ポケット・ミクeVY1シールドの登場で注目されるヤマハの音源チップ、NSX-1。DTMステーションで、これまでも「eVocaloidが搭載されると同時にGM音源、XG相当のエフェクトも搭載されている」として何度か紹介してきました。でも、NSX-1にはもう一つ、とてつもない破壊力を持った音源が搭載されています。

それがRASReal Acoustic Soundというもの。まさにアコースティック楽器のサウンドをリアルに表現するという音源なのです。現時点では、まだRASが使える機器は発売されていませんが、近いうちにこれを使った製品が登場するとのこと。とはいえ、実際に動いているのを見てみないことには、なかなかピンと来ないので、浜松駅からクルマで30分ほどのところにあるヤマハの研究開発部門に伺って話を聞いてみました。


NSX-1に搭載された音源、RASとはどんなものなのか、ヤマハの研究開発部門に聞いてみた! 


具体的な話の前に、まずは以下の2つのビデオをご覧ください。





ともに、iPhone上で動作する著名アプリ、Finger Pianoで弾いたものを、そのままMIDI出力して、NSX-1へ送り、RASで演奏させたものです。見てもわかる通り、演奏自体は、超ド素人という感じなのに、ハーモニカにしてもサックスにしても、出てくるサウンドがカッコよすぎますよね。「これ、いますぐに欲しい!」という人も多いのではないでしょうか?

その製品自体については、今後のお楽しみとして、ここではNSX-1のRASとはどんな技術で成り立っているのかを見ていきます。今回、ヤマハでお話を伺ったのは研究開発統括部 第1研究開発部 部長の田邑元一さん、DMI開発統括部 第2開発部の大野京子さん、そして半導体事業部 開発部の村上隼也さんの3名です。


90年代に行った研究に関する資料や実験ノートの一部などを持ってきてくれた田邑さん 

もともとRASの原点となる研究をスタートしたのは1996年末。田邑さん、大野さんのほか、ミュージシャンを交えたごく数名で「もっと楽器の奏法(アーティキュレーション)に対応した新しい音源を作ろう」と研究を始めたのだとか。確かにサンプリングした音をただ弾いただけではリアルな演奏になりません。先ほどのビデオのグリッサンドのように楽器特有の奏法が組み合わさって初めてホンモノっぽくなる、というアプローチでの研究だったわけですね。

当時、アルトサックスやバイオリンでの演奏をサンプリングしたデータをもとにして、MacのAlchemyというソフトを使って、ひたすら切ったり、貼ったりを繰り返していました。なかなか難しい作業でしたが、徐々にノウハウを蓄積するとともにシステム化を図っていったのです」。

と話すのは田邑さん。たとえば同じバイオリンでも奏法によって、波形はいろいろあるので、それを分類したり、いくつのサンプリングデータを用意すればいいのだろうか……と試行錯誤を繰り返したそうです。でも単に波形を切って繋いでも、うまくいかないし、サンプリングのためにミュージシャンが演奏したのと同じ曲を再現しようとしても、なかなかうまくいかなかった、とのこと。


アーティキュレーションを電子楽器で再現する研究の過程で特許なども数多く取得したという 

「VOCALOIDは周波数軸での処理をしていますが、こちらは最初から時間軸での処理で行っていました。でも、ただの切り貼りだと絶対につながらない。時間軸的にどうすればキレイにつながるのかを研究していった結果、少しずつ分かってきて、その過程で膨大な特許を取得したりもしたんですよ」(田邑さん)

その研究過程で、一度プレイバック型とリアルタイム型の方式に分化させたこともあったようです。VOCALOIDでもそうですが、実際の音符より前から発音がスタート(または準備)しているものもあるので、正確に奏法を再現するには「先送り合成」が必要ということで、プレイバック型があったというわけです。当初はPCを使ってシミュレーションを行っていたけれど、2003年ごろに組み込み型のシステムとして開発し、その際、プレイバック型の優先度を下げてリアルタイム型中心のシステムにしていったそうです。


 研究スタート当初から参加し、現在もAEM全般に関わっているという大野さん

このときのシステムをAEMArticulation Element Modelingと名付けたのですが、これを搭載した最初の製品が、ディスクラビアMark4。2004年1月にアメリカで行われたNAMM SHOWで発表したのです。ただ、これはまさにコンピュータで制御する大掛かりなシステムだったため、もっと一般的な楽器に搭載できるようにしたいと、既存音源であるAWM音源への移植を行っていったのです」と大野さんは振り返ります。

AWM音源って、ヤマハのごく一般的なPCM音源のことですが、ここに搭載するということに、違和感というか、不思議な感覚を覚えるのですが、この点について田邑さんは、
AEMとして行っていたのは、特殊なサンプリングを行うというのではなく、アーティキュレーションを再現するということ。当初は、かなり試行錯誤しましたが、これまでに得たノウハウを組み合わせることで、AWM音源でも十分に活用できることが分かったのです。確かに、それまで開発してきたものとはシステム的にはまったく異なるため、技術資産はすべて捨て、ゼロベースで作り上げていきました」と話します。

普通PCMでのサンプリングデータというと、ループデータもあれば、ワンショットもあるわけで、その波形をピッチを合わせた上でキレイに繋ぎ合わせるのって、かなり難しそうに思えるのですが、信号処理のノウハウやツール側のトリックによって、位相も含めてうまく同期できるように仕上げていったのだそうです。


ヤマハが2008年に発表し、海外での販売を行ったAEM搭載のデジタルワークステーションTyros3(ヤマハ海外サイトより) 

このようにしてAWM音源を利用して作り直したAEM、これを2008年にTyros3というデジタルワークステーションに“Super Articulation 2”という機能名で搭載させたのです」と大野さん。

でもTyros(タイロス)って、あまり聞いたことがない機材名ですが、調べてみると日本では販売されておらず、海外で出ている結構高価なキーボードで、演奏重視の楽器のようですね。


最新のTyrosであるTyros5。これも国内では販売されていない(ヤマハ海外サイトより) 


その後2010年にTyros4、2013年にTyros5という製品を出しており、それぞれにAEMが搭載されているのです。実際そのTyros5で演奏したジャズ・フルートのデモ演奏が、以下のビデオです。

  

と、ここまでの話は、AEMについてでしたが、これがNSX-1のRASとどのように関係するのでしょうか?その先を引き継いでいったのが、半導体事業部の村上さんです。社内にあるAEMという技術を何とか開発中のNSX-1に落とし込めないかと考え、まずは大野さんの元に弟子入りしたんだとか……。


NSX-1へのAEM実装を担当した村上さん

最初にTyrosを体験するところからスタートしました。非常に強力な音源であることは分かりましたが、すごいシステムなだけに、物理的にまったく同じことをNSX-1という小さなチップで実現するのは不可能です。最大の問題点は波形サイズ。NSX-1に入れるとしたら、波形サイズを大幅に落とす必要があるし、Tyrosに載っている波形すべてを持ってくるのは、無理がありました」(村上さん)

波形サイズを大幅に落とす必要があるというのは、eVocaloidと同じですよね。

だったら、チップ内に波形すべてを搭載するのではなく、音色を1つに絞った上で、外部からNSX-1へダウンロードする形にすればいいのではないか、と考えました。またAEMでは1つの音色につき、数百という素片があるのですが、素片自体の数も減らし、素片のサイズも圧縮することで、容量を1/8~1/7程度まで縮めたのです。ただし、音質は落としたくなかったので44.1kHzのサンプリングレートは保ちました」と村上さんは話します。

このようにして生まれたのがRASというわけなのです。したがって、厳密にはAEMとは異なるものですが合成の仕組み自体は同じ。また同時に扱えるのは1音色のみであり、これとGM音源を組み合わせて使うことになるようです。

現在のところRASの音色としてヤマハでは30種類ほど用意しているそうですが、すべてがAEM=Super Articulation 2に対応したものではなく、リッチな音色のPCM音源なども含まれているそうです。たとえば、先ほどのビデオで紹介したハーモニカやサックスのほかにもナイロン弦のアコースティックギターの音色などもあり、その演奏を撮影したのが以下のビデオです。



eVocaloidを使った製品ではポケット・ミクがeMIKU、eVY1シールドがeVY1の歌声ライブラリのみを搭載しているように、RASを使った製品もサックス専用音源とか、ギター専用音源のようになるかもしれないし、音色切り替えが可能な製品が出てくるかもしれませんが、それはNSX-1を組み込むメーカーの仕様次第です。

ただし、RASとeVocaloidを同時に鳴らすことはできない模様です。

NSX-1の中にはRASのエンジンとeVocaloidのエンジンを別ものとして持たせていますが、NSX-1内のメモリ容量に限界があるためどちらか一方のみの使用が可能です」」(村上さん)とのこと。いずれにせよ、RASは非常に魅力的な音源です。ぜひ、これに対応した製品が早く登場してくれることを期待したいところです。