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開発ストーリー 第二話

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第二話

待てば海路の日和あり、ついに新型マイコンの責任者に

SHマイコン開発物語の第2回目。今回は,SHマイコン開発の黎明期をひも解く。一時は転職までを考えていた河崎氏は,ついに新型マイクロコントローラの開発責任者に抜擢される。ただし,5人いた部下は1人もいなくなった。それでもRISC型マイクロコントローラにかける夢は広がり続ける。ともかく前進あるのみ。ユーザの意見を反映させた基本仕様をまとめた。RISCアーキテクチャを同僚にすんなりと受け入れてもらうための布石も打った。SHマイコンの開発はこのまま順調に進むかに見えた。

図1: 河崎氏の近影

図1: 河崎氏の近影
1955年生まれ。

急転直下とは,まさにこのことだ。上司に呼ばれた河崎氏を待っていたのは,なんと,新型マイクロコントローラの開発を担当するポストへの異動の話だった(*注1)(図1)。
RISC型マイクロコントローラ開発の夢がかなわず悶々とした日々を送っていた河崎氏を誘ったのは,隣の職場の主任技師だった馬場志朗氏(*注2)である。

1978年に米Knox Collegeを卒業。専攻は数学だった。米University of Illinoisで修士過程を修了した後,1980年8月に日立製作所に入社。半導体事業部 マイコン設計部に配属となる。現在は米Hitachi Micro Systems,Inc.のManager,APP & System Architecture。夫人と2人の娘さん,ウサギ2羽とともに,シリコンバレーで暮らしている。

1990年当時,当時の主力製品だった8ビット/16ビット・マイクロコントローラの「H8シリーズ」に次ぐ,新しいマイクロコントローラを開発しようという機運が日立製作所の社内に高まっていた。「新型マイクロコントローラの開発をだれかに任せようと社内を見渡したときに,目に止まったのが河崎氏だった。直接の部下ではなかったが,マイクロコントローラの開発に一家言あることを以前から耳に入れていた」と馬場氏はいう。
一時は米Apple Computer,Inc.への転職を決意しかけていた河崎氏だが,そんな考えは瞬時に吹き飛んだ。RISCアーキテクチャの洗礼を受けた1986年の学会(前回を参照)。それから4年に渡る歳月を経て,ついに念願のRISC型マイクロコントローラの開発を始められるのだ。

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孤独な第一歩

ところが意気揚々と新しい仕事にとりかかろうとした河崎氏を待ち受けていたのは,あ然とする現実だった。部下がいない。
浮動小数点演算コプロセサの開発をしていた以前の職場では,5人の部下を束ねていた。ところが新しい職場では,ひとりぼっち。手足となって働いてくれるはずの部下がいない上に,「8億円あった予算も,新しい職場では,ほとんどゼロ」(河崎氏)になってしまった。
孤独感に打ちひしがれる河崎氏が最初に任された仕事は,米Motorola Inc.と日立製作所の間で繰り広げられていた特許侵害訴訟(*注3)の後処理だった。特許を解釈して,Motorola社との間で和解の条件を整える。これが与えられた使命である。一刻も早くRISC型マイクロコントローラの開発に取り掛かりたい河崎氏にとっては,歯がゆいほどの地道な作業が続いた。

図2: 決意を記した1ページ
河崎氏が個人的に記していたノート。SHマイコンの開発への思いのたけがつづってある。ちなみに,前のページには,米Apple Computer,Inc.への転職を考えていた当時に勉強した,Macintosh用のプログラムが書いてある。

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命名「SHマイコン」

特許との格闘は3カ月に及んだ。作業を通じて,いつしか彼の胸には一つの決意が芽生えていた。「新しいマイクロコントローラを作るのなら,他社の特許を回避しなければダメだ。そのためには,絶対に独自のアーキテクチャを採用しよう」と。当時,日立製作所が製品化していた32ビット・マイクロコントローラは独自の命令セットを備えるアーキテクチャではなかった(*注4)。このままでは,他社の特許を再び侵害する恐れがある。同じ轍をふみたくなければ,独自アーキテクチャに移行するしかない。もっともこのこだわりが,後に大きな波紋を呼ぶことになるのだが。
特許係争の処理が一段落したある日,河崎氏は当時,半導体設計開発センタ マイコン設計部長だった木原利昌氏(*注5)に呼び出された。その場で河崎氏は木原氏から「君が担当する新しいマイクロコントローラの名前は「SHマイコン」にしよう」との提案を受ける(*注6)。続けて木原氏は「「SH」の意味がわかるか」と言いながら,ウインクを投げかけた。少なくとも河崎氏にはそう見えた。
「SH?…あっそうか。」河崎氏は,「SH」は彼の名前である「俊平」を指すのだと解釈した。「自分の名前がついたマイコン…」。彼の闘志に火が付いた。河崎氏はさっそく愛用するノートの1ページに,自分の目指すマイクロコントローラの姿を書き込む(図2)。記念すべき第一歩はいま記された。

まずはユーザの意見から

このころから,河崎氏のところには一人の技術者が顔を出すようになっていた。当時,日立製作所で営業技術を担当していた山崎尊永氏である。山崎氏の役割はマイクロコントローラのユーザを回って,既存のマイクロコントローラの問題点を聞くことだった。
ともかく既存のマイクロコントローラの問題点を省みることが,SHマイコンの出発点になるはずだ。ただし,すべての意見を反映するわけにもいかない。営業活動の合間をぬって山崎氏が持ち込むユーザの意見を基に,SHマイコンの基本仕様を固める二人三脚の作業が始まった。たたき台になったのは,当時,日立製作所で最も性能が高かった16ビット・マイクロコントローラ「H8/500」である。話し合いのなかから,今日のSHマイコンをほうふつとさせる仕様が,おぼろげながら見えてきた(図3)。あとはこれをどうやって実現するかだ。

  1. 性能はH8/500の10倍以上
  2. CPUコアの大きさは同1.5倍以下
  3. プログラム・サイズをCISC型マイクロコントローラの1.2倍以下に
  4. 高速な乗算器を搭載する
  5. DRAMインタフェース回路を組み込む

図3: SHマイコンの基本仕様
SHマイコンの開発当初に決めた目標仕様の例。

勉強会で増やしたRISC仲間

RISC型マイクロコントローラの開発を目指す河崎氏にとって,忘れてはならないことがもう一つあった。RISC型マイクロコントローラの開発を進めるに当たって社内から逆風を受けないように,あらかじめ根回しをしておくことである。
当時はマイクロコントローラといえばCISCアーキテクチャが全盛の時代。RISC型アーキテクチャは,ワークステーションなどに搭載する高性能なマイクロプロセサに使われるもの,との認識が広まっていた。安価な組み込み用マイクロコントローラにもRISCアーキテクチャを応用できることを理解する技術者は多くなかった。
このままでは,いくらRISC型マイクロコントローラの開発を叫んでも,孤立無援になるのは目にみえている。一人でも多くの技術者にRISC型マイクロコントローラの意義を認めてもらうにはどうしたらいいか。RISCアーキテクチャの神髄に触れてもらうしかない。
こうしてRISCアーキテクチャの勉強会が週に1回開かれるようになった。教科書は,当時発売されたばかりの名著“Computer Architecture a Quantitative Approach”(*注7)。RISCアーキテクチャの礎を築いたJohn L. Hennessy氏とDavid A. Patterson氏の手によるものである。
終業後の夕方5時から2時間程度,RISCアーキテクチャに興味を持つ有志7~8人が会議室に集まって,教科書の読み合わせをした。メンバはさまざまな職場から集まった。もちろん河崎氏と山崎氏もいっしょである。なかには就業時間中に,仕事そっちのけで自分の担当した部分の翻訳に取り組む人もいたほどの熱の入りようだったという。
かくいう山崎氏も「ヘネパタ(同書の通称)を読んで,初めてRISC型マイクロコントローラの実現を確信できた。実はそれまでは難しそうだと内心思っていた」と,当時を振り返る。

夏合宿で討論

夏合宿で使った資料

図4: 夏合宿で使った資料
具体的な仕様を決める以前の製品コンセプトについて議論した。
たとえば,「成功の可能性はあるか」,「どこに売るか」といった問題が議題に上がった。

SHマイコンの開発に向けて意識が急速に高まってきた。1990年の夏に河崎氏は合宿を企画した。SHマイコンの開発に興味がある技術者を集めて,SHマイコンのコンセプトを固めるためのブレイン・ストーミングを開くためである(図4)。金曜日の夕方から土曜日にかけて開かれた合宿には,総勢16人が参加した。白熱した討論は深夜にまで及んだという。
RISCアーキテクチャの理解を深めるための布石は打った。いよいよ次は具体的なアーキテクチャをまとめる段階である。ところがここで,障害に出くわす。逆風は思わぬところから吹いてきた。

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第三話へ続く

(枝 洋樹)

*注1:
組織的には,河崎氏の所属は半導体事業部 マイコン設計部のまま変わらなかった。河崎氏以外の同僚が「32ビット・マイコン設計部」に異動した。

*注2:
当時は,半導体開発センタ マイコン設計部 主任技師。現在はマイコン・ASIC本部 マイコン設計部 部長。

*注3:
日立製作所と米Motorola Inc.が,お互い相手のマイクロコントローラが自社の特許を侵害しているとして訴えた。対象となったのは日立製作所の8ビット・マイクロコントローラ「H8/532」と,Motorola社の32ビット・マイクロプロセサ「68030」である。係争を担当したテキサス州西地区連邦地方裁判所は,両社の言い分を認め,1990年3月29日にH8/532と68030の米国での販売を差し止める判決を下した。ただし,Motorola社の申し入れにより,翌日には判決の執行が一時停止となった。その後両社は話し合いを進め,係争の解決に向けて大筋で合意したことを1990年6月25日に発表した

*注4:
当時,日立製作所はTRON仕様に準拠した32ビット・マイクロコントローラと,米Hewlett-Packard Co.のPA-RISCアーキテクチャに準拠した32ビット・マイクロコントローラを製品化していた。

*注5:
現在は半導体事業部 マイコン・ASIC本部長。

*注6:
もっとも当時,「SHマイコン」は開発コード名に過ぎなかった。製品化に当たっては名称を変える予定だったという。

*注7:
1990年に米Morgan Kaufmann Publichers,Inc.から出版された。1996年に第2版が出ている。著者の名前をもじって「ヘネパタ」という通称で呼ばれることが多い。

出典

日経エレクトロニクス 1997年7月28日号開発ストーリ「SHマイコン開発-第2回」P109-112

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