ほう太パパの七転び八起き

妻にナイショのブログじゃありません。

自己犠牲を美徳とする実母と、ほぼ真逆の妻の話。

ぼくの母は自己犠牲を美徳とする母であった。(あ、いまも生きてます)物心がついてからの約30年間、ぼくは母ほど自己犠牲をよしとする人間を見たことがない。と書いちゃうとそれはあんたの母だから息子の目から見たらそうだよね、なんて声が聞こえてきそうだけれども、それを差し引いてもぼくの母は自己犠牲のひとだった。

 

ぼくは母の、これがしたい、なんて言葉を聞いたことがない。例えば外食に行ったとする。母は自分の食べたいメニューを注文しない。常に父や息子(ぼく)が好きなものを考え、自分の注文したメニューの一部をあげることを念頭において注文をする。もしくは単純に価格を見て遠慮している面もあったかもしれない。母は専業主婦で、だから自分はかせいでいないというようなことを冗談交じりに口にしていたから。もちろん父もぼくも母が家事をがんばってくれている(それも神経質なほどに)ことはよく分かっていたので、なにをそんなこと言ってるのという声をかけていたけれども、いつのまにかそういうのもわずらわしくなった。

 

そう、ぼくはわずらわしくなったのだ。母の自己犠牲的な言動に。

いや、もちろん感謝はしている。だけども何十年もそばにいればやはり食傷気味になる。あなたが元気でいてさえいれば私は幸せなのよ、という言葉でさえ素直に受け取れなくなってしまった。

母は、ぼくがこの年になって小説家になることを夢見ていることを知っている。するとまた、芥川賞作家の受賞インタビューや、仕事をしながら新人賞を取った人の話など、そういう新聞の切り抜きをことあるごとにぼくに渡してくるのだ。これがまた、なんともわずらわしい。

 

ああ、なんだか自己犠牲の話からそれたような気もするけれど、やっぱり無関係ということでもなくて、息子の幸せを自分の幸せとごちゃ混ぜにしているあたりに、もしかするとぼくはなじめていないのかもしれない。ぼくの正直な気持ちとしては母に幸せになってもらいたいのだけれど、それはぼくが幸せかどうかそういうこととは関係なくね。でもまあ、ぼくも二児の父となってそんな単純に割り切れない気持ちもよく分かるようになった。子どもの幸せはやはり自分の幸せだ。

 

自己犠牲的な精神の母は、他人の迷惑になることを極端に忌避する。端から見ていると非常に生きにくいようにさえ見える。自分はひとりでいるのが一番楽、などと言いながら、他人の目をとても気にしている。ひとりでいるのが好きだけれども、それは他人なんてどうでもいいということと同一ではないというのが難しいところ。

 

さてさてそんな母に育てられたぼくが結婚した女性というのが、ぼくのブログを日々読んでくださるかたであればすぐに分かっていただけると思うけれども、まあものの見事に自己犠牲の精神がないというか、母と真逆の女性だった。

 

あ、自己犠牲の精神がないなんて書くとすごく悪く聞こえるかもしれないけど、決してそんなことはない。ぼくは妻のそういう面に光明を見いだしているほどなのだ。

妻は自分が幸せでいることが、自分が無理をしないでいることが、結果的に子どもたちの幸せにつながると考えているように見える。少なくともぼくにはそう見える。

だから育児においても、いろんな有料サービス、母であれば決して利用しないようなもろもろを惜しげもなく使う。ご飯も作らない。そのくせぼくの作る料理には海原雄山のようなことを言ってくる。(あ、話がそれた)もちろんそこには時代背景とか取り巻く環境だとかいろんな要因があるけれども、それを深く考察することが目的ではないので、いまはしない。とにかくぼくの母と妻は考え方がまるでちがうということ。

 

ぼくは妻と結婚するときから、妻と母の180度では言い尽くせないほどのちがいを目の当たりにしていたから、ああ、我が家の嫁姑問題はとんでもない修羅場を迎えるかもしれないとひそかに思っていた。思っていたけど、結婚した。

 

ところが結婚してからまる5年。修羅場は一度も訪れていない。

妻はよく、冗談交じりに「お義母さんはすっごいがまんしてるだろうね」なんていうけれど、そうかもしれないし、そうでないのかもしれない。母に確認する気もない。

ただ妻は、意外なことにぼくの母にストレスを感じていない、少なくともぼくにはそう見える。

自己犠牲の母が、事あるごとに妻に洋服をプレゼントしてくる。それを「やった、ラッキー」と素直に受け取ることができる妻なのだ。なんだか真逆の性格が、そのでこぼこした感じが、まるでパズルのピースのようにちょうどよくはまってるようにも見える。

もしくは、母と妻の存在する次元がちがいすぎて、互いの牽制が少々あったとしても空振っているのかもしれない。あと、なんだかんだで母はぼくらの育児に口を出してこないことも大きいのだろう。よくよく考えれば、あの母が我を通してぼくらの育児に口を挟むようなことをするはずもないのだ。たとえ腹の底ではいろんな思いがあったとしても。

 

というようなとりとめもない話を、勢いにまかせて書いてみたいという思いにかられた今日でした。おしまい。

 

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