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開発ストーリー 第六話

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第六話

禍福は糾える縄のごとし、苦難乗り越え世界の舞台に

SHマイコンの評価チップがついに完成した。あとは量産の開始を待つばかり。しかし,この後に及んでまたしても壁にぶつかる。SHマイコンの採用を決断してくれるユーザがほとんどいないのだ。SHマイコンを広くユーザに知ってもらい,一気に立ち上げるには,大口のユーザを獲得するしかない。ねらうのは,月数十万個の出荷も夢ではない家庭用ゲーム機の市場。しかし,ライバル・メーカは数歩も先を行っている。いちるの望みをかけて,セガ・エンタープライゼスへの売り込みをかける。

画竜点睛を欠く。ようやく完成したSHマイコンの評価チップを前にした河崎俊平氏の心境である。
独自アーキテクチャのRISC型マイクロコントローラをついに作り上げた。たった二人でまとめた命令セットは,自分でも納得のいく出来栄えだ。「君のやっている研究はロクでもないね」。6年前に学会で投げかけられた,ひと言から決意したRISC型マイクロコントローラの開発。当時心に誓ったことは,ほとんど思い通りに実現できた。それなのに…。大切なものが欠けていた。使ってくれる人がいない。

「「非常に興味がある。使ってみたい」と言ってくれるユーザはたくさんいた。しかし,こうしたユーザの計画に限ってことごとくとん挫してしまう。一方で,SHマイコンに対する社内の幹部の期待をひしひしと感じる。正直言って焦り始めた」(河崎氏)。どんなに思い入れたっぷりに作ったマイクロコントローラでも,ユーザが使ってくれなければ,単なるシリコンのかけらにすぎない。どうしよう。

万が一にかける

考えあぐねる河崎氏に,営業担当者から耳寄りな情報がもたらされた。家庭用ゲーム機への搭載に向けて日立製作所が売り込みをかけていたPA-RISCアーキテクチャのマイクロコントローラ「PA―10」が,セガ・エンタープライゼスから採用を断られたというのだ(*注1)。ついては,なんとかSHマイコンで汚名を返上したいという。
ただし,売り込みが成功する可能性は高くなさそうだ。セガ・エンタープライゼスはNECのRISC型マイクロコントローラの採用をほぼ決めているらしい(*注2)。それでも,万が一のことがある。家庭用ゲーム機への採用が決まれば,月に数十万個の受注が期待できる。SHマイコンの知名度を一気に高めるためには,うってつけのチャンスだ。「ダメモト」で持っていこう。
河崎氏が上司の馬場氏,営業担当の上田康裕氏(*注3),館崎順一氏(*注4)とともに,羽田空港にほど近いセガ・エンタープライゼスを訪れたのは,1992年の初夏だった。「短期決戦。一発で決着を着けなければダメだろう」と感じていた河崎氏。プレゼンテーションの練習をいつもより入念に繰り返し,満を持してこの日に望む。

食堂で商談

固い決意を胸にセガ・エンタープライゼスに乗り込んだ四人。ところが,「会議室がとれなかったもので」と彼らが通されたのは,なんと社員食堂だった。「周りでは社員がお茶をすすりながら,楽しそうに団らんしていた」(河崎氏)。
セガ・エンタープライゼスからは当時次期家庭用ゲーム機(後のセガサターン)のハードウエア設計を担当していた,ハードウエア開発部 課長の浜田和彦氏(*注5)が出席してくれた。しかし,いきなり拍子抜けした四人は,その後もペースをつかめずに初日の商談を終える。「「面白いね」とは言ってくれた」(河崎氏)ものの,果たしてどれだけ乗り気なのかは,結局よくわからずじまいだった。

その後何度か商談を重ねるうちに,セガ・エンタープライゼスは条件を提示するようになってきた。ひょっとしたら興味をもってくれたのかもしれない。期待が広がる。
先方が示した条件とは次のようなものだった。すなわち,①乗算器の性能の向上,②シンクロナスDRAMのインタフェース回路の内蔵,③ゲーム・ソフトを想定したベンチマーク・テスト結果の提示,である。
宿題を与えられた河崎氏と営業担当者は,さっそく仕様変更を加えた場合の性能をシミュレーションする。その結果を携えて,セガ・エンタープライゼスに足しげくかよった。感触はよさそうだ。いったんは採用を確信したときもあった。
しかし,先方の態度はいつまでたっても煮え切らない。SHマイコンを採用してくれるのか,くれないのか。河崎氏の経験によると情勢はよくなかった。「3回目の打ち合わせまでに,相手が乗り気を示さない場合は,たいがい悪い方に転ぶ」(河崎氏)。

河崎氏,再び決意する

図1: 当時マイコン・ASIC本部

図1: 当時マイコン・ASIC本部
本部長だった野宮紘靖氏から営業担当者に,
できたてのSH―1が手渡された。
野宮氏の左後方で手を前に組み微笑んでいるのは,
河崎氏の上司だった馬場志朗氏。

そうこうするうちに,SH―1の量産出荷が始まった。1993年9月のことである。武蔵工場の一室では,初出荷を記念して式典が執り行われた(図1)。

日立製作所でこうした行事が行なわれるのは異例のこと。開発当初は「いったいどこに売るつもりだ」とまで言われていたSHマイコンも,社内の「特別研究開発プロジェクト」(1997年9月8日号の第5回を参照)になってからは,周囲の熱い注目を浴びるようになった。社内の期待は開発グループにとって重荷とも言えるほど膨らんでいた。
しかし,依然として大口のユーザを獲得するには至っていない。「出荷量 は月数千個。あれだけ苦労して作ったのに全然売れない。ショックだった」(河崎氏)。
そんな失意の河崎氏のもとに,ある日1通の手紙が届いた。差し出し人は,携帯型情報通 信機器向けのOSメーカである米Go Corp.。転職の誘いである。Go社が河崎氏のために用意しているというポストは,日本の技術開発の責任者だった。提示された給料も驚くほど高い。
SH―1はさっぱり売れない。セガ・エンタープライゼスへのSHマイコンの売り込み計画も暗礁 に乗り上げてしまった…。そして何より河崎氏が不満だったのが,自身の処遇だった。「これまでの自分の働きに対する周りの評価に納得していなかった」(川崎氏)。河崎氏はGo社への転職を決意する。
3年前,米Apple Computer Corp.に転職することを決めたときは,それを周囲に知らせる前に思いとどまった(1997年7月14日号の第1回を参照)。しかし今回は違う。思い立ったが吉日と,河崎氏はさっそく上司や同僚にGo社への転職を告げた。

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思いがけない人からの呼び出し

すでに河崎氏が日立製作所を去る日まで1カ月を切った。このころには商談のためにユーザに会うのも控えるようになっていた。もちろんセガ・エンタープライゼスも例外ではない。職場の同僚も,河崎氏はもうすぐ退職するものと信じていた。
そんなある日,河崎氏は半導体設計開発センタ 副センタ長だった伊藤達氏(*注6)に突然呼び出される。河崎氏にとって伊藤氏は,それまであまり面識がない人物だった。いったい何の用だろう。
やってきた河崎氏に伊藤氏は,「処遇を改善しよう」と切り出した。河崎氏が抱えるいちばんの不満を,見透かしていたかのようだった。河崎氏のこれまでの働きを評価し,これからのマイコン事業にどうしても必要だとまで言ってくれる。「日立製作所にこんな人がいるとは思ってもいなかった」(河崎氏)。伊藤氏の思いがけない慰留に深く感銘を受けた河崎氏は,すんでのところで転職を翻意した。

あっけない幕切れ

図2: セガ・エンタープライゼスとの提携を報じる当時の新聞

図2: セガ・エンタープライゼスとの
提携を報じる当時の新聞

1993年9月21日付の日本経済新聞から。

1992年秋のことだった。転職を思いとどまった河崎氏は気持ちも新たに,久しぶりにセガ・エンタープライゼスを訪問した。他社のマイクロコントローラとSHマイコンとの性能比較まとめたグラフを携え,白黒つくまで後には引かない決意だった。
結論は突然言い渡された。対応に当たった浜田氏は,河崎氏に会うなり「ああいいですよ。SHマイコンに決めましたから」とひと言。あまりのあっけない幕切れに,体中の力が抜ける。なにはともあれSHマイコンが家庭用ゲーム機に載ることが決まった。
セガ・エンタープライゼスの採用を受けて,SHマイコンの第2弾「SH―2」の本格的な開発が始まったのは,1993年1月のことである。SHマイコン開発グループには,米Carnegie Melon Unversityでの留学を終え,帰国したばかりの長谷川淳氏(*注7)が加わった。
ところが,SH―2の開発開始の話を聞いて戸惑った人々もいた。SH―1の開発に携わった,開発グループの面 々である。それまで日立製作所では4年に1品種のペースで新しいマイクロコントローラを作っていた。それが,SH―1の量産が始まってからわずか数カ月で次のマイクロコントローラの開発を始めるというのだ。「「え,本当に作るの?」という感じだった」と野口孝樹氏は当時を振り返る。
しかしいったん始まれば,開発は早かった。野口氏は同僚と二人でSH―1向けの16ビット乗算器を,2カ月でSH―2向けの32ビット乗算器に作り直してしまった。シンクロナスDRAMインタフェース回路の設計には休日を割いて取り組んだ。「1993年の5月から7月までは,休みをとる暇もないほど働いた」(野口氏)。

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研究所からの要請

そんなある日,SHマイコンの開発グループに,システム開発研究所 所長の堂免信義氏から依頼書が届いた。「マルチプロセサ機能を入れる話は,その後どうなったのか」。
堂免氏はこの数カ月前にも,SH―2にマルチプロセサ機能を組み込むことを要請していた。当時,研究所で開発していたニュース記事閲覧用の情報端末「ヤジウマシンブン」(開発コード名)に,ぜひSH―2をマルチプロセサ構成で使いたいというのが理由だった。ところが,SHマイコン開発グループは,研究用のシステムのためにそんな機能は入れたくないと,見て見ぬふりを決め込んでいた。
しかし,再要請とあらば無視はできない。堂免氏にはSHマイコンのレジスタの本数について,なんとか承諾してもらったという負い目もある(1997年9月1日号の第5回参照)。そこで,SH―2にマルチプロセサ構成を採れるように,ごく単純な回路を組み込んでおくことにした。「「きっとだれにも使われることはない機能だろう」と内心思っていた」(河崎氏)。

性能向上の奥の手に

ところが1993年夏にちょっとした事件が起こる。セガ・エンタープライゼスが,SH―2の演算性能(25MIPS)では次世代ゲーム機には不足だと言い出したのだ(*注8)。手っ取り早く性能を上げるには,動作周波数を向上すればいい。ところがそのためには設計を見直す必要がある。SHマイコンの開発グループに,そんな時間は残されていなかった。
結論は1993年9月に箱根で開かれた両社の幹部が集まるトップ会談まで持ち越された。この「性能向上問題」解決のために,SHマイコンの開発グループは秘策を用意した。「SH―2に組み込んでおいたマルチプロセサ機能を使えば,2個のSH―2をつないで動かせる。こうすれば先方の要求を満たす性能が実現できるはず」というものだ。しぶしぶ入れたマルチプロセサ機能がこんなところで役に立つとは。
こうして,セガ・エンタープライゼスの次世代ゲーム機「セガサターン」には2個のSH―2が搭載されることになる(図2)。

世界シェア2位に躍進

1994年6月。SH―2の量産が始まった(図3)。
7月には製造ペースが早くも月産20万個に達した。もちろん同年秋に発売するセガサターンに供給するためである(図4)。
セガサターンは1997年3月末までに累計756万台が製造されている。つまり約1500万個のSH―2をセガサターン用に出荷したことになる。こうしてSHマイコンは,一躍世界シェア第2位の高性能RISC型マイクロコントローラとして,その名を全世界に知られることとなる。
ただし,事業として見れば決して順調ではなかった。セガサターンにSH―2が2個搭載されるようになったといっても,売り上げが単純に2倍に増えるわけではないからだ。数量当たりの利益は減ってしまう。発売当初は満足のいく利益を上げられなかった。
こうなれば,可能な限りコストを抑えるしかない。量産が始まる前の1994年4月から,チップ面 積を縮小したSH―2の設計をスタートさせる。その後,セガサターン用に2個のSH―2を1チップに集積した製品も作った。こうした努力が功を奏し,事業として胸を張れる収益が上がるようになったという。

図3: SH―2のチップ写真

図3: SH―2のチップ写真
動作周波数は28.7MHz。ゲーム機が備えるテレビ用のビデオ信号処理系と,クロックを共用することを想定した。演算性能は25MIPSである。
設計ルールは0.8nm。45万トランジスタを集積した。チップ寸法は9.52×8.66mm2である。

図4: SHマイコンがセガサターンに載った

図4: SHマイコンがセガサターンに載った
写真はセガサターンを値下げしたときの説明会風景。
壇上はセガ・エンタープライゼスの副社長の入交昭一郎氏。

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勝負はこれから

図5: SH―3を搭載した携帯型情報通信機器

図5: SH―3を搭載した携帯型情報通信機器
カシオ計算機が1996年11月に米国で発売した「Cassiopeia」。
米Microsoft Corp.の組み込み向けOS「Windows CE」を備える。

SHマイコンが「世界のマイクロコントローラ」としての地位 を不動のものにするには,まだ時間がかかりそうだ。今後も出荷数量を増やすには,セガサターンに次ぐ需要を早急に獲得する必要がある。
その芽も出てきた。SH―2の後継品種として1996年に発売したSH―3は,米Microsoft Corp.が開発した組み込み用OS「Windows CE」搭載の携帯型情報通 信機器に次々に採用された(*注9)(図5)。しかしいまのところ,大ヒットとなるには至っていない。

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終わり

(枝 洋樹)

*注1:
PA―10の演算性能は約10MIPSだった。

*注2:
セガ・エンタープライゼスは当時,NECの「V810」や米Motorola,Inc.の「68040」など,約10種類のマイクロプロセサやマイクロコントローラの採用を検討していた。

*注3:
当時,電子営業本部特約店事業部 部長代理。現在は,中部支社電子機器部 部長。

*注4:
当時,半導体設計開発センタ第3製品技術部 技師。現在は,マイコン製品技術部。

*注5:
現在はコンシューマ開発生産本部 ゼネラルマネージャー。

*注6:
現在は,半導体事業部 副事業部長。

*注7:
現在は日立マイコンシステム 第一システム設計部 第一マイコンシステム設計グループ 主任技師。

*注8:
セガ・エンタープライゼスの最大のライバルである任天堂が,次期家庭用ゲーム機(現在のNINTENDO64)に64ビット・マイクロプロセサと,米Silicon Graphics,Inc.と共同開発した専用LSIを搭載することを発表したのもちょうどこの時期である

*注9:
カシオ計算機や米Hewlett-Packard Co.などが1996年11月に発売したWindowsCE搭載の携帯型情報通信機器に搭載された。このほかシャープがカラー液晶を備える携帯型情報通信機器「パワーザウルス」などに採用している。

出典

日経エレクトロニクス 1997年9月22日号開発ストーリ「SHマイコン開発-最終回」P141-146

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