしこに漂う。なんらかの施設からの脱走、助けられなかった仲間という悪夢のフラッシュバック。1話で断片的に提示された彼らの過去は、おそらく彼らのテロルの目的とも密接にかかわるのだろう。それがプロ野球中継の延長だなんて暢気なことと結び付きようもない。
35年の時を経て再演される『太陽を盗んだ男』。そんな読みを、『残響のテロル』は喚起しているように思えた。演者はアナーキーな教師でなく、「太陽のような笑顔」と「氷のような瞳」をもつ少年たちと影のある少女。彼・彼女らがどんな結末を迎えるのか。それがどんなメッセージを投げかけるのか。それが楽しみでしかたない。
テロリストは少女を救うのか?―『残響のテロル』と『東のエデン』
『太陽を盗んだ男』のほかにも、そのプロットは『東のエデン』を想起させた。謎の少年(たち)と「普通の」少女の出会いというボーイミーツガール。リアルな現実空間を舞台に繰り広げられるサスペンス。
とはいえ、ボーイミーツガールものという点以外では、両者は結構かけ離れているようにも思える。『東のエデン』はどことなく明るい雰囲気を纏った作品だった。羽海野チカが原案をつとめたキャラクターの表情は漫画チックにころころ変わるし、劇半も明るい。一方『残響のテロル』はうだるような暑い夏が舞台であるのにもかかわらず、明るさは感じられない。キャラクターの描き方も硬質な印象で、ポストロックのような劇伴も相まってどことなく暗く感じる。
また「普通の」少女のパーソナリティも対照的。どこか人を引き付ける明るい少女=森美咲と、社会から疎外されている(ように見える)少女=三島リサ。しかしながら、どちらのヒロインも「普通の」少女のアイコンとして読める気がする。「普通の」少女とテロリストというモチーフ。両者はこの点で共通点をもつように思えるし、そこが僕にとっては面白い。
『東のエデン』の主人公は、「日本の空気と戦う」少年、滝沢朗。彼はテレビシリーズ最終話で、主人公はテロを防ぐために戦うが、劇場版のラストではテロを予告することによって、日本の空気を変えようとした。テロという手段に訴えてはいても、滝沢朗という人間はあくまでも利他的なヒーローだという印象を受ける。作中で何度も繰り返される、持てる者の義務=ノブレス・オブリ-ジュという言葉。おしつけらてた役目とはいえ、滝沢朗は全力でそれを全うしようとした。そんな彼の行動が、森美咲という「普通の」少女を変えた。それはとりもなおさず、日本の空気すら変える可能性を示唆しているように思える。
多分『残響のテロル』の主人公たち、ナインとツエルブの行動の目的は利他的というよりは徹頭徹尾利己的なものなんじゃなかろうか。そして、偶然それと関わらざるを得なくなった三島リサの運命は、咲ほど明るくはないような気もする。利己的なテロリストは、三島を、ひいては日本をどう変えるのか。そんなところも楽しみです。