2014.07.10
上野千鶴子。イケメン崇拝の先駆者。反知性主義者。
上野千鶴子はフェミニストということになっているが、女性がキャリアウーマンとして社会進出していくことには興味がないと思われる。エリート女性が官公庁や大企業の幹部になるべきだとか、そういうことには関心がない。上野にとって最大の関心はセックスの充実であり、あの見てくれの悪さでありながら、女であることを売ってきた人間なのである。男を馬鹿にする言動で知られるが、あくまでモテない男への砲撃であり、上野は完全なイケメン崇拝者である。
上野千鶴子は開業医の娘なので、おそらく裕福に育ったと思われるが、まったく育ちのよさは感じられず、粗野な精神の持ち主であった。京都大学に進学したが、団塊世代なので、学生運動に明け暮れたようである。また性的にも奔放だったようだ。上野は昆虫のような顔をしているが、デブではないので、若ければ抱けないこともないのだろう。絶望的なドブスでも、若くて痩せていれば(自分と釣り合いが取れない)イケメンに抱いて貰えるという知恵を付けた最初の世代だと言える。イケメンと結婚するのは無理だが、セフレなら可能だという、現代の女性全般に蔓延する考えである。
日本では女性の社会進出が遅れていると盛んに批難されるが、そもそも本気でエリートになりたい女性がどれだけいるのか、という問題がある。若い女であればチヤホヤされイージーモードであるのも確かであり、女性が差別されているようには思えない。少なくとも上野千鶴子は女のイージーモードに乗っかったのである。ドブスで理屈っぽいからエリート志向だと勘違いされるが、決して知性を極めようとするタイプではない。たまたま東大教授になったが、学者として見るべき業績はなく、学問に生涯を捧げるような人間でもない。
家父長制は、要は、単に父親である(男である)というだけで威張ることが出来るので、その資質は問われないから、それが批判されるのはもっともではあるのだが、その思想運動の実践は、未来の夫を蔑みながらイケメンに股を開くことであり、極左冒険主義の極みなのである。上野千鶴子は決して知性の探求者ではないので、こういう人物が、男女の在り方の枠組みに影響力を発揮してしまったのが日本の不幸である。なにしろ、若い女がイージーモードすぎるので、女性が知力を高める動機がないのである。セックスこそが人生という快楽原則が女という愚衆の中で跋扈しており、それが知性への強いニヒリズムに繋がっている。どんなに出世しても女として魅力が上がらないから意味がないというさもしい発想である。女が損得を超えた気高い志を持つのは可能であろうか、という問題である。
天才の童貞率の高さはよく知られるところだ。カントやアダム・スミスのように生涯童貞として学問に全てを捧げた人間は男性なら普通にいる。女を欲し、悍馬のように荒れ狂う熱情があるとしても、その達成が困難であるならば、それを学問や芸術に捧げるのが天意であるとして、生殖の連環から廃嫡された自分を知性の探究に捧げたのである。天才にホモセクシャルが多いのも、その拭いがたい引け目により、芸術や学問にすべてを捧げるしかなかったからである。アラン・チューリングは同性愛で逮捕された二年後に青酸カリを塗った林檎を囓って自殺したが、その41年間の短い生涯で、ドイツ軍のエニグマの暗号を解読し、コンピューター科学の基礎を築いた。ヴィトゲンシュタインが大富豪の家に生まれながらも哲学に殉じたのは同性愛者だったからである。三島由紀夫という無名作家はわざわざ大蔵官僚をやめて自分がホモだと告白する小説を書いて時代の寵児となったが、同性愛者ならではの孤独が作品の基底を成している。日常性に絶望し、殉教者になろうと決断した時に天才は生まれるのである。
35歳を過ぎたような女は生命の円環から断絶されているので、本来なら天才になりやすい条件なのだが、なにしろ若い頃にイケメンセックスで骨抜きにされているから、本当の意味での深い絶望がなく、閉経間近なのに子育て支援しろとか、若さを失ってもイージーモードの継続を求める。その35歳独身に至るまでの病歴を閲覧すれば、花嫁として輿入れするには疵がありすぎるのが明らかなのだが、末期患者としての自覚がないようで、生殖から暇乞いをする前の断末魔として、不妊症を詐称するのがせいぜいである。
知性を探究する気がさらさらないのだから、日本は女性に門戸を閉ざしているとわめいても、それは死刑囚の助命嘆願のようなものであり、人倫の問題として厚かましいのである。上野の「おひとりさま」というのも、要は快楽主義なのである。殉教者として戦塵にまみれる気はまったくなく、ひたすら快楽を増やす方法だけ考えている。問題なのは上野千鶴子が特殊事例ではなく、日本女性の典型的な生き方となっていることである。イケメンは生涯通してモテるが、女は若い時だけモテる難題に対して、若いうちにやりまくるという回答が上野千鶴子の乱杭歯から発せられたのである。この猛毒が全身に回ると、どのような血清も効かない。世帯やつれのするような年齢でも女子と言い張るのである。
上野千鶴子は開業医の娘なので、おそらく裕福に育ったと思われるが、まったく育ちのよさは感じられず、粗野な精神の持ち主であった。京都大学に進学したが、団塊世代なので、学生運動に明け暮れたようである。また性的にも奔放だったようだ。上野は昆虫のような顔をしているが、デブではないので、若ければ抱けないこともないのだろう。絶望的なドブスでも、若くて痩せていれば(自分と釣り合いが取れない)イケメンに抱いて貰えるという知恵を付けた最初の世代だと言える。イケメンと結婚するのは無理だが、セフレなら可能だという、現代の女性全般に蔓延する考えである。
日本では女性の社会進出が遅れていると盛んに批難されるが、そもそも本気でエリートになりたい女性がどれだけいるのか、という問題がある。若い女であればチヤホヤされイージーモードであるのも確かであり、女性が差別されているようには思えない。少なくとも上野千鶴子は女のイージーモードに乗っかったのである。ドブスで理屈っぽいからエリート志向だと勘違いされるが、決して知性を極めようとするタイプではない。たまたま東大教授になったが、学者として見るべき業績はなく、学問に生涯を捧げるような人間でもない。
家父長制は、要は、単に父親である(男である)というだけで威張ることが出来るので、その資質は問われないから、それが批判されるのはもっともではあるのだが、その思想運動の実践は、未来の夫を蔑みながらイケメンに股を開くことであり、極左冒険主義の極みなのである。上野千鶴子は決して知性の探求者ではないので、こういう人物が、男女の在り方の枠組みに影響力を発揮してしまったのが日本の不幸である。なにしろ、若い女がイージーモードすぎるので、女性が知力を高める動機がないのである。セックスこそが人生という快楽原則が女という愚衆の中で跋扈しており、それが知性への強いニヒリズムに繋がっている。どんなに出世しても女として魅力が上がらないから意味がないというさもしい発想である。女が損得を超えた気高い志を持つのは可能であろうか、という問題である。
天才の童貞率の高さはよく知られるところだ。カントやアダム・スミスのように生涯童貞として学問に全てを捧げた人間は男性なら普通にいる。女を欲し、悍馬のように荒れ狂う熱情があるとしても、その達成が困難であるならば、それを学問や芸術に捧げるのが天意であるとして、生殖の連環から廃嫡された自分を知性の探究に捧げたのである。天才にホモセクシャルが多いのも、その拭いがたい引け目により、芸術や学問にすべてを捧げるしかなかったからである。アラン・チューリングは同性愛で逮捕された二年後に青酸カリを塗った林檎を囓って自殺したが、その41年間の短い生涯で、ドイツ軍のエニグマの暗号を解読し、コンピューター科学の基礎を築いた。ヴィトゲンシュタインが大富豪の家に生まれながらも哲学に殉じたのは同性愛者だったからである。三島由紀夫という無名作家はわざわざ大蔵官僚をやめて自分がホモだと告白する小説を書いて時代の寵児となったが、同性愛者ならではの孤独が作品の基底を成している。日常性に絶望し、殉教者になろうと決断した時に天才は生まれるのである。
35歳を過ぎたような女は生命の円環から断絶されているので、本来なら天才になりやすい条件なのだが、なにしろ若い頃にイケメンセックスで骨抜きにされているから、本当の意味での深い絶望がなく、閉経間近なのに子育て支援しろとか、若さを失ってもイージーモードの継続を求める。その35歳独身に至るまでの病歴を閲覧すれば、花嫁として輿入れするには疵がありすぎるのが明らかなのだが、末期患者としての自覚がないようで、生殖から暇乞いをする前の断末魔として、不妊症を詐称するのがせいぜいである。
知性を探究する気がさらさらないのだから、日本は女性に門戸を閉ざしているとわめいても、それは死刑囚の助命嘆願のようなものであり、人倫の問題として厚かましいのである。上野の「おひとりさま」というのも、要は快楽主義なのである。殉教者として戦塵にまみれる気はまったくなく、ひたすら快楽を増やす方法だけ考えている。問題なのは上野千鶴子が特殊事例ではなく、日本女性の典型的な生き方となっていることである。イケメンは生涯通してモテるが、女は若い時だけモテる難題に対して、若いうちにやりまくるという回答が上野千鶴子の乱杭歯から発せられたのである。この猛毒が全身に回ると、どのような血清も効かない。世帯やつれのするような年齢でも女子と言い張るのである。
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