日本未来の党を壊した政治家

剛腕小沢一郎

日本未来の党に、小沢一郎氏が率いる「国民の生活が第一 」と合流した時に、なぜ小沢氏となんだ?といったことが取り上げられました。そして嘉田由紀子氏は小沢一郎氏の言いなりになり傀儡になるだろうとも言われました。そんな批判を受けて「小沢一郎さんを使いこなせずに官僚を使いこなすことはできません。」と語りましたが、残念ながら小沢一郎氏を使いこなすことは出来ず、分党になりわずか1ヶ月の日本未来の党になりました。

「壊し屋小沢一郎」といわれるだけあり、今まで所属した党をあげてみましょう。27歳の若さで衆議院選挙で初当選をして、田中角栄の薫陶を受け「田中角栄をおやじ」とまで呼ぶほどの関係を背景に、どんどん自民党で勢力を拡大して竹下・金丸氏とともに、自民党の中で実質的な実力者まで上り詰めています。47歳という若さで自民党の幹事長に就任するほどでした。この時には、首相を凌ぐ権勢に集金力から「剛腕」とも呼ばれるようになりました。

小沢一郎氏が所属した政党は、最初の自由民主党⇒新生党⇒新進党⇒自由党⇒民主党⇒国民の生活が第一⇒生活の党 となっています。分裂したり与党に復帰したりと、ここまで動いて政治はできるのか?!と思えるほどに移っています。

自由民主党時代

小沢一郎氏は表舞台に立つよりも、裏で剛腕をふるうイメージが強くありますが、1度だけ入閣しています。それは1985年(昭和60年)の時で、第2次中曽根内閣第2次改造内閣でした。この時には自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣しています。入閣した当時43歳でしたが、27歳で衆議院として初当選してから16年経っているため、同期に当選した議員の中で比較すると、小沢氏の入閣は比較的遅い入閣となりました。

若手・中堅議員時代

1969年(昭和44年)に、小沢一郎氏の父親、小沢佐重喜の急死に伴って第32回衆議院選挙に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補して、27歳の若さで初当選しています。この第32回衆議院総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄氏でした。そして小沢氏は、佐藤栄作→田中角栄派(周山会→七日会・木曜クラブ)に所属して、田中角栄氏からの薫陶を受けました。

そしてこの頃、派内で若手議員の世話をしていたのが、当時は中堅議員だった金丸信氏です。この金丸氏と小沢氏はこれから、後々まで続く師弟関係の始まりになりました。ちなみに、小沢氏は初当選して間もない頃に甲状腺癌を患っているため、一時期は声が出なくなったため、政界引退も考えたといいますが、甲状腺癌は手術により完治しています。

1982年(昭和57年)に、自民党の総務局長に就任しています。そして1983年(昭和58年)に行なわれた第13回参議院選挙では、比例区での順位付けを担当した際に、「現職優先」を主張した中曽根たちに対して、党員党友の集め具合であったり後援会の規模といったデータを駆使して、20位以内に新人を9人送り込むという筋論を押し通しました。そして、その後行われた中選挙区の時の、京都府第2区の2人欠員による衆院補選に際して、執行部内では2人擁立を避けて1人擁立に留める意見が大勢を占めていたが、小沢氏は2人擁立論を主張しています。そして谷垣禎一氏と野中広務氏の2名を擁立して、絶妙な票割りで2人とも当選することになりました。このことに関して中曽根氏からは「まるで名医の手術を見ているようだ」と絶賛されています。

その後には、衆議院議院運営委員長を歴任して、1985年(昭和60年)に初入閣しています。そしてこの初入閣した年に木曜クラブの領袖として、自民党内に影響力を保持していた田中角栄氏に反旗を翻した竹下登氏・金丸信氏たちと共に派内の勉強会「創政会」を結成します。そして結成から2年後の1987年(昭和62年)に「経世会」として独立しました。

竹下派時代

竹下派の中では、小沢氏の先輩にあたる小渕恵三氏・橋本龍太郎氏たちとともに、「竹下派七奉行」の一人に数えられました。そして竹下登氏の総裁就任に奔走しています。そして1987年(昭和62年)に発足した竹下内閣では内閣官房副長官に就任しています。

この時には「消費税導入」といった日本の税のあり方が大きく変わった税制改革があったため、国会審議の目処がたたない中で、小沢氏は「事実上の国対委員長」と呼ばれるほどに、野党対策に尽力して、民社党を審議と採決に応じさせることに成功しています。こうして自民党内での評価を高めるとともに、この時期は竹下内閣での日米間の建設市場開放協議や、宇野内閣での電気通信協議といった困難な交渉を取りまとめたことで、アメリカ政府関係者にも小沢氏は「タフ・ネゴシエーター」としてその名前を知られるようになりました。ちなみに、宇野内閣期には経世会の事務総長に就任しています。

竹下派の、その中でも特に金丸氏の意向から、47歳という若さで自民党の幹事長に就任していますが、これが平成元年(1989年)8月に、第1次海部内閣が成立したときのことでした。もちろん小沢氏は金丸氏の強烈な推薦での就任です。自民党の幹事長に就任したことで、金丸氏・竹下氏と並んで、与党政権の実質的な実力者となったため、ねじれ国会という中で公明党などといった野党とのパイプを駆使して国会対策にあたりました。

リクルート事件後にあった初の総選挙では、自民党の苦戦が予想されていましたが、1990年(平成2年)の第39回衆議院選挙を、見事に乗り切ります。「自由主義体制の維持」ということを名目にして、経団連(経済団体連合会)傘下の企業から選挙資金となる300億円を集めての勝利でした。この年の8月に、湾岸戦争が勃発すると、小沢氏はペルシャ湾に自衛隊を派遣することを模索しました。この時には派遣に反対する外務省は「アジアへの配慮が必要」と反対していますが、ハト派の海部俊樹首相の慎重論を抑えて、この法案を提出させています。ちなみにこの時提出された法案は、野党からの反対で廃案になっています。そして後に、国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律、すなわちPKO協力法が成立しています。

湾岸戦争のときの自衛隊派遣の断念と引き換えに行われた巨額の資金援助は、巨額の資金援助をしたにもかかわらずアメリカ側から謝意が述べられなかったという事態も併せているため、左右両派から強く批判されています。この頃は「ミスター外圧」とも呼ばれたマイケル・アマコスト駐日大使が、日本の海部首相を飛び越えて小沢氏であったり金丸氏と、直接協議することが常態化していました。実際にアマコスト駐日大使は、海部首相よりも小沢氏と会った回数のほうが多いとも言われています。日米構造協議では、大蔵省から強い反対があったにもかかわらず、公共投資を10年間で430兆円にすることで妥結していますが、これも金丸・小沢・アマコスト駐日大使の3者が、政府に先立って事前に金額に到るまで協議していたため、この3者で既に話をつけていたといいます。

このように、首相を実際に凌いだ権勢に集金力から『剛腕小沢』と称されました。9月に金丸氏を代表とした北朝鮮訪問団(金丸訪朝団)に参加しています。大韓民国の盧泰愚大統領が来日した際には、党役員会で強制連行などの戦後補償問題が話し合われた時に「これ以上何を謝ればいいんだ。」と、韓国側への補償を拒絶したとも取れる発言したと報道されていて、そのときには左派系団体から反発を呼んでいます。

自衛隊海外派遣といった大きな懸案を抱える中で、国会はねじれ国会という中、円滑な政権運営を行うためには野党の協力が必要といこともあって、国対族の金丸氏のつてで小沢氏は公明党と民社党に接近しています。公明党・民社党との協力の一環として、東京都知事選がありました。この東京都知事選挙では、自民党東京都総支部連合会が推している現職の鈴木俊一氏に代わって、新人の磯村尚徳氏を擁立しています。ところが、当時の自民党都連幹部が現職の鈴木氏を支援したこともあって、擁立した磯村氏は落選しています。

この都知事選公示直前には、都知事選への出馬に意欲的だったアントニオ猪木と会談して、アントニオ猪木氏へ出馬することを断念させていますが、その際には多額の金銭が動いたと一部メディアに報じられています。小沢氏が指揮した統一地方選挙全体では、自民党が勝利していますが、小沢氏は海部首相に自ら申し出て、都知事選の責任を取るため自民党幹事長を辞任しています。幹事長の辞任は公明党・民社党に義理を立てた形にもなっていえるため、自公民路線の維持に寄与したほか、後の非自民連立政権におけるワン・ワン・ライスという「小沢一郎・市川雄一・米沢隆」後に新進党を結党する3人組みをの伏線にもなりました。

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