"ドキュメント"に出る・・・「501」遺文@
ドキュメントAVに出演します。タイトルは「501」。僕は来月、そこで生きます。
ドキュメントAV・・・・・。
過去何本、僕は出演しただろうか?
現在入手可能そうなものをざっと挙げてみると・・・。
V&Rプロダクツ
「ジーザス栗と栗鼠スーパースタースペシャル」シリーズ
「ブラックジーザス栗と栗鼠スーパースター」シリーズ
「口虫暴力」シリーズ
「糞尿家族ロビンソン」シリーズ
「ザーメン死亡遊戯 深田愛」
ブリット
「AVアイドルを舞台に上げてヤジとイジメで犯しまくる2」
「同3 持田茜」
ベイビーエンターテイメント
「素人娘お嬢様系 恥辱の公開色責め6」・・・一応僕の監督作。
V(ヴィ)
「しりとり中出し浣腸侍」
「しりとり緊縛侍」
ATOM
「M(女)1-グランプリ」
ディープス
「クイズレイプショック」シリーズ
SOD
「輪姦中出し調教1」
「同2」
これだけ?
いや、違う。全然違う!
DVD以前の所謂レンタルビデオ全盛時代。
"アダルトビデオ"と呼ばれていた、ネットも携帯もなかった時代。
僕の仕事のほぼ半数はドキュメントだった。
そしてほとんど、僕は女優を泣かせていた。
いや、AVとは、本来全てドキュメントではないのか?
僕はそう信じている。感じるようにしている。
何しろ本当にヤるのだ。
SEXするのだ、フェラチオするのだ、放尿するのだ、中に口に、アナルに出すのだ、男と女が・・・生身の人間同士が・・・。
演技では出来ない。
演技である必要もない。
人間なら誰でも出来る。
生きていれば、どんな人でも出来る。
男でも女でも、バイでも・・・獣でも出来る。
それぞれの性があるから。
無限の桃源郷が存在しているから。
これがドキュメントでなくて何であろうか?
仕事?絡み?表現?パフォーマンス?芸術・・・・?
そんなはずはない。
断じてそんなことがあり得るはずがない。
だって人間なのだから。
この世で自然に生きているはずの人間のやることなのだから。
仕事でSEXするのに、女優?
好きでもない相手との絡みで、本気で感じる?イく?
表現、パフォーマンス・・・人前でやることか?見せることか?
芸術?
ただのHが。
他人のスケベが。
愛し合ってもいない牡と牝が・・・。
どうして、どうやって・・・そんなことが出来る?
やっていいのか?
本当にいいのか?
許されるのか?
間違ってないのか?
そんなことして・・・。
僕はこういう時代に生きてきた。
こんな世代の男優だった。
仕事の八割は擬似。
本番どころではない、ゴムフェラ、指入れは第一関節まで、発射はスポイト、キスNG・・・・。
それがAVだった。
大半のアダルトビデオだった。
誰もがそう信じて、何も疑わなかった。
だからAVは全てドキュメントだったのだ。
無名の企画本番女優も、NGまみれの単体女優も、彼女達は自分をさらしていた。
自分の条件、自分の感性、自分の哲学、自分の常識、そして自分のプライド・・・それらを堂々とカメラの前で提示して、己の存在を問うていたのだ。
ワタシはここまで出来ます。
ワタシはここまでしかやりません。
それが、私です。
誰でもないワタシというAV女優です。
僕はその都度、与えられた枷の中で彼女達に向かい合った。
それは大袈裟ではなく、ひとつの真剣勝負だった。
格闘技。
ルール?のある、本気の喧嘩。
殺されるかもしれない、殺してしまうかもしれない、危険なスポーツ、いや見世物・・・。
もちろん殺したことなんてない。
だが、いつも泣かせていた。
泣きじゃくらせていた。
激昂させていた。
ブチギレさせていた。
殴られたこともある。
引っ掻かれたこともある。
噛みつかれたこともある。
唾を吐きかけられ、髪を引き抜かれ、顔を蹴り飛ばされ、「殺してやる!」と、罵られたこともある。
毎度のこと・・・。
それがAVだった。
あの時代にAV男優として生きた、僕にとってのアダルトビデオだった。
そんな僕が久々に"ドキュメント"AVに出演する。
わざわざ"ドキュメント"と銘打たなければ誰にも伝わらない、昨今のエロビデオ業界。
誰のせいでもない。
AVは今や、完璧なまでにファンタジー空間。
ドキュメントなんて求められていない。
ユーザーは自分さえヌければ、まったくそれでいい。
自分だけが人間として自涜出来れば、作り手など、他人など、どうでもいい。
女優も男優も、まして監督も、そのための道具、マシーン、オブジェ・・・ただの記号?
それでいいのだ。
それこそがエロビデオなのだ。
間違いない、本当のズリネタなのだ。
結果、僕の仕事は激減した。
僕みたいな男優は不要になった。
僕は道具という名のプロになれず、マシーンに徹する技術もなく、オブジェたるべき才能もなく・・・。
僕はもう半分以上、AV男優ではない。
時代錯誤の、忘れられた、化石にすぎない。
それも納得はしている。
僕にとってAVはやはりドキュメントだから。
どこまでもドキュメントとしてしか入り込めないから。
そうだとしか死ぬまで、信じられないから・・・。
こうして僕のドキュメントAVが始まろうとしている。
僕だけではない。
監督にとっての、女優にとっての、参加者にとっての・・・。
ひょっとしたら、誰ひとりとして、自分のことしか考えていない?
それがドキュメントだ。
何よりまず、撮る側と、撮られる側だけの世界、それこそが人間のドキュメントだ。
撮影まで、あと一か月。
いや、すでに一人ひとりの中では始まっている。
考えられている。
生まれようとしている。
各自の哲学が、条件が、感性が、常識が・・・そしてプライドが・・・。
僕はただの落ちぶれた男優です。
売れなくなった死にぞこないの、中年禿です。
とっくに希望も純粋さも、可能性も野心も、男であること、オスであることさえ・・・諦めかかったような、イジケ者です。
けれど、僕はそこから始めるしかありません。
己のドキュメントをその立ち位置から、現実から、宿業から、歩き出して、這い出していくしかありません。
今月で53歳になりました。
いつ死んでもおかしくありません。
これが最期のAVになっても、今さら何の悔いもありません。
それが運命なら。成り行きなら。
僕自身という、あらかじめ定められた、ドキュメントなら。
それが人間というものの、、どうしようもない、ありのままであると信じて・・・いや、諦めて。
僕は「501」に生きます。
多分、無様に生きます。
あなたは生きていますか?
情けなくて、寂しくて、虚しくて、それでも生きていますか?
あなただけの、"ドキュメント"を・・・・。
詳細は、僕のツィッター内でのドキュメントAV「501」(ビーバップみのる監督)に関する呟き をご覧下さい。
ドキュメントAV・・・・・。
過去何本、僕は出演しただろうか?
現在入手可能そうなものをざっと挙げてみると・・・。
V&Rプロダクツ
「ジーザス栗と栗鼠スーパースタースペシャル」シリーズ
「ブラックジーザス栗と栗鼠スーパースター」シリーズ
「口虫暴力」シリーズ
「糞尿家族ロビンソン」シリーズ
「ザーメン死亡遊戯 深田愛」
ブリット
「AVアイドルを舞台に上げてヤジとイジメで犯しまくる2」
「同3 持田茜」
ベイビーエンターテイメント
「素人娘お嬢様系 恥辱の公開色責め6」・・・一応僕の監督作。
V(ヴィ)
「しりとり中出し浣腸侍」
「しりとり緊縛侍」
ATOM
「M(女)1-グランプリ」
ディープス
「クイズレイプショック」シリーズ
SOD
「輪姦中出し調教1」
「同2」
これだけ?
いや、違う。全然違う!
DVD以前の所謂レンタルビデオ全盛時代。
"アダルトビデオ"と呼ばれていた、ネットも携帯もなかった時代。
僕の仕事のほぼ半数はドキュメントだった。
そしてほとんど、僕は女優を泣かせていた。
いや、AVとは、本来全てドキュメントではないのか?
僕はそう信じている。感じるようにしている。
何しろ本当にヤるのだ。
SEXするのだ、フェラチオするのだ、放尿するのだ、中に口に、アナルに出すのだ、男と女が・・・生身の人間同士が・・・。
演技では出来ない。
演技である必要もない。
人間なら誰でも出来る。
生きていれば、どんな人でも出来る。
男でも女でも、バイでも・・・獣でも出来る。
それぞれの性があるから。
無限の桃源郷が存在しているから。
これがドキュメントでなくて何であろうか?
仕事?絡み?表現?パフォーマンス?芸術・・・・?
そんなはずはない。
断じてそんなことがあり得るはずがない。
だって人間なのだから。
この世で自然に生きているはずの人間のやることなのだから。
仕事でSEXするのに、女優?
好きでもない相手との絡みで、本気で感じる?イく?
表現、パフォーマンス・・・人前でやることか?見せることか?
芸術?
ただのHが。
他人のスケベが。
愛し合ってもいない牡と牝が・・・。
どうして、どうやって・・・そんなことが出来る?
やっていいのか?
本当にいいのか?
許されるのか?
間違ってないのか?
そんなことして・・・。
僕はこういう時代に生きてきた。
こんな世代の男優だった。
仕事の八割は擬似。
本番どころではない、ゴムフェラ、指入れは第一関節まで、発射はスポイト、キスNG・・・・。
それがAVだった。
大半のアダルトビデオだった。
誰もがそう信じて、何も疑わなかった。
だからAVは全てドキュメントだったのだ。
無名の企画本番女優も、NGまみれの単体女優も、彼女達は自分をさらしていた。
自分の条件、自分の感性、自分の哲学、自分の常識、そして自分のプライド・・・それらを堂々とカメラの前で提示して、己の存在を問うていたのだ。
ワタシはここまで出来ます。
ワタシはここまでしかやりません。
それが、私です。
誰でもないワタシというAV女優です。
僕はその都度、与えられた枷の中で彼女達に向かい合った。
それは大袈裟ではなく、ひとつの真剣勝負だった。
格闘技。
ルール?のある、本気の喧嘩。
殺されるかもしれない、殺してしまうかもしれない、危険なスポーツ、いや見世物・・・。
もちろん殺したことなんてない。
だが、いつも泣かせていた。
泣きじゃくらせていた。
激昂させていた。
ブチギレさせていた。
殴られたこともある。
引っ掻かれたこともある。
噛みつかれたこともある。
唾を吐きかけられ、髪を引き抜かれ、顔を蹴り飛ばされ、「殺してやる!」と、罵られたこともある。
毎度のこと・・・。
それがAVだった。
あの時代にAV男優として生きた、僕にとってのアダルトビデオだった。
そんな僕が久々に"ドキュメント"AVに出演する。
わざわざ"ドキュメント"と銘打たなければ誰にも伝わらない、昨今のエロビデオ業界。
誰のせいでもない。
AVは今や、完璧なまでにファンタジー空間。
ドキュメントなんて求められていない。
ユーザーは自分さえヌければ、まったくそれでいい。
自分だけが人間として自涜出来れば、作り手など、他人など、どうでもいい。
女優も男優も、まして監督も、そのための道具、マシーン、オブジェ・・・ただの記号?
それでいいのだ。
それこそがエロビデオなのだ。
間違いない、本当のズリネタなのだ。
結果、僕の仕事は激減した。
僕みたいな男優は不要になった。
僕は道具という名のプロになれず、マシーンに徹する技術もなく、オブジェたるべき才能もなく・・・。
僕はもう半分以上、AV男優ではない。
時代錯誤の、忘れられた、化石にすぎない。
それも納得はしている。
僕にとってAVはやはりドキュメントだから。
どこまでもドキュメントとしてしか入り込めないから。
そうだとしか死ぬまで、信じられないから・・・。
こうして僕のドキュメントAVが始まろうとしている。
僕だけではない。
監督にとっての、女優にとっての、参加者にとっての・・・。
ひょっとしたら、誰ひとりとして、自分のことしか考えていない?
それがドキュメントだ。
何よりまず、撮る側と、撮られる側だけの世界、それこそが人間のドキュメントだ。
撮影まで、あと一か月。
いや、すでに一人ひとりの中では始まっている。
考えられている。
生まれようとしている。
各自の哲学が、条件が、感性が、常識が・・・そしてプライドが・・・。
僕はただの落ちぶれた男優です。
売れなくなった死にぞこないの、中年禿です。
とっくに希望も純粋さも、可能性も野心も、男であること、オスであることさえ・・・諦めかかったような、イジケ者です。
けれど、僕はそこから始めるしかありません。
己のドキュメントをその立ち位置から、現実から、宿業から、歩き出して、這い出していくしかありません。
今月で53歳になりました。
いつ死んでもおかしくありません。
これが最期のAVになっても、今さら何の悔いもありません。
それが運命なら。成り行きなら。
僕自身という、あらかじめ定められた、ドキュメントなら。
それが人間というものの、、どうしようもない、ありのままであると信じて・・・いや、諦めて。
僕は「501」に生きます。
多分、無様に生きます。
あなたは生きていますか?
情けなくて、寂しくて、虚しくて、それでも生きていますか?
あなただけの、"ドキュメント"を・・・・。
詳細は、僕のツィッター内でのドキュメントAV「501」(ビーバップみのる監督)に関する呟き をご覧下さい。