ハローインターネッツ!この記事は 「思考」 についてチャって書いた記事ですよ。
ふいんき←なぜか変換できない。
的を得るという表記をブログやSNSで見るたびに、嗚呼という気持ちでいっぱいでした。君は的欲しかったんやと。
▲的ゲットのイメージ
そういう時に物知り顔でちみちみぃとかってしゃしゃり出ていいことなんか何一つないことを経験的に知っているので、まあ、嗚呼ッて感じでスルーなんですけどね。
と同時に、こういう風(この記事のよう)にいやいやいやみたいな書き口で斜め上スタンスウェイウェイで凸をカマすときにかぎって詰めが甘くてスライディング喰らって無様に転ぶことも織り込み済み。
的を得るとは (マトヲエルとは) [単語記事] – ニコニコ大百科
【逆転】「的を得る」:「誤用説は俗説」と事実上決着へ: BIFFの亜空間要塞
的を射ると的を得る。同じ意味ですか、それとも違う意味。 教えて下さい。 – Yahoo!知恵袋
さて、冒頭の「嗚呼」のくだりに戻りますけど、どうして嗚呼なのかとえば、的って、射たり、打ったりするものじゃないの?と僕には思えるからです。的得てどうするのと。
僕はシティーハンターじゃないので地下の射撃場で訓練して的打ったりはしません。なによりシンプルに的ほしくありません。
ここでふと思ったんですけど、2014年を生きる僕は、的ほしくありませんけど、昔の人は的欲しかったんじゃないのかなぁ。と。
野球選手がホームランボールを記念にとっておくように、昔の弓矢の人達は、的ほしかったんじゃないの?って。
▲昔の人(イメージ)
▲的が欲しかった場合のイメージ
それ以来僕は「的を得る」と見ても、嗚呼って思うことをやめました。
っていうか、どっちでも良くなりました。
物事には二面性があって、何かを正しいと信じ、間違っていると断じる時、また自分にも同じ刃が向けられているシンプルな構造に気がついてないと、ヤバイなと。
とはいえ、自分が表記するときは的を射るのほうが無難だと思います。無難って大事ですね。あらぬ誤解であったとしても嗚呼って思われるのは癪ですからね。