枕の抜け毛
カーテンの隙間からすっと差し込む陽の光。どこかから聞こえる小鳥のさえずり。ほのかな朝霧の香り。キッチンからは台所仕事にいそしむ妻の包丁の音が聞こえてくる。
朝である。
朝になると決まって行う儀式がある。ひどく憂鬱で、心が痛む。だが、辞めたいと思ってもやめられない。身体が自然にそれを行ってしまう。これで自分が傷つくのはわかっているがやめられない。まるで精神病患者の自傷行為ではないか。
枕を、見るのである。
妻が毎日カバーを替えてくれる清潔な枕。昨晩は真っ白であったそれは、今朝には異物が付着している。子どもが鉛筆で引いた落書きのような、書き物の最中に睡魔に襲われた際にノートの白紙を汚しているような、雨上がりのぬかるみからてんでに現れ、這いまわる黒いイトミミズのようなそれら。
抜け毛である。
枕カバーという真っ白なキャンバスを汚す黒い線描。抜け毛なのである。
これらは一体どこから現れたのであろうか。決まっている、私の頭皮から枕カバーへと移住を決めたのだ、彼らは。決して枕そのものから毛が生えてくることなどない。枕が私の頭からあれらを奪い去ったのだ。奪い去られた分、私の頭皮からは髪の毛が失われ、過疎が進む。
毎朝起きるたびに枕を罵倒する。
「貴様は誰の赦しを得て私の愛すべき髪の毛を奪うのだ。貴様にはそんな権利などない」
枕は応じる。
「私があなたの髪の毛を奪ったことなどかつて一度としてない。彼らは勝手に私の領土へ住まいを移してくるのだ。貴君の領地経営、いや頭皮経営に問題があるのではないか? それを私のせいにされるなど甚だ心外であるし、責任転嫁なのではないか」
私は何も言い返せない。冷たい沈黙が続く中、枕がつぶやきを洩らす。
「だいたい、あんな汚らしいものを私が欲しがることなどありえないのだ」
――キケェェェェェェェェ!
甲高い怪鳥の鳴き声が早朝の静寂を破る。一体どこから聞こえるのかと疑問に思うが、それは確かに私の喉から発せられていた。枕の如き存在、非生物に私の愛する髪の毛を、私の頭皮からすでに離れたとしてもかつて愛していた髪の毛を侮辱され、私は確かに平静を失っていた。
別れた恋人を罵倒するのを、自分であれば許せるが、他人にそれをされるのは許せない、そうした心の動きに似ているのかもしれない。
確かに裏切ったのは抜け毛側であるはずだ。戦争に喩えるならば敵前で逃亡をした脱走者。世界的に流行する愛の宗教に喩えるならばイエス・キリストを密告したユダであろう。論理的に考えればそうなる。私の冷えた理性はその判断を肯定する。
だが、感情が、心がそれを受けいれない。
理性と感情が激しくぶつかり合う軋みが奇声となって私の肺胞から大量の空気とともに漏れ出ていたのであった。
枕はもういい。私の心は、私の頭皮を去った抜け毛に囚われる。枕に刺さった毛髪を一本一本手に取り、願いを込めて頭皮に押し付ける。もちろんそれは元の居場所には戻らず、手を離すとはらりと落ちる。
はらり、はらり、はらり。
桜の散る様は美しい。だが桜から離れて散る花びらはもはや死骸なのだ。桜の散る様を愛でるのは死骸を愛でているようなものなのだとどこかの詩人が語っていたような気がする。私が抜け毛を散る様に心を動かされるのも同じようなことなのだろうか。はらりはらりと宙を舞う抜け毛はもはや死骸であり、いくら願おうと息を吹き返して私の元へと還ることはない。
気がつけば、私の頬をはらりはらりと熱い涙が流れていた。
そうだ、お医者さんに相談しよう。
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