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児童文庫の中でも、とくに話題にあがりやすい「角川つばさ文庫」。
角川らしいイラストレーターの起用などが、今までにあった「児童文学」のイメージを崩しているから、なのだとは思いますが、果たして、角川つばさ文庫は児童文学でしょうか?
児童文学の定義というのは、じつのところ定まっていません。
唱える人によって、定義が違うものです。
もちろん、分野によっては固定されているものもありますが、当の出版業界、児童文学作家業界での定義はあいまいです。
wikiなどを見ればくわしく分かりますが、定義の大まかなものは次の通り。
1、子どものために書かれた本
2、子どもによって書かれた本
3、子ども向けに選ばれた本
4、子どもによって選ばれる本
日本の児童文学の定義で、一番多いのは、1と3ではないでしょうか。
ただし、日本の場合は海外の定義と違い、かなりひねくれた側面を持ちます。
というのも、利権が多分に絡むためです。
3,40年前にさかのぼると、3の「子供向けに選ばれた本」が、圧倒的な隆盛を誇っていました。
なぜか?
シンプルな話です。
そういうふうに、業界団体で仕組みをつくっていたからです。
この場合の業界団体というのは、出版社サイドというわけではありません。
読書を仲介する側、つまり子供に本を直接提供する立場の人たちです。
教師であったり、地域の子供たちに図書を勧める役割を担う人だったり、ですね。
時期的に考えてもらたいのですが、この時期というのは、まさに
真っ赤な時代いいいいいいいい
的に、真っ赤なものが影響にあった時期です。
……ええ、怖いから言葉を濁しました。
べつに批判しようとは思いません。ただ事実として、仲介者である人たちが、思想を持って選択していたのですから、その点はおさえておかなければいけません。
このとき、なにが起きるかといえば、売れるためには、もっといえば、作家が生きていくためには、こういった人たちに受けのいい児童文学を書く必要がありました。
この人たちの目をすり抜けて、子供たちに、直接届けるということができた作家は、山中恒など、ごく一部の作家だけです。
ちなみに、この山中恒の代表作がイラストを変えて、角川つばさ文庫のラインナップに入っています。
さて、話を戻します。
このときに、児童文学は仲介者という箱を通り抜けなければ、子供たちの手に届かない状態にありました。
なぜそんなことを、作家たちは許していたのか? という疑問があるでしょう。
その疑問に答えるのならば、簡単にいえば、あまりにも仲介者の権力が強かったこと、そしてそのシステムが強固であったこと、作家にとっても悪い話ではまったくなかったこと、が挙げられます。
夏休みの読書感想文に、課題図書というのが選ばれるのは、知っていると思います。
書きたくもないのに、私も読まされ、書かされたものです。
この課題図書システムこそが、ドル箱システムでもあったわけです。どういうことかといえば、課題図書に決まると、教師がこういいます。
「夏休みの宿題の読書感想文は、課題図書から選ぶこと」
全国の教師がこの一言を言うだけで、課題図書はバカ売れします。面白いとかつまらないとか、関係ありません。それが宿題なんですから。
昔は、課題図書に決まれば、作家は家が一軒建つと言われたほどです。
それほど、課題図書には権威があったわけです。そして、その権威をつくりだしていたのは、仲介者です。
儲けのシステムとしては、素晴らしいと思いますが、まったく子供たちの意思は考慮されていません。実際、私も読みたくもないものを、このせいで読まされたわけですから。素晴らしい本と出会ったのならいいのですが、このシステムは、個々の読書能力をまったく考慮していません。同じ学年といっても、面白いと思うものや読めるものの差は大きいのです。
私が最初に読書嫌いになったのも、このシステムのせいです。
そして、みなさんが認識している多くの児童文学は、この児童文学ではないでしょうか?
しかしながら、このシステムにも限界が来ます。
そもそもの母体が、真っ赤なことからきている以上、真っ赤な時代が終わってしまえば、権威も失われます。
今、課題図書に決まっても、低学年向けはそこそこに売れますが、ほかの学年では家どころか、プレハブが建てばいい程度ではないでしょうか。
こんなふうに仲介者が急速に力を失って、児童文学は危機に瀕します。
なぜか?
今までは仲介者の顔色をうかがっていればよかったのに、それができなくなったからです。
今まで通り書いても、子供たちは見向きもしない。
それはそうです。今まで嫌々読まされていたものを、読まなくてもいいよ、と言われれば当然読むわけありません。
今、課題図書は逆に人気作家を課題図書にすることで、なんとか権威を維持しているように見えます。
立場が逆転してしまったんですね。
そんな流れで出てきたのが、上で挙げた4の「子どもによって選ばれる本」という考え方です。
もちろん、子供に読んでもらいたい、という意思も介在しますが、子供にとって楽しい本の存在が認められました。
それまでは、子供を楽しませる本というのは、悪書扱いだったわけですから、大きな進歩です。
その流れの中、朝の読書という教育方針が学校で始まりました。
これが大きな意識改革の始まりです。
最初こそは、学校の図書館にある本しかダメ、といったことがあったようですが、段々規制がゆるくなっていき、自分の好きな本を持ってきて読む時間、という形になっていきました。
そこで勢力を伸ばしてきたのが、「児童文庫」という媒体です。
安価で、子供たちも喜んで読み、読書の習慣がつく。
学校で借りるのも限界があると、家庭で本を買わなければならない場面も出てきます。
そうしたとき、安価であったり、せっかく買うのだから子供が喜ぶ本を、というのは重要な条件でした。
また、学校図書館も態度を軟化していきます。朝の読書で子供たちが借りたい本を、入れておかないと、司書は仕事をしてないように思われます。
司書の方は、名作の海外の児童文学などを読んでもらいたい、という思いもあるはずですが、子供たちにとって、まず絵柄からして、海外名作は古くさくなってしまったんですね。しかも、翻訳も昔風の文章だったりする場合もあります。
それは読書慣れしていない子供たちには、敷居が高い。
そのニーズに答えたのが、児童文庫による、海外名作に今風のイラストをつけ、新訳などで読みやすくしたものの出版です。
話を最初にもどしましょう。
角川つばさ文庫は児童文学か? 答えはYESでありNOです。
「子どもによって選ばれる本」は、一般的な児童文学の定義になっていないからです。
ですから、児童文庫のオリジナル作品を書く作家たちは、児童文学とは言いません。
児童小説、児童読み物と言います。
児童文庫は、ここ20年ぐらいで飛躍的に伸びたジャンルです。
それは、今までの児童文学ではなく、「子どもによって選ばれる本」という新しいジャンルです。
まだ、定義も呼び名も定まっているとは言えません。
これからさらに成長していくのか、衰退していくのかもわかりません。
ただ、児童文庫の出版点数は、児童書全体の15%程度です。
まだまだ多くの児童文学が出版されており、児童文学自体、旧来の呪縛から解き放たれ、自由な作品が多く生まれつつあります。
児童文庫をつかまえて、最近の児童文学は変わった、とは言えないのです。
これからの児童書は、児童文学と児童文庫、二つの車輪で動いていくことになるでしょう。
長く抑制されてきた児童文学と、新しく生まれた児童小説。
どちらも、まだまだ描かれていない未開拓な方向性が多いジャンルです。
これから、その両輪がどういう方向に突き進むのか。
それがこれから児童書が生き残っていけるかどうかの、鍵になるのかもしれません。
角川らしいイラストレーターの起用などが、今までにあった「児童文学」のイメージを崩しているから、なのだとは思いますが、果たして、角川つばさ文庫は児童文学でしょうか?
児童文学の定義というのは、じつのところ定まっていません。
唱える人によって、定義が違うものです。
もちろん、分野によっては固定されているものもありますが、当の出版業界、児童文学作家業界での定義はあいまいです。
wikiなどを見ればくわしく分かりますが、定義の大まかなものは次の通り。
1、子どものために書かれた本
2、子どもによって書かれた本
3、子ども向けに選ばれた本
4、子どもによって選ばれる本
日本の児童文学の定義で、一番多いのは、1と3ではないでしょうか。
ただし、日本の場合は海外の定義と違い、かなりひねくれた側面を持ちます。
というのも、利権が多分に絡むためです。
3,40年前にさかのぼると、3の「子供向けに選ばれた本」が、圧倒的な隆盛を誇っていました。
なぜか?
シンプルな話です。
そういうふうに、業界団体で仕組みをつくっていたからです。
この場合の業界団体というのは、出版社サイドというわけではありません。
読書を仲介する側、つまり子供に本を直接提供する立場の人たちです。
教師であったり、地域の子供たちに図書を勧める役割を担う人だったり、ですね。
時期的に考えてもらたいのですが、この時期というのは、まさに
真っ赤な時代いいいいいいいい
的に、真っ赤なものが影響にあった時期です。
……ええ、怖いから言葉を濁しました。
べつに批判しようとは思いません。ただ事実として、仲介者である人たちが、思想を持って選択していたのですから、その点はおさえておかなければいけません。
このとき、なにが起きるかといえば、売れるためには、もっといえば、作家が生きていくためには、こういった人たちに受けのいい児童文学を書く必要がありました。
この人たちの目をすり抜けて、子供たちに、直接届けるということができた作家は、山中恒など、ごく一部の作家だけです。
ちなみに、この山中恒の代表作がイラストを変えて、角川つばさ文庫のラインナップに入っています。
さて、話を戻します。
このときに、児童文学は仲介者という箱を通り抜けなければ、子供たちの手に届かない状態にありました。
なぜそんなことを、作家たちは許していたのか? という疑問があるでしょう。
その疑問に答えるのならば、簡単にいえば、あまりにも仲介者の権力が強かったこと、そしてそのシステムが強固であったこと、作家にとっても悪い話ではまったくなかったこと、が挙げられます。
夏休みの読書感想文に、課題図書というのが選ばれるのは、知っていると思います。
書きたくもないのに、私も読まされ、書かされたものです。
この課題図書システムこそが、ドル箱システムでもあったわけです。どういうことかといえば、課題図書に決まると、教師がこういいます。
「夏休みの宿題の読書感想文は、課題図書から選ぶこと」
全国の教師がこの一言を言うだけで、課題図書はバカ売れします。面白いとかつまらないとか、関係ありません。それが宿題なんですから。
昔は、課題図書に決まれば、作家は家が一軒建つと言われたほどです。
それほど、課題図書には権威があったわけです。そして、その権威をつくりだしていたのは、仲介者です。
儲けのシステムとしては、素晴らしいと思いますが、まったく子供たちの意思は考慮されていません。実際、私も読みたくもないものを、このせいで読まされたわけですから。素晴らしい本と出会ったのならいいのですが、このシステムは、個々の読書能力をまったく考慮していません。同じ学年といっても、面白いと思うものや読めるものの差は大きいのです。
私が最初に読書嫌いになったのも、このシステムのせいです。
そして、みなさんが認識している多くの児童文学は、この児童文学ではないでしょうか?
しかしながら、このシステムにも限界が来ます。
そもそもの母体が、真っ赤なことからきている以上、真っ赤な時代が終わってしまえば、権威も失われます。
今、課題図書に決まっても、低学年向けはそこそこに売れますが、ほかの学年では家どころか、プレハブが建てばいい程度ではないでしょうか。
こんなふうに仲介者が急速に力を失って、児童文学は危機に瀕します。
なぜか?
今までは仲介者の顔色をうかがっていればよかったのに、それができなくなったからです。
今まで通り書いても、子供たちは見向きもしない。
それはそうです。今まで嫌々読まされていたものを、読まなくてもいいよ、と言われれば当然読むわけありません。
今、課題図書は逆に人気作家を課題図書にすることで、なんとか権威を維持しているように見えます。
立場が逆転してしまったんですね。
そんな流れで出てきたのが、上で挙げた4の「子どもによって選ばれる本」という考え方です。
もちろん、子供に読んでもらいたい、という意思も介在しますが、子供にとって楽しい本の存在が認められました。
それまでは、子供を楽しませる本というのは、悪書扱いだったわけですから、大きな進歩です。
その流れの中、朝の読書という教育方針が学校で始まりました。
これが大きな意識改革の始まりです。
最初こそは、学校の図書館にある本しかダメ、といったことがあったようですが、段々規制がゆるくなっていき、自分の好きな本を持ってきて読む時間、という形になっていきました。
そこで勢力を伸ばしてきたのが、「児童文庫」という媒体です。
安価で、子供たちも喜んで読み、読書の習慣がつく。
学校で借りるのも限界があると、家庭で本を買わなければならない場面も出てきます。
そうしたとき、安価であったり、せっかく買うのだから子供が喜ぶ本を、というのは重要な条件でした。
また、学校図書館も態度を軟化していきます。朝の読書で子供たちが借りたい本を、入れておかないと、司書は仕事をしてないように思われます。
司書の方は、名作の海外の児童文学などを読んでもらいたい、という思いもあるはずですが、子供たちにとって、まず絵柄からして、海外名作は古くさくなってしまったんですね。しかも、翻訳も昔風の文章だったりする場合もあります。
それは読書慣れしていない子供たちには、敷居が高い。
そのニーズに答えたのが、児童文庫による、海外名作に今風のイラストをつけ、新訳などで読みやすくしたものの出版です。
話を最初にもどしましょう。
角川つばさ文庫は児童文学か? 答えはYESでありNOです。
「子どもによって選ばれる本」は、一般的な児童文学の定義になっていないからです。
ですから、児童文庫のオリジナル作品を書く作家たちは、児童文学とは言いません。
児童小説、児童読み物と言います。
児童文庫は、ここ20年ぐらいで飛躍的に伸びたジャンルです。
それは、今までの児童文学ではなく、「子どもによって選ばれる本」という新しいジャンルです。
まだ、定義も呼び名も定まっているとは言えません。
これからさらに成長していくのか、衰退していくのかもわかりません。
ただ、児童文庫の出版点数は、児童書全体の15%程度です。
まだまだ多くの児童文学が出版されており、児童文学自体、旧来の呪縛から解き放たれ、自由な作品が多く生まれつつあります。
児童文庫をつかまえて、最近の児童文学は変わった、とは言えないのです。
これからの児童書は、児童文学と児童文庫、二つの車輪で動いていくことになるでしょう。
長く抑制されてきた児童文学と、新しく生まれた児童小説。
どちらも、まだまだ描かれていない未開拓な方向性が多いジャンルです。
これから、その両輪がどういう方向に突き進むのか。
それがこれから児童書が生き残っていけるかどうかの、鍵になるのかもしれません。
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