30歳も半ばを越えているが、最近とにかくセックスがしたい。
したくてしょうがない。
セックスに強く囚われている。
囚われ過ぎ、苦しんでいる。
まるで思春期のようだ。
思春期と書いてみたものの、実際にはその当時、
そんなことには苦しんでなかったね。
もちろんガンガンやれてたわけはななく。
その当時は、同級生との関係性のなさに苦しんでいたように思う。
男子校だったけど、友達いなかったな。
休み時間に話す相手もいなかった。
まあ、話したいことがあったわけじゃなかったけど。
でも、話す相手は欲しかったな。
で、とにかく今は、セックスがしたくて苦しんでいる。
正確には、セックスがしたいのに、まったくありつけないことにイライラしている。
とにかく強く突きたい。
攻撃性をもてあましているだろうか。
仕事の抑圧が表出しているのだろうか。
シンプルに考えれば、お金を払って処理すれば済む話ではあるが、
それは腰が重い。
財布片手にチョロチョロ出かけて行くことで、
すっきり発散できる欲望でないことには気づいている。
そこで、浮かんだこと。
もっと丁寧に考えてさ、本当は何を求めてんのかな?
セックスであるが、セックスそのものではない。
求めているのはセックスの向こうに透けて見える、誰かとの関係性。
関係性の獲得、構築だろう。
それらが可能なことを実感したいわけだ。
それらを可能にする技術、魅力を自分がちゃんと備わっていることを
確認したいんだろう。
セックスは関係性を持った後の果実であると思ってるから、
セックスが出来たという事実は、関係性を結びえたことの実証となる。
もちろん、性欲や規範からの解放も、欲求を構成する一要素としてはある。
可動範囲の狭い人間には、つまらなくみえることですら輝いて見えたりするからね。
自分が快楽から疎外されているとの思い込みがあるとね、そうなる。
しかしまあ、一番に欲するのは関係性をめぐる試行錯誤から得られる、
誰かとの関係性の萌芽とか、自分に成長が可能であるという感覚だろう。
そういうのって、一回、射精すれば終わっちゃう閉じられた感覚ではなくて、
ある種の無限さ、永遠さを脳に認識させてくれる行為であると思うんだ。
もちろん、永遠なわけないんだけど、閉じられていない構造は、
必然的に終わりを見通せない。
それゆえの脳の誤認。
とはいえね。
その誤認から得られる快楽はある。
まあ、自分にはそんな快楽基準がある。
そんなのでしか快楽物質が出ないのかな、自分って。
も少し、堅実さに対してもホルモン分泌してくれる保守性が
あってもいんじゃねとも思うけどね。
本当に求めているものは、関係性、そしてその構築のプロセス。
んだから、突き詰めれば、関係性が得られれば、相手は男性でもいい。
それでも問題ない。
ただ、同性だからこその偏見があって、
男性は打算的で、共感性が低いので、結果、関係性を結ぶことが難しいとの予感がある。
しかしまたその予感は、一般化のたまもので、
あえて一般化する必要はあるのかね。
また、女性についてのそのような一般化をしないのは、女性に無知だからだったりする。
少なくとも、ネガティブな面を拡大しての一般化をするなら、
相手の性別がどうであれ、なにも良い予感をもたらしてくれないだろう。
いずれにせよ良い予感は必要だな。
可能性の予感のないところで発揮できる自分のパフォーマンスは、
はたしてどの程度のものかと。
予感に期待せずに、相手を完全に物格化出来ればチャレンジそのもののハードルは下がるが、
物格化することで傷付くことを回避するようなスタンスが、
相手の心にリーチできる気はしない。
(とはいえ物格化しなければリーチ出来るのかと言われれば口はつぐむ)
こちらのスタンスに依らず、相手が自分を見てくれず、スペックやら思い込みでの対面をしてくるなら、
つまり、相手も私を物格化してて、なおかつ関係性を持ちたい欲求があれば、
そこには関係性を持てるかも知れないが、それは私の望む関係性か?
つうかそれって、こちらの試行錯誤のうえでの獲得ではないって意味では、
金銭を通じての関係と同じだよな。
僕はね、
金銭を対価とせず、「自力」で関係性を獲得したい。
そして、関係性獲得ののプロセスを味わいたい。
で、自力ってなんなんよ?っていうのは次の機会に。
で、自力ってなんなんよ?っていうのは次の機会に。