2014年07月08日
オール・ユー・ニード・イズ・キル/トムが走れば大丈夫
オフィシャルサイト
ついさっきケイジ(トム・クルーズ)は必ずトレイラーを切り離すよう言ったのに、リタ(エミリー・ブラント)がそのまま走り出してしまったことについて何も言わないことを少しだけ気にした後で、ああケイジは既にこのルートをリピートしていてトレイラーを切り離さなくても結果は変わらないことを知っているからなのかと腑には落ちたものの、ということはトレイラーについてリタに指示したシーンとその後の逃走シーンは連続していないということになって、そうした段差を蹴散らすかのようにたたみかけるカットの目眩ましが幻惑を誘うことで『オブリビオン』とは躁鬱的な対照をみせつつも、終わらない日常による生の倦怠と死の渇望を殴り書きする実存SFなど一顧だにせず最終的にはいつもの直線勝負に持ち込んで、トム・クルーズを座長に今年のスーパー歌舞伎も見得とケレンが百花繚乱なのであった。だっていいじゃないかそれで、というかそれのどこが悪いのか、ラストでみせる笑顔の大見得に、かつてローレンス・オリヴィエがケーリー・グラントを評した「映画が始まってすぐに、この人のようになりたいと思わせることが出来る唯一の俳優」という言葉が頭に浮かんだりもしたのである。この人のエゴは表現欲求や承認欲求というよりは達成欲求とでもいう方向に向いているから、その映画製作に向かうスタンスはダム建設や巨大プラントの工事とかそういう作業に近いように思えてならないし、今のハリウッドにあってこの人くらいキャリアが生き様を追わないスターも珍しく感じるのだ。その対極にいるのが大衆演劇の雇われ座長としてキャリアを生き様として切り売りするニコラス・ケイジなのは言うまでもないけれど、スターシステムの援用と悪用それぞれに針を振り切った例としてワタシは共に信頼を切らすことがないのである。それと『第9地区』がオリジネイターというわけでもないにしろ、あの映画が持ち込んだ白日のジャンク感がSFのウェザリングの完全な主流になったのをあらためて確認したし、そう言ってみれば横山宏もあちこちそれなりにかっぱらわれてる気がするけども、そうやってヴィジョンが豊かに広がっていくことを先日ホドロフスキー先生に教えられたばかりなのであった。エミリー・ブラントは次第に広がりを失っていくストーリーの割を食ったのとブルネットを奪われたのとで上腕筋以外のアピールに至らず、『オブリビオン』でのアンドレア・ライズボローに比べると少しばかり爪痕が足りないように感じてしまった。それもこれも座長が颯爽とバイク飛ばす時間までぶんどってるからではあるにしろ。
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