鈴木です。

Google Analyticsの事やウェブマーケティング、温泉、日常生活までいろいろ勝手気ままに書いています。

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親が離婚したけど微妙


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暑くて、熱くて、身体の脂肪が溶けてくれれば嬉しいな~と思う鈴木です。

タイトルからして、我が家には関係ないのですが、少し気になった記事があったので書いてみたいと思います。

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親が離婚したけど幸せ

親が離婚したけど幸せじゃない - トラねこの巻

この2つの記事を読んで、「幸せ」と「幸せじゃない」があったので、そういえば、自分の親も離婚しているけど、離婚した結果、幸せだったか幸せじゃなかったかと聞かれれば、微妙・・・と答えるかな?と。

自分の家の場合は、自分が高校3年の時だったし、姉兄がいるが2人とも既に就職していたので、それほど経済的な負担が無かったと言えば無かったのですが、まあ、貧乏でした。

姉は家にお金を入れてましたが、兄は家にお金を入れてませんでしたし。
自分は高校生なので、当然家にお金は入れられませんが、学費以外は全部アルバイトで賄っていました。学費と言っても公立高校だからそれほど大きな負担にはなっていなかったと思います。姉も公立高校、兄だけ私立で一番金銭的には家に負担をかけていましたね。

今から20年ほど前の愛知県なので、解る人は解ると思いますが一般的にある程度の学力だと、公立高校へ。公立高校に行けない学力だと私立へ。

2つの記事の相反する内容

この2つの記事で一番相反するところは、父親が養育費を払ったか払わなかったか?という事で大きく区分出来ると思います。

自分の家も養育費は払わない父でした。

自分の場合、父がキチ◯イ アル中で酒グセが悪かったのが離婚の原因でした。

飲んで暴れて、被害妄想が激しく、警察を呼んだ事は数知れず。

職場で喧嘩してきて、バツが悪くて仕事を何日も休んだり、転職したりを繰り返す父でした。

被害妄想が酷くて、働かない父の代わりに母がパートに出かけようとしても、母のパートを浮気だ!と思い込んで、母のパート先に怒鳴りこんでいって、母が働けなくなるという事が何度も。パート先を言わなくても、父は仕事を休んで後をつけてパート先を調べたりと、はた迷惑な父でしたね。

おかげで、母もパート先が徐々に限られて言って、余計に貧乏に。
酔えば、包丁を持って暴れる父を抑えるけるため、あまり刃物で脅されても怖くなくなったというメリットもありますね(笑)

中学時代から体格及び腕力が父を上回ったので、自分には絶対に手を出さない小心者の父でした。ターゲットは母と姉。

姉弟から母に早く別れた方が良い!と何度も忠告していました。自分が小学生高学年の時には母に別れなよと言っていたのを覚えています。それでも別れなかったのは、母がそれでも父の事を好きだったのかな?と大人になってから思いましたね。

離婚後も母と父は会ってましたし。

父がまともに字が書けない人だったので、それを見かねた母がいろんな書類を書いてあげていたとも言えますが。

なお、小学生高学年の自分は、少しませていて、好きな番組は火曜11PMのうさぎちゃんコーナーであり、読んでいた雑誌は「ファンロード」と「映画の友」と、とても小学生には思われない子どもでした。当時、近所の小さな本屋さんに気に入られていて、遊びに言って本をよく読んでましたね。星新一とか薦められましたけど、まったく読みませんでした(^^; 映画の友を読んでいた時は怒られました。

で、自分の場合は、両親が離婚してから、元々お金の無い家でしたので、経済的には変わりませんでした。

母が就職したのですが、ある程度年がいってからの就職なので、それほど良い給料な訳では無く、ただ父の給料とほとんど変わらず(しょっちゅう休んでましたからね)、生活レベルは離婚前も離婚後も変わらないという状態でした。

ただ、父に悩まされる事が無くなった分、精神的には楽になりましたね。

ここで、父が養育費を入れなかったりした場合、後は本当に母親次第な部分はありますね。パートでどうにかするのか、水商売でどうにかするのか、就職してどうにかするのか。

問題は、父が養育費を出すか出さないかではなく、父でも母でもその後、経済的に子どもに負担をかけずに出来るかどうか?という事だと思います。

知り合いの女性で、2人子どもがいて、子どもがまだ小学校低学年と幼稚園児だった時に離婚しましたが、仕事は続けていたので(当時、超一流会社)、養育費なしで育てただけでなく、自分で家まで建てた人もいます。

これは特殊な事例かもしれません。それに、経済的な事は子どもにどうにか出来るものでは無いので、本当に劣悪な条件・環境の場合は、どうしようも無いですね。まだ自分は恵まれていたのかもしれません。

住居

住居は、母が就職した会社が建築関係の会社でその会社で作った賃貸マンションに入ったので、綺麗なマンションでした。3DKに4人だったので、兄と同じ部屋でしたが、まあ、我慢出来ました。兄が夜勤が多かった事も良かったのかもしれません。

服は買っていたな

お金が無かったのですが、割りと体格が良い事から知り合いの店で中学からバイトをしていたので、それほど自分でお金に困る事なく、服は自分のバイト代でユニクロとかイトーヨーカドー、ユニーで買っていました。

姉が居たので(姉は割りとモテる)、姉に服を選んでもらったりしていました。なので、そんなに外したファッションはしていなかったと思います。

安い服を如何にセンスよく見せるか!と結構、説教気味に話されたのは良い思い出です。ただ、如何せん、自分自身にファッションセンスが無いので姉は苦労したようです。

学費は無い

同じく大学進学しましたが、お金が無いので、奨学金を借りていきました。これは一緒かな。大学の学費は当時一番安い都内の私立の大学で年40万くらい。これは奨学金でどうにかなりました。文系だったのもまだ良かったのかも。理系だともっと学費高いでしょうし。

ただ、1人暮らしで仕送りなしなのでバイトは常にしていましたね。そのおかげで、大学に滅多に行きませんでしたが(^^; だから大学5年間も行く事に。

ただ1人暮らしを始めるにもお金がかかるので、1年浪人してお金を貯めて、足りない分は姉に援助してもらいました。

おかげで未だに姉には頭が上がりませんm(__)m

奨学金の返済で最初の婚期は逃したかもしれません。

父から何も教われない 事も無かった

これはほぼ一緒かな。でも、父には反面教師として教わったかな。
それと、調理師(みたいなもの)だったので、料理の仕方は幼い頃に、機嫌の良い時の父に教えてもらっていましたね。これは高校になってから、レストランのバイトを始めた時に、役立ちました。筋が良いと褒められて、調理させてもらえましたから。

勉強は、姉に少し教えてもらいましたが、理数系が弱い姉なので国語がメインに。
ただ、理数系に関しては中学までは大して勉強していなくても、それなりに良い成績は取れていたので、問題なし。

尊敬出来るかどうかは別ですが、いろんな事を教えてくれる大人は中学からバイトをしていたおかげで、非常に多く、いろんな事を学べました。
もっとも、飲食・肉体労働系のバイトがメインなので、ホワイトカラーの大人と接する機会は、あまりありませんでした。肉体労働系では経営者の方も一緒に働いていたりするので、「会社っていうのはだな~」と語りだして学べる部分はありました。

大人になってから、その時言われた事を今でもたまに思い出します。

会社のトップって言うのはだな~、先頭きって働くか、責任は全部取るか、どっちか出来れば良いんだよ。後は従業員が困らない程度に給料渡せれば、どうにかなるもんだ。

今にして思えば、的を得た事を教えてもらっていたと思います。

まとめ

親が離婚したけど微妙だったという事。結局、変わったのは父がいなくなった事で、落ち込むほどの年齢でも無かったし、経済的にも変わらなかったし。

ただ、包丁が飛び交うのが無くなった事で精神的に楽になったな。

ただ、両親が離婚しても自分の気持ちの持ち方、考え方次第でどうにかなるかな?と。ただ、幼い場合は、それを理解するまでが大変だと思います。

高校3年の夏休みの事だったので、2学期からは母方の名字にして登校しましたが、クラスメイトから誰も何も言われなかったし。

もっとも、父の旧姓、母の旧姓、共に鈴木でしたから、誰も気付かなかっただけですけどね(笑)

生粋の鈴木です、はい。

ご清聴ありがとうございましたm(__)m

嫁テロなくて、すいませんm(__)m いや、いらないのか?!