中国の近代を切り開いた革命家・孫文が1924年、日本で行った演説にこのような文言が登場する。「中国は王道によって彼らを感化し、感動した彼らは(中国に)朝貢した」。この「彼ら」という単語は、韓国を含む周辺国を指す。「彼ら」が自ら中国を崇拝し、中国の属国になろうとしたというのだ。このとき、日本の植民地になっていた韓国のある新聞社の特派員は「なぜ韓国の独立には言及しないのか」と尋ねた。それに対し孫文は「日本でその問題を取り上げたくはない」と冷たくあしらった。日本は当時「大アジア主義」を主張する孫文の後援者の役割を果たしていた。
それから90年後、中国の指導者の歴史認識は大きく変わったようだ。中国の習近平国家主席は「壬辰倭乱(じんしんわらん、文禄・慶長の役)が起こったとき、(中国と朝鮮の)両国民は敵がい心を抱き、肩を並べて戦場に向かった」と演説した。「肩を並べ」という文言が印象的だ。孫文の演説は韓国人を怒らせた一方、習主席の演説は韓国人を喜ばせたが、歴史をひも解けばまた違った気分になる。
習主席が「肩を並べて戦場に向かった」と表現した壬辰倭乱の当時、朝鮮国王の中国観を象徴する事件が「乞内附波動」だ。「内附」とは、ある国がほかの国の中にすがりついているという意味だ。国民と国土を見捨て、中国に服属することを要請したのだ。それでも中国は、開戦当初には日本と朝鮮が結託しているのではないかと疑った。朝鮮国王は誠意を尽くして懇願したが、中国は朝鮮を日本と同じ「夷(野蛮人)」の一部と見なしていたのだ。明の派兵は朝鮮のためではなく、戦場が遼東半島にまで拡大するのを懸念し、苦肉の策として決断したものだった。中国は琉球王国(現在の沖縄)を通じ、日本の目標が中国の侵略であることを、朝鮮よりも先に把握していた。