松本サリン事件20年:「地下鉄」防げず悔い

毎日新聞 2014年06月27日 21時52分(最終更新 06月27日 22時23分)

佐久署長の上原敬さんは、今もサリン生成の化学式を何も見ないで書ける=長野県佐久市の佐久署で、巽賢司撮影
佐久署長の上原敬さんは、今もサリン生成の化学式を何も見ないで書ける=長野県佐久市の佐久署で、巽賢司撮影

 猛毒のサリンを使い一般市民を巻き込んだ世界初のテロとされる長野県松本市の松本サリン事件が1994年に発生してから、27日で20年がたった。当時の捜査員は、オウム真理教に迫りながらも翌年3月の地下鉄サリン事件を防げなかった「悔しさ」を、今も抱えている。【巽賢司】

 ◇「犠牲、胸に刻む」…長野県警、上原さん

 「もやがかかったような、蒸し暑い夜だった」。県警捜査1課特殊捜査班の警部補だった上原敬さん(59)=現佐久署長=は、94年6月27日の夜を鮮明に覚えている。

 県警本部から急行した現場で目にしたのは、路上にうずくまる人やアパートの中で息絶えた被害者。「これはいったい何だ」。訳が分からなかった。死者8人、重軽症者は約590人に上った。

 6日後、県警は「原因物質はサリンと推定される」と発表。大学時代に農学部で生物化学を学んだ上原さんら化学の知識がある警察官約10人が集められ、極秘に薬品捜査班が編成された。上原さんは2班のうち「A班」のキャップに。名前を聞いたこともないサリンの製法や材料について、大学時代の教科書をひもとき、フランス語の文献にも目を通して勉強を重ねた。

 全国の薬品会社を飛び回り、サリン生成に必要な物質の流通ルートをたどる日々。半月後の7月中旬になって見えてきたのが、予想だにしていなかったオウム真理教の影だった。取引先として行き着いた東京にある教団のダミー会社で、捜査員は尾行や監視を受けた。報道機関などの目がまだ第一通報者の河野義行さん(64)に向いているころだ。「当初は、おかしな団体が買っているなという印象だった」

 秋ごろには教団関連の会社や個人が大量の薬品を入手していると判明。95年春前には流通ルートの全容を突き止めた。しかし「薬品の所持を禁止する法律が当時はなく、次の一歩が踏み出せなかった」という。

 そして95年3月20日、教団は地下鉄サリン事件を起こした。

 上原さんらが集めた捜査資料は、警視庁に提供された。当時の県警捜査1課長、浅岡俊安さん(73)は「化学の知識と捜査力の両方を兼ね備えた彼がいなければ、事件は解決しなかっただろう」と振り返る。一方で「指揮をする立場として、もう少し捜査が早ければと、じくじたる思いがある」と語る。

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