| 還らなかった父のために |
| 6 太平洋・大東亜戦争とは何だったのか |
日、極東国際軍事裁判(以下・東京裁判)に於いてA級戦犯七人に「死刑」の判決が下り、直ちに刑が執行されて60年の節目だった。月刊の総合雑誌『文藝春秋』『中央公論』『歴史読本』、平成21年01月号で廃刊となった『現代』等、それぞれ太平洋・大東亜戦争の特集があった。TVでは、この種の番組では珍しく民放・TBSで「あの戦争とは何だったのか・日米開戦と東條英機」が放映された。人気タレント“ビートたけし”が東條を演じたが、いささかミスキャストでもあった。坊主頭にロイドメガネ、チョビヒゲで甲高い声の俳優なら大体演じられるのが、特に秀でた人物ではないとの意味での「軍人の鏡」かも知れない。私にはNHKのドキュメンタリー番組「A級戦犯は何を語ったのか」で演じた新劇俳優の「外山高士」の方が相応しいと思った。 いわゆるA級戦犯は28人、松岡洋右・永野修身は病死、大川周明は精神障害で除外、25人に判決が下った。特筆すべきは15人が陸軍軍人で、更に外交官で首相だった廣田弘毅以外は、半分弱の陸軍軍人に絞首刑が言い渡され執行されたことにある。なかでもA級戦犯の代名詞ともなり、日米開戦の責任を負わされたのが東條英機。この項では軍人のまま第40代・総理大臣に就任し、2年9カ月もの間、戦争指導をした人物を改めて一市民の視点を照射してみる。東條の周囲の人間を取り上げると、その関わり方で日中戦争・日米戦争の原因と結果をも引き出すことになる。戦前の日本に鑑みて「軍国主義に陥れた悪い奴」と切って捨てるのは簡単だが、だからと云って東條英機なる軍人出身総理を擁護することには当たらない。靖国神社に合祀するのは、私はやはり間違いだと思う。だが顧みるのも汚らわしく、ただ忌避するだけなら甚だ近代史に不誠実だと思うし、この軍人総理の誕生と崩壊を辿るだけでも「大日本帝国軍部」の正体を知ることにもなる。 ここはA級戦犯で刑死したから“悪い人”として取り上げられるこのとの多い東條英機は、最初から誤った戦争指導者とのレッテルを貼ることはせず、できるだけ解っている事実の抽出を試みる。最初から極悪人だったのなら総理大臣などになれるわけが無いからである。ある作家は、昭和史の書を叙述するとき「中心となる人物」の相関図を作成することから始まると指摘する。私が刑死した軍人総理を中心にして叙述しても、それは二番煎じだ。だが「太平洋・大東亜戦争とは何だったのか」「帝国陸・海軍とは何だったのか」、その組織とは、日本の歴史の中でどういう位置を占めるのか、この命題に少しでも近づくことが出来るかも知れない。昭和天皇も含めて東條英機に関わりのある人物24人をこの項の後半に簡単に著して、その繋がりを理解すれば、それだけでも「戦争の昭和史」の一角に迫れるかも知れない。 限りなく乱読と云えるが、ハードカバーから文庫・新聞まで手を広げると、他人にはつまらなくても自分には面白いことに気付く。「東條英機」と「東条英機」、苗字の「條」「条」の正字・略字の表記である。半藤一利氏の大著『昭和史』を除けば、概ね岩波新書『アジア・太平洋戦争』の吉田裕氏などは「東条」と表記、『東條英機と天皇の時代』の保阪正康氏、『現代史の争点』の秦郁彦氏などは「東條」。若い学者・牛村圭氏、「フリー百科事典・ウィキペディア」などもきちんと正字である。文字通り昭和の終わりに発行された『昭和の歴史』8巻(小学館)は、左翼的史観の学者の著述であろう、内容は詳細を極め十分「昭和史」に相応しいが、申し合わせたように「東条」である。どんなに悪い人でも苗字・名前くらいは正字にしても良いのではないか。前述の吉田氏は同じ岩波新書で、日米開戦のときの海軍大臣は嶋田繁太郎は「島田」としていない。新字体だからとのわけでもなさそうに思える。私にはそこに個人名の表記から面倒であるとの感情論が支配しているように思う。どうでもいいようなことではあるが…。中には産経新聞の「東京裁判」特集に「東條英機氏」と敬称付きなのはいささか面妖でもある。因みに一級史料の『細川日記』では書き易いからか、東条、島田と表記している。 前述の如く東京裁判のA級戦犯28人のうち15人が陸軍軍人だが、東條英機は陸軍士官学校の序列では、その8番目に過ぎない。「上官の命令は天皇の命令で絶対である」とたたき込まれた陸軍士官学校と陸軍大学の序列意識は、現代の官僚組織にも脈々として引き継がれているのだが、その序列を飛び越えて現役軍人のまま総理大臣になったのは、それなりの理由がある筈である。参謀本部と云い戦争遂行の組織の中核を成したのは「恩賜の軍刀組」と云われる陸軍大学卒業の各年度の少数者で、東條はその数少ないエリートからは程遠いのである。因みに東條の先輩の戦犯は次の通り。 南 次郎 06期 陸軍大将 昭和04年 朝鮮軍司令官 昭和06年 陸軍大臣 荒木 貞夫 09期 陸軍大将 昭和06年 陸軍大臣 昭和13年 文部大臣 松井 石根 09期 陸軍大将 昭和08年 台湾軍司令官 昭和12年 上海派遣軍司令官 畑 俊六 12期 陸軍元帥 昭和11年 台湾軍司令官 昭和14年 陸軍大臣 小磯 国昭 12期 陸軍大将 昭和14年 拓務相 昭和19年 総理大臣 梅津美治郎 15期 陸軍大将 昭和11年 陸軍次官 昭和19年 参謀総長 土肥原賢二 16期 陸軍大将 昭和06年 奉天特務機関長 昭和20年 教育総監 板垣征四郎 16期 陸軍大将 昭和04年 関東軍参謀長 昭和13年 陸軍大臣 東條 英機 17期 陸軍大将 昭和15年 陸軍大臣 昭和16年 総理大臣 5期先輩の小磯国昭は東條のあと、総理大臣に就任したが、戦争を収拾する力は無かった。むしろ副総理格の海軍大臣・米内光政が首相に相応しく、陸軍との妥協の産物で首相は小磯になったに過ぎない。それぞれの軍人に考察を加える必要はないが、東條英機は何しろ総理に就任のあと2年9カ月もその地位に留まっていた。昭和19年07月、総辞職する頃は、大本営・参謀本部総長も兼ねていた。このことから東條英機を「日独伊三国同盟」の枠組みにおいて、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニと並んで独裁者だったと思われがちである。しかしそれは正しくない。東條は陸軍士官学校・陸軍大学の卒業年次に基づいて多分に年齢序列的に役職を得たのである。(『歴史読本・論点検証大東亜戦争』平成20年09月号P131)東條が強権を用いたり、クーデターなどで総理大臣に昇りつめたのではないことが明白である。ここはA級戦犯に限ったが東條より先輩の7人は陸軍内の派閥抗争及び官吏としての差であるのかも知れない。経歴からなら2期先輩の梅津美治郎の方がはるかに総理大臣に相応しい。梅津は陸軍士官学校・陸軍大学をトップで卒業したいわゆる「恩賜の軍刀組」と云われるエリート中のエリートである。昭和20年09月、東京湾ミズーリ号甲板での敗戦の調印式に出ることを最期まで嫌がったことでも解るように表に立つことを終始避けた。それでいて昭和11年の二・二六事件の後の粛軍人事、そのあとの廣田広毅内閣では「軍部大臣現役武官制」復活などに深く関わっている。その「軍部大臣現役武官制」こそが、軍人が日本国家を壟断することになる。このことからも梅津美次郎は戦争責任が重いと指摘する識者も多い。こうした軍人に限って証拠となるような史料を残していないらしい。廣田は「軍部を押さえ切れなかった」ことの不作為で、また法廷で一切弁明しなかったことでA級戦犯として絞首刑になった 東條の人となりは、秘書官だった赤松貞雄大佐が美点を列挙している。(『現代史の争点』P240) ≪真面目で責任感が強い。金銭欲が薄い。努力家で人情家。実行力があり用意周到。天皇に忠誠心が強い≫などいいことづくめで一国の総理大臣としては申し分ない。だが東條に近い知人は「最大の欠点は感情的で偏狭、愛憎の念が強い」との指摘は今、思えばその通りであろう。その偏狭さ、愛憎の念が政権末期に自分に逆らった人間への数々の報復行為となって表れる。日米開戦当時のアメリカのコーデル・ハル国務長官は≪彼は典型的な日本の軍人で、小さい、単純な、一本気の男だった。彼は片意地で我意がつよく、バカで勤勉で馬力があった≫ (『ハル回顧録』P176)と手厳しい。日本に来たことのないハル国務長官がこれだけ冷静に人物評価をしているのは、後年書かれた回顧録だけの理由ではないのだろう。駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーの観察もあろうが、何よりも昭和16年頃の日本の外務省の連絡などはすべてマジックと謂う暗号解読で東條はおろか、重要な日米開戦の起点となる昭和16年9月の「御前会議」の内容すら解っていた。序でに云えばコミンテルンの意を享けた「リヒャルト・ゾルゲ」にも筒抜けだった。組織の長として能吏だったが、個人的な性格から好き嫌いの激しい極めて日本的な人物が日本史に残る戦争を指導したことになる。 自ら進んで東京裁判の証拠として提出、太平洋戦争の一級史料なのが『木戸幸一日記』。記録としては昭和05年から20年に及ぶ。A5版2冊の大部の書。内容は個人の日記であり、殊に昭和15年から昭和天皇の側近・内大臣としての記録は貴重で、巻末には人名索引がある。圧倒的に多い登場人物は原田熊雄、近衛文麿、松平康昌である。原田・近衛・木戸は京都大学の同窓生であって頻繁に記述されているのは当然かも知れない。東條英機の名は、近衛文麿の半分に満たない。木戸日記に登場するのは昭和13年、近衛内閣の陸軍大臣を補佐する次官に推されたのが最初である。(『木戸日記・下巻』P645・木戸日記のノンブルは2冊に跨がっている)少々くどくなるが東條英機の登場は、重要である。第一次「近衛文麿内閣」は昭和12年06月に発足。翌月07月には「盧溝橋事件」が発端となって日中戦争が起きる。「支那事変」の呼称は対外的な詭弁である。昭和06年以来の「満州国」の安定に関東軍と事実上満州を牛耳る日本人官僚が、日本の内閣・議会に対して大いに不満に思っていたようである。とりわけ近衛文麿首相の優柔不断は面白くなかった。今、思えば他国に傀儡政権を作ったのである。それはそれで問題だが、昭和初期の日本全体の貧しさに「満州国」は、国民にはこぞって歓迎された。昭和恐慌以来の日本は「帝国」などと総称されるような国際情勢・経済状況などではなく、全体の7割を占めたのが第一次産業で、殊に農民はその半数以上が小作人だった。このことが「太平洋・大東亜戦争」の或いは最も重要な背景となっている。 第一次近衛内閣は、翌年瓦解するが、根本は日中戦争が解決しないからだった。無論、近衛は日中戦争不拡大の方針である。近衛文麿と中国国民政府・蒋介石との間に停戦協定が結ばれようとしていた。その密使の宮崎龍介(労働運動家)は、陸軍憲兵隊に逮捕され、停戦協定は頓挫する。近衛は自分が思ったほどの力が発揮できず辞任したいが、近衛を推した西園寺公望などに止められる。辞意を翻す代わりに内閣改造をする。近衛は陸軍大臣には、その宮崎の逮捕に毅然とした態度を示さなかった当時の杉山元(はじめ)陸軍大臣と次官の梅津美治郎を推すつもりは無かった。支那事変と称される日中戦争を解決したい近衛は、杉山と梅津に我慢がならなかったに相違ない。序でに云えば杉山・梅津は終戦まで省と部の陸軍に居続けることになる。今から思えば戦争をすることしか能のない軍人の典型がこの二人である。終戦後、杉山はピストル自決。梅津は終身刑で病死する。 近衛改造内閣で陸軍大臣になったのが「満州事変」の一方の立役者、板垣征四郎。ここで陸軍次官に抜擢されたのが“東條英機”で表舞台に立つことになる。近衛は「東條とは何者か」と尋ねた事実がある。まだここで戦前における日本の不幸などと指摘するつもりはないが、次官としての東條は「カミソリ東條」と謂われ、テキパキと仕事をこなしたらしい。その仕事ぶりが重用されて木戸幸一や昭和天皇の目に止まるのだろうか。この時の参謀本部総長は、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王。事実上の総長は、次長の多田駿(ただはやお)。当時の参謀本部は、石原莞爾、多田駿が主流で日中戦争不拡大論である。満州は独立国で日本の植民地ではないとする立場である。そこが石原莞爾の矜持となっているのか。陸軍次官にならない前の東條英機は、関東軍参謀長に任命され満州で、満州国運営に力を発揮した。ここでは取り上げないが、参謀本部の参謀にすぎない東條が指揮して満州国では、かなり残酷な作戦を遂行、中国人に多大な犠牲者を出している。(昭和12年・内蒙古チャハル作戦)天才型の軍人とも言われた石原莞爾の理論は理論として今でももてはやされている。だが、満州国に於いて能吏としての東條は、石原莞爾と云う軍人の性格と合わなかった。又その満州事変の司令官でもあった板垣ともしっくり行かなかった。陸軍大臣・板垣と参謀本部次長・多田は「オレ・オマエ」の間柄で、陸軍次官を頭越しにする疎通は、陸軍の政治機構上、東條には我慢ならなかった。(『東條英機と天皇の時代』P191)こんな処に東條の人となりを知ることができる。組織の機構と秩序を重んじることが何をもたらすのか、まだ此の時点では悲惨な日米戦争の結果を誰も知らない。 ここでもう一度、省部を確認しておきたい。同じ陸軍でも「陸軍省」は内閣の一部、統帥部と云われる「参謀本部」は直接、天皇主権に直結する部署である。戦争を指揮する参謀本部には内閣総理大臣は、口出しができない。作戦・用兵は参謀本部の専権事項だった。陸軍省は今で云う行政府の一員で作戦の背景となる政策や予算が持ち場だった。参謀本部の「作戦部」は陸軍大学を優秀な成績で卒業した者にしか入室さえ許されなかった。陸軍省の中核を成すのは「軍務局」。東條英機は省・部ともに経験している。昭和16年の日米開戦時に限って云えば、参謀本部のトップ、参謀総長は昭和天皇には全く評判のよくない杉山元だった。作戦部長は田中新一、作戦課長は服部卓四郎、作戦班長は辻政信、それぞれの軍人はこの項の後半に寸評を入れるが、戦争をしたくて堪らないとも云うべき最悪のトリオだった。(『文藝春秋平成19年6月号』P117) 陸軍省と云えば、前述の保阪正康氏が良心的軍人と評価するのが当時の軍務課高級課員の石井秋穂大佐である。高級課員とは今なら各省庁の課長補佐なのか。多くの政策の起案書を作成した少壮の軍人だった。日米開戦時は首相兼務の陸軍大臣は東條英機。軍務局長は武藤章、軍務課長は佐藤賢了、軍事課長は後に東條には嫌われる岩畔豪雄(いわくろひでお)・真田穣一郎である。日米開戦は、軍務局の武藤と参謀本部の田中新一が喧嘩腰のやりとりが屡々あった。(『陸軍良識派の研究』P57・189)だが東京裁判で絞首刑になったのは開戦に否定的な武藤章だった。昭和天皇の戦争責任に直結する「参謀本部」の軍人は、実際は戦争に積極的だったのに罪を免れる。戦後GHQはこの統帥部と陸軍省の権力の相違が理解できなかったと言った方が正しいようだ。戦後巧みに責任を免れて再軍備を画策したのが服部卓四郎である。辻政信に至っては僧侶に化けて東南アジアに隠れていた。しかも辻は戦後、国会議員になった事実は何を物語るのか。戦争の作戦遂行はあくまで統帥部・参謀本部で、予算と装備は「陸軍省」の管轄なのは今でもなかなか理解しにくい。 第二次近衛内閣に陸軍大臣として入閣したのが東條英機である。何故推されたかが問題だが中国大陸が膠着状態でダレきった陸軍の事務的要請だったのは衆目の一致するところ。「カミソリ東條」と言われてきぱきと事務を処理する能力に長けていた。それまでは寺内寿一・杉山元・板垣征四郎・畑俊六と居るだけの陸相だった。近衛文麿が昭和16年10月、第三次内閣を投げ出したあと、内大臣・木戸幸一は東條英機を総理大臣に指名した。昭和天皇の「虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」なるとの言及で有名である。中国大陸から撤兵すると決して言わない陸軍の態度を変えさせるのは、陸軍の利益大優先の東條をおいてほかに適当な人物が居なかったからと云われる。≪元来東條という人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝はらなかつたことと又憲兵を余りに使ひ過ぎた。それに、田中隆吉(十七年九月まで兵務局長)とか富永次官(恭次・兼人事局長)とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ≫(『昭和天皇独白録』P103)昭和天皇が東條を評価したのは参謀本部・軍令部総長の杉山や永野のいい加減さに我慢がならなかったのが正解だ。 文藝春秋編『完本・太平洋戦争』(文庫判では4冊)の解説者、秦郁彦氏は、第二次大戦時におけるルーズベルト・チャーチル・スターリン、蒋介石などとくらべて東條英機は貫禄と風格に欠けるのは当時から指摘されていたと述べている。(『完本・太平洋戦争V』P11)その主たる理由が極めて日本的な“人の好き嫌い”に因るものである。対米戦争にアメリカをよく知る軍人を排除、意図的にアメリカを軽視する軍人を重用した。その代表的人物が佐藤賢了である。佐藤は昭和13年の議会で「国家総動員法」の質疑で野党の「辞めさせろ」の言葉に「黙れ」と一喝したことで有名。佐藤の「アメリカ人は軟弱」との感慨、教唆が東條のアメリカ感を冗長したに相違ない。東條が自分に対するイエスマンで固めたことは前述の通り。陸軍の軍務を律義にこなす東條英機を首相に指名したのは“昭和天皇”その人との近代史が定着しているが、内大臣の木戸幸一が巧みに誘導したとの見方が正しいようだ。 東條を取り巻く連中は、「三肝四愚」の名が高かった。(『完本・太平洋戦争V』P19)「三肝」は、鈴木貞一(企画院総裁)、加藤泊治郎(憲兵司令官)、星野直樹(内閣書記官長)または四方諒二(東京憲兵隊長)を指す。三肝のうち二人が憲兵である。「四愚」は、木村兵太郎(陸軍次官)、佐藤賢了(軍務局)、真田穣一郎(参謀本部部長)、赤松貞雄(秘書)の四人だとの指摘だが、秦郁彦氏は富永恭次(人事局長、陸軍次官)をぜひ加えたいと言い、インパール作戦の司令官・牟田口廉也も加えたいとの由。このような「三肝四愚」のレッテルが、当時の現場の評価か、海軍が発信源か、戦後の評価かはよく解らない。ただそれが今では正しいと思うと「呆れる」より悲しいと言った方が適切か。特に佐藤・富永・牟田口は“悪しき軍人”の代表として太平洋・大東亜戦争の書では必ず言及されている。こうした軍人が政策決定、作戦決定に深く関与しているのに東京裁判では重い罪を免れて戦後のうのうと生き仰せたのである。 東條英機なる軍人総理を俎上に乗せるとき、それを最もよく知る歴史的事実は、昭和16年09月06日の「御前会議」から東條首相誕生の10月17日までの推移。事務的決定事項を重んじる東條には、甚だ曖昧な態度の及川古志郎海軍大臣や日米首脳の頂上会談にこだわる近衛文麿首相には大いなる疑問を持った。ことの内容よりは事務的手続きが形骸化されることに東條の性格が許さなかった。臨席した天皇へ背くこととして捉えたのは、その頃の政治体制としては正解なのか。≪近衛の暖味な態度はその場かぎりの辻褄合わせに思えたようだ。もともと東條も海軍が戦争に勝算がないと言えば再度検討しなければと考えているのに、及川からはその言がきかれないのに苛立っていた。ただひたすら09月06日の決定をくつがえすことに逃げこむ近衛や豊田、及川の態度に、憎悪に近い感情をもつようになった≫(『東條英機と天皇の時代』P283) ≪十月十日のことである。東條のもとに、軍事調査部長三国直福が情報をもちこんだ。「木戸を中心とする宮中、近衛首相、外務省、海軍の連合軍で陸軍を包囲し、アメリカの提案を呑ませるべく圧力をかける」というものだった。三国はこれを陸軍省詰めの新聞記者から聞かされたといい、それが事実か否かは不明とつけ加えた。「こんどはおれの番か。おれを辞めさせようったって簡単じゃないぞ。おれは松岡ではない。松岡の二の舞になどなるものか」≫(『前述書』P283) この東條の告白は、完全に面子とともに事態の推移にさえ憎しみを持っていたようだ。御前会議とその前日行われた政府・大本営の決定が金科玉条なのであろう。戦争に勝つ、戦争を処理する、戦争に目途をつけるなどの最も重要な政治・軍事目的はなく、陸軍組織の中の自分の位置、一旦決着した事務的形式の遵守との地点から一歩も踏み出せないでいるのである。東條は近衛文麿が「日米開戦」に終始反対であるのを知っていた筈である。だからこそその懸念の元凶が陸軍であるとの近衛の態度を徹底的に否定せざるを得なかったと云える。 あらゆる昭和史の書でも拙論でも何度でも繰り返すことになるのが「統帥権」である。どこの国でも軍部ではそれぞれ何らかの対立があるに違いないし抗争もある。だが結局は民主主義の国であれ、独裁者の国なら当然だが、政治上の最高指導者が国策にしろ戦争にしろ決断を下す。ところが日本の戦争指導は甚だ曖昧だった。統帥権を総攬するのは天皇で主権は天皇にあった。政治は政治家が補弼、軍事は統帥部が輔翼したが、政治家も軍人も政治を軍事を任されている自覚があまりにも希薄だった。いい加減と言っても差し支えない。そのいい加減の最も顕著な事態が昭和16年の秋である。10月17日東條英機内閣が出現する。繰り返すが近衛文麿は終始英米との戦争には否定的だったのは間違いない。昭和16年09月06日の「御前会議」以降、近衛文麿首相と東條英機陸相の対立は頂点に達する。責任の所在がはっきりしないし最高指導は天皇に預けたままゆえに、それぞれの指導者は自分の位置するセクトからの視点でのみ、組織としてものごとを判断する。これが「日米開戦」の最大の原因である。 11月に入ると「政府大本営連絡会議」が開かれ日米開戦への流れとなってゆく。ここに至っても海軍大臣・嶋田繁太郎には昭和天皇から「一、航空燃料不足の為に作戦に支障を生ずることなきや、二、蘭印油は航空燃料に適せざるにあらずや」の御下問があった。「日米開戦は避けよ」との暗示であるのは間違いがない。しかしそれから5日後の昭和16年11月05日「御前会議」で日米開戦は事実上決定する。≪原枢府議長より質問及び意見陳述ありて、可決。三時二十分、御裁可遊さる。未曾有の重大時局に当り、御勇断真に恐懼に堪えざると共に、御英明畏き極みなり≫(『完本・太平洋戦争T』P18)とすでに引き返せない事態に陥ったとして差し支えない。これも繰り返すことだが、このころはもう完全に「マジック」によって日本の上層部の意志はアメリカ政府には筒抜けだった。アメリカが日米開戦を確信したのは想像に難く無い。統帥部は戦争をすることしか頭にないからどうしようもないが、政府は天皇の意を受けていまだ外交による手段を捨ててはなかった。だが決定的なのは外交をしながら戦争の準備と着々と進める事態にアメリカが理解する筈もなかった。これでは日本外交が信用されないのも当たり前である。 東郷茂徳・外務大臣がいつアメリカを急襲するのかを全く知らなかったことでも解ることである。11月初旬の東京朝日新聞は≪見よ米反日の数々/帝国に確信あり/今ぞ一億国民団結せよ」と反米親独一辺倒だった。首相官邸には手紙の類が殺到した。「何をしてるか」「米英撃滅」「対日包囲陣撃滅≫『東條英機と天皇の時代』P328)と弱腰の総理大臣を戦争へ煽るものが圧倒的だった。その間にも第七十七臨時帝国議会もあったが議会も日米開戦は必至だった。官邸には総数三千通もの手紙が殺到した。いわゆる「ハルノート」の最後通告があって日米開戦を避けきれない東條英機は天皇の外交重視、戦争回避の心情を知りながら殆んど打つ手は無かった。真珠湾攻撃の前日12月06日の深夜、東條は首相官邸の家族用の部屋で皇居に向かって号泣した。号泣は慟哭だった。(『前述書』P349)自分で解決できないだらしなさが陸軍大将・総理大臣をして泣くのである。後世の大局が解っている私であっても泣いてことが解決するなら総理大臣など誰でもできる。このことは東條英機が帝国陸軍の組織だけの人物だったことの逃れられない証明である。 2年9カ月もの間(東條英機首相時代)の戦争の実態はここでは割愛。ただ東條英機なる軍人総理を語るのにふさわしい事実がある。これは割愛できない。日本が敗戦への道を転げ出したのは、昭和17年06月03日の「ミッドウェイ海戦」だが、この無様な敗戦は海軍がひた隠しにしたからだが、東條は、総理大臣にあっても海軍のこと、戦争そのものを遂行する“大本営”に関しては口出しができなかった。だが若くして大本営作戦部に重用されて6年間も在籍した瀬島龍三は、海軍のその無惨な事実を知っていて総理大臣・東條には知らせなかった。知ったにしても東條はその「負け戦」を自分の責任で認めたくないから「戦陣訓」が示すように精神論に逃げ込み、現場の最前線の惨状から目を背けたのだと思う。ここに東條英機の最大の誤りがあり、責任があり、軍人としても政治家としても限界があった。終戦後、東京裁判で明らかになるのだが、東條は世界情勢や国際法などまるで“ウソ”のように無頓着で尋問する連合国検察が呆れたとの驚くべき結果もある。戦局の打開に東條ができることは、機構を弄り、市民の生活の一部を覗いたりすることに終始したことにも見られる。東條英機とは、市民として父親としては金銭に潔白、家族思いで真面目だが、為政者としてはひたすら先人の通過してきた「富国強兵」のレールの上を走っているだけで立ち止まって「これでいいのか」と反省した形跡もなく、ひたすら軍部を維持するのに精一杯だった。そのために都合のいい人物・軍人を配しただけだった。 この項の結論はすでに出たも同然だが、東條英機なる軍人・総理の拙劣さを象徴するのがいわゆる懲罰人事である。これも「三肝四愚」と共にあらゆる昭和史の本でも言及されている。 昭和19年02月23日『毎日』第一面の真ん中に、新名丈夫記者の記事が掲載された。 ≪「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た。竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」。 「太平洋の攻防の決戦は日本の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐつて戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻して来るにおいては最早万事休すである。……敵が飛行機で攻めて来るのに竹槍をもっては戦い得ない。問題は戦力の結集である。帝国の存亡を決するものはわが海洋航空兵力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかって存するのではないのか」 「然らばこのわれに不利の戦局はいつまでも続くのか、どこまで進むのか。われ等は敵の跳梁を食い止める途はただ飛行機と鉄量を、敵の保有する何分の一かを送ることにあると幾度となく知らされた。然るに西太平洋と中央太平洋における戦局は右の要求を一向に満たされないことを示す。一体それはどういうわけであるか、必勝の信念だけで戦争には勝たれない」≫(『太平洋戦争と新聞』P404) この記事には全国から賛辞が寄せられたらしい。「勝った勝った」の戦争が嘘であるらしいことに国民は、この時点で感じとっていた。この記事を書いたのは「黒潮会」の毎日新聞記者・新名(しんみょう)丈夫だった。黒潮会とは海軍の記者クラブである。新名の記事は東條批判のように見えて「陸軍」への批判だった。今から思えば正解と思えても陸・海軍の対立は最後まで解消しなかった。「日本との戦争に勝つ」との怜悧な計算のアメリカ軍の政略・戦略には「軍部の対立」は聴いたことがない。この記事への懲罰は毎日新聞だけにとどまらず新名個人へも執拗に続けられることになる。事件は新名記者をめぐる陸・海軍の対立へとエスカレートする。新名は極度の近視ですでに兵役免除になっていたが37歳の新聞記者への召集だった。これだけでもはや異常である。海軍省は猛然と抗議した結果、陸軍は新名と同じく大正生まれの兵役免除者250人を突然召集し、辻褄を合わせた。新名のとばっちりをくって再召集された“丸亀連隊”の中年二等兵たち250人は硫黄島に送られ全員玉砕させられた。何ともコメントできない結末でよくこんなことがまかり通ったものである。こういう事実は理解し難く愚かであるにしても正確に歴史に刻むべきである。 東海大学の創立者・松前重義への懲罰召集もよく知られている。松前は昭和16年、逓信省工務局長に就任。昭和17年には、航空科学専門学校、電波科学専門学校(後に東海科学専門学校として合併)を創設。教育界に進出する。この官僚時代に「無装荷ケーブル」なる国宝級と指摘される発明をなし、当時の日本の通信技術に大きく貢献した。だが科学者の立場から東條内閣の方針に強硬に反対した。当時42歳でかつ“少将”相当の天皇の勅任官であるにも関わらず二等兵として中国大陸の戦地に送られることになる。反東條派の東久邇宮稔彦王・中野正剛と共に働きかけを行なった松前を直接的に抹殺できないため、陸軍首脳の“暗殺工作”であったとする説もある。のちに召集解除・復員が叶い、松前は生還したが、気の毒なのは、松前を目立たせぬためにお相伴の召集を食った同年配の老兵たち数百人の殆どが、船もろとも海没した。(『現代史の争点』P243)これら二つの懲罰人事は“狂気の沙汰”である。かような内容の軍部であったればこそ軍国主義・ファシズムと片づけられ、戦後、防衛・軍事の問題はひたすら忌避されることになる。今、現在の保守・革新の区別なく、これらは細部にまで検証されるべき軍人総理の側面である。「太平洋・大東亜戦争」は決して“特攻と玉砕”だけが悲劇ではない。 お上の御威光を体現している自分に逆らうことは、お上に楯突くことと信じて疑わない東條の死生観とはどんなものだったのか。懲罰人事で戦死することの可能性が高い戦争の最前線へ追いやることは、いかに最前線が酷いものかは知っていたことの傍証である。太平洋・大東亜戦争の特徴は、310万人をかぞえる戦死者の大半が、敵の弾丸以外の原因で倒れた点にある。実数や内訳は正確に計算できるものではないが、「ガダルカナルの戦い」「インパール作戦」に象徴されるが餓死と戦柄死は70パーセントを越えると推定されている。 ≪これだけのスケールになると、国力の格差とか、明治憲法体制の欠陥とか、国民性などを並べたてても、遺族は納得してくれない。「日本兵はコメを食わせないと戦えない。そのコメ俵を運ぶ途中で輸送船もろとも沈んだから仕方がなかった」式の説では言い訳になるまい。世界戦史に例のない大量餓死をもたらした責任が明らかにさないと、死んだ兵士たちは浮かばれないだろう> <昭和20年02月、天皇が重臣(首相経験者)を別々に呼んで、戦局に関する意見を聞たことがあった。東條との問答は侍立した藤田尚徳侍従長が『侍従長の回想』(中公文庫)に記録している。それによると、東條は全般戦局について「成功不成功相半ば」と強気一方の見通しを開陳したあと「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」と断言した。これを聞いて「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」だったというが、どうやらこの軍人宰相の頭のなかでは、餓死も病死も「名誉の戦死」で一括されていたのではなかろうか≫(『現代史の争点』P229) 昭和19年に至ると新名丈夫の「毎日新聞社記事」に見られるように戦局は好転する筈もなかった。大日本帝国憲法下において総理大臣東條英機にできることは後述する機構いじりだった。陸軍・海軍・統帥部・重臣・宮中らの詳細なニュアンスは知るべくもないが、木戸日記にはその痕跡は残っている。≪二月十八日夜。官邸に陸軍省の富永恭次陸軍次官(人事局長も兼任)、佐藤賢了軍務局長が呼ばれる。ここで東條から参謀総長兼任の意思が告げられ、関係者に根回しを行うよう命じられる。「憲法公布以来の重大事である。だがこの事態はこれでしか乗りきれない。自分の人格を国務と統帥とに分けて乗りきりたい」東條の言に富永も佐藤もうなずく。二人は東條の腹心の部下であった。この二人は午後九時すぎに官邸をでて根回しのために動き始める。教育総監部本部長の山田乙三を説得にいったと思われる。というのは、陸相、参謀総長、教育総監本部長の改造人事については現職の三人が合意のうえで後任者を指名するのが慣例だったからである。午後十時、東條は内大臣の木戸幸一を私邸に訪ねている≫(『昭和陸軍の研究・下』P162)。 東條が考えるには、自分は完全に天皇に信任されている。宮中で統帥や国務の会議、さらに天皇のすぐ近くで執務を行えば、戦争遂行はスムーズに行くだろう。自分が独裁者になりたいのではなく飽くまで今までより戦局が改善するくらいに考えたのではないか。「君臨すれど統治せず」 との立場の天皇であるのに積極的な戦争関与を願ったのであろうか。このことによってそろそろ木戸幸一には東條英機に疑問を感じたものと思われる。だがもうこの頃、陸軍の主流派から外れていた「皇道派」や総理大臣経験者の重臣からは日本の敗戦は必死とみられ、戦争を止めるには先ず東條英機を首相の座から下ろすことに重点が置かれた。重臣に強引に引き下ろす力はむろん無く、何より東條がまだ天皇に信任されていた。昭和天皇に正確な戦争の実態が知らされていないのは、常時輔弼(ほひつ)の木戸幸一に向けられ、総理大臣辞任以来、上奏の適わなかった近衛文麿が秘書の細川護貞に対して天皇の弟宮・高松宮へ情報提供を指示した。それが『細川日記』として結実している。 ≪昭和19年07月11日「余帰りの車中にてしみじみ思ふに、今日の事態がかく混乱し居るは、要するに木戸内府に私心あればなり。木戸侯は東条と同一に見らるゝを恐れ、何とか彼と別物なることを示さんとあせりつゝあり、故に東条と全く傾向の異りたる者が現るれば、自然東条の責任を追及することとなり、ひいては木戸侯の責任問題となるを以て東条の次に寺内等を持ち来り、責任を多少なりともボカし、次いで和平内閣に持ち行かんとの下心なるべし。余も侯には御世話になりたる身なれども、此の大戦争をなしたる東条を推薦し、ひいて戦争指導を誤れる東条を弁護したる責任は、決して軽からず。その結果幾十万の青年は死に、家族は悲嘆に暮れ、銃後国民生活は逼迫し、数億の国帑(こくど)を費し、加ふるにぬぐふ可からざる敗戦の汚点を国史に印せんとする、此の有様は一に掛つて内府常時輔弼の責ならざるはなし。而も此期に及んで「唯々一身の打算によりて行動せんとするは、断じてゆるす可からず≫(『細川日記』P264) 細川の妻が近衛文麿の娘で近衛の女婿であっても、細川には閉塞感ただよう当時の状況はその矛先が木戸幸一に向けられている。 ≪昭和19年07月11日「余は更に思ふ、木戸内府は私心ありて決意せず、公は亦優柔不断濫りに口舌を弄んで決起の勇なくんば、遂に日本は亡国に到るべし。よつて最後の手段として、東条を刺殺し、高松宮殿下の令旨を奉じ、御殿に於て木戸内府を圧迫して後継首相に殿下を推戴し、陸軍小畑、海軍米内、外務吉田等の顔触れを以て、所信を断行するは一つの考へなり。余は車中瞑目して実行の細部に到る迄検討す。余の一身につきては思ひ惑ふ所なし。唯事の成否殊に最後の成否に到りては、一に聖慮に掛る。若し軽々に事を発し、事志と異ふのことあらんか、国家として重大なる結果を招来すべし。然れども此の点を研究して備へざるべからず≫(『前述書』P266) 現実味のある「東條暗殺計画」は、首相にもなった米内光政海軍大臣の軍務局主務官として仕えた高木惣吉海軍少将(当時は海軍中佐)の手になるものだった。 ≪結局、米国のギャングなどがよくやる自動車事故の方法が、実行も簡単だし確実性が大きい。自動車を衝突させ、ストップしたところヘピストルを打ち込むのが一番良かろうということになった。ただ、相手方の先駆車、随行車に邪魔されることも予想されるので、襲撃側としても二台、できれば三台の車が欲しい。そして、土壇場で妨害されたり、実行後追跡されたら拳銃で撃ちまくる─という大筋のプランができあがった。そのころ東條首相は、魚市場を見回ったり、火の見やぐらに上ったり、あるいは軍需工場の門前に立って工員の出勤ぶりを監視するなど、かなり神経症的な行動が目立っていた。したがって、機会はいくらでもあったが、一発で決めないと警戒が厳しくなり、二度とチャンスは巡ってこない心配があった。要撃の場所は交差点で、それも四差路以上の地点が襲撃にも逃走にも便利だ。だが、事前に自動車の隠し場所がある地勢でないとまずい≫(『東條暗殺計画』P33) 結局はここでも近衛文麿やその周辺および重臣には決断力が鈍く勇気もなかったことにある。東條英機の憲兵を使った露骨な監視や取締りだけではない、戦争を終わらせる確固とした信念がなかったことに尽きる。何よりも怖かったのはテロ・暗殺だった。このことは昭和前半の歴史に特筆されるべきで「暗殺・テロ」それ自体で「太平洋・大東亜戦争」のかなりのウェートを占める。昭和19年前半の重臣たちは暗殺が怖いから暗殺で対抗しようとしたようにも思う。その中核をなす岡田啓介は二・二六事件で辛うじて襲撃を免れていたし、ルーズヴェルトとの会談を望んだ近衛文麿にも当てはまるし、昭和20年に入ると経験豊かで欧米に精通する外交官・吉田茂も終戦工作を嗅ぎつけられ逮捕された。日米開戦前に米内光政内閣も廣田弘毅内閣も陸軍の圧力で潰されていた。だがそれら重臣に出来そうにもない計画に関係なく“絶対国防圏”なる物理的崩落によってようやく東條英機内閣は落城した。 戦前の特に昭和10年代の軍部とは、司馬遼太郎の指摘を待つまでもなく、アメリカと戦争をして“勝つ”組織では到底なく、上に立つ軍人の好悪、面子、派閥、出身地など極めて日本的な情緒に左右された結果が、多くの庶民を死に至らしめたのではないのか。この後も再三指摘することになるが、戦争とは運命ではなく科学、精神を云う前に物理的な兵器と兵器がぶつかる物量の多寡なのではないかと云いたい。太平洋・大東亜戦争の敗戦責任を、簡単に言ってしまえば大日本帝国陸・海軍は、世界を相手に戦争する論理的・科学的・物理的な思考と仕組みの組織ではなかった。あるのは論理ではなく情緒、科学ではなく運命、物理ではなく精神だと私には思われる。つまりエリート軍人こそが「戦争に勝つ」という単純且つ明快な目的から程遠いのではなかったのか。彼らの人間関係をみると「大国アメリカに戦争を仕掛けて勝つ」との目的に、この日本の国民に何を強いるのかと考えた形跡は多分に伺えない。軍の組織を維持し、そこに身を置く軍人の終始、児戯にも等しい日本人的好き嫌いが、軍部をひいては日本を動かしていたように思う。悲しいかな、その最も象徴的人物が東條英機である。 生き残った軍人はなべて「九死に一生」、東南アジアの劣悪な最前線では生きながらえた軍人は神様が助けてくれたような紙一重の偶然、奇跡といっていい。平成14年に亡くなったが、昭和45年『プレオー8の夜明け』で芥川賞を受賞した作家・古山高麗雄氏は、ビルマ・サイゴンでの戦争体験を小説に昇華した。戦争をするために生まれてきたと断言できる大正09年・1920年生まれである。≪「なんで日本はあんな愚かな戦争をしたのですかね」と作家保阪正康氏のインタビューにこう答えた。「それは簡単ですよ。軍人はバカだからです。勉強はできますよ。紙の上の戦争は研究していますよ。だけど人間によっぽど欠陥があったんですよ」それは今の官僚たちだって同じこと、企業人にだって言えるし「日本人って、そう急に良くなるもんじゃない」と口にした≫(『昭和の空白を読み解く・昭和史忘れえぬ証言者たち2』P93) 古山高麗雄の発言に誰もがコメントすることはないだろう。この発言がこの項のすべてを物語っている。ただしこうした軍部を支持せざるを得なかった国民心理は否定できない。 自分のホームページに「無明庵」と称して「戦争の昭和史」なるものを起ち上げた一つの動機と云えるものが「私の太平洋戦争―昭和万葉集」「日米開戦不可ナリ─ストックホルム―小野寺大佐発至急電」の番組視聴だった。その後は平成3・4年頃録画した「太平洋戦争─日本の敗因1─6」「御前会議」「東京裁判」などである。平成20年夏には24本もの太平洋戦争関連の再放送があった。すべて録画したのは言うまでもない。また昨年春、実父の実家の未亡人とクリニックで再会し、数々の父親の戦病死の史料をもらいうけて、第二章の推敲となっている。 昭和史に詳しい作家・半藤一利氏は、現在の墨田区向島に昭和05年に生まれ「東京大空襲」は15歳で九死に一生を得た。それが数々の著書として結実した動機となっているように思う。かように軍国少年、軍国少女を余儀なくされた私より一回り上の世代は「終戦の日」を境に正反対の価値観を押し付けられた。それがトラウマになっていると云っていいのかも知れない。したがってその頃の政治家、軍人、言論人、メディアに大いなる不信感があるのは頷ける。私には前述の録画番組における数々の太平洋戦争のシーンに少なからず影響されている。その最たるものが日米戦争勃発の「真珠湾攻撃」を報道する映像と声である。 昭和16年12月8日朝の『大本営陸海軍部午前六時発表、帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』この甲高い声は、ことの成否ともかくとして高揚感の極みであろう。このとき国民は日本列島隅々まで昂揚した。それは高名な文人の日記にも残されている。もう一点は昭和18年10月、学徒出陣のときの東條英機総理大臣の万歳三唱の映像と甲高い声である。「天皇陛下万歳」と叫び、ワンテンポ遅れて白い手袋を嵌めた両手をV字型に手を挙げる。東條英機の先祖は岩手南部藩の能役者であるらしい。その血筋かDNAか見事なまでのパフォーマンスである。「学徒出陣」は、敗戦濃い拙劣な戦争の最前線へ若者を送り出すことにある。“二等兵”として私の父親も昭和18年秋に召集された。むろん日本本土へ帰還することはできなかった。(次頁へ続く) ◇この項の主な参考書 『現代史の争点』秦郁彦 文春文庫 『東條英機と天皇の時代』保阪正康 ちくま文庫 『昭和陸軍の研究 上・下』保阪正康 朝日文庫 『昭和の空白を読み解く・昭和史忘れえぬ証言者たち2』保阪正康 講談社文庫 『木戸幸一日記』木戸幸一 東大出版会 『細川日記』細川護貞 中公文庫 『完本・太平洋戦争1─4』文藝春秋編 文春文庫 『昭和天皇独白録』文春文庫 |