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2014/07/12

富士川英郎『鷗外雑志』

 富士川英郎『鷗外雑志』小沢書店,1983. http://id.ndl.go.jp/bib/000001634308 をようやく読みえた。富士川英郎(1909-2003)は、ドイツ文学者であるともに、江戸時代後期の漢詩の紹介に活躍し、また、文学や書物を題材にしたエッセイを多数残したことでも知られる。
 まずは目次を書き起こしておこう。


森鷗外の史傳をめぐって
『伊澤蘭軒』のこと
『伊澤蘭軒』をめぐって


森鷗外と三村竹清
森鷗外と呉秀三
森鷗外と喜田貞吉

あとがき
初出一覧

 実は、子息である富士川義之氏による『ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎』(新書館, 2014)の方を先に読み終わっていて、そちらの感想を書こうと思っていたのだが、近所の図書館でこの『鷗外雑志』があるのを発見して、うっかり読み始めてしまったのが運の尽き。富士川英郎の本は、斜め読みができない。引用と細部にこそ味わいがあるタイプの書き手なので、読むのにどうしても時間がかかってしまう。
 富士川英郎が鷗外の、特にその史伝に特別な思い入れがある、ということは、実は『ある文人学者の肖像』を読むまで認識していなかったのだが、考えてみれば、鷗外の史伝の対象は医家でもあり、英郎の父である富士川游が、鷗外と同時代を生きた医学史研究の大家であったことを考えれば、結びつきを思い浮かべないこちらが間抜けというものだろう。
 といっても、そもそも、実はまだ鷗外の史伝を読んでないんだから、気付かなくて当たり前といえば当たり前か。実は、本書で最大のページ数をとっているのは、岩波版第三次鷗外全集の月報に連載された「『伊澤蘭軒』標柱」から再構成された「『伊澤蘭軒』をめぐって」なのである。ここでは、鷗外の『伊澤蘭軒』における考証の遺漏を補い、鷗外の時代には知られていなかった関連の資料を紹介したり、鷗外の考証の誤りを、原資料を読み直すことで正していく作業が淡々と行われている。
 間抜けな話だが、本体を読まずに、標柱だけ読んだわけだ。ところが、これが案外面白い。現在と比較すれば検索ツールもほとんど整備されていない状況で、鷗外がどれだけの資料と情報を集約し、考証を進めていたのかが、その鷗外の解釈を踏まえた上で、さらに考証を深めていく富士川英郎の淡々とした筆致から、返って浮かび上がってくる、といえばよいか。
 しかも、そこに登場するのは、狩谷棭斎、屋代弘賢、大田南畝といった、江戸期の定番文人連であり、鷗外説に検討を加える森銑三だったりするのである。なんだよ、鷗外の史伝って、案外、自分の領域に近いとこだったんじゃないの、という気分が高まってくるのだが、とても注釈なしに読みこなせる自信がない。誰かどの版で読めばよいか教えてくれないものか。

 一方で、鷗外がどのように史伝に必要な情報や資料を集めていたのかを解き明かしているのが、「森鷗外と三村竹清」「森鷗外と呉秀三」といえるかもしれない。後者、呉秀三は医学ルートで鷗外と接触あっても別におかしくないよな、という感じだし(実際には、鷗外の弟の森篤二郎が、呉秀三と医学部の同窓でそこからの縁とのこと)、呉も医学史研究をやってた時期があるので、何となく納得なのだが、三村竹清には驚いた。
 竹清についての紹介は、富士川英郎の筆を借りるとしよう(漢字は新字体に改めた)。

「三村竹清は名を清三郎といい、東京の京橋八丁目の竹屋の主人であった。幼いときに両親を失い、十二歳で小学校を退学して、丁稚奉公にでたというような経歴の持主でありながら、生まれつき頭が良かったうえに、読書好きであったせいか、のちには和漢の書物にわたって、その造詣には量るべからざるものがあったという。…(中略)…その学問には別に千文がなく、江戸時代の雑学者の伝統のうえに立っていた最後のひとりで、森銑三氏は、「京伝、種彦の系統を引く江戸の雑学が、伝えられて(三村)翁に至り、そこでぷッつり切れてしまつた形である」と言っておられる。」

 富士川英郎は、残された書簡や、日記、回想などから、鷗外と竹清の交流と、二人の間で鷗外の史伝の材料となる様々な資料や情報がどのようにやりとりされたのかを、多くの引用と考証によって解き明かしている。これを読むと、図書館や参考図書、検索ツールが整備されていない状況で、どのようにして鷗外が江戸時代の人物の事細かな事跡を明らかにしていった、その過程や手法が、部分的にせよ見えてくる。
 あることがわからない場合には、知っていそうな人に片っ端から手紙を送り、本人は分からなくても知っていそうな人を紹介してもらい、またその人に手紙を書く。関連する資料があるとわかれば、それを持っている人を探し出し、借りて写しを作る。史伝の対象の遺族・子孫を探し出し、その人たちの話を採取する。そういったことを地道に鷗外は行っていたのである。
 特に人的ネットワークは強力で、呉秀三や富士川游ら、一流の学者たちが、鷗外の質問を受けて、それぞれの知識や調査結果を鷗外に送り返していた。まあ、鷗外に、これ知らない?、と聞かれたら、つい調べたくなるのもわかるような……。
 そうした人的ネットワークが大学アカデミズムの枠を飛び越え、市井の学者である三村竹清にも届いていた、というわけだ。竹清は、鷗外の質問に答えるだけではなく、新聞での史伝連載をリアルタイムで読みながら、疑問点や誤りの指摘などの手紙を随時送り、鷗外もそれに謙虚に応えていたことを、富士川英郎は淡々と紹介している。
 最後の「森鷗外と喜田貞吉」は、歴史学者喜田貞吉と鷗外との交流を紹介する小文。こちらは史伝絡みではなく、帝室博物館長時代の鷗外と、京大時代の喜田貞吉が、正倉院の曝涼の際に結んだ交流が語られ、これはこれで、博物館史的にも、歴史学史的にもちょっと面白いエピソードかもしれない。

 さて、次は『ある文人学者の肖像』の感想に手を付けたいところだけど、だんだん忘れてきてるぞ。大丈夫かなあ。

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