July 9, 2014
アルカイダから分派した「イラク・シリアのイスラム国」(ISIS)あるいは「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)と呼ばれるスンニ派アラブ人の武装組織が、イラクのチグリス・ユーフラテス川沿いの広い範囲を制圧してバグダッドへと南下している。こうした動きはすべて、シリアとイラク、ひいてはずっと遠いアジアとアフリカにイスラム教のカリフ国家を建設するという大きな目的に向けたものだ。かつて「文明のゆりかご」と称されたこの地域は、十数世紀にわたって大きな変動を経験してきた。7世紀にイスラム教がスンニ派とシーア派に分裂し、それから1200年を経ても両派の溝は広がるばかりだった。そして、近代のイラクは列強の間で取引の対象となった。
◆初期のカリフ国家
スンニ派が支配するイスラム教のカリフ国家という概念は、7世紀から13世紀の2つの帝国までさかのぼる。ウマイヤ朝とアッバース朝だ。カリフ国家とは、カリフと呼ばれる宗教と政治両方のリーダーに率いられたイスラム教国家を意味する。スンニ派は、自分たちの指導者は預言者ムハンマドの政治的後継者の中から選ばれるべきだと信じており、世襲によらないこのような選良の後継者が「カリフ」として知られる。一方シーア派は、自分たちの指導者はムハンマドの直系の子孫から出るべきだと信じている。この分裂は今日まで続いており、イラクで起こる宗派間暴力の決定的な要素となっている。
◆初期のカリフ国家
スンニ派が支配するイスラム教のカリフ国家という概念は、7世紀から13世紀の2つの帝国までさかのぼる。ウマイヤ朝とアッバース朝だ。カリフ国家とは、カリフと呼ばれる宗教と政治両方のリーダーに率いられたイスラム教国家を意味する。スンニ派は、自分たちの指導者は預言者ムハンマドの政治的後継者の中から選ばれるべきだと信じており、世襲によらないこのような選良の後継者が「カリフ」として知られる。一方シーア派は、自分たちの指導者はムハンマドの直系の子孫から出るべきだと信じている。この分裂は今日まで続いており、イラクで起こる宗派間暴力の決定的な要素となっている。
◆オスマン帝国
16~17世紀には、スンニ派が主導し、現在のトルコを本拠地とするオスマン帝国が最大版図に達し、ヨーロッパ南部、アジア、北アフリカの広大な領域を支配した。オスマン帝国は複数の言語と宗教を認め、現在のイラクに当たる地域を3つの区画に分割。クルド人はモスル、シーア派はバスラ、スンニ派はバグダッドに定住した。オスマン帝国は、後に続くイギリス同様、やがてイラクとして知られるようになるこの地域の大部分をスンニ派に支配させて維持しようとした。
◆第1次世界大戦の戦後処理
第1次世界大戦後、オスマン帝国を含む複数の帝国が終わりを迎えた。世界平和の維持を責務として新たに設立された国際連盟は、旧オスマン帝国を分割し、前記の3区画を一つにまとめて英国の支配下に置いた。これにより、実質的に現代のイラクの国境線が引かれた。シーア派、スンニ派、クルド人はこの計画に不満を抱き、初めて団結して英国の植民地支配に対し反乱を起こしたが、完全な独立を勝ち取れたのは1932年だった。その後数十年の王制や共和制時代を通じて、スンニ派が政治の中心的地位を占めた。1979年以来、サダム・フセインが大統領の地位にあったのもその一つだ。
◆フセイン政権の転覆
2003年に米国がイラクに侵攻し、数十年続いたサダム・フセイン体制を崩壊させた。その後に起こった激しい暴動で4000人以上の米国人が死亡し、イラク人の死傷者は数十万人に上った。2006年には、暴動はスンニ派とシーア派の内戦へと泥沼化の様相を見せた。同年、シーア派のヌーリ・アル・マリキ(Nouri al-Maliki)氏が選挙の結果首相に就任し、イラクでシーア派が政治的支配力を持つというこれまでにない体制となった。スンニ派は退陣を求めており、現在マリキ政権への暴力的な反発の一因となっている。
◆ISISの台頭
今年に入り、シリアを拠点とするアルカイダの一派が、シリアとイラク両国にまたがるイスラム国建国を目指してイラクに流れ込んだ。実現すれば、第一次世界大戦後に西欧から押し付けられた国境線は事実上消えることになる。この数週間、ISISと呼ばれるスンニ派アラブ人の民兵組織が、バグダッドへと急速に軍を進める中で重要な資源を掌握し、大量の処刑を行った。スンニ派が支配するイラク北西部ではISISはほとんど反撃に遭っていないが、シーア派が多数を占める南部へ進攻すれば、大規模な流血の惨事が起こると予想される。
MAP BY NG STAFF. SOURCE: INSTITUTE FOR THE STUDY OF WAR